前回の記事に続き、Eテレ「100分de名著」の10月の名著が「ヘミングウェイ スペシャル」だった件である。
各回の内容は以下の通りである。
第1回 大いなる自然との対峙 ~「老人と海」①~
第2回 死闘から持ち帰った不屈の魂 ~「老人と海」②~
第3回 交錯する「生」と「死」 ~「敗れざる者」~
第4回 作家ヘミングウェイ誕生の軌跡 ~「移動祝祭日」~
今回は第1回と第2回の「老人と海」を取り上げる。
第3回の短編「敗れざる者」については前回の記事を参照されたい。
▼NHKオンデマンド(単品:110円、購入期限:2022年9月27日)
負傷が癒え退院したばかりの闘牛士マヌエルは、興行師の元を訪ね再び闘牛の舞台へ立ちたいと申し入れる。だがあてがわれたのは二軍戦ともいうべき「夜間の部」。出場に反対していた仲間もマヌエルの情熱に押し切られ、これを最後に引退するとの約束と引き換えに共に舞台に立つ。苦戦の中、何度も牛に跳ね上げられ宙を舞い続けるマヌエル。無様な姿を晒しながらも渾身の力を込めた剣で終止符を打つ。生と死が交錯する闘いを終えたマヌエルが、運び込まれた診察室でとった行為とは? 第三回は、闘牛士マヌエルとヘミングウェイの姿を重ねながら、人間は死に最も近づいたときにこそ、その命が輝くというヘミングウェイの死生観を浮かび上がらせる。
※100分de名著の公式サイトより引用
第4回のパリ時代を描いた連作「移動祝祭日」については、面白そうな作品であることはわかったが未読であるので、今後の記事に譲る。
▼NHKオンデマンド(単品:110円、購入期限:2022年9月27日)
「もし幸運にも若者の頃パリで暮らすことができたなら、その後の人生をどこですごそうともパリはついてくる。パリは移動祝祭日だからだ」という有名なエピグラフで始まる「移動祝祭日」はヘミングウェイによる青春時代の回顧録だ。ジョイス、フィッツジェラルド、ガートルード・スタインら世界文学史を彩る巨匠たちが集うパリの描写は、彼らとの交流が彼にもたらしたものの豊かさを伝える貴重な証言となっている。とともに、小説修業の様子が各所に散りばめられており、彼の創造力がどのように培われたのかを知ることもできる。第四回は、作家ヘミングウェイ誕生の瞬間に立ち会い、人間が創造力をもつには何が必要なのか、また「青春時代」が人間にとってどんな意味をもつのかを深く考える。
※100分de名著の公式サイトより引用
本題の「老人と海」については、翻訳本は多数あるが、「100分de名著」を見てから改めて最近の光文社古典新訳文庫の翻訳を読んだ。
▼光文社古典新訳文庫版「老人と海」(翻訳:小川高義)光文社2014
※訳者による年譜あり
青空文庫には、石波杏さんの新訳があり無料で読める。
こちらも読んでみたが、読みやすい訳だった。
▼青空文庫「老人と海」(翻訳:石波杏)
この青空文庫の翻訳は、Amazon で Kindle版が199円で販売されている。
簡潔にして緊張感のあるヘミングウェイ独自の文体について、訳者の石波氏は精緻な研究を経て翻訳を行い、日本語の訳文でそれを再現。読みやすさと精確さの両立を実現している。
※Amazon の上記バナーサイトより引用
「老人と海」は1952年に出版された晩年の短編で、1954年のノーベル文学賞受賞に大きく影響したと言われている作品である。
前回の記事からヘミングウェイの年譜概略を再掲する。
1899年、シカゴ近郊のオーク・パークに生まれる。
1918年、19歳で第一次大戦に従軍し負傷。
1922年頃、新聞記者としてパリに移住。
1930年代後半にスペイン内乱を取材して「誰がために鐘は鳴る」(1940年)を出版。
1940年代に第二次世界大戦を取材。
1952年に「老人と海」を出版。
1954年に飛行機事故、その後にノーベル文学賞。
1961年に自殺(享年61歳)。 ※ノイローゼによるものと言われている
※「ヘミングウェイ短篇集(上)」岩波文庫に基づいて作成
※ヘミングウェイの生涯については100分de名著の公式サイトも参照されたい。
