【青天を衝け】をより楽しむ為に(4)...江戸時代の数学はどの様なものだったのか | MarlboroTigerの【Reload the 明治維新】

【青天を衝け】をより楽しむ為に(4)...江戸時代の数学はどの様なものだったのか

 

先週の【青天を衝け】第32話において、銀行設立のシーンが描かれていた。その中で、特に印象的だったのが【筆算VS算盤(ソロバン)】の計算競争の場面。

 

 

(はて?...計算や暗算では、日本人でも西洋人に負け無かったっちゅう事は分かった...。せやけど、数学に関しては...どんなもんやったんやろ?)

 

計算で西洋人を打ち負かした日本人の姿に喝采を上げながらも...ぼんやりそんな事を思った。

 

(そもそも、日本に数学なんてあったんか??)

 

素朴な疑問が湧いた。

 

こりゃ、調べるしか無い(笑)。工業や建築、測量、科学を進歩させる為には数学は必須だった筈。基礎となる数学はどの程度のレベルを有していたのか...幕末期に至る数学の歴史を調べてみる事にした。

 

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今日は江戸時代の我が国の数学事情についてご紹介したい。

 

キーワードとなって来るのは【和算】と言う言葉と、ご存知【算盤(ソロバン)】だ。日本には独自の数学として先ずは【和算】と言う算術があった。

 

和算は江戸時代初頭に誕生し、明治になった直後に西洋数学に置き換って姿を消した。つまり和算が存在していたのは、イコール江戸時代の年表とガッチリと符号する。江戸時代にのみ存在した、日本独自の高度な数学...。これは一体どんな物なのだったのだろう?

 

 

先ずは、計算時にそれを補助する計算機から見てみる事にしよう。

 

算盤が普及するまでは、上の写真の様な【算木(さんぎ)】と言う物を使って計算していた様だ。EXCELの表の様な格子状の表の中に、これを置いて計算結果を表記する。何ともレトロな計算機だ(笑)。日常的な四則演算は、そろばんが伝来する以前はこの様な木片によって運算していたことになる。めちゃめちゃ面倒くさそうだ。この算木と言うアイテムは、今日でも占いや易学で使用されている。江戸の初期には、こいつしか頼れる物が無かったと言う事だ。

 

 

そこに革命的な利器が中国よりもたらされた。算盤の登場だ。ソロバンは日本で発明されたものでは無い。中国大陸のどこかで、14世紀前後に発明されたようだ。それが途轍もなく便利で、瞬く間に中国大陸で普及した。日中間で活躍する貿易商人たちがこれを使用して商談を成立させていた。1590年代には既に計算機として認知されており、国内でも流通していた事はほぼ確実である。堺の商人達も、使い始めていた。

 

やはり算木の様に巨大な表を用意する必要が無く、コンパクト。更には指で弾くだけで正確な計算結果が算出出来るので大受けした。商いの現場では、とにかく重宝された。それはやがて野外での測量、工事現場と言ったシーンで使われ始め、江戸時代初期の築城の際には、ソロバンを弾いて各種計算を実施していた。これは当時の絵図の中にも描かれている。海外貿易関係者、土木工事業者...この二者がソロバン利用者のルーツとなった事を覚えておいて欲しい。

 

1650年代に記された大阪人の日記の中で、『自分らの世代はソロバンを使っているが、老人たちは算木で計算する。全く理解できない。』という趣旨のボヤキが記されている(河内屋可正旧記)。その事から、およそ一世代程の期間でソロバンの知識が急速に広がったのだと想像出来る。

 

『ほんま、年寄りはスマホも使えんし...勘弁して欲しいわ。未だに電卓で計算って...昭和か!?』

 

...どっかで聞いた様なセリフだ(笑)。文明の利器の発達と、それを使う側の世代ギャップ。いつの時代も繰り返されるツールを巡る新旧対決(笑)。

 

