韓国への思い...その1 | MarlboroTigerの【Reload the 明治維新】

韓国への思い...その1

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俺が玄界灘を初めて渡ったのは1991年の早春だった。七十数年振りの大寒波が韓国を襲い、吐く息さえも瞬時にツララになる...恐ろしく寒い冬。88年のオリンピックを大成功させたアジアの新興勢力。そのパワーを体感したかった。神戸の領事館でビザを申請し、待つ事2週間...。当時、韓国への渡航はビザの発給を必要とし、今の様に自由渡航は許されていなかった。こちらからならまだ良い。韓国人には海外渡航の自由が許されておらず、未だ軍事政権下で人々は抑圧に悶々としていた。学生運動は最後のピークを迎えつつあった。女子学生が抗議の焼身自殺を計り、大通りには機動隊がガス弾を携え学生達に睨みを利かせていた。

青春18キップで下関まで移動し、乗り込んだのは関釜フェリーだ。下関と釜山を往復する日本と韓国の架け橋だった。たった五時間でこの船は玄界灘を超える。そして、税関が開くまでの一晩を、沖に停泊しながら待たされるのだ。搭乗したのは2等のBと言う最低レベルの雑魚寝部屋。日本に研修に出かけた韓国人ビジネスマンや、往路、復路も同じ船に乗り続け、両国で仕入れた製品を売り捌くボートおばさん等に囲まれ...その旅は始まった。

水平線の角度が90度近く揺れ、船内は乗客の嘔吐の声で満ち満ちている。全く、最低の船に乗り込んだもんだ(笑)。

浅い眠りから覚めると、そこには異国の風景が広がっていた。上陸するや、予期せぬ事態に面食らう。漢字が殆ど無い。中華料理店の看板くらいしか漢字が無いでは無いか...。先行きは暗い...そう思わせてくれた(笑)。

さて、何かと歴史好きな俺。国内外を問わず、旅行する時は必ずその土地の歴史蘊蓄を出来るだけ頭に叩き込む。この時も司馬遼太郎の【街道を行く】を熟読し、日韓の歴史についての本も何冊か読み込んではいた。問題になるのは強烈な反日感情だ。これは避けては通れない。友達は沢山作りたいが、相当に厳しい展開になるだろう事は十分に予想出来た。どうするか...。先ず自分に言い聞かせたのは、年配、若年を問わず、私が日本人である事に嫌悪の情を現し、罵倒する人が居ても決して抵抗しないと言う事。『昔の戦争なんて、俺等関係ないやん。』と言うテーゼは成立しない。何故なら、自分がバックパッカーとなり貧乏旅行が楽しめるのは円高のお陰である。円高は俺の前の世代達が築き上げた経済力のお陰である。日本が高度経済成長を遂げる事が出来たのは朝鮮戦争の特需のお陰である。つまり...我々日本人は、生まれた時点がどこにあれ...世代を超えて恩恵を享受していると言う事だ。その意味において、我々現代を生きる日本人もかつての戦争に連帯責任を持たねばならない。これがこの時点での俺の明確な考え。

そしてかつての我が国が与えたであろう傷を見、歴史を逆の視点から見る旅が始まろうとしていた。

釜山龍頭山公園。秀吉の軍に最も苛烈な攻撃を加え、その船団をことごとく海に沈めた韓国の英雄、李瞬臣。日本海を睨む彼の巨大な銅像の前に立ち、俺は我が祖国を逆の立場から望んでみた。頭を400年前にタイムスリップさせる...。イメージが沸き上がる...。

平和に暮らす朝鮮の人々...。突如水平線に現れる極彩色の船団。100年にも亘る内戦を終えたばかりの日本から乗り込んで来た、豪奢な鎧をまとった金ピカの兵団。小銃、刀槍で武装し、身に染み付いた殺戮の本能を全面に出し、戦闘のプロフェッショナル達が続々と上陸して来る。逃げ惑う人々、それを追う異国の侍たち。火を放ち、戦略拠点を確保、陸揚げされる武器、弾薬、食料。豊臣家の奉行、石田三成が綿密に練り上げた上陸作戦。海の向こうに延びる長大な兵站輸送の道。『倭人がやって来た!』ソウルに使者を飛ばす役人達。混乱する釜山港...。

逆の立場に立ってみて、初めて得る事の出来るイメージがある。俺はそこで、攻められる側の恐怖を体感していた。昨日の時化が嘘の様に、海は凪いで、優しいさざ波が夕日を反射させていた...。かつて、ロシアのバルチック艦隊との戦いに臨み、東郷平八郎はこの李瞬臣の霊に祈ったと言う。『偉大なる李瞬臣の霊よ、我が国を守らせたまえ...。』俺も祈った。この旅が素晴らしい物となる事を。そして少しでもいい...日韓の間に横たわる不信の溝を...埋めさせる旅にしてくれる事を...。

その2に続く...。