1982年に刊行された村上春樹の『羊をめぐる冒険』について、
毎日新聞09年4月9日朝刊に
作家・文芸評論家、三輪太郎氏の一文。
小生にはとても面白い記事だったので、
『羊~』を読んでない人にもわかるように紹介したい。
(こんな休日の朝っぱらから、アタシも好きねえ。
年よりだからね。目が早く覚めんの)
![]()
村上春樹の作品は、サブカル風の軽みを
モットーとするかのようなところがあるが、
外見とは裏腹に、本質はとても陰惨だ。
『羊』もまた、陰惨極まりない作品。
それは、入口と出口の二つの死によって、
この作品がサンドイッチにされているからだ。
入口の死は、1970年、作家、三島由紀夫の自死。
主人公の「僕」は、右翼の大物から脅されて
星印のついた「羊」を探すよう命じられた。
その「羊」は、世界を征服する意志をもつ
ウイルスのような不特定な存在。
人を宿主としてとりつき、宿主が使いものにならなくなると
次々に別の宿主に乗り移っていく。
「羊」を探す旅に出た「僕」は、最後に北海道の別荘にたどりつき、
「羊」の宿主となった「鼠」と出会う。
そのとき、「鼠」はすでに死んでいた。
「僕」は、「鼠」の霊の声を聞く。
<オレは「羊」を飲み込んだまま死んだんだ>
「鼠」は「羊」と心中したのだった。
いったい「羊」とは何なのか。
<あらゆるものを呑み込むるつぼなんだ。気が遠くなるほど美しく、
そしておぞましいくらいに邪悪なんだ。そこに体を埋めれば、
全ては消える>もの。
私(三輪)には、「羊」があらゆる絶対の理念や目的の喩えに映る。
1960年代の学生運動の活動家たちや、その対極にいた三島由紀夫、
天皇陛下万歳と叫んで死んでいった戦中の若者たちを駆り立てた
「かくあらねばならぬ」という理念。
著者は「鼠」に語らせる。
「オレはオレの弱さが好きなんだ。苦しさも辛さも好きだ。
夏の風の匂いや蝉の声や、そんなものが好きなんだ」
「鼠」は、「あるがまま」の弱さを守りぬくために、
「かくあらねば」という亡霊を退治しようとして「羊」と心中した。
だから、この『羊~』という作品は、
「死」に満ちた前時代との決別のための
象徴的儀式の作品と読むことができる。
「前時代」には戦中も含まれる。
そして、本当の戦後は、「生きる」ことのみが
唯一の価値、幸福の基軸であるような社会が到来する
80年代と、告げている。
作品の刊行と軌を一にするように、
現実世界では、「あるがまま」の弱さを
無際限に肯定する消費の謳歌と、
バブル経済の時代が始まろうとしていた。
村上春樹の作品は、おそろしいまでに予言的、霊媒的です。
![]()
この評論は、60年代から70年代にかけての「政治の季節」を
リアルに体感、体験した小生には気分としてよくわかる。
若者たちを中心にした、反権力、反体制の闘いの時代。
人々は、社会改革、革命の夢を見た。
「かくあらねばならぬ」と。
時代は、優れた一つの作品によって描かれる。
それまで、万年3位だったフジテレビが、一気にトップへと躍り出て、
軽薄、カルチャー路線が、圧倒的支持を得ていくのが80年代。
そうした時代を描いた評論
『バブル文化論』(原宏之・慶応義塾大学出版会)は、
80年代を知るには、「フジテレビ」を抜きには語れないと書く。
まさしく同意。好きか嫌いかは別として、
あの時代、放送界の真っただ中にいた小生は、
その「感覚」は、いやというほど理解できる。
「ゆとり教育」は、そうした時代の延長にあるのだと思う。
ちなみに上記評論を書いた三輪太郎氏は、
『ポル・ポトの掌』(2007)を著し、
小生は、NHK「週刊ブックレビュー」で推薦本として紹介した。
三輪氏は、イデオロギーと人間、時代と人間の関係に
強い問題意識を持っている。それは小生も同じ。
さて、少し長くなりました。
ここまで読んでくれた方に感謝します。
最後に一言。
すぐれた小説家は、時代を寓話化する。またそれが役割。
村上春樹が、先日「エルサレム賞」を受賞した際の
講演で語った言葉の中で最も重要だったキーワードは「卵」。
いかにも春樹風表現だと思いませんか。
「卵」に隠された意味は何か。
「卵」は21世紀の次の10年を予言する「羊」となるのでしょうか。