私が本を読もうと思うようになったきっかけは2つある。1つ目は普通だ。社会人としてちゃんと生きていくためというもの。2つ目は不純な動機なのであまり書きたくないのだが、「小難しい本を読んでるほうがかっこいい」、「できるやつに見える」と思ったからだ。もっとストレートに言えば「もてるかな?」と思ったからだ。

本を読もうというきっかけについて語るのだからこのように思う前は全く本を読む習慣がなかったのは言うまでもない。「本を読もう」と思うようになったきっかけは就職である。残念なことに就職活動中でのことではなく、就職先が決まってからだが。少し、就職が決まる前の学生時代のことを振り返ってみよう。これを読んだらこんなやつでも本を読むようになったんだから自分にもすぐにできるだろうという気にはずだ。

学生時代の私は流されっぱなしの怠け者だった。大学を選ぶにあたってもとりあえず受かりそうなところを選び、学科についても、「これからはパソコンだろう」という感じで情報学科を選んだ。「何かをしたい!」という気持ちは全くなく、消去法で選んだ結果だった。そして大学3年後期、就職活動の時期になっても変わらなかった。当時(2004年)は就職氷河期を脱する過渡期であり、大学側からは「修士に行ってあと2年学べば技術力も付き、今の企業が求める人材になれるし、今は就職するにはいい時期ではない」という言葉を丸呑みして、就職活動を全くせずに進学することにした。就職活動がめんどくさかったのだ。2年が経って再び就職活動期になっても、流されっぱなしの考えは変わらなかった。景気の回復と団塊の世代の一斉退職による企業の体力低下を懸念しての動きがあって、氷河期とは一遍、売り手市場が広がっていたが、何も考えずにSEへ。他の職種について1からやってみたいという気も、他の職種について知りたいという気もなかった。研究職の道もあったが、デジタルの世界は本当に好きでなくては(マニアじゃなけりゃ)できないことも知っていたので、SEにした。

こんな学生が本を読もうと思ったきっかけが、「ちゃんと生きていくため」というやつだったのはわかっていただけたと思う。電車のなかでポータブルゲームやら少年マンガを読んでいるハゲ散らかしたおっさんにはなりたくなかったが、将来のベクトルがそっちに向きつつあるのもひしひしと感じていた。

平静を装ってはいても少し不安だったのだ。
生き残れないと思ったのだ。
そんな気持ちを癒すためには何かよりどころが必要だったのだ。

そんなわけで、まず手に取ったものはSEに関するものだった。「SEの読書術 -「本質を読む」力を磨く10の哲学」、「SEの持つべき「思想」―できるSEは何を考え、どう動いているのか」なんかが最初だった。技術ではかなわないことがわかっていたので、コミュニケーション能力とか考え方とかで勝負しようと考えたのだ。で、読んでみるとなかなか面白く、技術よりもコミュニケーション能力の方が重要だとか…(正しいかどうかは別にして)私に力を与えてくれた。

それからというもの社会人として生きていくための目標なんかを定められそうなものを中心に読んでいった。具体的には「大前 研一」、「本田 直之」なんかだ。それに、コミュニケーション能力とかを充実させたいという思いから心理学に関するもの「内藤 誼人」なんかも読んだ。

ちなみに、本を選ぶときの基準は今でも覚えている。文字が大きくて、文字と文字との間の余白が多く取られているものだ。最後まで読めるだろと思えるものだけに絞っていた。もちろん、持っていてかっこいいと思われるような題名と表紙も考慮した。

きっかけの2つ目、「かっこいいかなぁ~」についても1言だけ。この不純な気持ちについて書いておいたのには意味がある。それはこれがあるかどうかがとても重要なことだったからだ。当時はまだ手にしていなかったのだが、「神田昌典」の本にあるとおりで、不純な動機があったほうが達成しやすいのである。挫折したり、やめようと思ったときに、最後に引き止めてくれるのは、他人に説明ができるような作るものの動機ではなく、かっこよく見られたいとか、お金持ちになりたいとか、人に言ったら軽蔑されるよう自分本位な動機なのである。他人にいう必要はないが、このような動機があることは絶対に頭の片隅いおいておき、邪険にしないことだ。

このブログの中で、本を読むことの楽しさとその必要性について述べてきたが、残念ながらブログをスタートしたのが社会人3年目であり、1,2年目でのことを記載してはいない。今回は私が社会人1年目から2年目にかけて読んできた本と社会人になる前に読んだ本について述べたい。

と、その前に過去を振り返ることで情報のゆがみが生じることを断っておきたい。

過去を振り返る際に生じる「情報のゆがみ」、それは追認バイアス(と、「ブラック・スワン―不確実性とリスクの本質」の中では呼ばれている)。簡単に言うと、過去を振り返った時点での内容と実際に起きた内容が異なってしまうということだ。※1

