『デフヴォイス』 丸山正樹 
(文藝春秋 20117月)

「実利的な理由」で手話通訳士の資格を取り、実務についた主人公が、ある事件をきっかけに、自らの内面や過去と向き合っていく社会派ミステリー。

「ろう学校などで『手話』が使われることはこれまでほとんどなかった。補聴器を使用して唇の動きを読み取り(読話)、発声練習(発語)で、音声日本語を学ぶ『聴覚口話法』が主流であり、手話はむしろ音声日本語獲得の障害になるとして避けられて来たのだ。」
-p. 27

「一般的に知られている手話ー日本語に手の動きを一つ一つ当て嵌めていく手法は、正確には「日本語対応手話」と呼ばれるものだ。聴者手話サークルや手話講習会などで学ぶのはほとんどがこれで、自然、手話通訳士が使用する手話も同様になる。」

「これに対し、ろう者が昔から使っているものは、『日本手話』と呼ばれ、日本語の文法とは全く違った独自の言語体系を持っている。従って生まれた時から使っているろう者でなければその習得はかなりの困難を極め、聴者はもちろん、難聴者や中途失聴者などでも使いこなせる者はまれだった。」

「逆にろう者が『日本語対応手話』を理解するにはいちいちそらを頭の中で『日本手話』に置き換えなければならず、『何とか理解はできるもののかなり疲れる』というのが本音のようだった。」
-p. 32

手話に種類があるということは、何となくどこからか聞いて知っていたけれど、どう違うのかや、違うことによって、それぞれの話者にどれほど大きな影響を及ぼすのかについては考えたことがなかった。


また、一般的に「聴覚障害者」とされている人々の中にも、先天的に「聴こえない」人もいれば、病気などの何らかの理由により後天的に聴こえなくなった人もいる。そして聴こえの度合いも人によってさまざまだという、少し調べれば分かる、少し考えれば想像がつくはずの事実も私は知らずにいた。

『手話通訳には確かに技術も必要ですが、心が通わなければできない仕事であると私は思っています』
-p. 63

『行政からも福祉からも抜け落ちてしまう人たちは、まだまだ多いんです』

『(中略)教育に恵まれなかったろう者や、知的障害を持った人たちは、いわばその代表です』
-pp. 95-96

『相手の言語と文化を理解しないところに、対等な関係など生まれない』
-p. 122

「彼ら(ろう者)の言葉を、彼らの思いを正確に通訳できる人間がいて、それでようやく法の下の平等が実現するのだ。」
-p. 280

「聴こえない」ということが、生きることにどれほど重大な影響を持つのかについても、これまできちんと考えたことがなかったけれど、文中にあったように、

「ろう者」にとって「『日本語』は『第二言語』に過ぎない」
-p.119

のであれば、第二言語で教育を受けなくてはならないことによって生じる困難は、想像を絶する。

「私たちが(中略)あなたたちの言葉を覚える」
-p. 282

心に沁みた言葉のひとつだ。相手の言葉を学ぼうとすること、覚えることは、相手を深く愛すること、愛しているということ同義だと私は思う。

長年聴こえる人と聴こえない人のはざまにあって、自分が「どちら側の人間なのか」、何者なのかを考え続けて来た主人公が出した答えが胸を打つ。

予約引き渡し期限内に図書館に行けなかったりして、何度か読むタイミングを逃していたけれど、読めてよかったと心から思った一冊。