腕輪念珠(数珠ブレス)コレクション(22)【東大寺大仏殿】ブレス | MarlboroTigerの【Reload the 明治維新】

腕輪念珠(数珠ブレス)コレクション(22)【東大寺大仏殿】ブレス

 

世界遺産、東大寺大仏殿の数珠ブレスになります。これも、一時着けまくってましたね。結構なレベルで我が汗を吸ってくれたブレスだったと記憶します。

 

私にとっての東大寺は、大仏殿と言うよりは...二月堂、三月堂がメインとなりますので、毎回毎回大仏さんを拝んだりはしないのですが、そこは我が国が誇る世界遺産...。

 

今日は、東大寺大仏殿について書いて見たいと思います。

 

 

近代以前の木造建築としては世界最大の建造物...皆さんも一度は参拝された事があると思います。

 

昔から言われておりますが、子供の頃に見た時に比べ...歳を取るに従いどんどん巨大になって行く感じがする...稀有な建物です。もし、何十年も参拝されていないのなら、試しに行って見て下さい。

 

(こっ...こんなに...巨大だったか?)

 

驚かれると思います。逆はあり得るのですよ。子供の頃に遊んだ学校の校舎や、公園の遊具、神社の境内...あらゆる物が小さく感じるでしょ?でも、ここだけは例外。訪れる度に巨大化して行く様に感じる。理由は分かりません。

 

恐らくは、背後に空しか無いからでしょう。東京や大阪の様なビル群がバックにあっては...そうはならないのでしょう。シンメトリーなフォルムに、だだっ広い空間が後方に広がる。その視覚効果が、人間の精神に何らかの影響を与えているのだと思います。

 

 

正式名称は金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)。華厳宗の大本山です。聖武天皇が国力の全てを注ぎ込んで作り上げた、仏の殿堂です。

 

現在我々が見ているこのお堂は、徳川幕府第五代将軍綱吉の時代に完成した三代目。戦国期に焼失して以降、150年間野晒しなっていた大仏を救うため、血と汗と涙でもって再建された、江戸時代を代表する建造物なのです。

 

恐らく江戸初期においては、今の鎌倉大仏と同じ様な景観だったと思います。その時代は、大仏と言えば、京都。そう、豊臣秀吉によって作り上げられた...想像を絶する巨大仏が京都にあり、完全に人気を奪われていた事でしょう。しかし、当時の人々は奈良の大仏さんを見捨てなかった。

 

往時を偲び、何とか巨大なお堂を作り直して差し上げたかった。その善意が、このお堂となって蘇ったのです。

 

僧・公慶が貞享元年(1684年)に幕府の許可を得てから七年、彼の元には全国から一万一千両の大金が集められました。これは現代の価格に換算すれば、10億円くらいになりますでしょうか...。ここに更に徳川綱吉の援助も加わり、江戸初期における一大国家プロジェクトとして大仏殿復興が始まります。

 

元禄五年(1692年)に先ず大仏の修理が完成。そして大仏殿の落慶が成ったのは、宝永六年(1709年)の事です。四半世紀の時間をかけて、江戸時代の人々はこの極楽世界を再び奈良の地に再現してみせたのです。

 

そのストーリーを、思い浮かべる人は先ずいないでしょう。ですが、どこかで覚えておいて欲しい。

 

この建造物は、江戸初期に生きた日本人達の努力の結晶なのだと言う事を...。

 

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大仏殿の前に立つ、金銅八角燈籠です。国宝です。総高464センチ。修復は重ねられておりますが、基本的には奈良時代の創建時のもの。非常に美しい燈籠です。

 

さあ...ご一緒に、天平時代に思いを馳せましょう...。

 

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八世紀の前半には、この東大寺の前身となる金鐘寺が、若草山の麓...現代の二月堂、三月堂の場所にあったと言われております。天平十三年(741年)に国分寺建立の詔が発せられ、寺名は金光明寺に変わります。

 

大仏の鋳造が始まったのは天平十九年(747年)で、東大寺と称される様に成ったのは、どうやらこの辺りからの様です。この頃、聖武天皇はあちこちに都を移転させていましたが、最終的に再び平城京に落ち着く事となります。朝廷から弾圧されていた行基を呼び戻し、その造営を指揮させる一方...鎮守社として手向山八幡宮の建立を命じます。

 

 

手向山八幡宮です。神道による仏教の守護...神仏習合の始まりですね。九州の宇佐神宮から八幡様を招き、東大寺を守って頂こうとしたのです。

 

