【この記事は、曹洞宗参禅道場の会会報『参禅の道』第76号に住職が寄稿したものの転載です】

 

「みなさん、坐禅をしなさいよ。坐禅をすれば自然に良くなるなり、ですよ。」

この言葉の主の名は、川口賢龍老師。かつて新潟県大榮寺僧堂の堂頭や大本山永平寺で後堂を勤められた禅者です。

修行の厳しさとは

この連載記事で何方を取り上げるのか、打ち合わせを重ねる中で、本誌編集長の青野貴芳師がふと触れたのが、川口老師のこの言葉でした。

青野師も筆者も共に、いわゆる「団塊ジュニア」と言われる世代。川口老師ご生前はまだ発心前で直接聞き承ったものではないのですが、青野師は宝慶寺安居当時に、堂頭だった田中真海老師から、次のような述懐を聞きました。

「参学師である川口賢龍老師は、ことあるごとに、『みなさん、坐禅しなさいよ、坐禅すれば自然に良くなるなりですよ』と壊れたカセットテープのようにくり返しおっしゃるばかりだったが、自分が年をとってみると、そういうのが良くなるんだよ」。

川口老師と同時代を生きた永平寺七十八世・宮﨑奕保禅師から、往時の峻厳な修行の様子が窺い知れる説示を賜っていた筆者としては、それとはやや趣の異なる川口老師によるお言葉に、少し意外な印象も受けました。

把住というよりも放行的、対象に自主的な働きを促すような語感の機微を感じ取り、一聴して耳馴染む清風のような余韻が残りました。

筆者は僧堂安居時代、自身が足りない道心を他律的に補っていた経験を、いつしか「他罰」と混同していたことがありました。

その立場からすると、川口老師のお言葉は、筆者を長年縛っていたものから解放するようにも感じたのです。

又聞きを重ねたものが「口伝」になる妙味に触れた筆者は、「ぜひ川口老師をご紹介したい」と編集長に伝えました。

川口老師は師家として十分すぎるご経歴である一方で、自著や聞き書きが少なく、宗門史において特段の金字塔、才気走ったり、大立ち回りの爪痕が残るような事跡はなかったようにも見受けられます。

ただしご生前に随身された方々が今なお多くご健在とあって、直接その方々へ取材することができました。そこから見えてきたのは、正にこの「没蹤跡」とも言えるような行履こそが、川口老師の禅風の真髄ではないか、ということでした。

 

川口老師の略歴

まず、簡単に経歴を紹介すると、川口賢龍(号 呑海)老師は1829(明治25)年、新潟県中蒲原郡村松町(現在の五泉市)の出身。大榮寺二十九世・佐々木珍龍老師の真弟子(愛弟子)として幼少期から過ごし(大榮寺の寺誌『隆光』には「珍龍和尚の懐の中で育てられた」とある)、大榮寺近くの横越高等小学校から、仙台の栴檀林中学校(現在の東北福祉大学の前身)、駒澤大学を経て永平寺安居。その後大榮寺で僧堂講師や、新津市七日町(現在の新潟市秋葉区)錦繍寺の住職を勤めた後に、1934(昭和9)年に大榮寺三十世住職・僧堂頭となると、50年近い住職歴の中で庫裡、僧堂、法堂の改築などの大事業を果たし、また檀信徒の教化や僧堂での人材育成にも功が厚かったことから、大榮寺重興が追贈されています。昭和61年、92歳で遷化。

その他にも千葉県光厳寺、同延命寺、宮城県常福寺でも住職と勤められています。

永平寺では、昭和22年から副監院、同37年から後堂、同51年から西堂などの要職を歴任されています。

 

石黒英進老師の証言

今回お話を伺ったお一人目は、新潟県上越市・楞厳寺東堂の石黒英進老師。永平寺では維那や大遠忌局次長などを歴任、現在は川口老師の住職地であった大榮寺の西堂をお勤めです。

 昭和39年に祖山安居された石黒老師は、2年目に後単行寮へ転役。当時後堂だった川口老師が昭和40年の秋解合で下山されるまで、およそ10ヶ月間、行者を勤めました。

 当初、川口老師の浄髪当番だったもう一人の行者が左利きだったのを見て「怖いから代わってくれ」と、石黒老師に交代してもらって以来、当番に関係なく、後堂行者の公務は基本的に石黒老師が担当しました。新潟で同郷だったことも寵幸された理由の一つだったかもしれません。

ある時、他出から帰山する川口後堂を、石黒老師が福井駅まで迎えに行くと、駅ビルの食堂に連れて行き、「なんでも良いから食べなさい」と勧められます。石黒老師が恐縮していると、それを見て「(実の)兄貴に会ったと思いなさい」と言葉をかけ、緊張を解きほぐされました。