さて、利器が発達すると、当然マニュアルが必要となる。どうすればそれを動かす事が出来るのか...。MS-DOS、GUI、WINDOWS、E-mail、インターネット、ブラウザ、クラウド、SNS...コンピュータの発達に伴い、我々だって必死でマニュアルを読み込み、それを克服して来た...。

 

 

ソロバンの登場も同様である。吉田光由と言う人物が【塵劫記(じんこうき)】と言うマニュアル本を1627年に出版した。するとこれが大ヒット。四則演算の他に、田畑の面積計算、測量術の方法といった実用現場役に立つハウトゥーまで記載されており、継子立てやねずみ算といった【数学遊び】的な問題まで収録されていた。吉田の死後も同様の類似本が数多く刊行され、江戸時代の日本人に初等的な算術知識の基礎を植え付けた。

 

この江戸時代初期と言う時代は、江戸、大阪と言う巨大都市が誕生し、大規模な都市開発、寺院復興が行われた時代だと言う事が重要だ。戦国時代と言う破壊の季節が終わり、日本は生産の時代へとシフトした。軍事よりも民政の知識を持った役人が重宝され、そこに数学は必須であったと言う事。

 

 

僕がリスペクトする江戸時代初期を代表するスーパーゼネコン...中井大和守なども、現場でソロバン片手にあらゆる指示を出していたと想像する。

 

『御本尊の大きさから考えると、貴公が示された図面では本堂その物が小さ過ぎる。高さも幅も...その倍の容量が必要だ。』

 

『しかし大和守様...それでは...部材が、調達出来ませぬ!』

 

『後、どのくらい必要なのだ?』

 

そこでソロバンを弾く(笑)。カチカチカチ!

 

『これ程かと...。』

 

『参ったな...。あと十間大きくするだけで、これ程とは...。おい、木材屋...追加で椹の木材を工面出来んか?追加発注なので、少し額面も抑えて貰わねばならぬが...。』

 

で、また弾く(笑)。測量計算だけでは無く、商用計算にもソロバンは大活躍だ。

 

『それは大和守様、せっしょうですがな...。』

 

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この様な人々をサポートすべく、数学書は必要に応じて刊行された。磐城平藩や会津藩、仙台藩など、東北地方の藩に優れた数学者が現れたのは、やはり大規模な都市開発が行われた事と無縁では無いだろう。

 

そして無視することが出来ないのが...

 

数学マニア達の存在だ(笑)。この種の人物は...現代にだっている。思い出して頂きたい。あなたの周囲にも、クラスに一人か二人は化物の様な数学的頭脳を持った子が居た筈だ。

 

(こいつ...どんな問題でも解きよる...。)

 

絶句する様な神童を見た事が無いだろうか?漫画本の代わりに、何やら複雑なパズル本や...学校では教わらない数式や物理学の専門書を読んでいた風変わりな子...。僕はご承知の通り完全な【文系脳】の人間なので、何とも表現出来ないのだが...時代は違えど、一定数の割合で...そう言う才能を持った子供が生まれて来る。江戸時代も同様であった筈だ。彼等は数学的思考法でもって、この世の理(ことわり)を見つめている。

 

 

【塵劫記】に続き、新しいタイプのハウトゥー本がウジャウジャと登場する。【童介抄】、【算法闕疑抄】、【古今算法記】...何やら仏教の経典の様な名前だが、早い話が問題集だ(笑)。

 

『解けるもんなら、解いてみい!』

 

作者の上から目線の挑戦状に、一般の数学オタクが牙を剥いて挑戦する(笑)。何とも微笑ましいオタク文化が江戸時代の初期に花開いた。【塵劫記】に記されていたソロバンによる四則演算だけでなく、遥かに高度且つ難解な問題が次から次へと突き付けられた(笑)。マニア達は...どうしてもそれを無視出来ない。出題者の挑戦を受け、現代なら代数方程式を使わなければ解けない難問を、次々とクリアして行った(笑)。

 

 

