まったり更新の当ブログですが、
実は取材して記事に出来ていないモノが山ほどあります。
そろそろ一度全部きれいに整理していかないとと思っておりまして、
皆さんにぜひご紹介したいという神社や
ぬおおおっ!!と一人背景を妄想してもんどりうったりした神社とか
それとは別に命題でもある蘇我氏関係の神社ですとか、
がんばって記事にしていこうと思います。
そして今回は是非行って欲しい神社!ということで
コチラのご紹介です。
日宮神社
香取市田部字神ノ内2530
鬱蒼とした森のようですが
鳥居は一応道路に面してあります
鳥居から歩いていくとぐるっと右に曲がって正面に鎮座されてます
もうここで興奮状態(笑)
いやだって、千葉県内でこれまでこの規模で
こういう趣の神社に出会ってない!
お、門のところに扁額が
オシホミミノミコトのお名前が
この時スピ友はシナツヒコさんとお話ししてました
拝殿です
えっ・・・!
この紋はなんだろう、柏ではないと思うけど・・・麻の葉?
とても美しい装飾
そして菊紋も
男千木と菊紋と、・・・五三桐?
相殿の社日大神を祀っていると思われます
本殿左側と裏は撮れなかったので
右側からのみとなります
「千葉県神社名鑑」では未包括神社となっており、詳細が不明なので、明治期に編纂された「千葉県神社明細帳」より。
村社 日宮神社
祭神
正哉吾勝速日天忍穂耳命
高皇産霊命
万幡豊秋津比賣命
相殿(庫?)
社日大神 五座
撞賢木厳御魂天踈向津比賣命
雅産霊神
豊宇気毘賣命
大穴牟遅神
少名牟遅神
由緒
人皇61代朱雀天皇御宇天慶6癸卯年(943)正月11日山城国宇治郡木幡郷許波多神社乎麻績郷東田部尓奉還シ神之告二依テ神宮司乎立テ社檀之辺ニ今仕テ神事ヲ司取令神房司光房ト云神宮司ノ地名是ナリ 亦神託ニ依テ田部之内河原ニ御幸之大祭祀有リ但シ30ヶ年ニ一度ノ御幸ナリ 御幸之河乎日ノ河乎止云 河之橋乎日之橋ト云 川向之村乎日ノ河上村ト云今川上村ト云田部之内今竹ノ内村ト云是也 旧社号麻績大権現弘安6癸未年(1283)3月11日日天子大明神ト替改
日天子此三字ヲ填テ日神之皇子タル事乎明々須留也
日宮勝速乃之字乎尊々取テ奉称也
東田部東ハ郷之地形高クシテ日ニ面キ且東面之地也 依テ東田部ト云 因以東田部神社ト奉称也
境内神社 22社
甲子神社 祭神 大国主命
由緒
人皇119代光格天皇御宇寛政6甲辰年(1794)3月甲子日 出雲国出雲郡日隅宮ヲ奉遷 則当社第一ノ摂社ニ祭ル
伊勢内宮神社 祭神 天照皇太神
由緒
人皇104代後柏原天皇御宇永正9壬申年(1512)9月17日当社之境内ニ奉祭 里人ノ遥拝所ト成ス
伊勢下宮神社 祭神 豊宇気毘賣神
由緒 内宮神社同断
皇産霊神社
祭神 高皇産霊神 大穴牟遅神 少名牟遅神
由緒
人皇105代後奈良天皇御宇天文3甲午年(1534)春ヨリ秋ニ至リテモ疫病多クシテ死亡スル人多シ 依之田部村ノ内字内中ヘ大六天宮ヲ祭祀ス 里人等祈ル 霊験有毎年11月初卯日疫神斎執行ス 文化9年(1812)3月字下新田中宮山蓮光院之寺中ニ移転ス 明治6癸酉年(1873)8月12日宮ノ布告ニ基キ本社ヘ合祀ス
但シ明治2巳巳年(1869)2月8日旧号大六天王宮ヲ皇産霊神社ト替改仕候
香取神社 祭神 経津主神
由緒 享和3年(1803)10月勧請
鹿島神社 祭神 健電神
由緒 延享3年(1746)10月勧請
多賀神社 祭神 伊邪岐命
由緒 寛政元年(1789)6月勧請
浅間神社 祭神 木花咲夜姫命
由緒 寛政元年(1789)6月勧請
三島神社 祭神 事代主命
由緒 天保15年(1844)正月勧請
大島神社 祭神 日本健命
由緒 寛政7年(1795)2月勧請
平岡神社 祭神 天児屋根命
由緒 寛政元年(1789)2月勧請
三輪神社 祭神 大物主命
由緒 寛政元年(1789)2月勧請
都波岐神社 祭神 佐田大神
由緒 寛政元年(1789)7月勧請
氷川神社 祭神 須佐之男命
由緒 寛政元年(1789)9月勧請
賀茂神社 祭神 鴨若雷神
由緒 天明7年(1787)11月勧請
大山祇神社 祭神 大山祇命
由緒 弘化3年(1846)正月勧請
三靈神社 祭神 大山祇命
由緒 弘化3年(1846)正月勧請
三靈神社 祭神 不詳
由緒 天保9年(1838)3月勧請
道祖神 祭神 来名戸神
由緒 延享3年(1746)9月勧請
石裂神社 祭神 石裂神 根裂神
由緒 享和3年(1803)11月勧請
琴平神社 祭神 大物主命
由緒 安永10年(1781)2月勧請
足雄山神社 祭神 伊邪那岐命
由緒 不詳
どうですか、御祭神の顔ぶれだけでも
ただの神社ではない
と思いませんか?