 

東大寺の国宝、僧形八幡神坐像です。ご覧の通り、神様も仏様に形を変えて大仏さんを守ろうとしました。もう、何でもかんでもブッ込んで...日本を守ろうとしたのですね...。

 

当時は中国大陸に、史上空前の巨大国家【唐】が誕生した時代。日本としても、その強大な国力に脅威を覚えていた事でしょう。膨張する唐の圧力に、恐怖と憧憬が入り混じった様な不思議な感情を抱いていたのでは無いでしょうか。

 

 

だから...こんな桁外れの大仏を鋳造しようとしたのです。少しでも背伸びをする必要があった...。

 

 

平家によって焼き討ちされる前、東大寺には七重の塔が二つも立っていたのですよ。大仏さんを守るツインタワー...。一説によると、その高さは100mに達したと言われております。人が登る事も出来たのでは無いかと言われておりますね。現存する最大の五重の塔...東寺の五重塔の二倍近い高さです。

 

 

この塔のミステリーにつては、また改めて書いてみたいと思います。残っておれば、さぞかし壮観な風景だったでしょうね(笑)。

 

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やはり、ど迫力です...。下から見上げたときの遠近感を予想し、頭部は大きく、下半身は小さく作られています。光背の仏様たちも同様で、上に行くに従って大きく作られています。視覚効果をとことん追求しての造形です。

 

この仏様は、毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)。華厳経において説かれる宇宙の中心ですね。真言宗における大日如来と同一視される仏様です。お姿は密教の大日様の様に派手な装飾品を身に纏ってはおられません。お釈迦さんと同じ、質素な出で立ち。

 

 

聖武天皇により発願されたのは天平十五年(743年)の事。造像は天平十七年(745年)から開始され、天平勝宝四年(752年)に開眼供養会が実施されました。 のべ260万人が工事に動員され、大仏と大仏殿の建造費は現在の価格にすると約4657億円に相当すると算出されました。当時の日本の総人口の半数近くが、何らかの形でこの大仏様の造営に関与したのでは無いかと言われております。

 

 

制作に携わった技術者は、大仏師として国中連公麻呂、鋳師として高市大国(たけちのおおくに)、高市真麻呂(たけちのままろ)の名前がクレジットされております。天平勝宝四年の開眼供養会には、聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇が列席。参列者は1万数千人に及んだと言います。開眼導師はインド出身の僧・菩提僊那が担当したと言われております。

 

大仏と大仏殿はその後、二度焼失してしまうのですが、その都度、再興されました。現存の大仏様は、像高約14.7メートル、基壇の周囲70メートルで、頭部は江戸時代、体部は大部分が鎌倉時代の補修と思われています。台座、右の脇腹、両腕から垂れ下がる袖、大腿部などに一部には建立当時である天平時代の部分も残っています。

 

 

これだけの大きさになると、掃除も大変(笑)。毎年八月に実施される【お身拭い】は、下手すりゃ命懸けですよ。昭和期以降、夏の風物詩となりましたね。今年はコロナの為実施されなかった様です。

 

 

これだけの大仏様ですからね...巨体をカバーする本堂も当然大きくなってしまう訳です。前述の江戸時代の人々が作った現・大仏殿は...幅(東西)57.5メートル、奥行50.5メートル、棟までの高さ49.1メートルに達する巨大建造物となってしまいました。高さと奥行は創建当時とほぼ同じですが、幅に関しては創建当時(約86メートル)の約3分の2になっております。

 

この大仏殿と大仏さんの相性は、言うまでもなく抜群!江戸時代の人々の美に対する感覚の鋭さが、よく感じられます。

 

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このブレスの小窓を覗きますと...

 

正面向きの毘盧遮那仏の御影(絵)を拝む事が出来ます。

 

(そう言えば、修学旅行で行った切りだな...。)

 

そう言う方は、もう一度行ってみられては如何でしょう?新しい発見がありますよ。

 

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御朱印です。

 

華厳の文字が格好いいですね。中々見ない墨書ですので、自分の中ではレアです(笑)。納経所は大仏殿の中にありますので、お間違いなく(笑)。

 

 

この数珠ブレスを腕にはめる度に、毘盧遮那仏の不思議なパワーを感じます。たまに小窓を覗いてみたりするのですよ。腕輪念珠のコレクションの中でも、素朴な味がある逸品です。

 

今日は東大寺大仏殿の念珠をご紹介しました。