護国寺にて...三条実美公、大隈重信公、山県有朋公、山田顕義公、田中光顕公の墓前に祈る
今日は東京都文京区大塚にある真言宗豊山派の古刹...神齢山 悉地院 護国寺に参拝して来た。
実は、この記事を【観音巡礼】のカテに投稿すべきか、【幕末茶屋-まるぼろ亭】のカテに投稿すべきか悩んだのだが...今回は【幕末茶屋-まるぼろ亭】の方にアップする事にした。僕はカテゴリーによって語尾を【です・ます調】にするか【だ・である調】にするかを使い分けているのだが、今回は幕末記事のため【だ・である調】で記述する。
違和感を覚える方も居られるかも知れない。最初にお断りしておこう。
さて...何故このお寺の参拝記事を【幕末茶屋-まるぼろ亭】に分類するか、だが...
この寺には僕にとって思い入れのある人物達の墓が沢山存在している。自作の小説に登場させた人々が大勢眠っている聖地であるため、これを幕末記事としたい。
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しかしながら、同時にここは観音霊場である。当然ながら、何時ものごとく...【観音巡礼】のエッセンスも同時に書かせて頂く。ここは幕末オタとしても、仏教オタとしても、スペシャルなパワーを感じさせる霊場だ。心をときめかせて参拝させて頂いた。
千葉からは総武線と地下鉄有楽町線を乗り継いでアクセスする。乗り換えは飯田橋だ。
護国寺駅で下車し、地上に上がるともう目の前が門前だ。アクセスは非常に簡単。
立派な山門が直ぐに目の前に飛び込んで来る。今日はご覧の通り快晴で、最高の参拝日和。団体客もチラホラ見受けられた。都会のオアシスとも言うべき、緑が後方に広がっている。
山門を潜ると、参道前方の左右に同じ大きさの手水舎が現れる。中々風情のある造りだ。先ずは身を清める。
水が滴るポイントは1箇所になっている。コロナ禍だからか、直接手で受け止め両手と口を清める。
本堂は石段を数段上り、一段高くなったエリアに建てられている。
本日の本堂である。晴天に恵まれ、実に写真映えする。美しい本堂だ。天和元年(1681年)、五代将軍・徳川綱吉が母桂昌院の願いを受けてその建立を命じた。現存する都内で最大の木造建築物と言われている。綱吉は高崎の大聖護国寺の住職・亮賢に後楽園の地を与え、母の祈願寺とした。本尊は桂昌院が念持仏として持っていた琥珀の【如意輪観音像】。絶対秘仏である。本堂であるこの観音堂の本尊は堀田正虎の母・栄隆院尼が寄附した如意輪観世音菩薩。W如意輪観音のパワーを頂戴出来る都内有数のパワースポットだ。故に江戸三十三所の第十三番札所に指定されている。江戸時代には浅草寺、回向院に次いで人気の出開帳宿寺であった。
こちらはネットから拝借した画像。護国寺は真言宗豊山派の寺院である。密教寺院特有の質実剛健な造り...。
僕は天台宗の門徒だが、真言宗豊山派とは非常にご縁が深い。観音信仰者として最も神聖視しているのが奈良の長谷寺であり、長谷寺は真言宗豊山派の総本山。関東に転勤する事となった3年前は、長谷寺で願掛けをした。そして千葉寺(真言宗豊山派)で物件選びの願掛けを行い...現在の船橋の物件にたどり着いた。近所にはこれまた真言宗豊山派の寺院があり、時折訪問させて頂いている。切っても切れないご宗派なのだ...。
本堂内のこの写真の右手に納経所があり、御朱印を頂ける。受付は10時からだ。
本堂では既に朝勤行が行われており、熱心な信者さんがお坊さんの声に合わせて諷経しておられた。こればかりは妨げられない。異物混入となっては申し訳ないので、勤行が終わるのを暫し待つ...。同じ密教系でありながら、真言宗と天台宗では相当に違うのだ。メインとなる経典も違えば、お経の読み方も、真言の発音もまるで違う。【般若心経】などは冒頭のワンフレーズで直ぐにどちらか分かってしまう。それほど違う。アウェイ感は否めない。
護国寺の本尊、如意輪観音菩薩だ。毎月18日がご開帳の日。今日は16日なので、心にこの如意輪さんを焼き付けて静かにイメージを膨らませる。
ご信徒さんがお勤めを終えられ、堂内が静かになるのを確認して、自分の勤行を開始させて頂く。周囲に気を配りながら、法華経から【自我偈】と【観世音菩薩普門品(フル)】を...次いで【延命十句観音経】を3回...【般若心経】、【菩薩戒経偈】、【舎利禮文】、【本覚讃】と続く...。ご真言は天台式の発音しか分からないので、失礼を詫びながら【御本尊真言】、【光明真言】、【随求陀羅尼】を天台流でお唱えさせて頂いた。締めは当然、弘法大師御宝号だ。