【塵劫記】が小学生程度の算数ならば、それ以後に現れた問題集は...高校・大学初年級レベルの数学だったと言われている。当然、西欧的な数学が必要となるのだが、当時の日本にはそれに相当する概念が無い。ここにそれを穴埋めする様に導入されて来たのが...【算学啓蒙】という13世紀末に中国で刊行された数学書であった。そこで紹介されていた数学の技法【天元術】が注目を集めた。現代数学で言えば、算木を用いた2次方程式、3次方程式を組み立てるテクニック集と言う事になる。これさえ活用できれば、当時の難問にはある程度対応出来た。

 

ここから沢口一之らの和算家は1671年に【古今算法記】を著し、そのテクニックを広めて行く事となった。福岡藩の貝原益軒の弟子、竹田定直も【算学啓蒙】を徹底的に研究。天元術を日本風にアレンジする事に成功する。

 

数学を必要とする業務は、商取引、建築、土木建築、暦、地図の作成と多岐に渡った。それぞれジャンルは違うのだけれど、使用現場で独自に進化して行った。特に地図を作成する測量技術は、鎖国していた日本にあって、初となる西洋からの直輸入技術。これはオランダから習得された数学的技法によって成り立っていた。

 

1700年代に入ると、江戸文化は成熟期を迎える。大江戸バブルの再絶頂期が到来した。そこに登場したのが、著名な和算家・関孝和である。

 

 

生涯の大半を甲府藩で勘定方として過ごし、晩年に主が6代将軍家宣になった為、幕臣となった。大河ドラマ【青天を衝け】で言えば、杉浦譲の先輩みたいなもんだ。ただ幕臣となった直後に隠居してしまっている。歳を食ってからの登用だったので、これは仕方がない。関自身の詳細な履歴は良く分かっていない。残されたのは、その算術についての著作物のみ。なんともミステリアスな人物だが、数学者としては広く知られた人物であった。この時代の権威と言って良い。文学の世界では近松門左衛門や松尾芭蕉が登場。赤穂浪士による吉良邸討ち入りも、この時代の出来事であった。

 

 

数学者のニュートンやライプニッツが世界では活躍していた。数学と物理学が急速に発達した時期でもある。まだ日本には微分法、積分法は導入されておらず、そんな中...関はこれに最も近づいた最初の日本人だったのだと言う。(すんません...ここら辺の事は、文系の私にはさっぱり解りません...笑)

 

この関がリリースしたのが【発微算法】という著作で、【古今算法記】が残した遺題15問に解答を与えたもの。死後に弟子達が刊行した【括要算法】や弟子による手書きの写本【解伏題之法】が残っており、これにより当時日本で考えられていた数学的問題のほとんど全てに解法が示された。

 

有名な門人には荒木村英と、後に徳川吉宗のブレインとなる建部賢弘が居た。建部は、【発微算法】の解説書【発微算法演段諺解】を刊行し、彼ら一門の数学知識の集大成を盛り込んだ【大成算経】を編纂。その研究成果を後世に残した。また自らも独自の数学技法をまとめた【綴術算経】を著作。京都の書店から関の和算書も何点か発刊に漕ぎ着けている。

 

 

関が残した業績としては、独自の記号法を開発し、それを用いて自由自在に数式を表現。天元術の活用を飛躍的に向上させた。これにより和算の数式はその表現力を向上させた。複数の未知数を1つの式に表現することができ、これによて数式の処理が容易となる。連立方程式の未知数消去を思い浮かべれば良い。関の発明によってその様々な応用が各分野に普及、正多角形の面積を計算する実例なども示された。こう言った新しいタイプの数学者の出現により、後世の和算家は多大な恩恵を受ける事となる。表現がシンプルになり、新しい公式の開発へと繋がって行く。関が【算聖】と呼ばれた所以である。

 

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そしていよいよ江戸時代も後期を迎える。

 

この時代になると、学問や芸術の領域では【家元制】が確立されて来る。茶道、華道、俳句、和歌、絵画、剣術、柔術、そして和算。その愛好者達をコントロールする家元が誕生して来るのだ。属する階級の壁を超え、従来の身分制度とは別の...愛好者団体における浮世とは隔絶したピラミッド型の上下関係が生み出される。

