NHK大河ドラマ【青天を衝け】第十八回を見て | MarlboroTigerの【Reload the 明治維新】

NHK大河ドラマ【青天を衝け】第十八回を見て

 

今回は天狗騒乱の顛末と、その後の栄一の活躍について描かれていた。

 

このドラマの特性上、とにかくハイスピードで時代が流れて行くので...幕末オタとしてとじっくり見させて欲しいシーンがあっても、ガンガン飛ばして行ってしまう...。そこだけが残念な所だ。

 

天狗党に関しても、もっと多角的に描写して貰いたいのだが、それでは渋沢栄一ストーリーが成り立たない。

 

なので...ドラマの空白部分について補足する形で今回も書かせて頂きたい。

 

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先ずは、天狗党の事から述べさせて貰う。

 

 

 

前回までの天狗騒乱の経緯を今一度整理すると、今回の彼等の始末が頭にきっちりと入って来る。なので暫しお付き合い願いたい。

 

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天狗党。この極右団体が何故に力み上がって暴発してしまったのか。それを考えるには長州とのタッグ...そのパワーバランスの側面から考えてみると分かり易い。

 

先ずは、薩摩と会津によるクーデターにより、長州は長州派の公卿と共に京都を追われた。ここから長州尊王攘夷派は中央において発言力を失ってしまう。その後様々に失地回復を図るも、全て頓挫。池田屋の変、禁門の変、列強四カ国連合艦隊による下関攻撃とあっては...もう何も出来ない。

 

パートナーたる水戸藩が、この長州勤王派の崩壊に対してどう対処したか...それを時系列で追えば天狗党の動きがリアルに浮かび上がって来る。

 

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【八月十八日の政変】の前、水戸尊王攘夷派の藤田小四郎等は京都に居た。その地で長州の桂小五郎や久坂玄瑞と交流を深め、両藩の結束は強まった。政治に参加出来ない御三家と、同様に政治に参加する事が出来ない外様の大藩が手を握り、幕府にプレッシャーを掛けようとした。

 

ところが、長州がクーデターによって京都から一掃されてしまった。そのタイミングで水戸藩は一橋家に対し兵士のレンタルを約束していたのだが、無論水戸藩はこれを京都における攘夷の尖兵として使うおうと考えていた。長州に連動させる為だ。だが、長州が京都から撤退。片腕をもがれた水戸藩尊王攘夷派は肩透かしを食らった。

 

慶喜は水戸出身。一橋家は家臣が少ない。将軍に従い将軍後見職となった慶喜に家臣団をレンタルするのは、水戸藩の責務となったのは自然の流れ。兵士を貸し出し、尊王攘夷の機運を一気に高めてやろうと...水戸藩のタカ派は考えていたし、その流れの中で長州との連携を図って来た。その全てが崩れる...。

 

長州撤退後、幕府は開港を推し進めようとしたのだが、今度は代わって鎖港を主張する一橋慶喜との間で深刻な対立が発生する。これが文久三年の時点。勤王諸藩の拠り所は、長州無き今...水戸藩にしか選択肢が無くなって行ったと言う事。この時点で鎖港を主張する慶喜は、当然【攘夷】だと世間は考えていた。

 

だから浪士達は水戸藩を中心に再結集しようとした。前回描かれていた真田等の蜂起のシーンも、その流れが背景にある。【長州はどうにもならん。残るは水戸だ。水戸と共にやるしかない。】...この攘夷派の狂信的願望の高まりによって...水戸藩は突き動かされてしまうのだ...。

 

武田耕雲斎の苦悩するシーンには、そう言った世論の見えざるプレッシャーも介在している。何となくお分かり頂けたであろうか?

 

『最後の砦である一橋卿が裏切る筈が無い。卿は水戸のプリンスである。我らと共に立ち上がってくれる筈だ!』

 

これが当時の尊攘過激派の考え方なのである。京都から追い払われた長州と尚も連携し続ける藤田小四郎等天狗党...だが耕雲斎にしてみれば決起しようとする天狗党の動きは時期尚早であり、危険な物と感じられた。だから彼等は一時袂を分かった。禁門の変で長州が暴発するまでの期間...とにかく長州と歩調を合わせ、且つ全国の尊攘派のイニシアチブを握るべく、水戸藩内は揺れ続ける。小四郎もこの間、金策や支援を巡って二度ほど渋沢栄一に接触するのだが、どうにも性急に過ぎる。詰めが甘い。