昭和40年秋の解合に川口老師が送行される時には、他の大衆が「英進さんも後堂老師と一緒に下りるんじゃないか」と噂するほど、親しく影の如く随身されました。

接賓役寮として、衆寮と等しく行事綿密を専らとしていた川口後堂。

日天作務にもよく出られたそうで、休んでほしい行者が「後堂がわざわざ作務に出なくてもいいのではないですか?」と制止しても「いいから、いいから」と振り切って出ていかれたそうです。

 ある時、集合先の山門頭で、五代杉に寄りかかっていた雲水を見て、

「おいおい、五代杉が倒れるから止めなさい!」

と冗談をいって大衆を笑わすなど、とにかく茶目っ気のある方でした。

暁天夜坐では難しい口宣を一切せず、先述の「坐禅をすれば、自然によくなるなり」の他に「海中に竜門と云ふ処あり」など、短くて分かりやすい言葉で大衆に語りかけました。

持病のヘルニアがあって毎日通院し、医者に止められていても、夜坐を欠かしたことはなく、坐中の姿は、石黒老師曰く「まるで、どこにでも近所の爺さんが兀坐しているよう」。当時、門前でお土産用に、三猿を模した「思わ猿」が売られていたそうですが、「川口老師の佇まいは正にそれ」だったそうです。

 唯一、川口後堂が大衆に強く説いていたこと。それは、互いに呼び合う時には「〜さん」付けをすることでした。「栴檀林に雑樹無し」。道心あるもの同士のお互いの尊崇を示されたのではないでしょうか。

「為せば成る、為さねば成らぬ。成るものを、成らぬというは、為さぬなりけり」。

有名な上杉鷹山による道歌を、川口後堂はこのように読み替え、暁天中光拝で説示されていました。また、

「他はこれ我にあらず。さらに何の時をか待たん」。

もよく引用されました。後堂職にありながらも、祖山安居はご自身にとっても修行の好因縁だったのでしょう。

偉ぶらないし長広舌もふるわない。派手さはないけれど大らかで茶目っ気があり、何より徹底した行事綿密の日常と身業。

そんな川口後堂に魅せられて、後単行寮は、当時の大衆が転役したがる一番人気の寮舎になったといいます。

「後単行寮では、毎日新鮮な朝が迎えられた。これこそ川口老師に随身したお陰でした」。

そう述懐される石黒老師が、参学師でありながら、まるで親しかった「旧友」との思い出を反芻しているかのような柔和相を顕わしておられたのが印象的でした。

 

清原俊光老師の証言

石黒老師による川口賢龍老師の人物評は、筆者にとっても事前の印象を裏付けるもので「我が意を得たり」といった感がありました。

しかしその後、川口老師の「別の一面」についての証言にも辿り着きました。

かつて大本山永平寺東京別院の維那を勤められた千葉県木更津市・真如寺住職の清原俊光老師。昭和56年の秋、大榮寺安居し、川口老師の最晩年の3年間を随身なさいました。

清原老師は川口老師をして、開口一番「厳しい御前様」だと評されました。

杖をついて歩くコツン、コツンという音が聞こえると、周囲に緊張の糸が張り詰めたと言います。

元来訥弁だったことが、齢を重ねると寧ろ威厳を伴って受け止められたようで、たまにボソボソと、

「なんだかんだ言ってもひとつ事」。

「嫌々やっては計(はか)もいかない。嫌なことも進んでやれば計もいく」。

と仰るお言葉の断片が、余計に重く心に響いた、と清原老師は振り返ります。

 大榮寺では托鉢が日分の行事で、足の悪い川口老師は、自身も托鉢に出たい気持ちを抑えて、出かける雲水たちをいつも見送って送り出していました。

僧堂へ行き来するのに、行者に背負ってもらって階段や単への上げ下げをしてもらっい、「僧堂で死んだとしても、それは本望じゃ」とよく漏らしつつも、行者の介添えに対して、いつも合掌して謝意を伝えていたと言います。

しかし、ただ威光を放つだけではなく、石黒老師が証言された「お茶目さ」や「愛敬」も、晩年まで健在だったようです。

ある日、振鈴当番を呼び出し、「今日は振鈴の時間が遅かった。時は大切なものだ。お前の間違いで山内が迷惑するんだ」と叱りつけ、バンバンバンと、杖で三十棒を与えました。

しかし、実際に時間を間違えていたのは川口老師の方でした。それが分かると、川口老師は自ら振鈴当番に「私が間違っていた。大変ご無礼した」と詫び、深く懺謝をされました。

またある日の法堂で、慣れない新到が叩く木魚をを聞き、「今日の木魚は、あんまり良くなかった」と言って、自ら範を示そうと勢い倍を持ちますが、すでにご高齢だった御身には重たく、思ったように木魚が打てませんでした。「これはなかなか難しい」と独りごちておられたそうです。

清原老師はこれらの思い出を、

「笑い話でもあるが、同時に涙が出るほどありがたい」。

と振り返っておられました。

実は「癇癪持ち」を自認していたという川口老師。それが起きそうな時は首に掛けた数珠を繰って触り、気持ちを宥めていたそうですが、懈怠や不如法に接すると、思わず声を荒げることもあったようです。しかし法に一生懸命な者が失敗しても、それを怒ることはありませんでした。

