【青天を衝け】をより楽しむ為に(1)...三井中興の祖・三野村利左衛門を知っておこう! | MarlboroTigerの【Reload the 明治維新】

【青天を衝け】をより楽しむ為に(1)...三井中興の祖・三野村利左衛門を知っておこう!

 

今日は三井財閥の基礎を作り上げた、三井中興の祖・三野村利左衛門と言う人物についてご紹介したい。NHK大河ドラマ【青天を衝け】でイッセー尾形氏が演じている人物と言えばお分かり頂けるだろうか。同ドラマを今後面白く味わう為にも、是非三野村利左衛門を知っておいて頂きたい。

 

 

利左衛門が生まれたのは、文政四年(1821年)と言うから明治元年には47歳である。残された写真で見た感じでは【老け顔】に分類されると思う。イッセー氏がキャスティングされたのもそれが理由かも知れないが、イッセー氏は来年70歳になる老人だ。実年齢で20歳以上も差がある俳優が演じるのは、ちょっと利左衛門に可哀そうな気がする。

 

三野村利左衛門は明治十年に死んでしまうので、明治維新後十年間しか活躍の場が与えられなかった。そこから逆算し、なぜ【三井中興の祖】と讃えられているのかを探ってみたい。

 

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出自に関しては、良く分からない。本人が語っていたプロフィールによると、出羽庄内藩の関口正右衛門為久の三男・松三郎が実父であると言う。この父が出奔し、信濃で誕生したというが確証は無い。父親は庄内時代は同藩家臣の木村家の養子となっていた様だが、文政十年(1827年)に脱藩している。息子利左衛門共々浪人となった。

 

諸国を流浪したようだ。ようやく立身のチャンスを掴んだのは、それから十二年後の事。天保十年(1839年)に江戸に辿り着き、干鰯問屋で奉公を始めた。18歳の時の事だ。深川の【丸屋】という問屋に住み込み奉公を始めたのだが、その時に見せた実直な働きぶりが高く評価された。すると駿河台に屋敷を構えていた大身の旗本、小栗家に中として雇われることになった。これが彼の運命を大きく変える事となる。

 

 

小栗...と言えば、もう幕末好きの方ならピンと来るだろう。そう...あの小栗上野介忠順の生家である。小栗は利三郎の6つ年下であるから、小栗家に出入りし始めた頃は元服前の少年だった筈だ。秀才のお坊ちゃまである忠順とどんな交流があったのか、興味は尽きない。いずれにせよ、比較的歳も近いため忠順との心の交流は強まり、互いの信頼関係は確固たるものとなった。この事が幕末期に好影響をもたらした事は言うまでもない。まだ部屋住みだった頃の後の勘定奉行と、その奉公人だった後の三井の番頭が深い主従関係で結ばれていた。人の縁と言うのは恐ろしいものだ。

 

 

25歳の時、利左衛門は神田三河町で油や砂糖を販売していた紀伊国屋の美野川利八に見込まれ、娘の婿養子となる。美野川の姓を襲名して紀伊国屋を継ぐ事となった。そこからは妻が作る金平糖を行商で売り歩く日々。25歳から35歳までの10年間はひたすら行商に徹する辛苦の日々であった。

 

いくらか貯蓄も出来、脇両替というごく小規模な両替商を始めた。江戸時代と言うのは、金、銀、銭と言う異種の貨幣が同時に流通する【三貨制度】の時代であった。地域によって通貨も変わり、そのためタイムリーに両替に応じてくれるサービス業の存在が必要不可欠であった。このニーズに応える為誕生したのが、分かり易く言えば両替商である。このビジネスの面白い所は、その取引が市場経済に委ねられており、交換レートが固定されていなかった点であろう。つまり変動相場制であったと言う事だ。時々の相場に従って換金するのだが、その際1%~2%の手数料を受け取る。これが両替商の利益となる。

 

なので...地道に交換サービスを続けていただけでは、単なる小遣い稼ぎにしかならない。

 

ここに再び小栗か絡んで来るのである。

 

 

ある日所用で旧主家である小栗邸を訪ねたとき、利左衛門は思わぬ極秘情報を耳にする。洋銀との交換比率の関係から、高品位の天保小判1両が万延小判3両1分2朱で換価される確定情報を伝えられた。この相手こそ、時の外国奉行・小栗上野介忠順であった。フィラデルフィアで通貨交換比率の変更交渉を行った当事者からのリーク....。今日であればインサイダー取引になるのかも知れないが、利左衛門は即座に動いた。天保小判の買い占めに走ったのである。買い集められた天保小判は付き合いのあった両替店に担保に入れ、更に金を借りる。その金でまた天保小判を買い集め...これを繰り返した。

 

この売買により巨万の富を手にする事となったのだ。維新から遡る事8年前...万延元年(1860年)の事だ。

 