 

 

引っ込みのつかない状況に自らはまり込み、自縄自縛。それが天狗党の辿った末路だったと言えなくも無い。確かに水戸藩は一橋家の要請に応じ300名もの兵士を差し出したが、だからと言ってそれが自分達に味方してくれるとは限らない。藩内で諸生党が台頭するや水戸藩は内戦状態へと突入する。

 

元治元年四月(池田屋の二ヶ月前)の時点で天狗党は日光東照宮を拠点にしようとしたが、日光奉行が近隣諸藩に呼び掛け迎撃体制を万全にした事からこれを諦める。長州が御所に攻め入る前の数ヶ月間...天狗党は北関東をうろつき回るのだが、この時の評判が極めて悪い。

 

暴行、略奪、殺人のオンパレード。協力金の供出を断る村々を焼き捨て、世論の反感を買う事になるのだ。藤田小四郎の武将としての資質の限界が透けて見える。一軍を率いる器では無かったと言う事。天狗党は愚かにも、この愚行を繰り返し、関東中から害虫の様に嫌われ、味方を失い続ける事となる。

 

 

京で禁門の変が勃発する直前の段階で、この者達は義軍では無く【暴徒】であると認知されていた。そして禁門の変で長州が敗北するや、完全に追い詰められてしまう。孝明天皇は長州を朝敵に指定。攘夷・開港問題に関しては長州征討の目処がつくまで不問に付すと朝廷が表明した為、天狗党は大義名分すら失ってしまった。

 

水戸城下では耕雲斎率いる大発勢派も加わり内戦に発展。内ゲバ同様の無様な戦いを演じ、水戸藩は大混乱に陥る。暴虐の限りを尽くした天狗党は地域住民に逆襲され、石もて各地を追われた。7月25日には茨城郡鯉淵村など近隣四十数ケ村が幕府軍に呼応して挙兵。7月26日には諸生党が天狗党追討のため水戸周辺の村々へ足軽の動員をかけると領民が続々と参加を願い出た。一体どれだけ嫌われていたのか...。庶民を舐めるとどんな目に合わされるか、彼等は気付かなかったのだろうか。余りにも哀れだ。

 

一方、一時は藩政を掌握したかに見えた耕雲斎の大発勢派も、結局は天狗党同様、暴徒であるとレッテルを貼られ追い出されてしまう。この二派は合流し...二つともまとめて【落ち武者】扱いの様になって行く。追い詰められた彼等は一橋慶喜の救いを求めて西上を開始する。先週の後半に描かれていたのは、このシーンであった。

 

とにもかくにも、発狂した国粋主義者ほど手に負えない物はない。感情が昂ぶると激昂し、悲憤慷慨。理性が通じないし、まともな会話は成立しない。イデオロギーが持つ恐ろしさだ。

 

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これが天狗党の進軍ルートだ。想像を絶する苦難の行程が良く分かる。北関東を追われた彼等は、この強烈な山岳地帯を抜け、列島を縦断する。戦いながら、そしてまた逃れながらだ。その流浪の旅は11月1日に始まり、12月23日の敦賀で終わる。その間、上野国下仁田で一度、信濃では下諏訪に近い和田峠で一度激しい戦闘に及んでいる。

 

 

この時代、武装したまま他藩の領地に越境する事は甚大な敵対行為として受け取られていた。侵入すれば、即侵略者と見なされる。例えば箱館戦争時、もはや幕藩体制が崩壊しているにもかかわらず、松前藩主は徳川脱走軍の攻撃から領内を逃げ回った。だが決して他国の領地に踏み入ろうとはしなかった。蝦夷地(現北海道)には自領以外にも、他藩の飛び領が数多く存在していた。だが、急事態であったとしても越境は憚られた。何故ならばそれは例え避難であったとしても侵攻と見なされてしまうからだ。結局藩主はこの逃避行の中で命を落としてしまう。武装越境が持つ重みとは、そう言う物である。

 

ましてや天狗党の乱は幕藩体制下で起こった。侵略者は自ら討ち果たさねばならないのが、当時の藩の倫理観である。天狗党は迎撃の対象とされた。

 

二度の戦いを経て、彼等は東山道を進み美濃に到達したが、そこには既に彦根、大垣、桑名、尾張、犬山藩の藩兵が待ち構えていた。街道を閉鎖し、畿内への侵入を阻もうとしたため、天狗党は中山道を諦め、北方に迂回してから京を目指す事にした。

