始まりの場所 長谷寺への想い(2)【西国三十三所巡礼の聖地としての長谷寺】 | MarlboroTigerの【Reload the 明治維新】

始まりの場所 長谷寺への想い(2)【西国三十三所巡礼の聖地としての長谷寺】

さて、昨日は仏教芸術の殿堂としての長谷寺をご紹介した訳ですが、今回は西国三十三所の歴史についてお話ししたいと思います。そもそも何の巡礼なのか...ご存知でない方も多いでしょうからね。
 
観音巡礼の始まりを理解して頂くには、上の絵を見て頂くのが一番手っ取り早い。奈良時代にとある僧侶が体験した不思議な出来事から始まりました。
 
長谷寺に徳道上人と言うお坊さんがおられました。ある時、上人は病に伏せ危篤状態に陥ります。その時、臨死体験と申しましょうか...仮死状態となったまま冥府を彷徨います。そこで閻魔大王に目通りする事となった上人は、次の様に大王から告げられます。
 
『徳道よ...お前がここに来るのはまだ早い。お前をわざわざ呼んだのは、頼みたい事があるからだ。ここの所、人間界は荒み切っておる。お陰で地獄に送らねばならない人間が増えるばかりだ。そこでお前は現世に戻り、観音霊場を作るが良い。観音霊場を巡る事で一切の罪は許し、極楽往生を約束しよう。』
 
閻魔大王も困っていたのでしょうか。次から次へと地獄行きの人間が送られて来る事に嫌気が差していたのでしょう。観音力によって救済される道がある事を徳道上人に示してみせます。
 
『とは言われましても、大王様。何も証が無ければ、誰も私の話しなど信じてくれる筈もありません。どうしたらよろしいでしょう?』
 
『そうだな...。分かった。結願の証として私が法印をお前に与えよう。それを持ち帰り、観音霊場を開くのだ。分かったな?』
 
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この絵はその法印授与の瞬間を描いております。
 
そして徳道は蘇生し、地獄から生還します。気付くと、約束の法印が手元にあったと...
 
これが西国三十三所巡礼の基本設定です。【閻魔大王と徳道上人の約束】ありき...そこから始まった巡礼である事を抑えておきましょう。
 
 
兵庫県の第二十四番札所・中山寺には、この時徳道上人が閻魔大王から頂戴したとされる御朱印が掛け軸として残されています。同寺の村主元老の奥に懸けられているのがその御朱印とされています。これが日本の御朱印第一号と言えるかも知れませんね。
 
徳道上人は現世に戻った後、懸命に各地に働き掛け観音霊場を作ろうと試みるのですが、上手くは行きませんでした。まだまだ社会インフラが整備されておらず、巡礼の旅など出来る時代では無かったのです。宿場町も無く、治安も悪く、道も無い。医療も未発達なこの時代、総距離1,000kmを超える巡礼路を築いた所で誰も参拝出来ない...そう見なされてしまいました。各地の協力は取り付けられませんでした。徳道上人は失意の中、後世に夢を託す事を決意しました。頂戴した法印を中山寺境内にある白鳥塚古墳の石棺に納め、未来の人々が再興してくれる事を願ったのです。
 
 
これが中山寺の石棺ですね。ここに徳道上人は法印を隠しました。
 
三百年の時が経ち、時代は平安時代の中期になっていました。都も京に移り、人々の往来出来るエリアが格段に広がっています。そして時代背景としては、永承7年(1052年)が末法元年に当たると信じられていました。末法とは、釈迦の入滅後1,500年が経過すると人も世も最悪となり正法が行われなくなる時代がやって来る...仏教版終末論を言います。この予言された滅亡の時期は平安時代中頃にやって来ると信じられていたのです。
 
西国三十三所巡礼の復活(伝承ですが)は、これと歩調を合わせる様に姿を現します。末法の時代を迎えた日本は上へ下への大騒ぎ。皆極楽浄土を乞い願い、貴族のみならず庶民も救済を求める様になって行きます。そこでクローズアップされたのが、三百年前の伝説でした。
 
 
この人物は花山法皇。984年に即位した第六十五代天皇です。17歳で天皇になりましたが、在位は僅か二年。クーデターによって帝の地位を奪われました。史実だけを見ると、清濁あわせ持つ人物で、決して良い評価ばかりが残っている人物ではありません。ですが、西国巡礼信仰においては中興の祖とされ、我々が崇めるべき人物として定められております。
 