え?何が?という方もいらっしゃるかもしれませんので、若干興奮気味に説明をさせてください(笑)
おおおおおっどこから説明しようかっ!!!(悶絶)
落ち着け自分!(深呼吸)
(ちょっと落ち着いた)えーっと、まずですね、
相殿の神様が「社日大神」であり、かつ五座の中に
撞賢木厳御魂天踈向津比賣命がおられる!
以前宝珠シリーズで記事にした香取市大倉の側高神社の秘された御祭神はこの方ではないかと考察したことがありますね。
もうね県内に向津比賣が祀られているところは、こちらと館山市の安房神社近くの神明神社しか知りません。
し か も
社日大神の1柱として名を連ねているということに震えますね!
社日大神というのは千葉県内では社日塔として祀られておりまして、五角柱の石塔の形状で、柱の五面にそれぞれ神名が刻まれているという物です。別名地神塔とも呼ばれるもので、Wikipediaに画像もあるので興味のある方は検索してみてください。
大抵この刻まれている神名は「天照大御神・大己貴命・倉稲魂命・埴安姫命・少名彦命」の5柱なのです。
でもこの日宮神社では向津姫の他に稚産霊神までおられる!!
あ、雅産霊神=稚産霊神です。いろいろ資料みてきましたが、「稚」を「雅」に書き間違えているのを多々見てきているので間違いないです。
稚産霊神は県内だと印旛地域の麻賀多神社の御祭神におられます。
さて、なんでこんなに興奮気味かといいますと(まだ続いている)、この社日大神=社日塔というものが忌部に関係していると思われるからなのです!
徳島県徳島市に八倉姫神社があります。
阿波国一宮の天石門別八倉比売神社の論社の一つなのですが、こちらに五角形の磐座があり、卑弥呼の墓ではないかとも言われています。こちらには天照大神の葬儀が社伝に伝えられているなど、非常に謎多い神社でもあります。
私は四国から渡って来た忌部がこの五角形の磐座を模して故郷の神を奉斎していたものが、いつしか社日塔に変化したのではないかと考えています。
それから元々は日宮神社の主祭神であったと思います。
そう考える根拠は二つあります。
一つ目が神紋が女神を表す五三桐であること。
二つ目は近くにある寺院の山号です。
天台宗 西雲寺
階段を昇ると
おおっ!!
日宮神社の近くにある天台宗西雲寺なのですが、山号が「御霊山」なのです!おそらく西雲寺は日宮神社の別当寺であったと思うので、この「御霊山」は「五霊山」で意味としては社日大神の5柱をさしているのではないかと思うのです。
もし撞賢木厳御魂天踈向津比賣命が主祭神であったとすれば、なぜ社日大神として相殿に移されてしまったのでしょうか。
その理由は現在の御祭神にあると思います。
まず社伝にある山城国宇治郡木幡郷にあった許波多神社を探ってみたら、御祭神は天忍穂尊で同じでしたが、この許波多神社は論社が2社あり、それぞれに社伝があります。
宇治市木幡郷の方では
大化元年(645年)に皇極天皇の夢に「吾天神故に下土に神陵なし、吾が霊を祭祀し給へ」とのお告げがあり、中臣鎌足に詔して木幡に社殿を造営したのが当社
また大海人皇子(後の天武天皇)が近江の大津宮から吉野へ向かう際に、当社の前で馬が進まなくなったので鞭としていた柳の枝を社頭に挿しこみ祈願したところ、不思議と馬が進み吉野に到着でき、壬申の乱に勝利し、また柳の枝も根付いて大きく繁茂したので、即位した天武天皇はこの神威を讃えて「柳大明神」の名を贈った
宇治市五ケ庄古川の方では
大化元年(645年)に蘇我石川麻呂の奏上で皇祖の神霊を奉祀するため孝徳天皇が中臣鎌足に詔して当社を創建
五ヶ庄許波多神社の御祭神は忍穂耳尊の他に、神日本磐余彦尊と瓊々杵尊が祀られています。
一方木幡許波多神社では忍穂耳尊のみです。
あれ?ということは、日宮神社の御祭神におられる高皇産霊命と万幡豊秋津比賣命はどこからやってきたのかな?ということになりますよね。
実は百嶋神社考古学ですと、この3柱はある氏族に深いかかわりがあります。
その氏族とは!?