本を大量に読むようになって2年目が過ぎたあたりで、このことに気がついた。特に自叙伝や、成功本でそれを感じ、この手の本を読んでいると違和感を感じるようなった。※2

自叙伝や、成功本を書くような人は社会的に成功した人であるが、その人が成功するという事実は成功するまではわからない。成功して初めて出版社から自叙伝や、成功本の依頼が来る。だから、そのときに一生懸命若かりしころのことを思い描きながら成功までの道筋を書いたとしても、それは追認バイアスによって現在の状況に沿ったものに書き換えられてしまう。(なぜなら、もう、未来を見てきてしまったのだから、そしてその本を手にしている私たちも未来を知っているからそれに気づかない)

だから、堂々と、事実を書き換えたり、美化されたり、重要な部分が抜け落ちていたり、成功に関係がありそうな出来事をただ並べた表面的で薄っぺらいものなってしまったり…読者も読者でそれに気づかずに「すごい人だなぁ~」と感心してしまうことがある。しかし、実際にはその成功は単に運がいいだけだったかもしれないし、超人的に書かれていても実際は自分と変わらない部分が多かったりするかもしれない。それなのに、情報が不確かなために、正確に判断ができない(成功者は特別な人で自分には無理とあきらめてしまうとか)のは非常に残念である。

だからこそブログのように記録と日付をセットに保存できる媒体が重要になってくる。あとでまとめて本にするにしても当時の思いが詰まったブログをもとにして本を興すのとそうでないのとでは情報の正確さという意味で全く異なってくる。これはなにも、私が将来有名人になるとか、成功するとか、するかもしれないという野心があるとか、そういうことをいっているのではない。後から過去を振り返りながらまとめるのでは意味がないということがいいたいのである。

こんなことを考えるようになったのがちょうど社会人3年目(このブログの開始時期)になるときで、本を本格的に読むようになってから残念ながらすでに2年が経過していた。

だから、ブログに残そうと思う前の出来事を記載するのははばかられた。しかし、私はもともと本を全く読まない人間で、それが本を読むようになったのだ。そんな経験を語り、本を読むすばらしさを伝えたいと思うがゆえ、出だしの部分はどうしても記載しておきたいと思う。少なくとも何十年も後になってから記載したものよりも、精度の高い、純度の高いものであるはずである。1年目、2年目に読んだ本については次回ご紹介します。


※1
このようなことがおきる理由として、人間が物事を覚える際に、何かしらの解釈に頼らないと覚えておくことができないためだ。(情報の次元を下げなくては情報量が多すぎて対処できない)追認バイアスについての詳しい説明は「ブラック・スワン―不確実性とリスクの本質」を参照。

※2
大量に本を購入して平行に読んでいくと出版された時期が近いもの同士は影響を受けているものが多く、語り口や、キーワードが同じ本がよくある。こういうのを読むと、「あぁ~またこの手の本か」と思う。このような流行を取り入れている成功本は過去の事象が書かれているところに現代の流行文句が入っていたりする。過去の情報を解釈により復元する際に、足りない情報を解釈が通るように適当な情報で埋め合わせて復元した結果であり、違和感の原因になる。

最近、さまざまなジャンルの本を手にして思うのが本を読むことは食事に似ているという点である。

いくら好きだからといって毎日毎日和食を食べるのではなく、中華、イタリアン、フレンチ、時にはインド料理(?)なんかも食べたいと思うように、同じようなジャンルの本ばかりを読むのはいただけない。その日の気分で食べる店を決めるように読む本を変えるべきだとも思う。

これを実現するために私が実践しているのが「同コラム:本の探し方」、「同コラム:本をプールする 」でも書いたようなことだ。
簡単に言えば、どんなジャンルの本があるのかを書店などで物色し、必ず手元にはいろんなジャンルの本を複数プールしておくという方法だ。

本を選ぶときはそのときの栄養状態を考えるようにすればいい。肉が多ければ魚を食べればいいようにだ。(経済の本ばかりを読んでいたら、生物に関するものを読んでみるとか)

また、時々だったらファーストフードもいいかもしれない。ビジネス書で言うファーストフードはHOWTO本や自己啓発の本がそれにあたる気がする。毎日食べたいとも思わないし、体によくないとわかっているのだが、時々食べたくなるところも、気軽に取れるところもそっくりだ。

ファーストフードのような軽い本ばかり読んでいても仕方ないことはなんとなくわかってもらえるだろう。では小難しい(分厚いハードカバーの)本ばかりを読めばよいのか?メディアに登場する著名人のように…

著名人がテレビのニュースでコメントするとき、たいてい後ろに本棚があってきれいに本が並べられている。著名人の本棚には小難しい本しかないように見える。(どれも分厚いし、背表紙にはかたっくるしい題名がある)でもそれは、コメントを求められている自分の意見がさも正しいと思わせるためだけだということを忘れてはいけない。「私のいっていることは正しい!」、「私の意見がわからない人は無教養なんだ!」というメッセージを発しているだけで、全部読まれているかと言ったら怪しいものだ。たとえ、全部読んでいても、ジャンルが偏っていてはたいしたコメントは期待できない。

毎日、フランスのコース料理を食べる、懐石料理しか食べない。それが目指すべき読書の姿か?そんなことはないはず、だから、小難しい本ばかりを読む必要はないのだ。いたずらに読書のレベルを上げる必要はないのだ。ようはバランスよく摂ることが重要なのだ。