幕末における美女とアイドル文化の源流について | MarlboroTigerの【Reload the 明治維新】

幕末における美女とアイドル文化の源流について

 

美しい...。それ以外の言葉が見つからない。

 

写真の人物は、陸奥亮子。カミソリ外務大臣と呼ばれた陸奥宗光の夫人である。正確に言うと、先妻が死去した後に妻となった人...つまり後妻さんなのだが、そんな事はどうでもいい。こりゃ、溺愛したのも頷ける。海援隊士から成り上がり、明治新政府の重鎮にまでなった陸奥ともなれば...かように美しい美女を妻にすることも出来たと言う事だ。実に羨ましい。

 

彼女は旗本の長女として江戸に生まれた。維新後、東京にある柏屋の芸者となり、小鈴と呼ばれた。板垣退助が熱を上げた小清とならび【新橋の双美人】と讃えられた。同地で一、二を争う美貌の持ち主だったと言う事だ。ただ男嫌いという評判があり、身持ちが堅かったらしい。そこを口説き落としたのが陸奥。明治5年17歳だった小鈴は、客である宗光の妻となった。おいおい...犯罪やろ!!

 

まあ...明治5年なら...陸奥は29歳...。年齢的にはまだ若いから許せるが...現代なら、ピチピチの現役女子高生アイドルに手を出したようなもんだ。一回り年下の若い美少女との新婚生活...羨ましい...。

 

陸奥は明治11年に政府転覆運動に荷担した疑いで山形監獄に収監されるのだが、亮子は刑期が明けるまで懸命に子育てしながら夫を支え続けたらしい。この時期、妻に向けて大量のラブレターを獄中から陸奥は送っているのだが、さもありなん。これだけの美女ならば、気になってしゃーなかったはず...。のちに【鹿鳴館の華】、【ワシントン社交界の華】と呼ばれたのもこの写真を見れば頷ける。

 

兄貴分であった坂本龍馬の奥さんも別嬪さんであった。

 

 

ご存知、楢崎龍。坂本龍馬の嫁さんである。さすがはドラゴンの名を冠する京女。一見して手強そうなツンデレ系の美女である事が分かる。意志の強そうな、力強い視線だ。あの龍馬が尻を敷かれたのも...なんとなく分かる気がする。彼女も現代的風貌の持ち主だ。やり手のセールス・レディーとかに居そうな感じがする。令和なら、スーツが似合いそう。

 

 

幾松さんである。言わずと知れた、木戸孝允公の妻。新選組の魔の手から、旦那を守り切った。肝の据わった京美人だ。東山の霊前寺...維新の道の墓地のテッペンに...夫と一緒に眠っていらっしゃる...。ヘアスタイルを現代風にしてみれば、やはり美人だ。ロングヘアが似合いそうだ。

 

幕末の志士なんてのは、本当に女好きが多い。みんな芸妓や茶屋の娘に手を出しては...擬似自由恋愛に夢中となった。僕はかつて下関で幕末の英傑が一堂に会したシーンを描写した事があるのだが、もうほとんど全員...その道のプロ(笑)。桂小五郎(木戸孝允)、高杉晋作、坂本龍馬、伊藤俊輔(博文)、井上聞多...全員彼女は芸妓か茶屋の娘である。

 

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江戸時代のアイドルとは...即ち、芸妓か茶屋娘であったと言う事をご紹介したい。

 

 

これは、我が地元...千葉市美術館に伝わる【茶屋娘見立番付表】(笑)!!

 

恐れ入ったか、乃木坂、AKB!!総選挙くらい、江戸時代からあったっちゅうねん。メイドカフェの文化なんざ、この時代からありましたと言う証拠でござーーーる。頭が高いっ!!

 

まだ写真が無かったとしても、ブロマイド代わりにこれがあった。

 

 

評判の美少女は浮世絵となって、大量印刷され書店に並ぶ!

 

そう、この当時からグラビアは本屋さんの花形だったと言う事。歌舞伎役者の芸能物もあれば、力士を描いたスポーツ物もある。昔から我々のご先祖は漫画大好きだったのだ。

 

エロ本だってあった。

 

 

春画と言う奴だ。青少年が見ている事も考慮し、余りにも生々しい物はお見せ出来ないが...相当エグい。こう言う物が平然と並んでいた。現代なら、完全にアウト(笑)。ポリさんに連れて行かれる。そんなレベルの物も多い。

 

日本と言う国は性に関しては、非常に緩い...と言うか、おおらかと言うか...寛容的でオープンな国であった。男女がスケベなのは何も今に始まった話では無い。昔の方がいやらしかった。

 

この頃にもラブホテルくらい存在している。

 