 

 

だが...彼等の頼みの綱であった一橋慶喜が朝廷に願い出て、加賀、会津、桑名の兵と共に討伐に向かった事を知らされる。その数実に4,000。彼等の絶望感は凄まじい物であったろう。

 

越前に入った天狗党は、最も好戦的であった鯖江藩の追撃を受け敦賀方面に逃走する。彼等はここに至るまでずっと...諸藩から害虫同様に叩かれ続けて来た。敦賀に到着した時には、落ち武者以下の風体であったろう。今回の演出を見てもボロ雑巾の様に描かれていた。12月11日、新保宿に入った彼等はこれ以上の抵抗は無理と判断。加賀藩の軍監に嘆願書と始末書を差し出し投降した。慶喜への取次を願い出たが、幕府はこれを認めなかった。

 

 

慶喜の密書を届ける渋沢成一郎の面会のシーンには胸を打たれた。ちょっとした運命の悪戯で、各々の人生は明暗が分かれてしまう...。象徴的なシーンであった。

 

投降後、加賀藩の扱いは非常に丁寧なものだったのだが、幕府軍が現地に入ると状況が一変した。今回は征討総督の田沼の非人道的な側面のみがクローズアップされていたが、彼は天狗党が侵攻地域で行なって来た虐殺行為をその目で見て来た。この暴徒に対しては目には目を...許す気は最初から無かったと考えるべきだろう。天狗党員全員を鰊倉の中に放り込んで監禁し、一般の兵卒には手枷足枷をはめ、衣服は下帯一本のみ。家畜同様に扱った。魚と糞尿にまみれながら、極寒の季節に大人数で押し込められる...。当然、衛生環境は劣悪である。瞬く間に20人以上が病死した。この時捕らえられた天狗党員828名のうち、352名が処刑。芋か野菜の様にその首を斬り落とされ、天狗党の時代は終結した。

 

 

矢面に立っていたのは、もともと彼であった。彼を頼ろうと列島を彷徨い続けて来た人々を、彼は遂に助けなかった。救おうと思えば、彼の立場なら...本気になれば救えた筈だ。だが、そこまでの努力をしていない。長州を撃退し、朝廷から絶対的信頼を勝ち取り、絶頂期を迎えたもう一人の将軍が...何故田村如きを恫喝しでも...同郷の者達を救わなかったのか...。今後彼はあらゆる幕府の横槍を叩き潰すのだが、この時ばかりは積極性が見られない。

 

この事実を、冷静に見極めていた者達がいる...。

 

 

薩摩藩である。禁門の変を共に戦い、共に名を上げた西郷と慶喜であったが、薩摩は禁裏で見せつけられた一橋慶喜の手腕に脅威を覚えた。そしてこの禁裏御守衛総督の実像をリサーチし始める。特に注視したのは、この天狗騒乱に対する慶喜の仕置だ。彼等は天狗党の顛末を見届けさせる為に、トップエージェントを派遣する。

 

 

中村半次郎(後の桐野利秋)である。人斬り半次郎と言った方が分かりやすいだろうか。伝説的人斬りとして有名な中村だが、薩摩の対外工作員としても凄腕で知られていた。対長州工作においては、長州領内に中村の親派が大勢居た事から重宝がられたが、この期間彼は天狗党に関する報告を各地から西郷のもとへ送り届けている。

 

恐らく、その処刑の凄まじさに、薩摩は一橋慶喜に嫌悪を覚え、見切りを付けたのだろうと推測する。

 

(こん男に舵取りを任せてはならん。こげん情の無か男に、日本の未来を委ねるこっは危険じゃ。殲滅すべし。)

 

そう考えた筈だ。慶喜と言う男の冷酷さ、怜悧さ、ずる賢さを看破し、敵として殲滅するストーリーを描き始めた。幕府のタカ派が調子良く吹聴する独裁体制など言語道断。だが、慶喜をその連中に担ぎ上げさせた上で、この非情なる人物ごと徳川幕府を叩き潰せないか...。慶喜にはフラッグシップ...ダシになって貰い、その上で全部を攻め滅ぼす...。

 

(長州を使って、こん馬鹿どもを追い詰められんとか...。)

 

平たく言えば、そう判断した。ここに薩長同盟に至る倒幕の種が撒かれるのである。

 

