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『写真が語る銃後の暮らし』
太平洋戦争研究会
筑摩書房
1913年から1945年の銃後の暮らしを資料性の高い貴重な写真350点と共に振り返る。
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・新興国日本にとって第一次世界大戦の結果はおおむね良好、債務国だった日本が債権国になっていたほどの経済効果があった。
・千人針は迷信かもしれないが、戦場で戦う兵士には、故郷の大切な人の、それぞれの思いがこもった大切なお守りだった。
・1938年、「国家総動員法」が公布され、翌年には「国民徴用令」が制定された。熟練労働者や建築技術者が「白紙」によって軍人産業に動員され、「産業戦士」として長時間、低賃金で働かされた。
・『軍人勅諭』『教育勅語』では、命を惜しまず、天皇のためにすすんで命を投げ出さなければならないことが繰り返し説かれた。『戦陣訓』では「捕虜になるな」と具体的に説かれ、軍人も銃後の国民にも尽忠報告の姿勢が義務付けられた。
・1940年、軍はナチスのような「一国一党」を主張し、天皇の事業を助ける政治(翼賛政治)を行い、全国民を翼賛政治に協力させるための新しい組織、「大政翼賛会」を作る。
・翼賛会の道府県支部長は知事が兼任、市町村支部長は市町村長が兼任し、翼賛会は内務省の出先機関のようになる。
・内務省の訓令により、農村では部落会(5人組、10人組など)、都市では町内会(隣組など、)という「隣保組」が組織された。
・1942年5月からは部落会も町内会も、大政翼賛会の指導する組織となり、地域の末端まで翼賛体制が入り込み、相互監視の密告社会となった。
・戦争で使用する武器・兵器に必要な鉄や銅などの金属不足を補うため、「金属回収令」が施行された。
・「国民学校令」により、学校での教育内容も再編成される。子どもたちは「小国民」と呼ばれ、男子は優れた兵隊になるため、女子は国を守るために、武道などの訓練に励んだ。
・資源のほとんどを輸入に頼っていた日本は、1944年には石油などの資源、食料をなじめとする物資など、生活全般が困窮の極致に達した。
・石油の代わりに松の根から航空機燃料を生産しようとし、大政翼賛会の運動として、日本全国に発掘量を割り当てがあり、女性や子どもの手による重労働が繰り返され、山は荒らされた。
・日本の敗戦は日本への空襲が本格化した時点で明らかだったが、日本政府は英米との和平交渉をソ連に依頼、返事を濁されているうちに、「ポツダム宣言」が出され、それでもソ連の返答を待ち、「様子見」を決めこみ、決断を先延ばしにしているうちに、広島と長崎に原爆が落とされた。
・玉音放送により、国民の多くは思いもかけぬ敗戦を知らされ、愕然とする。鈴木貫太郎内閣は総辞職した。
・終戦後の満州の在留邦人は関東軍に置き去りにされた。直前の根こそぎ動員により、老幼婦女子主体だったため、逃避行の途中でソ連軍の攻撃にあい、掠奪や暴行にさらされたり、殺されたり、集団自決したりした。
・引揚者は生活の基盤を失い、多くは着の身着のまま帰国した。公的な援助はあっても困窮を極め、同じ日本人からも蔑みの目を向けられ、二重に棄民感を味わった。
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戦時中の一般市民の暮らしについて、豊富な写真と共に丁寧に振り返る一冊。
第一次対戦後の昭和時代の訪れ、昭和モダンの隆盛から、第二次大戦終結までを6つに分け、各章のはじめに注釈付きの写真が並び、写真を見た後に詳しい解説があるので、当時の様子を語り聞かせられているよう。
表題に「銃後の」とある通り、当時の庶民の暮らしにしっかりとページが割かれているので、子どもの頃に実家の祖父母から聞いた
「戦争で馬を取られた」
「農機具を供出させられた」
「大阪から疎開して来たひとがいた」
「竹槍訓練があった」
などという話が、俄然現実味を帯びて胸に迫るようだった。実家は代々農家なので、配給が滞っても
「食うに困る」
ということはなかったというが、特に祖母は
「戦争のせいで…」
が口癖で、戦争によって奪われたもの、失ったもの、変わってしまったことを数えるようなところがあったが、それまでの日常を奪われ、辛いこと、苦しいことがたくさんあったのだろうと今更ながらに思う。
それから、つくづくこの国の上の方の人たちは、
全滅→玉砕
撤退→転進
敗戦→終戦
占領軍→進駐軍
言い換えて、ものごとの本質をわからなくするのが好きらしい。
現代でもわいせつ行為を「いたずら」、窃盗罪を「万引き」と言い換えたり、心理的、物理的、肉体的攻撃を「いじめ」とまとめて表現することによって、問題が矮小化されているのではないかという声もある。
「〇〇戦士」などと言って、「国のため」「会社のため」「家のため」と都合の良いように滅私奉公させるやり方も、誰かひとりが周囲から逸脱せぬよう、相互に見張り合う体質も、現代まで踏襲されているように思えてならない。考えれば考えるほど、やり切れない気持ちに沈みそうになる。
