老中・安藤信正について思うこと 〜 坂下門外の変とその後の人生 〜 | MarlboroTigerの【Reload the 明治維新】

老中・安藤信正について思うこと 〜 坂下門外の変とその後の人生 〜

 

今日は坂下門外の変で被害者となった人物、磐城平藩第五代藩主・安藤信正について触れてみたい。

 

前回の【青天を衝け】第十話で、ちょろっとだけ登場した。演じていたのは岩瀬亮さん。中々知性的な風貌の俳優さんだ。40歳だと言う。実際に襲撃された時の安藤の年齢が42歳だから、年齢的にはベストマッチと言えるだろう。この肖像画を見た感じでも...銀行とかの支店長に居そうな...理知的な人物像を想像させられる。

 

大老井伊直弼によって引きたれられ、老中に昇進した。小大名の出世コースとしては、絵に描いたようなエリートコースである。だが、老中になった直後に井伊が暗殺されてしまう。

 

老中になる前の前歴は...

 

寺社奉行加役を経て、若年寄。この若年寄就任も井伊政権下であった事から、井伊にとって相当にその手腕が期待されていたと想像される。磐城平藩江戸藩邸で生まれ、家督を継いだのは27歳の時。そこから順調にステップアップして13年後にトップに登りつめたのだから、それはそれで大した物である。

 

 

写真は看板で再現された磐城平城のありし日の姿。どうやら、一部復元計画が進んでいるらしい。安藤氏の居城であった。

 

磐城平藩は、江戸期に入ると領主が四度変わった。鳥居、内藤、井上、そして安藤。落ち着いたのは安藤氏が美濃から国替で入って後...つまり維新前100年程の間だろうか。歴代藩主の中で、最も有名なのは...当然ながら安藤信正となる。磐城平の地名は、元々は岩城平と記されていたのだが、鳥居氏が関ヶ原で敵方に与した岩城氏の名が残るのを嫌い、磐城へと変更した。

 

六万七千石と言うから、それほど大きな藩と言う訳では無い。老中を輩出するには手頃な大きさの譜代大名だったと言う事だ。

 

信正の老中就任は国許も藩士も嬉しかったろう。だが本人はどうだったか...。

 

生きた心地がしなかったんじゃ無いかな。

 

老中になった途端に、桜田門外の変。恩人である井伊は、死後寄ってたかって悪者にされてしまった。周囲の空気の激変に、普通の人間ならば気づくはず。【井伊の悪政を正すべき!】幕閣も諸藩も世論も、それ一色。だから彼は路線を変更した。穏健政策に舵を切り替える必要があると判断した。前政権の強権的な政治を否定し、公武合体に邁進しようとしたのは仕方が無いと思う。ここで井伊路線を踏襲すればどの様な混乱に陥るか、安藤ほどの人物なら簡単に予測出来たろう。

 

だから長州の長井雅楽が提唱する【航海遠略策】に飛びついた。和宮の降嫁を何としても実現し、朝廷と幕府が手を携えて難局に当たろうする上で...尊攘派のもう一つの総本山と目されていた長州から、思ってもいない妥協案が提示されたのだ。これを採用し、挙国一致...その狙いは間違ってはいなかったと思う。僕が彼の立場なら...やはりそう考えただろうし...。

 

対外政策や、金貨流出の問題、物価高騰問題にも手を打ち、一定の成果を上げてみせた。そう言う意味では、もっと評価されて良い人物だと思うのだが...。そこは政治と言う物の持つ恐ろしさ。政敵や思想家、活動家が彼を窮地に追い詰めて行く。集団ヒステリー状態となった水戸勤王派の恨みの深さを読み間違った側面もあるだろう。もう、やる事なす事当時の尊攘派は安藤対馬守が気に食わない。少々妥協案を考えただけでは感情的に収まりがつかないのだ。まして嫌がる天皇の妹を将軍に嫁がせるなどと言うストーリーは、国粋主義者にとっては恰好の攻撃材料にしかならなかった。

 

だから襲撃されてしまった。

 

