NHK大河ドラマ【青天を衝け】第三十回を見て
今回の【青天を衝け】は明治初頭の大激震...【廃藩置県】と、その裏で進行していた新政府内部での動きが描かれていた。ここからが明治維新史のハイライト・シーン。よって、以降数話は各俳優陣の演技力が試される重要な回となるであろう。立場、立場での思惑の違い、各派を取り巻く人間模様が複雑に流動化して来るので、実に見ものである。
そして、最愛の父...渋沢市郎右衛門の死。
この死を乗り越え、栄一はどうやって明治初頭の荒波を乗り越えて行くのか...非常にキーとなって来る回なので、興味深く拝見させて頂いた。
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この時点から六年後に勃発する西南戦争は、明治維新における最終決戦であり、その戦争規模も桁外れに大きい。戦死者総数では戊辰戦争の8,200人を大きく上回る12,200人。消費された弾薬の量は日清戦争のそれに匹敵する。九州全土を恐怖のどん底に叩き落とし、凄まじい内戦へと発展して行くのだ。家族が分断され、親兄弟が敵同士となって戦う...我が国最後にして最大の内戦が何故発生したのか、その悲劇をどう描くのか...ここからの大森美香の描き方に注目したい。ペリー来航に始まる【明治維新】と言うサーガの、本当のラストシーンがここから描かれる事となる...。
戦乱の足音が忍び寄る内戦前夜...生まれたばかりの明治新政府は混乱の只中にあった。栄一率いる【改正掛】は新政府内で孤軍奮闘。様々な改革案を軌道に乗せ、新生日本を起動させる新しいインフラを次々に完成させて行った。だが、どうにもフラフラ感が拭えない。ヨチヨチ歩きで、足元が覚束ないのだ。
何故か。国家の原動力たる【金】を巡るシステムが不完全だったからだ。様々な貨幣が同時に流通し、統一通貨をもたなかった新生日本。藩札をはじめとする各種通貨の流通が、フレキシブルな金の動きを阻害している。人・物・金を効率よく動かす為には、旧システムを完全に破壊してしまわなければならない。
行き着く所は...
【廃藩置県】なのである...。
中央集権国家の樹立を目指す新生日本にとって、最大の課題は地方に残る大名領...【藩】の存在であった。これをどう解体すべきか、今回の【青天を衝け】のストーリーの核は、まさにここにあったと言えるだろう。
この驚天動地のクーデターは、ステップを踏んで実施された。先ずは本ドラマでは描かれなかったが、今回の時点より二年前...即ち明治二年6月、274大名家から【版籍奉還】が行われていた。これにより土地と人民は明治政府の所轄する所となっていたのだが、各大名は藩知事となって引き続き藩(旧大名領)の統治に当たっていた。もちろん、これは来るべき【廃藩置県】への布石ではあったが、実質は江戸時代と何ら変わってはいない。
版籍奉還の時点で、一気に郡県制を導入すべきだと言う主張もあったが、時期尚早と判断され、この考えは二年の段階では採用されなかった。
旧天領や旗本の支配地等は政府直轄地となり、府や県が置かれ中央から知事が派遣されていたが、【藩】は独立王国の如く存続し続けていたのである。この段階では、新政府直轄の県や府は全国の4分の1にしか過ぎない。新政府が財政困難に陥っていたのも良く分かる。
あなたが新政府のトップなら、どうする?
やはり...【廃藩置県】によって、税の徴収を中央政府に独占させようと考えるのでは無いか?
