私が千葉県の伝説を調べ始めた当初からずっと、
ひどく印象に残り続けている伝説があります。
それは『日本伝説叢書 上総の巻』に記載されていて、長く調べなきゃ~調べなきゃ~と思っていたのですが、やっと調査も一区切りついたので、ご報告しようと思います。
以下、原文のご紹介。
とうけふう寺(市原郡鼠坊)←「ふ」は実際は小文字
市原郡鼠坂を登ると、左の方に見える森のあるあたり、昔百坊もあつた大殺とうけふう寺の趾だといはれてゐる。ずつと昔、物怪によつて焦土となつた址が、一面の森になつたのだといふことであるが、「房総志料」は、按ずるに、皇極帝の寵僧弓削道鏡禅師下野国薬師寺の別当職に任ぜられた折の創業ではあるまいか、さうであるなら、道鏡寺といふべきであらうと言つてゐる。(以下略)
この伝説を知った当時は
んえええっ!!
モノノケが焦土にぃぃっ!!??
なっえっちょっ、モノノケ~!?
と大興奮で伝説ビギナーであった私は鼻息も荒く絶対調査すんぞ!と心に固く誓ったものです、青いな~(笑)
それから数年、調査を進めていくうちに、この伝説に盛り込まれた情報量が凄いことが次第にわかってきました。物語的でもなければ長文でもない伝説なのですが、二面も三面もあったのです。
まずは「とうけふう寺」から迫ってみましょう。
「とうけふう寺」とは長柄町山根字大加場にある東野山道脇寺のことだと判明しました。日蓮宗(かつては天台宗)のお寺で元は現在の長柄小学校の地にあったそうですが地辷りが発生し埋没したそうです。
地図を見ていただけると解ると思いますが、現道脇寺はかなり小学校から離れた場所にあります。
では道脇寺を取材した時の画像をどうぞ。
間違いなくここが道脇寺だわ、よかった!
本堂 ガラス扉には寺紋の井桁に橘
入り口に日蓮宗の御経である「南無妙法蓮華経」の文字が刻まれた石碑、台座に道脇寺とあります
道脇寺に隣接して鎮座していた春日神社
蛇がいたので参拝せず
『長柄町史』によれば明治25年小学校新築工事の際に地ならしをしていたところ、中国の古銭1800枚が出土したといいます。
伝説では物怪の仕業で焦土と化したされていましたが、長柄町に関する書物には崖崩れであったり山津波であったり、自然災害により埋まってしまったことになっています・・・若干ガッカリですね(ショボン)
ではテンションを上げるために切り口を変えていきましょうか。
なぜ「道脇寺」なのかです。
『日本伝説叢書』の中では弓削道鏡との関連性を述べていました。
なんでイキナリ道鏡?って思いますよね。寺名の読みが同じ音だからって、こじつけすぎでしょって思いますよね。
私も最初はそうだったんですが、調べてみるとそうでもなかったりしたのですよ。
道鏡は法相宗のお坊さんで称徳天皇の寵愛を受けたとされ、女性でありながら天皇でもあった称徳は天皇の位を道鏡に譲ろうとします。
有名な宇佐神宮の神託事件がありますね。
結局天皇にはなれず770年に称徳天皇が崩御すると、同年8月に下野国の薬師寺別当を任ぜられて下向しています。
政権を振り回した人物に対して以外にも実権を握っていた藤原氏がことのほか優しい対応~!当時の「普通」だったら死罪もしくは十八番の島流しだろうに。
それとも藤原氏といえども簡単には手が出せない高貴な方だったんでしょうか?
実は道鏡には天皇家の血を引く人物ではないかという説があります。
天武天皇の子である弓削皇子の子説や天智天皇の子である志貴皇子の子説などです。
個人的な見解だと、もちろん蘇我王家の一族の一人であったと考えています。系図に皇家の人物で「弓削」とつく人物が複数いる点や前記のように藤原氏が手を下していない点が「不可解」だからです。
それだけ?と言われてしまうかと思いますが、当時の記録がほぼ残されていない中、僅かな手掛かりから妄想していくと、やっぱり「正史」の流れに違和感を感じてしまうんですよね。
自分に都合のいいように解釈しすぎではないか、と言われるかもしれませんが根拠はちゃんとあります。
道鏡が任ぜられた下野国薬師寺に関して、薬師信仰が日本で盛んになったのは聖徳太子が用明天皇の病気治癒を祈って薬師如来像を造ったのが始まりで、天武天皇9年(680)に天武天皇が皇后の病の治癒を願い大和国に薬師寺を建立したことからだそうです。
正史で蘇我氏に最も近い聖徳太子が絡んでいたんです。
しかも下野国薬師寺は『続日本後記』には天武天皇が建立したとあるんです。栃木では下毛野古麻呂が建てた寺と考えられているようですが、現在でも薬師寺と名付けられた寺はすべて天皇の意向により建てられた寺ばかりだといいます。下野国薬師寺も奈良時代以前に当時の政権の権力者が建立したと推察されています。
そして道脇寺にも薬師堂があり薬師如来が安置されているのです。
この薬師如来はなぜか市原市金剛地の熊野神社から元応の頃(1319~1321)に来たという伝承があります。
天・武・で・す・よ!
天武も天智もベースに蘇我の天皇のことだと考えているのですが、こうして中央から離れた各地に痕跡が残っているんだな~と感慨深い。
寺社や伝説を調査してると、ホントに急にポンっと蘇我氏に絡むことが出てくるんですよ。偶然ではすまされない確率で登場するんですよ、蘇我氏の方々が。このことからも、やっぱ正史は妙としか思えないし、東国は絶対蘇我氏の領地だったと思えてならないんですよね。
逸れてしまいましたが本題に戻りましょう、道脇寺の寺名由来にはほかに天台宗の高僧・安然も関係してきます。
安然は日本の梵語の礎を築いた学者であり、寺子屋で使われていた教科書「童子教」の作者とされています。
その安然の墓といわれている塚が長柄小学校の近くの丘上にあります。道路拡張に伴い塚は半分削られてしまいました。
道脇寺の開祖が安然だといわれ、伝承によれば安然は茂原市高師の出身で姓は道脇チワキ氏であったといいます。
道脇というのは安然の元の姓からきているのかも?
もしかしたら道脇寺は当初は道鏡寺で法相宗だったのが廃れてしまい、後に安然が再興して天台宗になり、酒井様の七里法華で日蓮宗になったのかもしれません。
その他、元の道脇寺のあった地の側を通る鼠坂の側に位置することから、道脇という字を採った可能性もあります。
この鼠坂は元は不寝見坂という字で、日本武尊が橘姫を追懐して寝に就かず、そこから「不寝見坂」という名になったといわれています。
そのような坂の側に建立されたことから坂に因んで寺名をつけたとも考えられます。
まぁどれも確証がない説になってしまうので、ここまでにしましょう。
次回は道脇寺の続きで異なる伝説をテーマとしてお届けしようと思います。