その時付き合いのあった両替店の主人がたまたま三井の手代をしていた。利左衛門のこうした商機を逃さぬ機敏な行動は三井の主席番頭斎藤専蔵の知る所となり、利左衛門は三井両替店に頻繁に出入りする様になる。

 

 

幕府の御用商人三井は、当時江戸では圧倒的な存在であった。駿河町の江戸本店は既に観光名所にすらなっていた。呉服屋として、そのブランドのステイタスは全国に鳴り響いており、一度は服を越後屋(三越)で仕立ててみたいと誰もが夢見た。

 

 

この絵を見ても、往時の威光が窺われるだろう。

 

だが、時代は必ずしもこの巨大資本に味方しなかった。時は慶応。三井呉服店(三越)を中核に様々な産業に手を広げていた三井であったが、幕府御用商人として公金を取り扱う栄誉を与えられながら、一方でこの時期存亡の危機を迎えつつあった。この時期の三井は、本店越後屋の不振に加え、両替店も長期不良貸金が累増。資金繰りを圧迫し続けていた。特に開港直後の横浜に開店した支店の経営状態が最悪。公金に手を付けての、浮き貸しによる大欠損も発覚した。その最悪のタイミングで...、幕府から巨額の御用金が賦課されたのである。

 

この時幕府は長州征伐の軍費の出費が祟り、莫大な支出に苦しんでいた。江戸の富商にしばしば御用金を課していたのだが、とりわけ三井に対する割当額は途轍もない額であった。元治元年(1864年)10月に100万両の要求。先に述べた横浜支店の内情を察知た上で、預かり金の全額即納、それができない場合は財産没収も有り得るとした。慶応元年に1万両、翌年2月に150万両、4月に15万両...たった3年間で合計266万両もの御用金を要求して来たのである。

 

 

この危機を乗り越えるべく、白羽の矢を立てられたのが利左衛門であった。当時既に勘定奉行となっていた小栗忠順と昵懇の間柄にあり、交渉役としては申し分ない。最後の望み...究極のジョーカーとして彼は登用された。

 

その成果は凄まじい物であった。三井の要請に応じた利左衛門は、小栗の部下で勘定組頭をしていた小田直太郎にターゲットを絞った。相当に金もかかったろうが、これを篭絡。小田を通じて小栗に対し減額運動を開始した。小栗本人に対しては条理を尽くして三井の窮状を訴え、それを潰してしまうよりも育成して末長く幕府経済の支柱にしようと提案した。これが功を奏し、先の100万両の御用金は取りやめ、慶応二年の150万両は50万両に減額、更にこれを18万両にまで減額し、三回に亘る分納の了解まで取り付けてしまった。以後、三井への御用金要求は一切なくなった。三井が狂喜したのは言うまでも無い。

 

 

創業以来最大の危機を打ち払ってくれた大恩人...利左衛門はこうして破格の待遇で三井に迎えられる事となる。小栗と三井の間のパイプ役として【通勤支配】に任命されたのである。現在であれば取締役待遇であろう。実は...三野村利左衛門とは、この時改名した彼の新しい名前である。

 

三井における利左衛門の職責は、幕府から命じられた江戸勘定所貸付金御用と外国方御金御用達の業務を管轄する新設の三井御用所の責任者であった。この時45歳。通常であれば12~3歳で奉公人となり、住み込みから叩き上げで立身せねばならないのが三井の鉄の掟であったが、利左衛門はその障壁を突き崩した。三井の長い歴史の中で小供奉公を経ずにこのような重役に抜擢された例はない。

 

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この時期、他の財閥も苦しんでいた。

 

大阪では、当時日本最大の財閥であった鴻池が逼塞。衰退の時が近づきつつあった。金属加工、鉱山経営でその名を轟かせた住友も、明治維新の動乱に伴い新政府によって倉庫を差し押さえされてしまう。

 

 

更にはドル箱であった写真の伊予の別子銅山も接収されてしまう。この危機からの挽回には大変な努力と時間が費やされる事となった。

 

 

後の三大財閥の一つ...三菱はこの時点でまだ存在していない。岩崎弥太郎は海援隊の残務整理の追われ、藩直轄の開成館の事業運営に没頭していた。大阪出張所への勤務を後藤象二郎に懇願し、大阪勤務を熱望。その後、藩営事業の禁止に伴い藩の借財ごとこの開成館を貰い受け、明治二年に九十九商会としてリスタートさせるのだが、艦船を使った運送事業に乗り出し飛ぶ鳥を落とす勢いとなるのはまだ少し先の事である。

 

ある意味、三井はいち早く維新に対して手を打ち、再生への道を見付け出していたと言えなくも無い。

 

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慶応四年(1868年)1月に小栗忠順が失脚。尚も新政府への抗戦を主張する小栗であったが、徳川慶喜はこれを蹴る。寛永寺に謹慎し、小栗は罷免された。代わって登用されたのは、ご存知ハト派の陸軍奉行・勝海舟であった。

 

この時局の変化の匂いを、利左衛門は見事に嗅ぎ分ける。

 

