幕末におけるもう一つの首都...大阪を妄想する(笑)。 | MarlboroTigerの【Reload the 明治維新】

幕末におけるもう一つの首都...大阪を妄想する(笑)。

 

幕末期の大坂城である。

 

意外に思われるかも知れないが、江戸時代にはその大半の時期において天守閣が存在していなかった。

 

 

元々は、この様な徳川大坂城が存在した。大坂夏の陣後、二代将軍秀忠によって豊臣時代の名残を払拭させるべく、四十七大名家を動員して同地域の再開発を実施した。足掛け九年、三期に亘る工事によって現代我々が見る事が出来る、堂々たる大阪城のレイアウトが完成したのだ。

 

 

その時代には、この様な徳川大坂城大天守が聳え立っていた。だが、その存在期間は非常に短い物であった。寛永三年(1626年)に竣工したこの天守閣は、寛文五年(1665年)に落雷によって焼失してしまった。僅か39年間しか存在しなかったのだ。今私達現代人が眺めている大阪城は、昭和6年に竣工した三代目。鉄筋コンクリート製の近代建築物だが、B29の空爆を耐え忍んだ...昭和初期の技術の高さを今に伝える、化物の様な建造物だ。

 

つまり...江戸時代は中期、後期の200年以上に亘り...大阪城に天守閣は無かったのである。先に述べた39年間に生きた人々を除いて、殆どの江戸時代の大坂人は天守閣のある大坂城を見る事は無かった。

 

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この大坂と言う街は、何とも不思議な街である。古来、難波は奈良への玄関口として栄え始め、仁徳天皇陵をはじめとする様々な施設がこの地を彩った。聖徳太子が四天王寺を建立するや、その門前町も形成され、海外からのVIPが上陸するに相応しい景観を整えて行く。

 

1496年には蓮如が石山御坊を現大阪城の地に創建し、三十年後にこれは石山本願寺となる。北側に浄土真宗による宗教都市が誕生し、開発拠点の核が誕生した。

 

戦国期にはご存知【堺】が貿易港として発展。天王寺の南側も急速に発展し始めた。そして豊富秀吉の時代を迎える。

 

 

信長と11年間も戦い続けた石山本願寺の復元図である。どうだろう...これは寺院と言うよりは、要塞に見えやしまいか...。山科にあった本願寺が焼討ちされた後、一向門徒はこの蓮如ゆかりの地を新・本願寺とした。時は戦国...宗教施設であると共に、そこには軍事基地としての防衛力も求められた。この豪壮な石垣や、各種施設はその現れである。

 

鉄砲鍛冶や武器商人も多く在住し、水路の船着場から大量の武器弾薬が陸揚げされる。まさに、ここも堺に匹敵する独立王国であったと言って良い。比叡山を一日で堕とした信長が、十一年かかっても降伏させる事が出来なかった理由が...何となくだが理解出来る。

 

信長との和平後、一向宗は拠点を明け渡したわけだが...

 

 

秀吉がこれに作り替えるのは、案外たやすい事だったのかも知れない。何故ならば、ベースとして本願寺があった訳で、基礎工事に関しては省略出来る部分も多々あったと思えるからだ。基本となるライフラインや、各種運搬施設も従来の物をカスタマイズすれば簡単にver.up出来る訳で、都市機能自体は既に整っていたと考えるべきだ。そして秀吉自身、土建屋の親玉の様な人物だったのだから、都市開発に関してはお手の物だったのでは無いか。

 

いずれにせよ、新しい巨大都市大坂をつくるに当たって、秀吉は一向宗の都をある程度利用したのだと思う。旧石山本願寺がそうであった様に、大坂の街の鬼門を守り...さながら平安京に対する比叡山のごとく北東の角に大坂城を配置した。そして南西の方角に向け、街を広げて行ったのだ。

 

南の四天王寺との間に...どの様な街を築き上げるか...無類のエンターテイナー・秀吉にしてみれば、ワクワクする様なチャレンジだったろう。

 

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その意志は、徳川幕府によって引き継がれた。

 

下記が幕末期の大阪の中心部を描いた地図である。

 

 

画面右、多角形で縁取られた白い区画が大坂城である。現代の森之宮以東...放出、鴫野、緑橋の辺りに人が住んでいる気配は余り無い。私の母は放出の出身だが、子供の頃は畑だらけで非常にのんびりした土地だったらしい。あの汚らしい寝屋川で泳いでいたと言うから驚きだ。急速に市街地化したのは高度成長期になってかららしい。江戸時代には人口密集地で無かった事がこの地図を見ても分かる。