 

 

茶道に表千家や裏千家、剣術に北辰一刀流や天然理心流がある様に、和算にも門流が形成された。

 

和算の場合は、関流がその頂点。多くの門弟が集まり、さらにその流れの中から全国的に門人を集める塾が勃興。枝分かれして行く。算術においてその素質を認められた者は、武士となって江戸の大規模な塾に入門する者もいた。禅問答では無いが、一定のレベルに達すると互いに問題を作ってはこれを解き合い、そのスキルを磨いた。地方では和算の流派ごとに多くの人々が集い、クロスワードパズルの様に難問を解いて楽しんだのだと言う。そこで目指されていたのは...家元からの【免許皆伝】(笑)。昔から資格に弱い、日本人であった...。

 

門流の成果は、神社への扁額の奉納と言う形で表された。剣術道場などでも同じ様な事を行なっている。和算の流派が奉納する場合は、【算額】と言う。

 

 

算額は、額や絵馬に和算の問題や解法を記して、神社や仏閣に奉納される。問題が解けたことを神仏に感謝し、ますます勉学に励むことを祈念して奉納されたと言われている。そこから転じて、問題の発表のツールとして使われる様になり、問題だけを書いて解答を付けずに奉納する者が現れた。それを見たチャレンジャーは、解答や想定される問題を再び算額にして奉納し、数学による力比べが行われた。この様な算額は全国で1,000近くも確認されており、中には重要文化財クラスの物もある。

 

想像してみると面白い...。

 

『おい、左之助...○○神社に掛かった算額、見たか?』

 

『ああ...ありゃ、お前...三月のお題とは訳が違うぜ...。恐らく最上派の連中の嫌がらせだろう。こっちの門弟も、総がかりで解きに掛かってる。』

 

『俺の所もだ。しかし...かなり手強いな...。』

 

『ところでよう...前回の解答...実は、女が解いたんじゃねえかって、もっぱらの噂よ。』

 

『女?冗談だろ?』

 

『いや、扁額の字は...ありゃ、間違いなく女だ。聞くところによると、吉原の△□大夫じゃねえかって噂さ。』

 

『△□大夫?そりゃ...あるかも知れん...。俺も聞いた事がある。なんでも、相当にやるらしいぜ...。』

 

『やっぱり、そうかえ?』

 

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世相の移り変わりや時事問題など何処へやら(笑)。恐らくは、オタクと言う奴は今も昔も同じ様な連中だったと思う。上野や両国辺りのチープな水茶屋には、同好者達が足繁く通う一室があったかも知れない。持ち込んだ寿司や出前の蕎麦を頬張り、食事そっちのけで数学トーク(笑)。

 

変な小包を持った侍やら、商人やら、行商人、坊主、大工...職業は違えど、三々五々集まって来る。そして身分や職業によって普段は付き合う筈も無い者達が一つの目的の為に勉強会を始める...。今日的に言えば、緊急オフ会だ。恐らくは門流内での呼び名や、ニックネームなどで呼び合っていたのでは無いか。

 

 

『ところで、それがし...実は先月、主命で京へ出張致したのだが...その折、水玉堂書店で関流の希少本を二、三購入して来た。秀斎殿にお預けするゆえ、写本にして皆に配ってやって頂きたい。』

 

『ほんとですかい、両国の旦那!?そいつぁ、ありがてえ...涙が出らいっ!』

 

『これが、それだ。ここを見て欲しい。この数式...使えると思わぬか?』

 

『こっ...これは...。』

 

...ってなやり取りが為されていたのでは無いか...。あくまで僕の妄想だが。

 