多氏です!
また出た!(笑)
天忍穂耳尊は別名:シナツヒコさんでもあり、多氏で投馬国のミミ=耳=弥々(という官職)です。
そして高皇産霊命は別名高木大神、許氏で万幡豊秋津比賣命は高木大神の娘になります。
でもって豊秋津比賣の妹になる栲幡千々姫が天忍穂耳の奥さんなのです!
ただ何故栲幡千々姫ではなく、豊秋津姫を一緒に祀ったのかは不明です。
もしかしたらこの辺りが海人族の勢力地で豊玉彦の奥さんである豊秋津比賣を祀った方が何かと都合がよかったのかもしれません。
多氏は安房や上総を調査した中で、忌部との関係性をそこはかとなく感じていたので、おそらくこの日宮神社もそんな感じかなぁと。
神社名から考察しても「日の神を祀る社」じゃないですか。
通常なら御祭神は天照大御神か大日孁貴尊じゃないと変なんですよ。
社伝では天忍穂耳が日天子ということからの名称とされていますが、入れ替えがあったのは確実かなぁと。
本殿の神紋も五三桐で女神を指していますし。
ここからはスピ話になるので苦手な方は飛ばしてください。
あまり人が参拝に来ていないのか蜘蛛の巣だらけで、虫の苦手なスピ友が悲鳴を上げながら避けていたら、隣接して鎮座している稲荷の女神様が大爆笑していたそうです(笑)蜘蛛の巣を避けるスピ友の動きもすごかったですからね(苦笑)
シナツヒコさんもいろいろ話してくれたのですが、やはり本来の神様は違う方のようで、でもすごく力が弱まっていて消えかけていると言っていました。なので是非みなさんに参拝に行っていただきたいのですが、取材に行ったのがもう3年ぐらい前になるので、現状がどうなのかわかしません(汗)まだ消えていないでほしい・・・
さて、本来の山城国の許波多神社の社伝、蘇我氏が登場してましたね!(ワクワク)
都の方から東国下総の此の地に奉遷したことには、すんごく深い意味があるんじゃないのかなぁ~と思うのです。将門の乱後、世の中が不穏で落ち着かない中というチャンスを狙って、縁の方が都から奉遷したのだと思います。きっと危険を冒してまでも下総に遷宮したい理由があったでしょう。
でもね、行ってみると本当に大事な神社なんだな~ってわかります。
いままで県内でこの規模の神社では見たことないぐらい立派ですし、境内も蜘蛛の巣はあちこちありましたが綺麗でしたし。
大切に、それこそ秘されてきた神社かなと思います。
もし蘇我氏の縁者の方が奉遷したのだとしたら、もう・・・!
感涙です・・・!
石川麻呂が実在の人物なのか、誰かに被せた偽りの名前なのか、検証するのは難しいですが、旭市にも蘇我氏の縁者の方々が多く移住してきておりますし、もしかしたらこの辺りは元々蘇我氏の領地だったのでは?と妄想が膨らみます。
さて、最後にいつものように境内社のご紹介です。
倉庫なのか社なのか不明です
石祠
石祠と板碑
こちらが隣接してある稲荷神社
帰りがけに通った時もまだ笑っていらしたという(笑)
そして蜘蛛の巣がやはり行く手を阻んでいて
上には昇れませんでした
千葉県神社明細帳には22社も境内社がのっているのですが、どこいった!ほとんど石祠だったから寄せられちゃったのかなぁ。
いまだ千葉県全土を調査できていないので、こういう隠された神社はまだまだあるのではないかと思います。
できうる限り取材したいなぁと思います。
狂ってる暑さなので、みなさんも体調にはお気をつけくださいv