犬の伝説と隼人の関係 とうけふう寺の伝説 | 未知の駅 總フサ

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千葉県=東国は蘇我氏に縁の地であったという痕跡を探し、伝承・神社・古墳など諸々を調べています。

百嶋神社考古学にご興味を持たれた方はブックマークの「新ひぼろぎ逍遥」さんを訪ねてみてください。

引き続き長柄町の道脇寺にちなむお話です。

今回は「伝説」編をお届けします。

 

まずはコチラをどうぞ。

 

百坊の犬(長生郡長柄村字道脇寺)

かなたこなたの家に住つて、食を得る人を、長柄村の俚諺に、『百軒のぞき』または『百坊の犬』と言つてゐる。百坊とは百個の坊の意で、昔長生郡長柄村字道脇寺にあつた巨刹の坊のことで、その頃、此寺に一匹の犬がゐて、毎日百坊に食を乞ひに来た。

或日のこと、百坊の坊さん達は、相談して一日此犬に食を与へなかった。すると、地が壌つゐえ、山潮が湧き出で、さしもの堂塔、忽ちの間に流失してしまった。其の巨刹の鐘も、その時、山潮のために押し流されて、二宮神社の後の方に沈んでしまつた。今でも雨降らんとする頃ほひ、『道脇寺恋しや、ぼーん』と幽に幽に鳴ると言ひ伝えられている。

『日本伝説叢書 上総の巻』

 

 

 

 

道脇寺の犬

むかし道脇寺というお寺に一匹の白い犬がいた。そして毎朝百けんの家々では、お寺の鐘を合図に同時に飯を出した。すると、その時大津波が起こり、お寺は流され、白い犬はつり鐘に乗って流れて行ってしまった。そしてつり鐘は犬をのせたまま滝にしずんでしまったので、この滝を「釣鐘滝つるがんだき」という。

それからは天気の変わりめに、「道脇寺が恋し」と犬がなく声が聞こえるという。

『千葉の伝説』

 

 

 

 

この二つの伝説は両方とも前記事にて取り上げた道脇寺に纏わるもので、共通点として「犬」と「なぜ山津波に埋まってしまったのか」を伝えています。

鐘が沈んだ滝は長柄町船木字瀧の谷にあった鐘滝のことではないかと思うのですが、廃棄物埋立により消滅してしまったそうです。はぁぁ、なんとも現実的すぎて涙が出てきますね浪漫のカケラもないorz

もう鐘が鳴っても音が届くことはないのか~はぁぁ。

 

犬に食事を与えなかった事が原因(?)で山津波が起こり寺は埋まります。前の記事に書いた「モノノケ」はこの「犬」のことを指している?

 

では、この犬に関する伝説と、前記事の「とうけふう寺」にあった「物怪により焦土となった址が一面の森になった」との伝説は結びつくのでしょうか?

 

調査していく中で、類似の説話が市原市郡本にあった千草寺にあるということを知りました。しかし残念ながら千草寺は廃寺となっており遺跡に関する事しかわかりませんでした。

千草寺廃寺と呼ばれているのですが、この廃寺については8世紀後半に市原郷人クラスの者により氏寺として建立されたのではないかといいます。その後10世紀の初めまで100年以上存続していたようで、上総国府の一施設ではないかとか、国分尼寺に付随した修行場ではないかとか、いろいろな見解があるようです。

 

この千草寺に類似した伝説があったということは、道脇寺と千草寺とは交流があったということになります。つまり同門の寺院だった可能性が高いということです。どの宗派の寺であったかは不明ですが、お坊さん同士の交流があったからこそ、類似した話が伝わったのではないでしょうか。

 

さて、ご飯をもらうために百坊をまわっていたという「犬」ですが、この犬は動物の犬だったのでしょうか?

実は人だったのではないか、と考えられる発見がありました。

田中勝也氏著の『サンカ研究』の中に「犬神人イヌジニン」というサンカの生業が紹介されています。

 

 

 

昔神社に付属して夜間警固、みこしかつぎ、掃除、死人や畜獣の死骸の処理などの雑事を担当した下級神人のことで、犬法師とか下司法師などとも呼ばれたそうです。この他「坂者サカモノ」とも呼ばれ、これは彼らが坂や丘陵地帯に居住していたことからついた呼び名で、著者は「サンカ」の語源ではないかと推察しています。

で、どうして彼らが「犬神人」と呼ばれるようになったのかですが、犬神人の中には籠や簀スノコなどの竹細工を作成し売り歩く者がいたそうで、別名「つるめそ」という生業をしている者もいたそうなんです。「つるめそ」とは「弦召し」の転訛だそうなのですが、武家からの注文を受けて弓矢も作成していたそうなのです。

 

この竹細工を作成するというスキル、九州の隼人と共通しているんです!

