第十四代将軍 徳川家茂 〜若きプリンスの肖像〜 | MarlboroTigerの【Reload the 明治維新】

第十四代将軍 徳川家茂 〜若きプリンスの肖像〜

 

今日は...

 

ちょっと趣向を変えて...ロマンチックなお話しをご紹介しよう。女子萌え胸キュン・ストーリー。

 

第14代将軍、徳川家茂。NHK大河ドラマでも描かれているが、気品ある年若い将軍様だ。彼が愛した妻・和宮とのロマンスは様々に語られているが、本当に仲の良い夫婦だったらしい。

 

家茂の父は第13代紀州藩藩主・徳川斉順。一橋家同様、将軍を出す権利を有していた清水徳川家から養子として紀州藩に迎えられ、藩主となった人物だ。父は第十一代将軍徳川家斉。紀州藩主であった期間は21年間と言うから、かなりの長きに亘って君臨していた事になる。49歳で亡くなってしまうのだが、死の間際、子を授かった。家茂の前にも長男が誕生したのだが、死産であった。名前も付けられていない。そう言う意味では念願の初の男子の誕生だったのだが...その誕生を見る事なく斉順はこの世を去った。そして生まれて来たのが、紀州藩第13代藩主・慶福(後の家茂)であった。祖父は前述した様に将軍である。生粋のサラブレッドと言って良い。

 

江戸藩邸で生まれ、江戸藩邸で育ち、江戸藩邸で藩主となった。彼は生涯で一度も紀州に足を踏み入れた事が無い。そう言う意味では都会人であり、本当のボンボンだ。宝物の様に大切に育てられたのは間違いない。四歳で家督を継ぎ、五歳になって元服した。彼が紀州藩主だった期間は9年と二ヶ月。十四代将軍となったのが13歳の時だから、紀州藩主時代はずっと子供だったと思えば良い。

 

子供の頃は風流な子供で、池の魚や籠の鳥を愛でる事が多かったらしい。心根が優しく、将軍となってからも書を教えていた書道の先生が高齢の為失禁してしまった際、とっさの機転で頭から水を掛けて悪戯に見せ掛けたらしい。将軍の前で粗相を犯せば厳罰に処せられる。それを察しての行動であったらしい。助けられた書家は号泣したと言う。

 

肖像画の通り、面長で鼻の高い人物だったと言う。

 

冒頭の肖像画の下書きは天璋院(和宮の義母)や和宮にもチェックを受けていると思われ、かなり精度が高い肖像だと思われる。当初洋装であった事に和宮がクレームを入れ、描き直させたと言う逸話が残っている。

 

 

この絵もまた家茂の風貌を良く捉えている。歌舞伎役者ばりに高い鼻梁が特徴的だ。凛とした出で立ちは若々しく、精気に満ち溢れている。

 

もう一枚...

 

 

勝海舟等が絶賛したのは、こちらの方だろう。歴代の将軍の肖像画の中でも、どこか初々しさを残し美少年然として描かれたのは彼だけだろう。

 

優しい人物であった。

 

京から嫁いで来た和宮に対しては、とにかく優しく接したらしい。寂しい思いをさせない様、常に言葉を掛け、世間話で和ませては微笑んでいたと言う。側室は置かず、和宮だけを愛した。その仲睦まじい様子を、和宮の侍女が日記に残している。家茂は和宮に金魚やかんざしを贈り、和宮は家茂に菓子を差し入れする...。

 

甘党であった。羊羹、金平糖、氷砂糖、モナカ、カステラ...お菓子に目がない将軍であった。一説によると、彼の死因は虫歯による脚気衝心だったと言われている。甘い物好きが祟ったのかも知れない。

 

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紀州藩士にとってみれば、自慢の将軍様であったろう。藩主時代にどれだけの藩士が目通り出来たかは分からないが、皆子供の頃の家茂の姿を記憶している。あの可愛らしかった藩主が、将軍になったのだ。鼻高々であった筈だ。それが井伊直弼の布いたレールによってもたらされた物だったとしても...将軍としての器は確かに持っていた。

 

