西国三十三所 第三十二番札所 観音正寺 ~ 現代の名工が彫り上げし大観音と復興の物語 ~ | MarlboroTigerの【Reload the 明治維新】

西国三十三所 第三十二番札所 観音正寺 ~ 現代の名工が彫り上げし大観音と復興の物語 ~

 

琵琶湖の東岸、安土城跡の南東2km...標高433mの繖山(きぬがさやま)の山頂付近、標高370mに位置する観音霊場が観音正寺です。宗派は天台宗。

 

西国三十三所第三十二番札所。上がりの一つ前...かつては最後の難所と言われた山上の聖堂。ここに、実に美しい千手観音様が待っておられます。

 

今日は滋賀の名刹、繖山 観音正寺(きぬがささん かんのんしょうじ)をご紹介しましょう。

 

 

ご覧の通り、それほど大きな山と言う訳ではありません。新幹線が直ぐ脇を通るため、私も帰省の時などは...思わず車窓にその姿を探し、合掌したりします。湖東にのんびりと屹立する観音霊場...それが観音正寺です。

 

私は下から上がったのは一度ですね。かなりしんどいです(笑)。駐車場がいくつかありますので、車で行かれるのをお薦めします(笑)。アクセスの方法は、また後ほど...。

 

...

 

...

 

...

 

観音正寺は推古天皇十三年(605年)に聖徳太子がこの地を訪れ、自刻の千手観音を祀ったのがその始まり。

 

有名な二つのストーリーがあります。

 

一つは、聖徳太子がこの地で出会った【人魚】の願いにより、一寺を建立したというもの。その人魚は、前世が漁師で殺生を繰り返していたため、半獣の体に生まれ変わってしまい苦しんでおりました。そこで聖徳太子に成仏させてほしいと懇願するストーリー。かつて非常に有名な【人魚のミイラ】がこのお寺に伝わっておりました。

 

二つ目は、聖徳太子がこの地を訪れた際に天人が繖山の巨岩の上で舞っていたのを見て、その岩を天楽石と名付け、聖徳太子が自ら妙見菩薩始めとする五つの仏をそこに刻んだというストーリー。その際、聖徳太子は天照大神と春日明神のお告げを聞き、山上に湧く水で墨をすって千手観音を描かれました。するとお釈迦様と大日如来が現れ、霊木で千手観音像を作るようにとの啓示を与えられます。太子はこれに従い、自ら霊木で千手観音像を彫り上げ、天楽石を奥の院としてこのお寺を建立したというものでです。

 

...

 

...

 

...

 

ミイラ...気になりますよね(笑)?

 

...

 

...

 

...

 

 

これです(笑)。私が小さい頃は、よく怪奇雑誌なんかに載っていたんじゃ無いかな。

 

実は...

 

もう現存しません。

 

平成五年(1993年)に、本堂と共に火災で焼失してしまいました。

 

 

かつての旧本堂です。

 

実際のお寺の創建時期は不明なのですが、少なくとも11世紀の平安時代には存在しておりました。元弘三年(1333年)の足利高氏による北条仲時攻めの際には、後伏見上皇と花園上皇、光厳天皇が匿われたと言われております。この為、更に昔の本堂は長らく禁裏屋敷と呼ばれておりました。

 

 

この繖山には、鎌倉期以降六角氏の居城であった観音寺城がありましたので、その庇護を受け寺は大いに栄えたと言われております。最盛時には72坊と三つの子院を備えていたと言いますから、相当なものです。観音寺城の拡張に伴い、麓に移転していた時期もあったのですが、この本堂は織田信長に攻められて焼失してしまいました。元の山上に堂舎を再建する事になったのは慶長二年(1597年)の事です。

 

江戸時代になると、西国巡礼ブームが到来し再び繁栄の時を迎えます。

 

天保十二年(1841年)には塔頭が十坊も存在しておりました。しかし明治となり、廃仏毀釈の嵐に見舞われてからは一つを残して全て廃絶してしまいました。明治十三年に観音堂を建て替えることとなり、明治十五年(1882年)彦根城の欅御殿を貰い受け、これを境内に移築し本堂としました。

 

...

 

...

 

...

 

そして...

 

先に述べた平成五年(1993年)の火災で、本堂焼失と言う悲劇が発生するのです。火災の原因は分かっておりません。交通に不便な山中にあるため、消火活動はままならず、重要文化財に指定されていたご本尊の千手観音立像も、人魚のミイラも燃え尽きてしまいました...。

 

 

復興には、大変な努力が必要とされました。

 

前住職の言葉をお借りすれば、『まさに七転八起。』の危機でした。

 

柱も瓦も、すべて人力で運び上げた物。他の札所のように立派な建物はありませんが、そこには復興に携わった多くの人々の想いが込められている...。

 

 

それが、この現ご本堂なのです。

 

そして、前住職の岡村潤応師は復興に際し、後世に残る巨大なご本尊を建立しようと発願します。

 

それが...

