今回は久しぶりにJ-POPの歌詞の記事である。
正月に会った友人が、面白い曲があると言って東京事変の「仏だけ徒歩」を紹介してくれたのだが、歌詞がよくわからんと言うので、今月中にブログでコメントを書くと約束してしまったのだ。
もう1月も終わりだけどというツッコミはスルーで。(笑)
締切りは間に合えばいいのである。
さて、東京事変は椎名林檎さん率いるバンドで、「仏だけ徒歩」は2021年11月22日に配信リリースされた新曲だった。
作詞作曲も椎名林檎さんである。
※公式サイトはこちら(https://tokyojihen.com/disco/single/)
椎名林檎さんは昔から知っていたが、相変わらず面白いものを作るねぇ。
そもそも「仏だけ徒歩」というタイトルに、
「何で?」
と思わされる上手さがある。
仏が徒歩で行くのであれば、我々は何で行くのだろうか。
普通に考えれば、衆生は地べたを這いつくばっていくということになるだろう。
いや、普通に考えればそれしかない。
でも、それでは当たり前すぎますよね。
タイトルに連歌するなら、ここはやっぱり「衆生はバスで地獄行き」だろう。
昔、「欲望という名の電車」という映画があったが、更にこの映画のタイトルのイメージで言うと、
「衆生は欲望電車で地獄行き」
になる。
これだけでご飯が三杯はいけそうなシニカルさですね。
さて、実際の詩はどんな中身だろうか。
仏と歩いてみましょう。
※歌詞を掲載できないので、実際の歌詞については下記の公式サイトを参照
公式サイトの歌詞ページだと、17行の構成である。
1行目で「涅槃へ行きたい」という主題が提示されて、最後の17行目は「もう涅槃(ニルヴァーナ)?」という結びである。
間の15行は、5行ずつの3部構成である。
そして、第1部と第2部にある「」書きのセリフの部分は、この詩が氷河期世代の詩であることを象徴しているのだろう。
氷河期世代とは下記サイトによると「1970年~1984年に生まれた世代」であり、就職氷河期に新卒で就職活動をしていた人たちのことである。
下記のメンバー紹介記事を見ると、亀田さんが1968年生まれ、他のメンバーは1970年代後半の生まれなので、自分達が生まれた時代を歌っていることになる。
▼東京事変のメンバー紹介記事(UtaTen)
氷河期世代は全体的には就職難と不景気で豊かになり損ねた世代である。
この前提で詩を読むと、わかりやすい。
まず第1部と第2部の「」書きのセリフの部分とその次の行に注目すると、今まで頑張ってきたのに「涅槃にいくのはまだ早い」などとは言われたくないだろうし、豊かになり損ねたから「餓鬼のように煩悩だらけだろう」というなら、かえってそのお陰でかえって涅槃に近いという訳だ。
第3部でここに相当するところは、「先んじて悟りを開くチャンスだ」という内容になっている。
次に各部の始まりを見てみよう。
第1部の始まりであるが、一度全体を読まないとわかり難い書き方である。
全体を読んだ後だと、涅槃に行きたいという氷河期世代の人に「悲願を叶えて仏になりたいなんて煩悩ですよね?」と揶揄する人がいるということだろうと思う。
これを揶揄としているのは、仏教の「煩悩即菩提」という考え方に照らせば至極もっともである。
「煩悩即菩提」とは、まず煩悩があるから悟りに至れるという仏教の奥義であり、この詩を書いた椎名さんはこの仏教用語を知っていたのだろう。
第2部の始まりであるが、輪廻転生を遠慮するというのは、涅槃に至って仏になれば輪廻転生しないという仏教の教えを前提とした表現であろう。
現世の毒気を滅ぼして涅槃で仏になって輪廻転生は遠慮したいという訳だ。
第3部の始まりであるが、悟りの観点では、社会的評価は無縁だし、苦楽というものは自らが生み出しているものである。
これは「社会的評価を気にして、自らが生み出している苦楽に踊らされていては悟れないよ」という内容の反語的な言い方だろう。
それでは、各部の終わりの2行を見ていこう。
第1部の「ダルマ、カルマ、ノルマ」、第2部の「ゆとり、さとり、ばぶり」、第3部の「ローパ、ドーサ、モーハ」は韻の踏み方が上手い。
第1部のダルマとカルマはともに仏教用語である。
内容については下記等のサイトを参照されたい。
これに、現代のノルマを加えたのが意味的にも上手い。
ノルマそのものを変えることはできないが、頑張れば達成はできる。
「ダルマ、カルマ、ノルマ」に捉われず自由を謳歌する方がいいという内容にも共感できる。
第2部の「ゆとり、さとり、ばぶり」はこうしたいい時代に生きた人よりも、「かえってそのお陰でかえって涅槃に近い」という主旨であり、前のセリフで書かれた部分に対応している。
第3部の「ローパ、ドーサ、モーハ」は仏教で「貪(とん)瞋(じん)癡(ち)の三毒」と言われるものである。
せっかくなので中村元(訳)「ブッダのことば」(岩波文庫1984)の注記を挙げておく。
真の修行者は愛著(raga)と憎悪(dosa)と迷い(moha)とを絶つというのであるが、この三者は人間の諸々の煩悩のうちでも最も根本的なものである。この三つは根本的なものであるから、漢文の仏典では「貪瞋癡の三毒」という。
※中村元(訳)「ブッダのことば」岩波文庫1984, p264 より引用
「貪(とん)瞋(じん)癡(ち)の三毒」の説明としては、下記サイトの説明がわかりやすかった。
第3部は「開いて」の前に「悟り」が、「至って」の前に「涅槃」が省略されていると思われる。
また、悟って涅槃に至り解脱したのであれば「ローパ、ドーサ、モーハ」は既に絶たれてることになる。
この前提で第3部と結びを併せて考えてみると解釈はこうなった。
社会的評価に意味はなく、苦楽は自分が生み出しているものだとわかった。
「変わってゆけ」、「従えようか」とあるから実際にはまだ悟ってはいない。
目を閉じた静けさは悟りだろうか。
恐らく、椎名林檎さんは「悟った」とは書いていないのだと思う。
目を閉じて静寂が訪れるようになれば、それは悟りの入り口であり、現世にあっても苦楽に振り回されなくなる。
現世にいる間はそれでよいよ、と書いていると解釈したがどうだろうか。
と、終わりまで鑑賞してみて「仏だけ徒歩」というタイトルに戻ろう。
タイトルの「仏」は氷河期世代のことで、豊かになるチャンスから置いてきぼりにされて歩いているのだと思う。
でも、その方がかえって悟りに近いといってるのだから、このタイトルに「欲望電車で先にいった人は煩悩まみれで地獄行き」という意図を読み込む余地はあるのではないだろうか。
さて、最後に残るのは「永平寺」と「深大寺」である。
結論から言うと、それぞれの実際のお寺に由来する特別な意味があるようには思われなかった。
好きなお寺の代名詞として有名な「永平寺」を、東京で実際に行くお寺の代名詞として「深大寺」を選んだということではないだろうか。
これはつまり、あこがれはあるけれども手近なところで満足するという氷河期世代の心情を表現しているのではないかということである。
まぁ、細かいことを言うならアクセスだけを考えれば「深大寺」よりは浅草の「浅草寺」である。
深大寺は電車の駅からバスで徒歩なので、アクセスはさほど良くない。
とは言え「浅草寺」では有名すぎるし、「逞しい」氷河期世代が行くのであれば、ほどほどに行きにくい「深大寺」ぐらいがちょうどよかったということはあったかもしれない。
林檎さん、どうでしょう?