紀州藩士にしてみれば、御三家の中でも自藩は別格だと自負している。当然である。八代将軍吉宗を筆頭に、この時代の将軍家の血筋はほぼ紀州系と言って良い。他の二家はこの時点に至るまで一人の将軍も出していないのだから、天狗にもなろう。

 

『御三家言うてもやな...残りの二つは紛いモンや(笑)。真に将軍家の親戚言うたら、ワシ等しかあらへんがな。』

 

口に出さずとも、皆思っていた筈だ。恐らくは見下していただろう。特に藩祖徳川頼房の血を神格化するあまり、将軍家との血の交わりを避け続けた水戸藩などは親戚とも思っていなかったろう。

 

『水戸?遠縁も遠縁...話にならんわ。あっこは変わっとるしよ。近しいモンなら、外様でもようけおるで...。』

 

...ってな感じだろう。とにかく将軍家と言えば、紀州。紀州と言えば彼らの中では将軍家なのである。

 

彼らの脳裏には立派に成人した若きプリンスの、気品に満ちた姿が常に浮かんでいたであろう。

 

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そんな優しき将軍にとって...

 

やはり、彼の存在は恐ろしかったろう...。

 

 

一橋卿慶喜。十四代将軍の座を争った、まさに仇敵とも言える男の存在。9歳年上のこの人物は、生まれも育ちも全く違う。皆が危険視する尊王攘夷の母国、水戸藩から養子で一橋家に入り...官僚的気風の中で育ち成人した。マキャベリズムの権化の様な人物だ。家茂が16歳の時、謹慎が解かれた慶喜は将軍後見職となった。この時慶喜は25歳。この年齢差を考えた場合、面と向かって慶喜と向き合う事は,,,十六歳の少年にとっては怖かったと思う。安政の大獄のトリガーとなった因縁の相手で無かったとしても、高校一年生の少年が海千山千のやり手ビジネスマンと会話をしたらどうなるか...想像してみて欲しい。家庭教師どころの話では無い。

 

『上様...この度のご上洛に際しましては、不退転のご覚悟で臨んで頂けねばなりませぬ。帝との折衝におきましては、不肖この慶喜が如何様にも尽力仕りましょう。上様には、決して臆す事なく諸侯をお導き頂きたい。夢夢、公卿共の讒言を信じたりなさらぬ様...。』

 

等と能面の様に無表情で呟かれては、何も言い返せなかったのでは無いか。眼光鋭く、愛想笑いもしない。腹の中で何を考えているか分からない人物に...思春期の男の子なら恐怖を抱く。慶喜とは家茂にとってそう言う存在だった。

 

二年後、慶喜は禁裏御守衛総督に転任する。幕末期にのみ存在したこの職種は、幕府の指揮命令系統から独立したアンタッチャブルな職種で、京都守護職や京都所司代と共に京都の治安維持を任されていた。半ば朝臣とも言うべき特別職である。明確な序列は存在しなかったのだが、自然慶喜をトップに松平容保(会津)、松平定敬(桑名)を配下に従える様な格好となった。この政権を【一会桑政権】と呼び、幕府とて手出しの出来ないもう一つの政権として認知されていた。ガンダムで言えば、ティターンズやジュピトリスの様な第三勢力を想像すれば良い。慶喜は京におけるもう一人の将軍と見なされていた。

 

大名でも色んな出自の人物がいる。

 

井伊直弼の様に、三十を過ぎるまで一般人として生活していた者も居れば、徳川斉昭の様に豪放磊落で性に奔放な江戸在住の大名も居る。そして慶喜の様に官僚的雰囲気の中で親の愛を知らずに育った者も居た。家茂の場合は、ある意味【籠の中の鳥】の様に育てられ、純粋培養のプリンスとして将軍にならざるを得ない人生であった。

 

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そんなプレッシャーの中で、家茂にっとって和宮と居る時だけが心休まるひと時だった筈だ。彼女だけが、自分と同じ【鳥】なのだと...理解していた様に思う。

 

 