 

出会い茶屋と言うのが、それだ。まあ...もう不倫の温床ですわ。貞操観念は、ここでは無用(笑)。一番有名なのは、私が修行地としている上野寛永寺の前ですな。不忍池!!ここ周辺の茶屋は...まさに...ラブホ。昼間っから不埒な若い奴らがイチャイチャイチャイチャ...。この令和の時代に、そんなんやっとってみい...おっちゃんは絶対に許さんからな!観音様の御前やっちゅうねん!!この罰当たり共めがっ!!成敗してやります。どっかの将軍様みたいに公開処刑してやります...多分(笑)。

 

しかし...そんな私の悲痛な叫びはどこへやら...当時の感極まったカップルは燃え上がる。更に燃え上がったバカップルになると...舟をチャーターし...隅田川に漕ぎ出して行く。

 

そして船上で...

 

 

こんな事をやっておりましたとさ...。

 

イメージ変わるでしょ(笑)?私達のご先祖様も...アホばっかりやったと言う事(笑)。ちょっと気が楽になったんじゃないだろうか?四角四面の封建時代と思ったらトンデモ無い。相当にワイルドだったのだ、江戸時代の日本人は。だからね...僕(あたし)はスケベなのかも...と悩んでいる若い諸君。気にすんな。昔の奴らの方が相当にスケベだ。ムラムラしてしまうのは我々の中に眠るDNAのせいだ。諸君らが悪いのでは無い。ただ、公衆道徳はわきまえろよ。

 

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明治になって外国人を受け入れる様になると、とにかく公衆道徳を守らせるのに必死だったらしい。最大のターゲットは立ち小便男子。これは江戸時代には当たり前の風景で、それも通行人に見せ付ける様にシャーーーッと景気良くやる(笑)。現代なら、女の子は『キャーーーーッ!』と叫んで逃げ惑いますわな?ところが、江戸時代は違う。ギャルもそれをガン見し...『今日は巨根を見たから、運気がいいかも♪明日は晴れるわよ♪』などと言って、キャッキャと騒いでいた。政府もこの風習を無くすのに相当手こずったとか...。

 

そう言やぁ、僕が小さい頃には...駅のホームには【タン壺】と言うツボが置かれていた。タンが絡んだおっちゃんが、『カーーーッ!ペッ!』と痰を吐き出す為の設備であった。線路は吸殻で埋め尽くされとったもんな...。40年前でも、そんなもんっすよ。

 

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そんな江戸時代と言うワイルドな時代...

 

女の子の在り方も当然今とは全然違う。遊び人は少なく、一般家庭での貞操観念は勿論厳しかった。良家では悪い虫が付かない様に箱入り娘として育てられ...親によって純血は守られた。

 

しかし...

 

箱入り娘と呼ばれ、チヤホヤされるのも若い内だけ。適齢期を過ぎると、親の方が焦り始め...屋敷の離れを用意して娘を隔離。一人で寝かせる様になる。目的?今度は悪い虫が夜這いをかけてくれる事を期待して、放っておくのだ(笑)。年増になって嫁の貰い手が無くなる前の最終手段。一撃のチャンスに賭ける!

 

夜這いに来た若い衆は、タダでエッチが出来るのだから喜んでやって来る。問題はその後。子供が出来れば否応無しに結婚せねばならない。これが掟である。複数の男性と関係があった場合、パートナーの指名権は娘にある。『あの人がこの子の父親!』と指名されればもう逃げ場は無い。指名された者は潔く男のケジメを付け、彼女を女房として受け入れねばならないのが、この時代のルールであった。

 

都会だけでは無い。田舎の村落にも、ちょっと良識を疑う様な奇習と言うか風習と言うか...エッチな文化が根付いていた。恐らく昭和の初期くらいまでは...想像を絶するエロ文化が各地に残されていたと思う。(詳細の説明はやめときます...笑)

 

下ネタばかりでは無い。江戸時代の人間は残酷なシーンに対する耐性があった。罪人の処刑は公開処刑だったし、戊辰戦争では相手を倒したら首を上げねばならない。それでしか戦果を申告出来なかったからだが、戦闘が一旦落ち着くと戦場に戻って死にかけている敵兵を探す。で、帳尻合わせにちょっと拝んで殺してやる。ほんでもって、首を落として腰に吊るす。『しまった!首桶代...藩に請求するの忘れてた!』『馬鹿、お前!さっき軍監殿が言ってたろう、まだ間に合うから早く本陣に行って来い!』で、首桶の料金が藩から支給されるのを待つ。仮払いもありだ。首桶請求伝票なんて、腐るほど残っているからね、我が国。さらに、めちゃめちゃ強い勇者を倒した時は、その相手の肉を食う事もあった。調理法は分からないけど、各種証言が残されている。