府・県・藩の三治体制から藩を削除する。近代国家を稼働させるには、それしか道は無かった。
明治三年(1871年)12月、大隈重信が【全国一致之政体】の施行を求める建議を太政官に提出。これが受け入れられる。【海陸警備ノ制】(軍事)、【教令率育ノ道】(教育)、【審理刑罰ノ法】(司法)、【理財会計ノ方】(財政)の4つを確立すべきだとその必要性を訴えた。これを軌道に乗せるには、府藩県三治制は非効率であると断罪したのだ。府・藩・県の機構を同一のものにする【三治一致】も、言及されている。やり玉に上がったのは、当然ながら知藩事と藩士によって治められた【藩】だ。その異質性・自主性が国家にとっての弊害となることは明らかであった。
維新を成就させた側...つまり薩摩藩と長州藩においては膨れ上がった軍事費の問題が深刻化していた。土佐藩も同様である。これを解決する為に、三藩は新政府直属の軍隊【御親兵】を差し出す事になるのだが、これは各藩の軍事費の負担を削減し、中央集権を進める新政府を強化する一石二鳥の施策となった。
軍事面と財政面において、中央集権体制を進める人々の間で廃藩置県の必要性は支持されていたと言う事だ。ただ、新政府の役人達は元々封建社会の中では家臣であった。旧主家への恩顧を引きずっていたのも厳然たる事実だ。大久保や木戸が早急に動けなかったのもそれが理由である。ここら辺は、庶民上がりの栄一などとは事情が違う。
薩摩出身者は上記の様に改革に二の足を踏んだが、長州の出身者達は違った。兵制の統一を求めていた山口藩出身の兵部少輔山縣有朋、その山縣の腹心の部下であった鳥尾小弥太らが中心となり、軍事面から廃藩置県の即時断行が叫ばれ始めた。二人は、先ず大蔵省を率いる同じく長州出身の井上馨を味方に引き込んだ。そして間髪入れずに、井上は木戸を、山縣は西郷を説得。強大な軍事力を背景に、旧世界の支配者たる大名の統治機構を潰しにかかったのである。西郷は納得した。各藩の兵士達の扶助を考えた場合、個々の藩による支配体制には限界を感じていたからだ。
ドラマでは描かれていなかったが、裏ではそんなストーリーが同時進行していた。
当初薩長両藩の間で極秘裏に進められていた【廃藩置県】は、こうして急速に内意が固められ、7月9日、西郷隆盛、大久保利通、西郷従道、大山巌、木戸孝允、井上馨、山縣有朋の7名によって大枠のコンセンサスが固まる。草案は木戸邸で作成され、三条、岩倉、板垣、大隈もこれを承認する...。不測の場合に備えて、親兵が反乱鎮圧に向かう事も決められた。まさに、電光石火のクーデターと言えるだろう。
こうして、明治四年7月14日、明治政府は在東京の知藩事を皇居に集めて廃藩置県を命じたのである。ここからのドタバタは、ドラマで描かれていた通りだ。短期間に草案作成を押し付けられた栄一達改正掛の奮闘ぶり、大名が次々画面に現れ、皆が従うあの映像表現...実に分かり易かった。
西郷と立ち話をする栄一。印象に残ったシーンだ。一大蔵省の役人が、軽々しく大西郷に意見出来るのか、訝しむ方も居られよう。だが、翌年に起こったある事件を考えた場合...この立ち話を入れておくのは中々面白いかも知れない。ドラマで描かれるのかどうか判然としないが、翌明治5年に栄一がやらかしてしまう【西郷説教事件】である(笑)。ネタバレになるかも知れないので詳細は割愛するが、相馬中村藩の仕置に際しアドバイスを求めに来た維新の元勲・大西郷を当時32歳であった大蔵省の若造・渋沢栄一が説教してしまうのだ(笑)。
果たして描かれるのだろうか...。
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さて...今日のウンチクパートは...