和宮親子内親王は家茂と同い年。生まれた月も同じで、二週間ほど早く和宮が生まれた。将軍家に嫁ぎ、大奥に入ったのは15歳の時だ。怖かったろう。許嫁も居た。本来ならば有栖川宮家に嫁ぎ、何不自由なく暮らせた筈だ。だが、時代の流れがそれを許さなかった。彼女は朝廷と幕府の架け橋となるべく、江戸へと差し出された。政略結婚中の政略結婚。そこに自由意志などある筈も無い。

 

だが、結婚相手に恵まれた。正直にそう思う。彼女の苦しい胸を内を最も理解する人物が結婚相手だったからだ。同い年の...今日で言えば中学三年生同士。夫となるべき人物は、乱暴者ではなく、とてもスマートで風流で、優しい清潔漢であった。【箱の中で生まれ、そして死ぬ。】そのお飾りとしての生き方を、最も理解してくれるのは夫だったと言う事だ。武家の棟梁とはもっと恐ろしい人物だと想像していたと思うが、実際はまるで違っていた。家茂は最大の愛情でもってこの皇室出身の嫁を愛し続けた。

 

恋愛の様な、夫婦生活だったのでは無いだろうか。互いの運命を受け入れ、同じ価値観を作り上げようと努力した。同い年同士...労わりながら過ごしていたのだと思う。

 

結婚後、翌年には家茂が最初の上洛を果たす。家光以来229年振りの将軍上洛であった。3月7日に参内。天皇の御前で攘夷を約束する。孝明天皇、一橋慶喜と共に賀茂神社に参拝するが、その際有名な高杉晋作による『いよっ!征夷大将軍!』と言う掛け声を浴びせられる。

 

悔しかったろう。17歳のプリンスが、たかが外様大名の一家臣に歌舞伎役者並みに囃し立てられた。幕府の権威がここまで失墜してしまっている事を、初めて痛感させられたのでは無いか。

 

滞在は三ヶ月。帰路は蒸気船に乗って大阪より江戸へ向かった。

 

和宮との甘いひと時は長くは続かなかった。

 

1865年5月16日、長州征伐に向かう為、家茂は品川から軍艦に乗り大阪へと旅立った。それが二人の永遠の別れとなった。互いにまだ...18歳であった。可哀想な夫婦である。現代で言えば、彼らが共に過ごした期間は、高校一年生から高校三年生までの間だ。人生の最も多感な時期に出会い、夫婦となり、そして時代の激流によって引き裂かれてしまった。余りにも残酷である。

 

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徳川家茂はこの二年後、大阪城にて病死する。長州との戦争の真っ只中での出来事であった。満二十歳であった。勝海舟はその悲報に接し【徳川家、今日滅ぶ】と記した。全幕臣にとって痛恨の出来事であったろう。

 

和宮は維新後一旦京都に戻ったが、明治七年には再び上京。東京に住まいを移した。しかし夫と同じ脚気衝心を患い、明治十年31歳の若さで永眠した。

 

昭和三十三年から始まった徳川将軍家墓地改葬の際、和宮の棺の中から、一枚の写真が発掘された。その写真には若い男性の写真が写っていたと言う。検証のため外に放置した僅かな間に、湿板写真は日光を浴びてその画像を消失してしまった。発掘した歴史学者の山辺知行の記憶によれば、写真の男性は長袴の直垂に烏帽子をかぶった若い男性で、豊頬でまだ童顔を残していたと言う。月代は剃らず、前髪を残したままの若き青年。恐らくそれは亡き夫、徳川家茂の写真であったと推測される。

 

十四代将軍の姿は...失われてしまった...。だが、そうなる事で...家茂は永遠に和宮だけの物となった。そう考えれば、なんともロマンチックな話しでは無いか。僕はそれで良かったと思う。彼等が天で再び再会出来るのなら、我々が気付く事無く和宮だけに夫を見付けさせてやりたい。

 

あの世では...幸せな日々を送っていて欲しいものだ。

 

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以上。胸キュンラブストーリーでした(笑)。

 

ガラにも無く、ベタな恋愛事情を書いてしまった(笑)。

 

まあ...そんなウンチクを頭に入れとけば...次回からの【青天を衝け】も楽しめるでしょ?

 

お楽しみあれ♪