 

ご覧の通り、大阪市街地には河が多い。地図の左上に見えているのは、大阪を代表する大河・淀川である。逆サイド、画面右上...やや太めの河川が【逆L字型】を描いているのがお分かり頂けるだろうか?大阪城の正面で90度方角を変えているのが分かる。ここが大坂の心臓部であったと言って良い。これは現代のロケーションも同じだ。

 

当時大坂への入口はこの淀川から分岐して蛇行する安治川が海に流れ込む河口...安治川口の港が一般的であった。禁門の変に上洛する長州軍もここから上陸している。安治川口で荷受けされた商品は、ここから東の大坂城方面に向かって輸送され、中之島の前を通って荷受けのもとへと分散して行った。

 

 

この位置関係が頭に入れば、江戸時代の大阪の人の流れがざっくりとだが把握出来る様になる。行政、そしてビジネスの中心が大坂城〜中之島界隈を中心に広がって行った。江戸なら南町奉行所と北町奉行所に管轄が分かれるが、この航空写真を見ても分かる通り...大坂が何故東町奉行所と西町奉行所に分かれているのか、これでお判り頂けるだろう。東西に長かったのだ。

 

微妙に現在と異なっているポイントもある。

 

 

海から入港して安治川の河口から小舟に乗り換えて遡ると、現代の大阪のビジネスの中心地・中之島に出るのだが、島が一つ多いのに気が付くだろう。中之島の北に、堂島と言う島があった。現在も地名として残っているが、江戸時代は独立した島であった。中之島の南側に流れる川を土佐堀川と言うが、この近辺には各藩の蔵屋敷、藩邸が犇めき合っていた。全国から天下の台所と呼ばれた大坂に特産品は集められて来る。そしてここで一般消費者に向け売り捌かれていた。

 

中之島界隈はその売り買いの戦場であった。現・関西電力本社ビルの近辺には薩摩藩の蔵屋敷があったし、その南側の対岸には長州藩邸が豪壮な屋根を輝かせていた。海千山千の大阪の商人とビッグビジネスを成立させるには、途轍もなく優秀な経済官僚を配置せねばならず、日々凄まじい攻防が繰り広げられた筈だ。

 

鴻池クラスの巨大資本ともなれば、よっぽどの大藩でなければ番頭クラスなど出向いて来てはくれない。算盤片手に、故郷の人々の血と汗と涙の結晶である商品を、より高く売りつけねばならないのだ。緊張感は相当な物だったろう。

 

売り買いだけでは無い。物流ルートを開拓したければ、商人、地方の廻船問屋、生産地の代表...それらを巻き込んでの会合も開かれた筈だ。

 

仕事の後?

 

決まっている(笑)...北新地へ繰り出すのだ!綺麗な姉ちゃんを侍らせて、商談成立を祝して一杯やる。今も昔も、【憧れの北新地】は接待の聖地であった。

 

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大阪に残された、最後の昭和タウンと言えば...大阪駅前のビル群と、本町が双璧だろうか。近代に開発された梅田はともかく、本町は当時から【糸ヘン】ビジネスのメッカであった。全国から特産品が海上輸送され、水路を通って本町界隈に陸揚げされる。堺筋と松屋町筋の間...阪神高速直下に南北に走る東横堀川、そして同じく阪神高速環状線北向きの直下にあった西横堀川によって様々な商品が繊維問屋に運び込まれていたのだ。

 

 

当時四十万の人口を誇っていた商都大阪を支配していたのは武士では無い。ここには独自のルールがあり、実質的にこの街を支配しているのは商人である。名目上のドンは大坂城代だが、これはあくまで制度上の話し。老中職にステップアップする前職...大阪城代とは【お飾り】に過ぎなかった。二~三万石程度の小身の譜代大名が、出世のワンステップとして数年間居座るポスト...それが大阪城代であり、『余の在任中だけは、面倒を起こしてくれるな...。大塩の乱の如き...無様な事だけは起こさんでくれ...。』これが幕末期における大坂城代達の本音だ。単身赴任のボンボンが全てをハンドリング出来るほど甘い世界では無いのである。

 