いつもと趣向を変えてお届けしよう(笑)。ようやく...と言っては何だが、ご清潔な栄一の人生にも初のスキャンダルが描かれる訳だし、ちょっとばかり...この後の渋沢一族を覗き見てみたい。
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渋沢栄一の作り上げた...【華麗なる一族】、渋沢一族。それはどんな一族だったのだろう。
吉沢亮氏による、真っ直ぐな熱血漢ぶりが話題の本作だが、ここからのストーリー展開には演者たる吉沢亮も思い悩むだろう。
(まっさか...今まで....やり過ぎたんで、ねえべか...。)
軌道修正は容易では無い(笑)。少々、ダークな側面を絡ませねばならないからだ。妻子思いの、ナイスなお父さん...父の鏡...ここまで苦心して作り上げて来た、彼の渋沢栄一像は...その色を若干変えねばならない。令和に生きる現代人のそれとは、やはり明治の男の父親像は違うのである。
この時代、大身となった人物は...子供を作ってナンボなのである。斉昭、慶喜親子の種馬が如き繁殖能力については折にふれご紹介して来たが、渋沢栄一も中々のものだ(笑)。女性陣はがっかりするかも知れないが、偉い人は妾(めかけ)を持つのがこの時代の普通であった。そこは差っ引いて考えてほしい。
今回は、渋沢栄一の妾の一人であった大内くにが登場した。彼女はドラマで描かれていた通り、千代が健在であった頃からの妾で、関係が解消した後も渋沢邸に出入りし続ける事となる。他にも栄一には深川福住町の自宅で同居していたという田中久尾や、本橋浜町の別宅に囲っていたといわれる鈴木かめの二人の愛人がおり、決して色に関してご清潔な御仁では無かった。
まあ...栄一の場合...。見ての通りのビジュアルである。他の幕末の志士達のポートレートに比べ...お世辞にも【色男】とは言えない。そこらのオッチャンである。
だが、逆にそこが彼の魅力であったろう。どう見ても善人のビジュアル(笑)。伊藤の様なゴツゴツした風貌も、刀傷だらけの井上の様なワイルドさは無い。明るく、闊達で、まろやか(笑)。乙女をキュンキュンさせる華麗な話術と気配りで、女性陣にとって安心できる人物だった筈だ。
上司が悪かったとしか思えない(笑)。伊藤・井上は同世代の人間だが、度外れた遊び人だ。朱に交われば、何とやら...。接待だ何だと、色街に繰り出すことも多かっただろうし、栄一もまたボンボン育ちとは言え、元は田舎者だ。ドンチャン騒ぎなどやった事も無かったのだから、芸妓との遊びはそれはそれで楽しかったのだと思う。『男って奴ぁ〜...。』ってヤツですな。
不運にも、渋沢千代は明治十五年(1882年)42歳の若さで死んでしまう。コレラに感染した為であった。栄一との間にはドラマでも描かれていた夭逝した最初の子の他に...長女・歌子、次女・琴子、長男・篤二の3人の子宝に恵まれていた。二人の姉に育てられ、本来なら篤二が立派に渋沢家の跡を継ぐべきだったのだが、理由があってそうはならなかった。
当初は次男の篤二が渋沢家の当主とされていたのだが、幼くして母・千代を失った篤二は思った様な人物には育たなかった。不自由のない暮らし、周囲のプレッシャー、姉達の小言...セレブ然とした暮らしに飽き飽きした彼は、学生時代になると学校に行かず遊女と遊び始める。父に対する反抗の意味もあったのかも知れない。それでも明治三十年(1897年)には何とか実業界に入り、澁澤倉庫部の倉庫部長に就任。倉庫部が改組され澁澤倉庫株式会社になると初代取締役会長となった。
しかし篤二は経営よりも趣味の世界に没頭(笑)。日々...義太夫、小唄、謡曲、写真、乗馬、日本画、ハンティング三昧。これでは経営者としての資質が問われるのも仕方がない。明治四十四年(1911年)には芸者と不倫問題を起こし、新聞誌上にて酷評される。当時の【文春砲】みたいなもんだろうか。ゴシップでもってトドメを刺される事となった。
栄一の逆鱗に触れた篤二は、大正二年(1913年)に廃嫡されてしまう。
いわゆる【渋沢四代】揃い踏みの、貴重な一枚である。向かって左が栄一。廃嫡された篤二は赤ん坊を抱く中央の人物。右に立つ恰幅の良い人物が篤二の子で渋沢家を継いだ渋沢敬三。そして赤ん坊が四代目の渋沢雅英。
三代目渋沢敬三氏は、中々に立派な人物だ。元々動物学者を志していたのだが、篤二を廃嫡した祖父・栄一が第一銀行を引き継がせるべく、土下座してその進路を変更させたのは有名な話し。
東京帝国大学経済学部を卒業後、横浜正金銀行(旧東京銀行・現三菱UFJ銀行)で修行し、大正十五年(1926年)第一銀行取締役に就任。同行副頭取を経て、昭和十九年(1944年)日本銀行第16代総裁に就任した人物だ。第二次大戦直後には大蔵大臣にも就任した。
一方でGHQによる財閥解体の対象者となり、公職を追放された。昭和二十六年(1951年)の追放解除後は、経団連の相談役や国際電信電話(現KDDI)の初代会長、文化放送の初代会長を歴任。昭和三十八年(1963年)病没した。