 

隼人は大化以前は天皇家の警固を担当する、現代でいえばSPのような立場でした。しかも儀式の時には犬の吠声をあげて魔を追い払うという重要な役目を任されてもいました。律令制になり兵部省の管轄に組み入れられてからは冷遇されていったようです。

しかし儀式において彼らの存在は重要でありつづけたようで、隼人舞を練習することが任務の一つになっていました。

そしてもう一つ、竹細工を作ることも任務だったのです。

ですが平安末期には宮廷警固や儀式からも排除されていったようで、『小右記』には大嘗祭にて貴族が隼人の吠声を真似したがうまくいかなかったことが書かれているそうです。

 

職を奪われた彼らは、どうなってしまったのでしょうか?

 

社会的に迫害された隼人は流浪の民となり、漂白生活を送ることになったのではないか。サンカの一派は定住者から川原ボエト・ホイト・川原ベートなどと呼ばれていたが、「ボエト」の語源は「吠える人」であり、元は隼人だったのではないか、と著者の田中氏は述べています。

 

つまり元九州の隼人であった人々が行き場を失い、漂白民に身を落とし、生業として犬神人になった者もいたのではないか。

そうだとしたら「犬の吠え声を上げる隼人」から発生した呼び名が「犬神人」であるとすんなり解釈できます。

 

道脇寺の「犬」とは「犬神人」のことであり、日々冷遇されていたのかもしれません。そしてこの東国には隼人が多く居住していたことから、もしかしたら大規模な報復を受けたのかもしれません。

隼人側に山に詳しい鉄鋼民の物部が混じっていたとしたら、人工的に地辷りを起こすことも可能なんじゃないかな~と思いついてしまいました。

 

「物怪により」ということにして伝説になったのは、本当は漂白民である彼らの仕業だと判っていたけれど、彼らが酷い扱いを受けていたことも知っていた人達が後世に伝えるにあたって、真実のまま伝えられないのでヒントをボカシて残してくれたのかもしれません。

もしくは迫害していた側の人々が漂白民を怖れて物怪と呼んだのかも。

まぁ当時の人からしたら人工山崩れが起きるとは思わないでしょうしね。

 

ところで滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』では八犬士が活躍しますね。

安房里見家の伏姫と神犬・八房との因縁で結ばれた八人の若者は、それぞれ姓に「犬」の字を持っています。

昔は「なんで犬のつく苗字にしたんだろ~」と思っていましたが、今なら馬琴の意図をモクモク妄想できてしまいます(笑)

もしかしたら東国に隼人が多く住んでいた史実って江戸時代ぐらいまでは公然の秘密だったんじゃないでしょうか。

またミツネさんたら、都合よくもっていきすぎ~!

とおっしゃる方もおられるでしょう。

でもでも、千葉県には秋田県とか甲斐犬とか、日本固有の犬種はいないんですよ?そういうことで『因んだ』だったら納得できるんですよ。

でも日本犬もいないし闘犬もやってないし、あと可能性であるとしたら、私的にはやっぱり隼人しか出てこないんですよ。

 

隼人といえば俊敏で勇猛な戦士の代表です。

往古は天皇の側近であり警固を任されたり儀式でも重要な立場にいたエリートでもあり忠臣でもあった。

江戸期のインテリ層は、その史実を知っていたのではないかな~と。現代の我々には伝わっていない話が江戸時代にはまだまだ沢山あったんだと思います。

 

 

 

かつて蘇我一族に仕えた、勇猛で知られた隼人達がいたことを忘れないでほしいし、もっと知ってほしいなと思います。

 

 

 

千葉県のマスコットキャラクターが犬の「ちーば君」なのも「気づいて」というメッセージに思えてくる今日この頃。

 

さてさて、道脇寺についての記事はこれで終わりです

んが、

長柄町はあと一回、続きます。

次回は神社★

乞うご期待♪