実際には東西両奉行所の数十名のスタッフ...与力によって全てがコントロールされている。この同心・与力達は...当然大多数を占める庶民(町人)の方を向いている。財界と幕府のニーズのバランスをどう調整するか...その事に常に注意を払い、この巨大都市を機能させていた。大坂において二本差しの武士は居住者の全人口から言えば極めて少なく、その比率は僅か2%であった。参勤交代により人口の50%を武士が占めていた江戸とは、似ても似つかぬ街であったと言う事だ。この都市には侍が極端に少ない。全国平均で、武士は江戸時代の総人口の7%ほどだったと言われている。幕府直轄領の様な特殊な地域も多いので一概には言えないが、一般的な藩ならば支配階級たる武士は10%ほどだったろう。江戸は侍が多すぎるし、大坂は少な過ぎた。

 

なので...

 

国許では威張り散らしていたお武家さんも、この土地では肩で風切り歩くことが出来なかった。国許と同じスタイルでは...速攻田舎モン扱いされる。

 

『お武家はん...えらい男前やなぁ。あんたみたいな色男、見た事無いで(笑)。お国でも、えろうモテまんねやろ?』

 

町人はニコニコしながら語りかけたろう。

 

『いっ...いや...そんなことは...。』

 

国で領民に馴れ馴れしく語りかけられる事も無いだろうから、面食らった地方の武士も多かったのでは無いか。ここには他領の常識が当てはまらない。

 

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で、幕末。にわかに政治の中心となった京都の影響もあって活況を呈し始める。志士が闊歩し始め、士装して歩く若者が目立ち始めた。

 

 

北浜にある緒方洪庵の適塾にも全国から学生が門を叩く様になり、商都の色彩がやや変わり始める。立身出世を目指す新たなタイプの若者が大坂に目立ち始めた。この田舎くさい秀才...いや悪ガキ共を妄想するなら、こんな感じが良い。

 

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土佐堀の辺りで三十石船が往来する水面を眺むれば、橋の傍らに怪し気な小舟が一艘。オタクっぽい若侍が周囲をキョロキョロ見回しながら、妙な改造船を浮かべている。

(何をやっとんじゃ...あいつら...。)

適塾の生徒らしい。障子の隙間から、何やら奇妙なガラクタが覗いている。フラスコの代りに陶器を組み上げ...化学実験のプラントを船上にこしらえたらしい...。と、異様な臭いが周囲にたちこめ始める...。

『こら、ボケェ!また緒方んとこのクソガキか!毎回、毎回、何さらしとんじゃ!!』
怒り狂った船頭が、徳利を投げつける。

『いかん!逃げろ!』
実験船を急速回頭...全力で淀川の方向に脱出させるのは福沢諭吉...。

『待てこら!』

堀端のあちこちから、轟々たる非難の声が上がり...学生達は投げつけられるゴミや石っころを避けながら遠ざかって行く。

橋の欄干に寄りかかった鴻池の手代が、冷ややかな目で鼻をつまみ、彼等を見ている。傍らには長州藩の蔵役人と思しき役人の姿。これから北新地にでも繰り出すのであろう。


『アンモニアとか言う薬品の製造らしいですわ。あのお武家ら...そこら中の百獣屋を渡り歩いては、獣の骨をあさっとるらしい。なんでも骨から作るっちゅう話しですが...この臭いはたまらん。ええ迷惑でっせ。』


『これはたまらんのう!気が狂いそうじゃ。一体どこの馬の骨じゃ?』


『長州のお方も、たまに乗ってはりまっせ(笑)。』


『まことか?』


『名前までは知りまへんけど。』

 

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こんなトラブルはしょっちゅうであったと言う。武士と言っても新選組の様な武闘派ばかりでは無い。適塾の学生は刀を質に売り、学費や遊興費に充てていたと言うから面白い。仲間が刀を全部売り払ってしまい、残った最後の一本を、公務の時に仲間内で使い回ししていたと言うから大笑いだ。部活内で循環するエロ本では無いか。大坂に奇妙な風体の若侍が徐々に増え始めた。

 

将軍の来阪が更に拍車をかける。十四代将軍・徳川家茂が大坂城に居を移し、この街は臨時首都の如く機能し始めた。それまで皆無だった武士が、続々とこの地に姿を表す。

 

 

目的は、長州との戦争だ。禁門の変で朝敵となった長州を屈服させるため、全国の藩から若者達が集められた。城下の藩邸に起居しながら、軍事訓練を大坂城内で施された。だが、その戦争が中々始まらない。

 

