デフ・ヴォイス』の続編、


『龍の耳を君に──デフヴォイス新章丸山正樹 (東京創元社 20182月)



「聴こえる者──聴者の意識は昔も今もまったくといっていいほど変わっていない」


「『聴覚障害者』と十把一絡げにされることが多いが、生まれつき耳が聴こえず手話を使って生活する『ろう者』と、少しは聴こえる『軽度の難聴者』や、ある時期までは聴こえた経験のある『中途失聴者』では、普段使う『言語』も、メンタリティも違う。そのため『音声日本語』を使う者にとっては当たり前でも、『日本手話』を第一言語とするろう者にとっては分かりにくい表現は多々あるのだ。」

-p. 12


『何をもってしゃべれるとするか、考え方の違いじゃないでしょうか。』


『自分でどんな声を、どんな音を出しているかも分からず発音した音の連なりが、言語といえるでしょうか。いやその前にしゃべれるようになったというのは、自分の言葉が相手に伝わるようになって初めてそう言えるのではないでしょうか。』

-p. 59


「どこの自治体にも、聴覚に障害を持つ者が、事故や事件の当事者となった際には、被害者・加害者を問わず、手話通訳者の派遣を頼める制度があるのに、それを捜査員が知らない、あるいは筆談で十分、補聴器をしているから聴こえるだろう、という『現場』の勝手な判断でその制度を利用させない、と言うことが多々あった。」

-p. 99


「障害を持たない者が障害を持つ者を馬鹿にするときには、必ず、その身体的特徴を誇張する。脳性まひの人、下肢に障害のある人、知的障害のある人──その仕草や表情を大げさに真似するのだ。ろう者の場合は『手話』がその対象になった。(中略)『猿の真似』をする者が多かった。ろう者のスピーディーな手の動きや時折発する声が似ていると言いたいのだろう。顔まで猿の真似をしえ馬鹿にする者もいた。近く前来て、露骨に。どうせあいつらには分からない、と。

 分からないわけはない。

 真似された者、馬鹿にされた者がそれに気づかないわけはないのだ。見下されていふこることを理解して、そのことに深く傷つき、そして悔しさを胸にしまう。そうやって生きてきたのだ。」

-p. 128



「全ての親が常に子供に寄り添えるわけではない。ましてや二親が揃っていなくては正しい子育てができないらなどというのは暴論に近い。」

-p. 180


『家族のあるべき姿を国が規範として定め、家庭教育に国が介入しよう、のいうとんでもない法案です』

-p. 224


以前読んだ 『デフ・ヴォイス』の続編とあって、前作同様、ろう者や、ろう文化、手話、ホームレス、発達障害など、一般にはあまり知られていない(であろう)ことが盛り込まれているので、少々説明的になる部分はあるけれど、それがほとんど気にならないくらい読みやすい。


事件のゆくえ、主人公たちの身の上(関係性)がこの先どんな方向へ向かってゆくのかなど、気になる要素がたくさんあって、どんどん読み進んでしまう。


障害者差別についてはもちろん、育児や親としてのあり方、家族の形についてなど、投げかけられた多くの疑問がまだ胸の奥深くに留まっている。