 

 

この総白檀作りの丈六の千手観音坐像。

 

白檀とは仏教儀式で使用される香木で、東南アジアに広く自生する木材です。近年、インド等で乱伐され、ワシントン条約では輸出が禁じられています。小さな仏像や、香木ならまだしも...一度に23tもの白檀を譲り受けようとは...無謀とも思える挑戦でした。

 

住職は何度もインド政府と掛け合い、遂に異例中の異例の措置として、日本への輸出を認めさせたのです。インドに足を運ぶ事20回を超えていたと言います。

 

そしてこの仏像の製作を手がけた方こそ...

 

 

現代における最高の仏師であり、慶派の頂点...松本明慶氏なのです。

 

明慶氏については、紀三井寺でもご紹介しましたね。あの日本最大の千手観音立像を手掛けられたのも、このお方です。西国三十三所の新・本尊となれば...それはそれは気合も入られた事でしょう。

 

 

旧本尊が1メートル足らずの立像であったのに対し、像高3.56メートル、光背を合わせると総高6.3メートルに達する巨大なご本尊。初めて見た時の感動は忘れられません。古い時代の仏師達も、これには仰天するのでは無いか...。

 

 

均整の取れたプロポーション、ふくよかなお顔、逞しい腕回り...その全てがパーフェクトです。光背には彫り込まれた千の手が美しく浮かび上がり...

 

 

...そして何とも甘美な匂いを発しておられるのです!!

 

年々...その匂いは消えて行きつつありますが...それでも...嗅ぎたくなるのです。仏の匂いを...。

 

いずれにせよ、この千手観音坐像は、松本明慶の最高傑作と言えるのでは無いでしょうか。かつての本尊や、他の札所の古仏も素晴らしい。ですが...

 

『平成の仏師の技はどうよ!』と叫びたくなる!これを作る為に努力した人々の想い、汗、喜び、善意...それを考えると、むしろ私はこちらの像にこそパワーが込められていると思えてならないのです。

 

...

 

...

 

...

 

 

許可を頂ければ、ご本尊を専用の散華でお身拭いさせて頂く事も出来ます。拭いた後は、お守りとして持って帰る事が可能。

 

 

私は御影帖に挟んで大事に保管しております。このピンクの花弁に、観音力が込められているのです。

 

そして、下のCDは観音正寺で授与頂いた西国三十三所の【御詠歌】。ご住職は御詠歌の名手でもあり、このCDに録音されているのは、その歌声。私の御詠歌のお手本です。盆に帰省する時などは、ダウンロードした音源を仏壇の前で流しております。ご参拝の際に、ご購入されては如何でしょう?

 

...

 

...

 

...

 

 

御朱印です。草創1300年の記念印は、人魚の尾っぽでしたね(笑)。格調高い【大悲殿】です。

 

...

 

...

 

...

 

最後に、アクセス。

 

 

前述した通り、麓から上がって行くと...かなり手強いです(笑)。正面の参道から石段を登り、最後の駐車場まで辿り着くと、かなり息は上がっておりますが、そこから本堂までは凄まじい!!

 

ある意味、施福寺以上の苦行となりますので、ご覚悟を(笑)!上図中央のパーキングからも、残りは僅かですが高齢の方にはお勧めしません。エグい傾斜ですよ。

 

一番楽なのは、図の右上の駐車場からアクセスする方法。

 

観音正寺の駐車場は二つあるのですが、それぞれ別ルートで上がる事となります。料金所も二つ、道も二つですからご注意を!私は母を連れて行く場合、必ず右の駐車場を目指します。ここからならば、非常に楽にたどり着けます。老人向き。

 

目安となるのは安土駅ですね。安土駅を一旦北東の方角に迂回して、繖街道(きぬがさかいどう)のトンネルを抜ける。すると直ぐに繖公園(きぬがさこうえん)に出ますので、公園が終わる所の交差点を右折。参道は直ぐに見えて来ます。ナビに入れるならば、この繖公園がベストかも知れませんね。駐車場の大きさは、どちらも同じくらいです。10台くらいしか入らないんじゃないかな...。こればかりは、運ですね(笑)。

 

 

眺望は最高です(笑)。大地を疾駆する新幹線のダイナミックな姿が拝めます。

 

西国三十三所、第三十二番札所 観音正寺...

 

平成に生きた人々の不屈の魂が宿る大観音...

 

是非ご覧になって頂きたい。

 

南無観世音菩薩🙏