「市民なき民主主義社会」はロバート・エンマンの著書のタイトルである。エンマン氏は国民が政治に関する情報を入手できる機会が増えいているにもかかわらず、政治に関する知識も感心も増加せず、むしろ低下しているかもしれないことをこの中で示唆した。「プロパガンダ」にある説明を以下に紹介しよう。
---国民、報道関係者、政治家の関係は悪循環に落ちいているといわざるおえない。洗練された報道番組は、知的な視聴者を要求する。しかし、教養豊かな聴衆がいないのなら、記者や政治家は自らの主張を簡略し、「娯楽作品」に仕立てなくてはならない。そのため、社会全般の素養がさらに低下してしまうことにある。---
日本において、政治を「娯楽作品」にした人といえば小泉元首相だろう。小泉元首相が大変人気があった。「自民党をぶっつぶす」というキャッチーな言葉で国民の心をつかんだ。あのだらだらとした国会答弁の視聴率までもが上がったのだが、このようにしてみると政治に関心を持つ人が増えたわけではなく、「小泉劇場」という娯楽作品を楽しんだだけだったといえる。そしてエンマン氏が「社会全般の素養が…」と指摘しているようにこれはどの分野においてもいえることだ。
ではなぜ今になってこのようなことになっているのだろうか?
それは、ここ最近どの分野においても情報量が飛躍的に多くなったからだと私は考えている。
情報量が多くなるということは送り手の間での競争が熾烈になると言い換えることができる。どの分野においてもユーザ数は初級、中級、上級とピラミッド状になっていることを考えると、当然初級者向けのほうがパイが大きいため、そこへ特化した情報が多くなる。しかも、神田昌典氏の「60分間・企業ダントツ化プロジェクト 顧客感情をベースにした戦略構築法」にあるニーズ・ウォンツ分析法に従えば、初歩的な知識の方が必要性も欲求も高いと分析できるので”うけ”が良いのだ。
「本」に当てはめてみよう。書店にあふれているものは初級のものかその場限りのものばかりだ。「はじめての××」とか「○○でもわかる」と言ったタイトルが多いことを確認しよう。本屋さんも商売だ。うけがいい(売れる)ものを置くのは当然だ。
私たち消費者は知識の次元を下げた娯楽作品が蔓延していることを意識しなくてはならないし、それらにいつまでも惑わされていてはいけない。いつまでも娯楽作品を読んでいてはエンマン氏の言うところ、市民ですらなくなってしまうのだから。
---国民、報道関係者、政治家の関係は悪循環に落ちいているといわざるおえない。洗練された報道番組は、知的な視聴者を要求する。しかし、教養豊かな聴衆がいないのなら、記者や政治家は自らの主張を簡略し、「娯楽作品」に仕立てなくてはならない。そのため、社会全般の素養がさらに低下してしまうことにある。---
日本において、政治を「娯楽作品」にした人といえば小泉元首相だろう。小泉元首相が大変人気があった。「自民党をぶっつぶす」というキャッチーな言葉で国民の心をつかんだ。あのだらだらとした国会答弁の視聴率までもが上がったのだが、このようにしてみると政治に関心を持つ人が増えたわけではなく、「小泉劇場」という娯楽作品を楽しんだだけだったといえる。そしてエンマン氏が「社会全般の素養が…」と指摘しているようにこれはどの分野においてもいえることだ。
ではなぜ今になってこのようなことになっているのだろうか?
それは、ここ最近どの分野においても情報量が飛躍的に多くなったからだと私は考えている。
情報量が多くなるということは送り手の間での競争が熾烈になると言い換えることができる。どの分野においてもユーザ数は初級、中級、上級とピラミッド状になっていることを考えると、当然初級者向けのほうがパイが大きいため、そこへ特化した情報が多くなる。しかも、神田昌典氏の「60分間・企業ダントツ化プロジェクト 顧客感情をベースにした戦略構築法」にあるニーズ・ウォンツ分析法に従えば、初歩的な知識の方が必要性も欲求も高いと分析できるので”うけ”が良いのだ。
「本」に当てはめてみよう。書店にあふれているものは初級のものかその場限りのものばかりだ。「はじめての××」とか「○○でもわかる」と言ったタイトルが多いことを確認しよう。本屋さんも商売だ。うけがいい(売れる)ものを置くのは当然だ。
私たち消費者は知識の次元を下げた娯楽作品が蔓延していることを意識しなくてはならないし、それらにいつまでも惑わされていてはいけない。いつまでも娯楽作品を読んでいてはエンマン氏の言うところ、市民ですらなくなってしまうのだから。