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井伊大老に次いで、二度目だからね。『何をやっとるんじゃ?』と世間から白眼視されても仕方が無い。襲撃部隊を軽く返り討ちにし、こちらは無傷で敵方が全滅と言うなら話は別だが、安藤自身は背中に傷を負わされてしまった。この事が当時の倫理観に照らし合わせれば何とも格好が悪かった。武士が背中を斬られると言う事は、敵に後ろを見せた事と同一視される。それは一般の武士であっても、大名、老中であっても同じ。新選組ならば、死罪が適用される。

 

こうなると...お仲間の幕閣も容赦しない。またぞろ手の平返しだ。

 

女性問題、ハリスとの収賄疑惑...現代のゴシップと変わらぬ力学が働き、安藤をジワジワと追い詰めて行く。極め付けは期待していた長州が長井を罷免。再び藩論が尊王攘夷に戻ってしまった事。これにより、もはや公武合体へのソフトランディングは夢のまた夢に終わってしまう。

 

結果、二万石を削減され、隠居・謹慎。

 

 

運が無かったとしか言いようが無い。もう少し早く生まれていれば、名老中と讃えられる目もあっただろうに。

 

これだから老中職と言うのは怖い。『殿が出世された!』と諸手を挙げて喜んでばかりはいられないのである。在任期間中...とにかくノーミスで走り終えなければ、それは藩全体への厳罰となって降り掛かって来る。そう言うリスキーなものなのだ。磐城平藩士達の落胆は、凄まじいものであったろう。

 

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安藤信正は、その後家督を長男に譲ったのだが、その後継が直ぐに死去してしまう。そして更に甥の信勇を藩主とした。だが信勇は幼かった。実質的には信正が藩政をリードせざるを得なかった。

 

そして...

 

戊辰戦争に巻き込まれる。

 

 

今日の投稿を書く気になった理由は...

 

磐城平の戦いに、僕が書いた戊辰戦争小説【海神のレクイエム】に登場させた官軍諸藩兵が戦闘のメインとして登場するからだ。つい最近、市川船橋戦争を描いたことにより、岡山藩、佐土原藩、福岡藩の兵士達が奥羽の戦争を前に...既に実戦の経験を積み、相互連携が相当にレベルアップしていたことに気付いた。下総、上総を平定し、更には上野戦争を経て彼等は浜通りへと送り込まれて来たのだ。もう、ズブの素人では無かったと言う事。

 

この、元東海道軍と呼ばれた官軍の兵士達に立ち向かったのが安藤率いる磐城平藩兵と奥羽越列藩同盟の諸藩兵であった。序盤の戦闘では、かなり互角に戦った。その勇敢さは大したものである。だが、白河城から猛将板垣退助が督促に現れ、戦況は一変する。たった一日で磐城平を落とせと、凄まじい檄を飛ばし、この方面の官軍諸将に凄まじいプレッシャーを与えた。

 

 

北関東を平定し、白河城を奪取した旧東山道軍の主力部隊は、浜通り諸藩に対し調略の手を伸ばし、電撃的な作戦行動で近隣諸藩を攻略していた。白河口軍としては、何としても平潟から上陸した太平洋側の官軍と歩調を揃え、一日も早く北上を開始したい。その為には是が非でも磐城平を降伏させる必要があったのだ。

 

そして磐城平は陥落する...。

 

その顛末に興味のある方は、拙作【開闢の光芒】の下記二話をご一読頂きたい。

    ↓

 

 

いずれにせよ、磐城平藩は敗北し、降伏。信正は一旦城からの脱出には成功するるのだが、やがて投降。彼は新政府の前に、またまた罪人となってしまった。罪が許されたのは明治二年の事であった。

 

逝去したのは二年後の明治四年。享年52歳。老後などと言う物は全く存在しなかった。何と言うか...あまりに可哀想な人生である。

 

この人の人生を思う時、出世すると言う事が本当に幸せなのかどうか...分からなくなる。一国のトップにまで上り詰めながら、この顛末。最晩年、彼の胸に去来したのはどんな想いだったのだろう。

 

 

写真は福島県いわき市、良善寺にある安藤正信の墓。

 

好事魔多しとは言うけれども、この人の場合...余りにも振れ幅が大き過ぎる...。まさに一寸先は闇。人生の教訓と思えるのだが、如何であろう?