芸事に熱心な人物の事を、この時代【数寄者(すきしゃ)】とか【数奇者(すきもの)】と呼んだが、彼らもまた、同じ様な人種と捉えられていただろう。元々は本業とは別に、茶の湯に熱を入れ...名物級の茶道具を数多所有するコレクターを意味する言葉であった。現代では【物好き】と言う言葉に、その名残が残されている。当然、家業や実業とは無縁のジャンルに熱中している訳で、家族や仕事仲間からは道楽として受け止められていた。

 

マニアは、いつの時代でも肩身が狭い(笑)。家では恐らく、親や兄弟、嫁などから相当に突っ込まれていた筈だ。

 

『お前も武士だろう。四書五経こそが、我等の学ぶべき学問である。暇な時間は、剣術稽古で汗くらい流したらどうだ。免状も持っておらんようでは、世間様に格好もつかぬ。そんな役にも立たぬ道楽など、やめてしまえ!』

 

『坊主が和算などと...。最近、お前の禅はなっておらん!どうせ、頭の中で数式を思い浮かべておるのだろう?お前が思い浮かべねばならんのは、数では無い...御仏の姿じゃ!』

 

『ソロバンはな...わし等商人の魂や!それをお前は、しょうも無い数字のお遊びに使いよる...。んな、銭にもならんもん、とっととやめてまえ!』

 

『来年の年貢米もどうかって時に...何が和算だいっ!そんな事やる暇があったら、ちったあ草鞋作りを手伝っておくれよっ!来年には、もう一人子供が出来るんだよっ!』

 

...恐らく、家庭や職場では...嫌味の一つも言われたであろう。

 

 

相当な練達者になれば、渋沢栄一の様に藩士として召し抱えられる事もあっただろう。

 

『君のその才能を埋もれさせておくのは勿体無い。どうだ、我が藩で...その才能を生かしてみないか?その頭脳を、人民の為に役立て欲しい。』

 

などと言われ、ヘッドハンティングされる。それに応え、公僕の道を歩む者も居たであろうが...禄を貰う代わりに、自由な研究は出来なくなる。建築現場や、勘定方、測量現場での公務の道で使い潰される。それを良しとしない人々は、丁重に断りを入れ...市政の趣味人として生き続けたのでは無いか...。

 

親兄弟や職場の同僚に馬鹿にされようが、マニアはそれにへこたれない(笑)。『勉強しろ!』と言われれば、やる気を無くすが...逆に『やるな!』と言われれば、やりたくなるのがマニア(笑)。周囲に歯向かう背徳感も伴って、彼等はよりディープな世界にはまり込んだ様に想像する。今日で言えば、引き篭もりのゲーマーに似た...何とも言えないオタク根性が備わっていたのでは無いだろうか。

 

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いずれにせよ、愛好者の数自体は少ない。書店に行ってもグルメ本や、芸能雑誌、戯作本、観光ガイド等は大量に売られているが、数学の専門書など殆ど売られていなかった筈だ。前述の京の書店、天王寺屋市郎兵衛の水玉堂は関流の和算書を数多く出版し、その普及を手助けしていたし、幕末には江戸の北林堂が同じく関流の和算書を多数刊行した。書籍の普及によって、愛好者は相当に助けられていた筈だ。

 

 

私塾ばかりではなく、幕末ともなると有力な藩の藩校でも算術を教授し始める。仙台藩はその筆頭であろう。仙台藩藩校養賢堂には算術師範が複数名設置され、40名程の選抜された藩士達に算術が指導されていた。流石は風流人、政宗公のお作りになられた国だ。数学にも手を抜かない(笑)。だが、そこは藩校教育。遊びの為では無く、実践・実学に重点を置いた数学が叩き込まれていた。

 

流派の乱立も激化する。18世紀末から続いた関流と最上流の論争がそれを助長したと言われている。最上流の流祖・会田安明が関流への入門を拒絶された事から一流を立ち上げ、関流に論争を吹っ掛けたのだ。両派の和算家達は、互いに数学書を刊行しては非難の応酬を繰り返した。感情剥き出しに敵を攻撃する姿勢は、昨今のネットバトルとそう大差が無い。趣味集団たる外野の和算家もこれに加わり、大論争(笑)。

 

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こうして、藩役人の様な公共事業スタッフ、土建屋、測量屋、大工など【実学】分野の数学と、前述の数寄者達が心をときめかせた【趣味】分野の数学が二極化しながらも時に融合...和式数学は日本全国へと広がって行った。

 

そして幕末を迎える...。

 

 

幕末の西洋学と言えば...