合計20分...。良いお参りが出来た。
御朱印。格調高い美しい筆跡だ。他宗派とは言え、熱心に唱えれば...やはり気持ちを込めて書いて頂ける。実にありがたい。読経の発音、数珠の形状、半袈裟に描かれた延暦寺の寺紋、そして差し出した御朱印帳は【比叡山 延暦寺】(笑)...まあ、もろバレだ。
(ガチな天台のヤツが来たか...。)
...ってなもんだろう(笑)。坊さんに一礼し、本堂内をくまなく見させて頂いた。よく空襲の難を免れたものだ。やはり、これも観音様のお力によるものだろう。
しかし真言宗の信徒さん達は大したもんだ。唱えるお経が違うので、全ては分からないが、お堂の前で熱心に唱えられていたおじさんは凄かった。スラスラでしたね。弘法大師の教えを実践する決意文(?)の様な物も含め、道内のお坊さんと一言一句違わずお唱えされておられた。
天台宗の寺院では、正直...自分以上に経典を暗唱出来る檀信徒を見た事が無い。なので、目から鱗。
(真言宗の信徒も...中々やる!)
同宗派の奥の深さを堪能させて頂いた気分だ。勉強になった。
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納得の参拝。さあ、仏教マニアとしてのレビューはここまで(笑)。頭を切り替えて、幕末オタにモード・チェンジだ。
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護国寺は元来幕府の祈願寺であったので、檀家を持たなかった。そのため明治維新後は後ろ盾を失い、経済的に苦境に追い詰められた。
これを救済するため、境内地5万坪の内、東側の2万5千坪に宮家の墓所が作られる事となる。これは明治六年(1873年)明治天皇の第一皇子が薨去(死産)した事を機に、境内の東半分を皇族墓地にした事に始まる。西側の5千坪は同様に陸軍用墓地となり、このため境内は2万坪ほどに縮小したと言われている。境内に三条実美や山県有朋、大隈重信ら明治新政府の重鎮の墓所が作られたのは、その流れに起因している。明治初年の段階から、当時の政府高官に働きかけ事が功を奏したのだろう。
本堂の右手奥に、大きな鳥居を持つ仰々しいお墓が見える...。
山県有朋の墓所である。僕も自作の小説の中で何度も彼を登場させている。【ベテルギウス】では四カ国連合艦隊と放火を交えさせたし、藩内クーデター戦でも俗論党打倒のシーンで大活躍させた。小倉口戦争、長岡戦争...ほんと...ありとあらゆる場面で彼は登場して来る...。
あまり好きなタイプの人物では無いのだが、これもご縁である。心から拙作の不出来を詫び、コロナ禍にあえぐ日本の窮状をお救い頂ける様...お祈りさせて頂いた。般若心経を一巻お唱えした。
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お隣には、これまた巨大な鳥居を持つ大隈重信の墓所...。
大隈重信に関しては、僕は自分の作品に登場させた事は無いのだが、【青天を衝け】のレビューにおいてその功績を何度も紹介させて頂いた。
渋沢栄一と共に、長寿を全うされた偉人であーーーる(笑)。
公を偲び、これまた般若心経を一巻。
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その隣に、意外な人物が眠っていた。陸援隊における中岡慎太郎の副官...田中光顕である。
武市率いる土佐勤皇党にも名を連ねた古参隊士で、坂本龍馬よりも七つ、中岡慎太郎よりも五つ歳下の土佐っぽ。元治元年に土佐藩を脱藩、長州に渡り、高杉晋作の世話になった。大坂城を占拠するテロ計画を画策したが露見し、新選組のお尋ね者になったと言う筋金入りの勤王派だ。明治後は陸軍省会計局長、陸軍少将、元老院議官、初代内閣書記官長、警視総監、学習院院長などの要職を歴任。子爵を授けられ、華族に列する事となった。明治三十一年には宮内大臣となり、以後十一年に亘り天皇親政派の宮廷政治家として権勢を振るった。明治四十年には伯爵。だが二年後の明治四十二年、収賄疑惑の非難を浴びて辞職。政界を引退した。引退後は、高杉晋作の漢詩集『東行遺稿』を出版するなど文化的な事業にも乗出していたが、その影響力は強く残った。極右勢力、及び闇社会との繋がりも今日では指摘されており、明治~昭和の世にあって大物フィクサーとしてミステリアスな晩年を送った。昭和十一年(1936年)の二・二六事件の際には、事件を起こした青年将校らの助命願いに奔走。昭和十四年、静岡県蒲原町の別荘にて九十七歳の長寿を全うした。