さて、これで準備は整った。
内容の話に入ろう。
---以下、ネタバレ注意!---
まず、ストーリーの紹介を兼ねて、まず「100分de名著」の内容を紹介する。
▼NHKオンデマンド(単品:110円、購入期限:2022年9月27日)
84日間もの不漁にも挫けず一人小船を操って沖へ出る老人サンチャゴ。親の反対があり、いつも手伝ってくれたマノーリン少年の姿はそこにはない。圧倒的な孤独の中で、彼は大いなる自然と向き合い続ける。そこに、大海原の主ともいえる巨大なカジキが現れる。知力と体力の限りを尽くしたカジキとの死闘を支えたのは、常に心の中にあったマノーリン少年の存在だった。第一回は、人間社会とは一切隔絶した大海原の中での老人サンチャゴの闘いを通して、私達文明人が見失ってしまった大自然との向き合い方や、かけがえのない存在との絆の結び方を学ぶ。
※100分de名著の公式サイトより引用
▼NHKオンデマンド(単品:110円、購入期限:2022年9月27日)
死闘の末にカジキを仕留めた老人の前に大きな壁が立ちはだかる。血の匂いを嗅ぎつけた鮫たちがカジキを狙って殺到してきたのだ。死力を尽くして鮫たちと闘い続ける老人だったが、やがて力尽きカジキは白骨と化す。それでも老人はその骨を引きずり少年の待つ港へと帰還するのだった。一見無意味ともいえる老人の行為は何を意味しているのか。そこにはヘミングウェイが追い求めた「生の証」があった。第二回は、老人がその闘いを通して少年に伝えたかった真意を読み解き、ヘミングウェイが未来の私たちに託したかったメッセージを明らかにしていく。
※100分de名著の公式サイトより引用
一人の老人の三日間のカジキ漁が綴られる。
1939年にキューバに移ったヘミングウェイは、漁船を買ってマグロやカジキを釣っている。(光文社古典新訳文庫版の解説より)
物語も同じ舞台であり、細部の描写にもリアリティーがある。
老人の独白を中心に進む形式は、岩波文庫版「ヘミングウェイ短篇集(下)」に収載されている「キリマンジャロの雪」に近いものがある。
テーマとしては、ヘミングウェイ作品に見られる不屈の魂と自然への畏敬の両方が合わさったものになっている。
岩波文庫版「ヘミングウェイ短篇集(上)」に収載されている「二心ある大川」もテーマとしては似ているが、こちらの主人公は若い青年で、描かれる渓流は圧倒的に清々しい。
一方、「老人と海」の主人公はもう誇りを失いかけた老人であるが、その眼には不屈の魂を宿した光があった。
どこをどう見ても老人だが、その目だけは海の色と変わらない。元気な負け知らずの目になっていた。
※ヘミングウェイ「老人と海」光文社古典新訳文庫(Kindle版)p5 より引用
そして老人には彼を慕ってくるマノーリン少年という支えと希望があった。
これまでにない大物のカジキが竿に掛かった老人はカジキと対話をする。
敵はたったの一人だとか、こんな老人だとか、わかるはずがない。ともかく、たいした大物だ。いい肉がついていたとして、市場でどれくらいの値が付くか。こいつは男らしく食いついて、男らしく引っ張っている。落ち着いた戦いぶりだ。何かしら計算があってのことか。おれと同じで、どうとでもなれというつもりなのか。(前掲書p33 より引用)
そして、別の竿で釣ったマグロで腹ごしらえをしながらカジキのことを思う。
食うと言えば、あの魚にも食わせてやりたい。こうなると兄弟分みたいな気がするが、いずれは殺すことになるんで、こっちが先に弱るわけにはいかない。(前掲書p40 より引用)
カジキはこの世界を共に生きる兄弟なのである。
やっとの海面に現れたカジキの巨体を目にして、老人は更に対話する。
たいした魚だ。よくわからせておかねばならない。うっかり自信をつけさせてはいけない。突っ走ればどうにかなると思わせてもいけない。おれが魚だったら、ここを勝負どころにして一暴れしてやるのだが、やはり魚は魚だ。人間よりも上品で強力だが、殺す側の人間ほどの知恵はない。(前掲書p43 より引用)
老人は魚の立場になって、自分という存在についてこう語る。