 

そう、蘭学である。和算学とは異なる、西洋の数学はどの様に導入されて来たのだろうか?

 

 

大々的に西洋の数学が導入されたのは、江戸時代のちょうど中頃、八代将軍吉宗の時代であったと言う。

 

西洋文物に対する大幅な緩和措置により、大量に西洋の書物が輸入された。その代表格は、西洋の数学と暦学を取り込んでまとめられた【暦算全書】。同書の中で紹介されている内容には、当時の日本人が知らなかった三角関数(サイン、コサイン、タンジェント)の数表が含まれていた。以後、日本人の数学者たちはこの方面の研究に没頭。数表の精密化に注力し続けた。

 

吉宗は幕府天文方も増強。望遠鏡などを用いた天体観測も推進し、スタッフにはオランダ人から天文暦学に関する知識を学ばせている。吉宗の死後、宝暦暦が完成。一定の成果は見せていたのだが、結果としてこの暦は不完全な物に終わってしまった。しかし、この宝暦暦を改訂していく過程で、幕府天文方は吉宗の敷いた路線である西洋天文学の導入を継承し続ける。天文学周辺にある西洋数学の知識習得も、同時に引き継がれて行った。

 

ヨーロッパの幾何学の知識も、18世紀以降、順次日本に導入された。中国語訳された幾何学の数学書が出回り、当時の和算家に衝撃をもって受け入れられた。幕末に至って、この西洋数学導入の動きは益々加速して行く。天文暦学ばかりではなく、様々な分野に応用される事が分かっていたからだ。特に砲術、築城術、造船術等...軍事技術の核をなす数学が重要視される様になった。

 

 

列強の侵略から長大なコーストラインを守備するには、砲台建築が急務であったし、海上の軍艦を砲撃するには複雑な弾道計算も必要となる。逆に蒸気軍艦を購入すれば、陸上の固定砲撃目標を粉砕するには艦砲射撃の精度を上げなければならない。ここにもまた、複雑な数学の知識が必須となる。内陸の要塞は各種山砲の能力を無効化する建築を心掛けねばならないし、山砲も性能が上がれば各種砲弾を発射する上で数学の力は絶対に必要だ。

 

グレネード弾から榴散弾に砲弾をチェンジすれば、敵の頭上で砲弾を炸裂させ内部の球形弾を空中からばら撒かねばならない。戦場では測量と弾道計算を瞬時に行い、適正な信管を取り付けてこれを爆発させる。職人芸の様な数学的思考が求められた。

 

 

大村益次郎などは、その大家と言って良いだろう。適塾の塾頭であったこの男は、医術の道を志し蘭学の徒となった。そして気付けば軍事学の権威になっていた口だ。同様に多くの若者達が幕末期に蘭学を学び、兵書を翻訳して行く内に軍事学者に進路変更を余儀なくされた。

 

彼等は洋書を翻訳する為の語学も、そして和算学も習得していたが、物理学、工学、建築学をダイレクトに吸収する為には本家たる西洋数学を学び直す必要があった。語学習得と同時並行でこれを吸収し、新しい数学の形を吸収して行ったのである。我が国の数学に足りない部分は何か...それを時代の流れの中で、明確に浮き彫りにしてみせた。

 

四則演算の暗算では、西洋人をソロバンの技で凌駕する事は出来たであろう。そもそもソロバンは脳内でイメージデータを展開し、想像上の玉を動かして計算結果を得る。だが、高等数学ではその利点は活かせない。新しい数学の必要性を痛感していた筈だ。

 