第一次征討は軍事行動は一切なし。その後も長州の遅滞戦術に巻き込まれ、時間だけがズルズルと経過して行く。彼等は暇を持て余した。

 

結局一年半もの間、ダラダラと大坂で戦争ゴッコを繰り返しながら無為な日常を送る。もう、間延びして厭戦感はピークに達していた。若い男が街に溢れる...。

 

 

今も昔も男と言うやつはどうしようもない。兵隊さんともなれば、性欲をどう処理するかの問題がある。丁字風呂屋と言う風俗店が大繁盛。青少年が読んでいるかも知れないので、詳細は割愛するが...現代で言う所のソープランドである。多くは現代同様...裏風俗のメッカ...日本橋界隈にあった。道頓堀を東に向かい、堺筋を超えると...今でも雰囲気がガラッと変わる。昔も同じ(笑)。デンジャラス・ゾーンだ...。

 

そんなこんなで、訓練には身が入らず...やけ酒を煽っては町人とトラブルが続発する。

 

『その方、無礼であろう!町人の分際で、武士を愚弄する気かっ!?』

 

『なんやと、田舎モンのクソガキがっ!抜けるもんなら、抜いてみい!抜けんやろがっ!?素手で来いやっ!』

 

上役は大変だったろう。無軌道な若者達をどうコントロールするか...トラブル対応にてんやわんやだったと思う。

 

幕府軍の評判はガタ落ち...。ほとんど疫病神扱いだったと想像する。ただでさえ物価が急騰していた時期だ。庶民はイライラしている。長州が西回り航路を遮断しているので、諸国の物資輸送は陸上に切り替えられた。そのためコストが跳ね上がってしまっている。商取引には大打撃だ。

 

結果...恨み辛みは、年若い将軍に向けられてしまう...。

 

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高杉晋作とおうのの逃避行を創作するならば、その様な背景をイメージしてクリエイトすると楽しいだろう。街にダラけた諸藩兵...不景気に当たり散らす町人...臨時収入にホクホクの湯女...心斎橋の雑踏...捕吏の目を盗んで小走りに遠ざかる志士...。かに道楽の巨大なカニはまだ無いが、芝居茶屋の人形看板がずらりと並び、B級グルメの香ばしい匂いが立ち込めている...。そんな中でのアバンチュール...クリエーターの腕の見せ所と言って良い。

 

おもろいバカップルが御堂筋を北上すれば、その名の由来となった北御堂、南御堂が姿を現わす。

 

 

今は近代的な建造物になってしまったが、空襲の前までは純然たる和風の御堂が立ち並んでいた。秀吉、家康によって西本願寺、東本願寺の京都建立が許される前...浄土真宗の本拠は、石山本願寺からこの両御堂(北が西本願寺派、南が真宗大谷派)に移されていた。僅かな期間、一向宗の本山だったのだ。繊維の街・本町の顔とも言うべき寺院であった。

 

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幕長戦において幕府軍が敗北して後は...恐らくは薩長のエージェントが暗躍し、財界に倒幕の思想を説きまくっていただろう。五代友厚の様な英国とのパイプが太い経済通が大阪の商人を焚きつける。幕府と結託した江戸の巨大資本...三井に反旗を翻せと...中小の商人をそそのかしていた様に思う。由利公正が来阪する下地は作られていたとみて良い。中之島界隈では、土佐堀通りを中心に...腕っこきの薩長の財務官僚によって新時代の青写真が語られ...新政府を起動させるためのコンセンサスがジワジワと出来上がりつつあった。

 

そして大阪は鳥羽伏見戦の後、真っ先に新政府支持を表明...江戸に対し経済戦争に打って出るのだ...。

 

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そんなこんな(笑)。

 

我ながら...幕末を妄想し始めると、止まらない(笑)。ほとんど病気だ。流石に疲れた。ここら辺にしておこう。

 

だが、幕末を描く上で、やはりこの巨大都市の描写は避けて通れない。江戸情緒だけを描けば良い時代とは違うのである。幕末には、江戸、京、大坂はワンパックである。

 

天満から伏見に向かう当時の京阪特急(笑)...三十石舟の事にも言及したかったのだが、もう余力が無い。それは過去作品に登場させているので、やめておこう。興味のある方は、下記をご一読頂きたい。薩長同盟前夜の...坂本龍馬や桂小五郎の動きに、この公共交通機関を絡めてみた。

 

今日は幕末の風景として、商都・大坂を妄想してみた。