あの魚になるのもおもしろい、と老人は思った。魚としての全力を挙げて、意志と知恵だけの人間に立ち向かってみたい。(前掲書p43 より引用)
それは、意志と知恵の存在であった。
カジキとの戦いは二日目の夜に差し掛かり老人は思う。
あいつだったら何人がかりで食えるだろう。だが、やたらに食っていいのかというと、そんなはずはない。これだけ堂々とした動きを見せる立派なやつを食うのにふさわしい人間はいない。(前掲書p51-52 より引用)
ここが、カジキに対する畏敬の念が最もよく描かれていた部分であった。
そして、漁師というものの生活について思う。
こうして海に暮らして、これぞ兄弟だと言えるやつを殺していればいい。(前掲書p52 より引用)
やはり、カジキはこの世界を共に生きる兄弟なのである。
三日目の朝に老人は遂にカジキを銛で仕留めた。
死を打ち込まれた魚が、びくんと生気を取り戻し、海面から伸び上がるように巨体の全容を現わして力と美を見せつけた。小舟の老人を大きく上回って中に静止したかと思うと、海面を激しくたたいて倒れ込み、飛び散る海水を老人と舟に浴びせかけた。(前掲書p65 より引用)
老人はカジキを小舟に括り付け帰路についた。
しかし、程なくしてサメの襲撃にあう。
少し食われてしまったがサメを撃退した老人は思う。
「だが、人間、負けるようにはできてねえ。ぶちのめされたって負けることはねえ」(前掲書p72 より引用)
人間は負けない、とストレートに書かれている部分である。
そして、別のサメがやってきた。
なんとかサメを撃退したもののカジキはもう半分食われていた。
老人は死んだカジキと対話する。
「もとは丸一匹で、いまは半分だ。おれが沖へ出たばっかりに、どっちもひどい目に遭ったな。だが、おれと二人で、ずいぶんと鮫を殺したじゃないか。おおいに懲らしめてやった。いままでに鮫はどれだけ殺した? その槍は伊達につけてるんじゃなかろう」(前掲書p80 より引用)
港に着く手前でサメがまたやってきた。
今度は群れだった。
老人は舵棒で叩いて応戦したが、カジキの肉は残らなかった。
そして、老人は思うのだ。
負けてしまえば気楽なものだ。こんなに気楽だとは思わなかった。さて、何に負けたのか。(前掲書p83 より引用)
釣りという目的においては負けだが、このつぶやきによって、心が折れていなければ人間は負けではないと言っているように思われる。
人間は負けるようにはできていないのだ!
確かにここに、不屈の魂をみた。
この不屈の魂は同時に、我々が何のために生きているのかという問いであるとも考えられる。
これは我々が釣りを、金の為に自然から収奪する為にしていれば負けるが、自然と共生しながら生きるということであるならば負けることはないということだとも読める。
これが、ヘミングウェイが次の世代に伝えたいと思っていた自然との真っ当な関わり方ではないかと思う。
最初の方にあった一節が思い出された。
老人にとって海とは「ラ・マール」だった。スペイン語で海を愛して言えばそうなる。海を愛しながら海の悪口を言うこともあるが、それでも海を女に見立てて言っている。これが若い漁師なら、たとえばブイを釣りの浮きとして使ったり、鮫の肝臓で儲けてエンジンつきの船を買ったりした連中なら、「エル・マール」と男性名詞で言いもする。海のことを競争相手か、ただの場所か、あるいは敵とでも見なすようだ。しかし老人は海とは女のようなものだと思っていた。大きな好意を寄せてくれるのかくれないのかどっちかだ。(前掲書p20 より引用)
海を「エル・マール」と男性名詞で言ってしまう若い漁師ではもう駄目だから、老人は少年に希望を見たに違いない。
ヘミングウェイ自身は少年に託した希望が淡い夢となる今の現実を見ることはなかったが、結末には棘を残した。
物語の最後の場面である。
港を見下ろすカフェのテラスで、観光客が潮に流されようとしている大カジキの骨を見る。
カジキの骨を見た観光客は、それをサメの骨だと誤解して終わる。
スーパーで魚の切り身を買うだけの自分の眼差しが重なった。