幕府の命運が尽きる事を見抜き、新政府への資金援助に動くよう、三井組に働き掛けたのだ。恐ろしいまでの抜け目の無さだ。この助言通りに新政府に恭順した事で三井は動乱を乗り切ることが出来た。これには小栗本人の助言があったとする説もあるが、真偽は不明である。

 

明治になると利左衛門は三井の金融業を近代化しようと動き始める。その目的は【銀行】の設立である。【為換座三井組】による貨幣制度改革は明治新政府の金融政策を支え続けたが、今度は三井組による単独での銀行設立を狙った。その嗅覚は益々冴え渡る。

 

ところが...これにストップをかけた人物がいる。

 

 

当時、大蔵官僚であった渋沢栄一である。渋沢に関しては大河ドラマでも描かれるだろうが、利左衛門は静岡藩時代に色々と便宜を図ってやった事がある。太政官札の換金はその最たる物であろう。しかし官僚となった渋沢は中々手強かった。明治の金融を民間の新生財閥に独占させることに危惧を覚えた渋沢はこれに反対。明治五年(1872年)6月、渋沢は自邸に三井、小野の首脳を招いて合同資本による銀行運営を持ち掛ける。

 

 

写真前列一番右の人物が三野村利左衛門、その隣が渋沢栄一である。二人の間でどの様なバトルが繰り広げられたのか、判然としないが...相当にヒートアップしたであろう。興味は尽きない。

 

こうして明治六年(1873年)、三井・小野両組合作による【第一国立銀行】を発足させる事となるのだ。渋沢にしてやられた利左衛門だが、彼は決して単独設立をあきらめなかった。直後、小野組が倒産に追い込まれたのを機に第一国立銀行から手を引く。渋沢の反対を押し切り、明治九年(1876年)、遂に念願であった日本初の民間銀行【三井銀行】を開業に導くのである。

 

【Bank】を【銀行】という訳語にしたのは、実は三野村利左衛門である。渋沢の伝記によれば、【洋行】の【行】の一字に【金】を加え、【金行】とする予定であったと言う。この渋沢の提案に、三野村が『交換(取り扱い)には銀も含む』と答え、【銀行】に変更させた。

 

利左衛門は商社の構想も練っていた。井上馨と益田孝が解散させた【先収会社】を引き取ったのだが、これが現在の三井物産である。また明治五年(1872年)には本流であった越後屋呉服店(三越)を三井から切り離し、三井組の内部改革に大ナタを振るった。

 

当時大蔵卿であった大隈重信に三井家に対しての諭書を下す措置を求め、明治新政府とのグリップ強化により三井を変革しようとした。これが功を奏し、三井組内部での権力を奪取に成功した利左衛門は三井銀行の設立に漕ぎ着け、圧倒的な権力を握る事となる。

 

だが、彼はこの絶頂期に病魔に侵されてしまった。蓄積されたハードワークによる身体的ダメージに彼は勝てなかった。三井銀行の開業式典に出席する事もなく、翌明治十年(1877年)、57歳で病没してしまうのだ。西郷軍が熊本城下に雪崩れ込み、西南戦争が勃発する直前と言う時期であった。

 

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快男児であったと言えるだろう。惜しむらくは、その寿命が短過ぎた。もう三十年、いや...二十年生き長らえていたら...三菱や住友、そして渋沢とどんなバトルを繰り広げた事か...。

 

利左衛門は幼少時代諸国を流浪していたので、初等教育を受けていない。非識字者に近かったと言われている。しかし、彼が維新期に残した功績は実に大きい。渋沢栄一は利左衛門を【無学の偉人】と称したが、『あのくらい学問もしないで、制度について不思議な才能を持っているひとはいない。そしてそれを説明するときに丸をいくつも書く。三野村のまるまると言ったら有名なものだった。』と懐かしんだと言う。

 

利左衛門にすれば、19歳も年下の渋沢など...(所詮は豪農育ちのボンボンだろう。乳母日傘で大きくなりやがって。学問や剣術にうつつを抜かす事が出来たのは幸運だったと思え。洋行帰りだか何だかしらねえが...お役人さんよ...この俺はな...誠の叩き上げだ!てめえなんぞと根性が違うんだよ!)...最初はそう思っていたに違いない。今日的に言えば...良家の出で高学歴のインテリ、外国帰りの若手のベンチャー社長...そんな風に見えていたのでは無いか...。

 

(俺は、ドブ板から叩き上げで三井の番頭に成り上がった男だ!甘く見るんじゃねえ!)

 

そんな思いも、腹の中にはあったと思う...。

 

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今日は、三井中興の祖...三野村利左衛門について紹介させて頂いた。渋沢栄一と共存していた期間は僅か十年間であったが、今後の【青天を衝け】において異彩を放つキャラクターである。その人柄や来歴を覚えておいて頂ければ、イッセー尾形氏の怪演にも共感頂ける事だろう。

 

日曜の第27話が楽しみで仕方がない(笑)。