天皇から法皇となった若き花山院は、中山寺で法印を発掘したとされています。ここに三百年の眠りから目覚め、閻魔大王の法印は陽の目を見る事となります。観音巡礼が再興されたのです。
 
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まあ、これはあくまでも伝承。厳密に言えば、恐らくは後世の人々が都合良く作り上げたストーリーでしょう。でも、【お約束】としてこのストーリーだけは踏まえておかねばならないのです。それが伝統と言うもの。真偽は巡礼の精神とは別ですからね。
 
正確には、11世紀頃の成立でしょう。史実として確認出来る資料では、初出は三井寺の「観音霊場三十三所巡礼記」と覚忠が残した「応保元年正月三十三所巡礼則記文」。1200年代と言えば、もう平安最末期です。末法思想から浄土思想や、法華信仰も誕生し、後の鎌倉仏教へと連なる新思想が芽生えの時期を迎えつつありました。一方で観音信仰も勢いがあり、後白河法皇は三十三間堂を京都に建立し、源平の戦いが激化して行った時代でもあります。
 
そんな中で、最初に一番札所に指定されたのが...
 
現代八番札所となっている、長谷寺だったのです。
 
なぜ特別視されたか。もうお分かりですよね?
 
【始まりの地】だったからです。この地で徳道上人が閻魔大王と約束を交わした。そして観音霊場を定めようと努力した。夢叶わず未来に託した。そして三百年の時を経て、それを引き継いだ悲劇の天皇がいた。そのストーリー上最も崇められるべきは...事件現場であり、且つ天皇家とも繋がりの深い名刹である必要があります。
 
長谷寺は聖地中の聖地と目される様になって行きました。
 
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現代では一番札所は青岸渡寺に変更されています。恐らくは熊野信仰の興隆により、後白河法皇以降に一番札所になったと推測されますが、西国の札所の番号も時代によって変わっています。
 
一般庶民も参拝する様になったのは室町時代以降です。それまでは僧侶や修験者が修行として参拝していましたが、一般人には浸透していませんでした。一気にブレイクしたのは江戸時代でしょうね。東海道に宿場町が完備され、長期の旅行が可能となった。勧進、聖は全国を飛び回り、ツアー代理店として団体客を呼び寄せて来る。このシステムが完成されて後、現代の我々に連なる巡礼スタイルの原型が確立されました。
 
 
長谷寺の御朱印です。草創1300年記念の特別印も押されてますね。風格の漂う...見事な【大悲閣】。観音様は大慈大悲の菩薩様ですからね。観音堂では良く見られる呼称の一つがこの大悲閣です。上記の様なストーリーを思い浮かべれば、御朱印と言うのも実に神秘的な物に見えて来ます。
 
遥かな昔...これを定着化させようとした人が確かにいた。そして世界でも類例を見ない御朱印文化が誕生したのです。ネットが世界中を駆け巡り、利便性に右往左往する令和の世にあってもその伝統は継承されている。色あせてはいないんですよね。
 
最初はスタンプラリーの様な感覚でも、ジワジワと...頂く時の感謝の念が変わって来る。そして何度もお参りする様になる...。昔の人の感覚も一緒だったと思うのですよ。江戸時代の人も、それより前の人達も最初は浮っついた遊び感覚。それがやがて本当の信心に変わって行く...。その姿は現代の私たちと同じ様な物であったと想像します。
 
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こちらは長谷寺の直ぐ近くにある、番外札所・法起院の御朱印になります。長谷寺の門前町にありますので、長谷寺に参られた方は忘れずにお参りしておきましょう。特に遠方から西国に来られる方は、絶対にお忘れなきよう!何回も、奈良に来れないでしょ?ほんと、直ぐ近くですから必ず行きましょう。道を尋ねれば、誰でも直ぐに教えてくれるはずです。
 
 
小さなお寺ですが、ここが徳道上人が晩年を過ごされた場所になります。徳道上人の御廟もあります。創始者を敬う意味でも、絶対に外せません。
 
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今日の所は、そんなとこかな(笑)。次回は長谷寺で行われた1300年の記念法要や、その他の見所などについてご紹介したいと思います。