僕は大村益次郎を描く際、理数系の化け物の様な人物を想像して描く。驚異的な計算能力を持ち、眼前で展開される映像を数値化する能力に特化した人物...典型的な理系脳の持ち主として描く。幾何学的な世界が広がる彼の脳内のブラックBOXに、補給線の現状、物資の数量、兵士の疲労度、民衆の動向、彼我の兵力差、その兵装、天候、社会情勢など様々な因子を流し込むと...複雑な方程式を解法する様に、明確な答えが弾き出される。そしてそれを作戦指示書に落とし込んで、兵士に配布する...。そんな感じだ。お暇なら、僕がかつて描いた長州物語【ベテルギウス】に彼の石州口での戦闘シーンがある。最下部にリンクを貼っておくので、是非ご一読頂きたい。

 

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こうしてヨーロッパの最先端の数学は定期的に取り入れられて来たのだが、それは体系として取り込まれたわけでなかった。国内インフラを支える為に技術上必要不可欠であった数学、そして数学そのものを目的としたオタク的学問としての数学...。この二つの流れでもって導入され、互いに影響し合って進化したのが、江戸時代の数学と言えるだろう。

 

 

江戸時代が終わりを告げ、明治になると...日本は西欧にならった近代的数学を教育現場において推進する。科学技術教育は特に強化すべき筆頭と目されていたからだ。当時の文部省は明治五年(1872年)に初等教育に関する指針を策定。その学制を発布した。翌年から小学校教育の開始が迫っていたからだ。その中で算数教育は、従来の和算によるものではなく、西欧の算数...すなわち洋算による方針が打ち出された。例外的に計算道具としてのソロバンだけは、他に替えるものがないということで、存続することとなった。【青天を衝け】の筆算VSソロバンの対決のシーンそのままである。残すべき利器は残し、その上で和算の歴史に決別する事を選択したのである。以後、公教育の現場から和算は姿を消した。

 

これが江戸時代以降...我が国が辿って来た数学の歴史である。

 

だが、忘れてはならない...明治維新によって数学が庶民に浸透して行く前提には、和算と言うこの国独自の豊かな算数の土壌があったのだと言う事を。

 

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如何であろう...。僕も書きながら感心しきりであった。

 

 

日常生活の中で、貴方(貴女)の周りにも...ちょっと風変わりな理系脳の人が居るかも知れない。彼等は数学的思考が強すぎて、時には人とのコミュニケーションが苦手だったりする。興味のある事物については、空気を読む事なく一心不乱に語るのだが、一方で時候の挨拶や、会話に間を持たせたり、ユニークな冗談を飛ばす事が出来ない。苦手なのだ(笑)。でも、暖かく見守ってやって欲しい。ちょっとヘンコな技術屋、SE、開発スタッフ...取っ付きにくい理系男子、リケジョ達は...我々とは違う世界を見ているのだ...。彼等もまた、大村益次郎同様...江戸時代の、ちょっとオタクで風変わりな英雄達の子孫なのだ...。

 

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今日は、ちょっと数学と言う側面から幕末世界にアプローチしてみた。

 

何とも新鮮で、清々しい気分だ(笑)。是非とも若い日本のエンジニア諸君には、頑張って貰いたい。

 

そして、同時にこうも思った。

 

中学、高校時代...僕は数学が大嫌いだったが、もしこんな話を先生がしてくれていたら...数学に興味を持ったかも知れない。今回は日本の数学史だけを述べたが、西洋においてその数式が生み出された過程、その苦労と努力の歴史...そんな物を同時に教えて貰ったら、案外背筋を伸ばして傾聴したのでは無いかと思う。

 

教鞭を執るだけのトーク力があれば、この程度の話は20分〜30分もあれば十分に語れるだろう。数学の教諭諸氏におかれては、是非ご一考頂きたい。

 

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数学、愛すべし(笑)!!!

 

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大村益次郎が幕長戦において浜田藩領を侵略した石州口の戦いのシーンはこちらから。ポチッとな♪

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