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小栗上野介も登場した。武田真治氏の自慢の筋肉はともかく...実際のビジュアルは、写真の様な才槌頭が特徴的な人物であった。最近その功績が見直されている産業発展思想の先駆者。確かに、未来を見通す目に長け、経済、軍事上の着眼点は鋭い。英邁な人物だ。ただ、やはり肝心な所で腹が座っていない。僕はこの人物が佐幕派ファンほど好きにはなれないのだが、それは官僚然として高みの見物で物を言うが、最前線に出て来て戦わなかった事に起因する。殊に戦争において。

 

この後巻き起こる【長州征討】を江戸からがなり立てるのは良いが、西国諸藩を顎で使い、悪く言えば【他人の褌で相撲をとる】式の...官僚的発想で長州を攻めようとした。これは小栗に限らずタカ派の幕臣全員に言える事だ。無責任にどんぶり勘定で戦争を立案し...それを西国諸藩に押し付ける。結果、見るも無残な敗北を喫した。その際に彼等が見せた厚顔無恥な施策は、とても褒められたものでは無い。幕府の為に戦った小倉藩や、戦場となった広島藩の面子を潰し、その領民達の神経を逆撫でにした様々な行為は、西日本を倒幕で団結させる要因となった。そこに弱者や被災者に対する労りやエクスキューズは皆無である。そして対外諜報能力の低さ。これはもう薩摩と比べると幼稚極まりない。フランス公使ロッシュの讒言に騙され、空手形を見抜けなかった点でも一等劣る。薩摩のヨーロッパ駐在員達は、早くからロッシュの更迭と幕府への約束が不履行になる事を予想していた。外国における情報収集能力に雲泥の差があった。

 

いずれにせよ、これ等幕府のタカ派役人は、当時の西日本諸藩の立場から見れば、無神経且つ無責任極まりない人物達と映ったと思う。その権力に対して恐れは抱いたであろうが...。

 

そして慶喜もまた...迷走の季節を迎える。

 

 

慶喜ファンや、草彅剛氏のファンの方々には申し訳無いのだが...

 

僕はこの徳川慶喜と言う人物だけは、どうしても好きになれない。

 

勤王側、佐幕派側...様々な人物を自作品に登場させ、双方の登場人物に出来る限りの愛情とリスペクトを注ぎ込んで来た僕だが...

 

この慶喜だけは例外。何故そう言う考えを抱くに至ったかは...次回のレビュー以降で少しづつ言及して行きたいと思う。大森氏のシナリオが、この僕の固定観念を覆せるかどうか...じっくりと見定めてみたい。

 

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さて、一方の栄一だが、その才覚で順調に出世を果たす。遂に軍制御用係・歩兵取立御用係に任命される。彼の周旋の才を考えれば、当然とも言える人事だが...彼を取り巻く家族とのやり取りが、唯一ホッとさせてくれる瞬間であった。吉沢亮のパートは、コミカルな部分も交えてくれるので見ていて実に楽しい。

 

そんな彼には、新たなミッションとして一橋領である備中での農兵徴募の任が与えられる。

 

阪谷朗廬との面会のシーンは微笑ましかった。僕は阪谷朗廬に関しては失礼ながら、ほとんど知らなかった。調べてみると中々に興味深い人物だ。何とあの...大塩平八郎の門弟であった!教育者として名を馳せ、息子の芳郎は大蔵大臣、東京市長を歴任している。

 

この阪谷塾のツテで兵を確保し、栄一はミッションを成し遂げてみせた。

 

やはり、彼は運が良い。

 

やばい時には...何か自分を助けるミッションが必ず充てがわれ...良い方向に向かって動き出して行く。不思議な力と言えなくも無い。彼の人徳の為せる業なのだろう。

 

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英国公使パークスが登場。

 

 

恐らく、この写真を元にあの俳優をチョイスしたのだろうが、ここだけは全然ダメ!来日時のパークスは前任のオールコック老人とは打って変わり、新進気鋭の37歳。野心バリバリの若手のトップだった。あれではジイ様だ...。ここはバッサリ不合格。

 

家茂と和宮の別れのシーンは...

 

まあ、以前書いたから、もうええか(笑)...。

 

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今回はそんな所ですね。次週以降...あの難儀な慶喜をどう表現して切り抜けるのか...大森氏の技の見せ所となります。

 

☆☆☆!

 

次週に期待する。