彼も何度か僕の作品に登場させている。これもご縁だ。般若心経一巻を唱えさせて頂いた。
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この人も...度々登場させて頂いた。ご存知、三条実美公である。
流石に...強烈なインパクトであった...。何とも静謐な墓所で、上記三人とはやや離れて眠っておられる。
我が作品の中では、一番思い入れのある高杉晋作による功山寺決起のシーンでご登場頂いた。(このシーンを描いた2話は、是非ともお読み頂きたい。最下部にリンクを貼らして頂く。)幕末史の中で、僕が最も愛するシーンであり、他の作品にも通ずる幕末Rockの原点たる名場面...。それを彩った三条公に感謝の祈りを捧げ...やはり般若心経一巻をお唱えした。
素晴らしいひと時であった。
我が心は、届いたであろうか?
令和日本の行く末をお守り頂ける様、心から祈願させて頂いた。
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そして...
最後に訪れたのは、山田顕義の墓所である。
松下村塾出身の長州藩士で、戊辰戦争における長州最強の野戦軍司令官と言って良いだろう。
大軍略家である大村益次郎はちょっと別格として...
官軍側の最強司令官を三人挙げろと言われれば、僕は薩摩の伊地知正治、土佐の板垣退助、そして長州の山田顕義の名を迷う事なく挙げるだろう。年齢こそ若いが、この男は軍事の天才である。幕長戦(第二次長州征伐)においては芸州口を担当し、大幕府軍を打ち破り、鳥羽伏見では官軍の副参謀。戊辰戦争では艦隊を編成し新潟上陸作戦を敢行。河井継之助の野望に止めを刺した。そして箱館戦争では参謀として渡海作戦全般を指揮し、榎本武揚、大鳥圭介、土方歳三を打ち砕いた。欧州の要人から【アジアの小ナポレオン】と称された天才である。
また、日本大学の父である事も忘れてはならない。昨今、不祥事まみれで評判を落としている日大だが...卒業生の諸君には是非とも知っておいて頂きたい。君達の母校を作りし山田顕義は、最も勇敢で、強く、そして情に熱い偉大なる軍人であった。是非とも、地に落ちた信頼を君達の手で復活させて欲しい。僕は日大とは縁もゆかりもない人間だが、この山田が泉下で歯噛みして悔しがっている。その想いに、応えてやってくれ。切なる願いである。
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そんなこんな(笑)。
休日に、我が趣味を満喫。【仏教オタ】と【幕末オタ】の両方にまたがる...極上の一日であった。
うむ。こりゃ納得の週末だった。如意輪観音様と、明治維新の偉人達からパワーを貰えた(笑)。
あとはコロナやね(笑)。とっとと奴等を一掃出来んもんか...。もう、疲れたわ...。
See you!
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俗論党を打倒すべく、武備恭順派の諸隊を説得する高杉であったが、誰も彼の言葉に耳を貸す者はいなかった。『高杉さん、そりゃ無理じゃ。』、『今は時期尚早でしょう。』そう言っては鼻で笑われる。追い詰められた高杉はやけ酒を煽り、荒れ狂う。そんな彼の前に現れたのは、死んだはずの男達であった...。自分を取り巻く、全世界に対し宣戦布告を行った男がどう誕生したのか...。
現生日本人のマスターピース(第一感染者)が誕生した瞬間を描いた拙作【ベテルギウス】の高杉覚醒のシーンはこちらから♪
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たった一人の戦争。だが、高杉決起の動きを嗅ぎつけ、伊藤俊輔(博文)が姿を現わす。功山寺に乗り込んだ高杉は三条実美を前に前代未聞の宣戦布告をやってのける。功山寺決起を描いたシーンはこちらから♪
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