保立道久「現代語訳 老子」ちくま新書2018/第2部・第四課 「士」と民衆、その周辺(1) | 日々是本日

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 保立さんの「現代語訳 老子」を少しずつ読んでいる。

 

※本の概略についてはこちらを参照

 

■第2部 星空と神話と「士」の実践哲学

   第四課 「士」と民衆、その周辺

 

 話は「士」の世界から民衆との関わりへと進んでいく。


 まず、取り上げられるのは原典15章である。

【現代語訳】
士に備わる善(本性[もちまえ])は、微妙で力強く、深く識ることはむずかしいと昔からいわれる。たしかに識ることはむずかしいが、強いてその大きな容(すがた)を述べてみよう。それは、冬に川を渉(わた)るようにゆっくりと、慎重に四方に気をくばりながら、冬将軍のように厳かな客として、またそうかと思えば、春の氷が溶けるように和やかにやってくる。そして山の森林の樸(あらき)のように素朴で、しかも広々とした谷間のようであり、そこを降る混沌とした濁流のように力強い。士大夫のほかの誰が、故郷の川の濁りが静まって清まり、安らかな山河に緑が満面に生ずるのを見守る善をもとうか。士大夫としてこの道を守ろうとするのは、ただいつも豊かであることを求めているのではなく、山河の自然が一度破れて、また新しく復活することを知っているからだ。

【書き下し文】

故に、善の士たるは、微妙玄通にして深きこと識るべからず。夫れ唯だ識るべからず。故に強いてこれが容を為さん。予として冬に川を渉るが若く、猶として四隣を畏(はば)かるが若く、儼(げん)として其れ客の若く、渙(かん)として氷の将に釈(と)けんとするが若く、敦(とん)としてそれ樸(あらき)の若く、曠(こう)として其れ谷の若く、混(こん)としてそれ濁れるが若し。孰(た)れか能く濁りて以てこれを静め、徐(おもむ)ろに清(す)むや。孰れか能く安らかにして、以て之を動かして徐ろに生ずるや。此の道を保(まも)る者は、盈(み)つるを欲せず。夫れ唯だ盈たず、故に能く敝(やぶ)れて新たに成る。

 

※保立道久「現代語訳 老子」ちくま新書p269-270

 長い章であるが全文を引用した。

 

 保立さんはこの章について、老子が士の徳(はたらき)というものは、慎重で深謀遠慮をもち、厳かであると同時に和やかで、また素樸で力強いものだと言っているところであるいう。

 

 そして、この谷川のイメージが語られているのは興味深く、実際の山河をかけがえのないものと見る視線があり、その背景にはこの時代で既に自然破壊が大きな問題になっていたということを指摘している。

 

 更に、谷間の豊かさは濁にあり、川の濁りが清んでいく様子に士大夫の役割が重ねられているとしている。

 

 ここに、清をポジティブに評価し濁をネガティブに評価するのではなく、「清濁併せ吞む」老子の思想を見ることができるという。

 

 私も移り行く自然のイメージとそこに現れる清と濁の意味を興味深く読んだ。

 

 個人的に注目したのは、「士大夫としてこの道を守ろうとするのは、ただいつも豊かであることを求めているのではなく」(此の道を保(まも)る者は、盈(み)つるを欲せず。)という部分である。

 

 士大夫の無為自然な在り方を提示することによって、豊かであるために自然をコントロールしようとする在り方、更には豊かであるために自然から収奪しようとする在り方を否定しているように思う。

 

 次に原典17章である。

 

 ここも少々長いが全文を引用する。

【現代語訳】
人々は、上にいる士が最良(太上)である場合は、ほとんどその存在を意識しない。その次のランクの代表者となると、親しみ誉める。さらにその次となると畏れ、最後は馬鹿にするということになる。信の力が十分でなければ不信がうまれる。しかし、ぼんやりとして言葉少なくても功がなって事業は終わればいいのだ。そうなると、人びとはみな、こうなったのは実はすべて自分で自然にやってることだというだろう。それこそ理想だ。

【書き下し文】

太上(たいじょう)、下は之あるを知るのみ。其の次は親しんで之これを譽む。其の次はこれを畏れ、其の次は之を侮る。信足らざれば、不信あり。猶として其れ言を貴び、功成り事遂ぐれば、百姓(ひゃくせい)は皆我が自然なりと謂う。

 

※保立道久「現代語訳 老子」ちくま新書p274-275

 保立さんはこの章の終わりの部分について、老子の考えが「民衆の意志を馴化する思想であったことは否定できない。」(p277)としている。

 

 マネジメント論として見た場合、上意下達式にコントロールをしようとしないアプローチとして納得感があると思う。

 

 主体は民であって、士は調整をすればいいと言うのである。

 

 しかも、できればこっそりと。

 

 だから最良の士はその存在を意識されないのである。

 

 この「意識されない」(之あるを知るのみ)の意味は無視ではなく、老子流の無為の在り方によって民に作為を知られることがないという意味であると読んだ。

 

 畏れられるのは権威的にあろうとした結果であり、馬鹿されるのは現場の実情を知らずに言いたいことをだけ言って結果が伴わないということの結果であろう。

 

 「信の力が十分でなければ不信がうまれる」というのは、特にこの二つの場合を指していると読んだ。

 

 老子のマネジメント論は、無為自然の在り方と整合していて、かつ、鋭い。

 

 そして話はリーダーシップ論へと進むので、次の記事とする。

 

 

▼保立道久「現代語訳 老子」ちくま新書2018

 

現代語訳 老子 (ちくま新書)

 

【目次】
序 老子と『老子』について
第1部 「運・鈍・根」で生きる

 第一課 じょうぶな頭とかしこい体になるために
 第二課 「善」と「信」の哲学
 第三課 女と男が身体を知り、身体を守る
 第四課 老年と人生の諦観
第2部 星空と神話と「士」の実践哲学

 第一課 宇宙の生成と「道」
 第二課 女神と鬼神の神話、その行方
 第三課 「士」の矜持と道と徳の哲学
 第四課 「士」と民衆、その周辺
第3部 王と平和と世直しと

 第一課 王権を補佐する
 第二課 「世直し」の思想
 第三課 平和主義と「やむを得ざる」戦争
 第四課 帝国と連邦制の理想