ちなみに、彼の母は...あの三菱財閥のドン、岩崎弥太郎の次女である。明治時代の閨閥は、複雑に入り組んでいて面白い(笑)。
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千代の逝去後、栄一の後妻となったのが渋沢兼子である。兼子は水戸藩の公金御用達も務めた豪商・伊藤八兵衛の娘として生を受けた。当初は婿を取って家を継いでいたのだが、明治維新後に横浜居留地の外国商人との為替取引が失敗。逼塞し、夫を離縁した。没落してしまったため、芸妓になっていた時に栄一と知り合った。奇しくも当時深川にあった渋沢の邸宅は兼子の実家が没落時に手放したものだったという。運命的な物を感じる。
栄一が再婚するのは千代が死んだ翌年の事だが、これは当時の慣習から考えるに当たり前の事だったろう。まだ若い栄一にとって、愛情のどうこうよりも家を支える後妻の存在は必須。周囲も再婚を強く進めた筈だ。兼子にも多くの縁談が持ち上がったようだが、あくまで正妻にこだわり、妾の申し出はことごとく断っていたらしい。栄一側からは正妻でと言う申し出であったため、これを受けた。
これが栄一が晩年の頃のロイヤルファミリーの姿だ。
結果として、栄一は千代とのあいだに3人、兼子とのあいだに4人の子をもうける事となった。二人の妻との間で生まれた子供は、長女・歌子、次女・琴子、次男・篤二、三男・武之助、四男・正雄、三女・愛子、五男・秀雄の合計7人。ただし妾とのあいだにも数人の子供が生まれているため、実数は良く分からない。
中々の性豪と言えるかも知れない。
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と、言うような一家の姿を何となく覚えておいて頂ければ、これからファミリーに起こるドタバタ劇もスッキリ頭に入って来ると思う(笑)。明治の成り上がりセレブとしての渋沢一家をどう描くか...興味は尽きない。
今日のウンチクパートはここまで(笑)。ドラマに話しを戻そう。
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三野村利左衛門が出張先の大阪に現れた。
何とも抜け目の無いオヤジである。鴻池が逼塞し、住友がグラついている隙を狙って商都に乗り込んで来た。まだ三菱が産声を上げる前...このチャンスに大阪への支配力を強めておこうと言うのは、実に正しい。
鴻池が完全に弱体化し、ライバル住友は銅山を召し上げられてパニクっている。この間隙を縫い、大阪に基盤を築こうとするのはビジネスマンなら当然であろう。で、遊び人上司と共に...セレブパーティーに接待されてしまう栄一(笑)。凝りに凝ったシナリオだ。恐れ入った...。そこに大内くにとのスクープを絡めるのだから、大森美香のセンスには脱帽するしか無い。見事な展開であった。
そして...
盟友五代友厚との再会。
これまた、痺れるシーンであった。
『おはんの居る場所も...そこで良かとか?』
殺し文句だ。安全地帯で、お前は満足か?官など捨ててしまえ。民間に来い。そして勝負しろ!
そう...五代公は仰っているのである(笑)。ベンチャー気質の塊の様な栄一の様な男には、実にグサッと来る。私は薩摩系大阪人で...ご先祖が五代公に大変世話になった。だから五代友厚の論評は避ける様にしている。崇めまくっている立場上、公平なジャッジメントが下せないと判断しているからだ。しかし両雄の初対面は...恐らくこんな風であったと思いたい。
ディーンフジオカ様による...五代様の復活!!!もちろん、ウェルカムだ!!!
彼以外には、考えられん。見ているだけで、高貴だ。美しい(笑)。
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そんなこんな(笑)。
細かい点ではあるが、人の移動に人力車を登場させた点にも唸らされた。馬が貴重なトラクターであったこの時代...日本では馬車が移動のメインにはならなかった。変わって登場したのが【人力車】だ。今も京都や浅草で活躍する明治時代の象徴(笑)。見事な演出であった。そして喪服が黒では無く、ちゃんと白だった事も評価したい。日本はこの時代、葬式と言えば白を着るのが常識であった。
またしても長々とレビューを書き連ねてしまったが...
今日の主役は、この人であったとしておきたい。小林薫の名演は、本当に見事であった。北大路家康よりも、こっちのロスの方が、僕にとっては遥かにデカい...。
古き良き日本の父...渋沢市郎右衛門は、きっと素敵な人だったのだろう。
☆☆☆☆☆!!!
次週に期待する。
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