 

【首刈り族】ってのは...何の事は無い...150年前の我々日本人の姿でもあったと言う事。

 

現代人からすると仰天する様な残虐性を、当時の日本人は持っていた。今でこそ先進国ヅラして偉そうにしているが、数世代前にはこれだからね(笑)。ほんと、スケベで、バイオレンスで、小汚い民族だった。良くここまで綺麗好きになったもんだと思う。サッカーの試合後のゴミ拾いなんて...当時の日本人が見たら卒倒するのでは無いか。

 

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まあ、もちろん当時の日本人全部が全部がワイルドでスケベでだった訳ではない。誤解無きよう(笑)。本屋さんに置かれていたのは春画がメインでは無い。それは裏の方にこっそり置かれている。現代と同じだ。【青天を衝け】に描かれていた様な時事問題を扱った雑誌もあれば、西国巡礼のガイドブックやグルメ本、旅行のガイドブック、ファッション雑誌、歌舞伎役者のビジュアル本、力士の名勝負を描いたスポーツ雑誌...なんでも置いてあった。大衆文化が世界に先んじて確立されていたのだと、主張しておきたい。Numberも週刊大衆も、Flashも、女性自身も何でも置かれていたと言う訳ですわ。当然もう、ゴシップだらけ(笑)。西洋諸国なんかは...まだ説教臭い宗教画しか描いて無かった時代に...エロ雑誌まであったんだからね(笑)。モネやゴッホが何故ジャポニズムに飛びついたか...ちょっとはお分かり頂けるだろう。大衆文化先進国だったのだ、我が国は。

 

春画に関しても、インパクトは大きかったと聞く。アメリカにそれを持ち込んだ際、現地の夫人達は顔を赤らめて激怒したらしいのだが...夜こっそり買いに来たなんて微笑ましい話しも残っている。現代のポルノ先進国ですら、当時の日本には勝てなかったと言う事。表現の自由が確立されていた。

 

そんなお国柄だったので独特のアイドル文化が育って行った...。スポーツ、芸能、グルメ、美男、美女...あらゆる物が番付となって回覧され、ランク付けされる。

 

街で評判になった女の子は...

 

真っ当な芸能界事務所が存在しなかったこの時代...

 

 

アマチュアイズムを残したまま、神格化されて行った訳だ(笑)。

 

春画の様なエロ本とは一線を画す...爽やか系グラビアの代表格として...高名な絵師に描かれ...浮世絵となり...大量に増刷されて、噂が噂を呼ぶ。そしてスーパーアイドルになったのである!ブロマイドを見た男の子達は、噂の美女を一目でもいいから見てみたくなり...茶屋へ通う(笑)。(女性の場合は歌舞伎役者やろね、やっぱり。)

 

いつでも会いに行けるアイドルの原型と言って良いだろう。

 

『おおっ!あれが看板娘のお富かっ!!』

 

...ってな感じで茶屋へ行って...高い饅頭を食いまくるっちゅう...現代のメイドカフェと同様【推し】へのアピール合戦が既に始まっていた。現代のオタよろしく、金を落としまくった兄ちゃん達も大勢いた事だろう。

 

そう言う視点で、幕末期の美女達を見ると...

 

 

...萌え...♪

 

みんな可愛い(笑)♪

 

まあ...昔から...美人は得だったっちゅう事かな...。彼女らのビジュアルは今でも通用してしまうから恐ろしい...。

 

唐人おきちで有名な斎藤きちさんは、こんな感じ。

   ↓

 

ええ女や...。

 

そしてシーボルトの娘イネの子...楠本高子さんはこんな感じ。クオーターやね。

   ↓

 

たまりません。K-POPアイドルに居てそう...。

 

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ん?誰が好きかって?

 

亮子ちゃん(笑)。100%【推し】です。

 

なんのこっちゃ(笑)?幕末エロ談義&美女コンテストみたいになってしまった。

 

まあ...そう言う事ですわ。幕末で恋愛を描く場合...これらのビジュアルやら、ウンチクを駆使して志士と芸妓のイチャイチャシーンを描けば...何となくリアルに書けるんじゃない?

 

僕の小説?

 

恋愛なんざ、一切描かねーよ(笑)。男の戦いのみ!

 

今日は幕末の美女と、アイドル文化の源流について書いてみた。信じるか信じないかはあなた次第としておこう。

 

まあ...早い話しが、今も昔も男っちゅうのはどうしようも無い生き物と言う事(笑)。

 

男の維新(!)も、地に落ちたって事ですな...お後がよろしいようで...。