法に親切な反面、「おそらく、スーパーで卵がいくら売っているか知らなかった」(清原老師談)。托鉢によって摂食する大榮寺の日常に染まりきっているからこその「社会常識の足りなさ」。その両価性が、禅者としてだけではなく人間的な魅力や徳性をより輝かせていたのではないでしょうか。

川口老師にとって禅道場は日常生活の場であると同時に、幼少期の遊び場であり、故郷であり、終の住処。歴代祖師の教えや本師からの法愛を、日々水を飲むように吸収し、発汗するように行じて来られました。

その行住坐臥を余すことなく、言葉よりも行履で大衆に示して教導された。正にご自身が僧堂そのもの。法力が強い、「法」丸出しの方だった。だから何もかもがありがたかった。清原老師はそう評されました。

 

少なくなる老古仏

その一方で清原老師は、

「今はそこまで法の強い人はいなくなりました」。

と言葉を継がれました。石黒老師も、

「道場で生活をしていれば、老古仏の行履に触れる機会があるかもしれないが、実際の環境は衰微しつつある。師家や僧堂の価値が十分に評価されているとは言えない現状が、道心の人が少なくなったことを反証しています」。

「だから、今日は川口老師の話をできる機会に恵まれたことに感謝しているし、後世の禅者にもっと知ってほしいですね」。

と仰っておられました。

 奇しくも昨年、専門僧堂の認可一斉取り消しに伴う再認可から、大榮寺僧堂が選に漏れた、との情報が伝わりました。

 ここでその是非を問うことはできませんが、その大榮寺で行臥した「法丸出しの思わ猿」の行履が、今後少しでも伝法され、「道心の人」を打出する資けになることを念じて止みません。

 

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【この記事は、曹洞宗参禅道場の会会報『参禅の道』第75号に寄稿したものの転載です】

 

妙義寺の千体地蔵

 

妙義寺と明楽梁山

萬歳山妙義寺(島根県益田市七尾町)は、文永年間(一説には弘安五年)に臨済宗寺院として開創されましたが、応永一(1394)に国人・益田氏の菩提寺として曹洞宗に改宗し、益田氏十九代・藤兼の庇護を得て、長門・太寧寺の十五世・関翁殊門を中興開山としました。江戸時代には末寺15ヶ寺、塔頭3ヶ寺を有し、録所にも任ぜられました。慶応二(1866)年の石州口での戦い(第二次長州征伐)では、大村益次郎率いる長州軍の本陣が置かれて、明治維新前夜の舞台になるなど、浜田龍雲寺と並ぶ、石見地方随一の名刹です。

 

今回紹介する明楽梁山師(あきら りょうせん 号は洞屋。明治四十年没)は妙義寺の第二十五世。全国各地から施主を募り発願した「千体地蔵」と呼ばれる仏像群の勧請と、それを納めた堂宇を建立したほか、伽藍山容の整備に注力した功績から、再中興が贈諡されています。

萬歳山妙義寺の山景

 

実は、この梁山師のご生涯に関する口承や伝記は、さほど多く残されているわけではありません。しかし、断片的ながらその足跡をたどっていくと、うっすらではありますが、新しい時代の風を受けて混迷を切り開こうとする、開明的な地方志士ならぬ「志僧」としての姿が浮かび上がってきました。

 

梁山と曹洞宗扶宗会

今回、師に注目したきっかけは、川口高風先生がまとめられた「明治期以降曹洞宗人物誌」(「愛知学院大学教養部紀要」所収)で紹介されていた、梁山師が「犬養毅とも親交があり、禅談を交わしていた」との記述でした。

当初はこの記述を詳細を取り上げようと思って取材を始め、犬養の顕彰施設である『犬養木堂記念館』(岡山県岡山市)や妙義寺様などの関係者に照会しました。しかし現在では、直接そのことを裏付ける証言は得られませんでした。

 

そこで川口先生に直接お伺いをすると、平成9〜11年当時の関係者に聞き取りをされた際の、貴重な調査票を見せていただくことができました。そこには梁山師に関して、犬養との記述の他に「曹洞宗議員」「東京都芝 青松寺安居?」と列記してありました。また川口先生からは「曹洞宗扶宗会扶宗講社」との関連や、当時の仏教誌『明教新誌』にあった梁山師に関する記事(「近傍の貧民へ米若干を施与 云々」)について、情報をご提供いただきました。

 

「曹洞宗扶宗会」と言えば『洞上在家修証義』編纂の母体となった結社であり、その代表者として有名な大内青巒居士は、『明教新誌』の発行人でもありました。

明治二十年に正式に結社された曹洞扶宗会の設立発起主唱者には、各県から選ばれた有力な禅者が名を連ね、その中には新井石禅、森田悟由、日置黙仙など、後の両本山貫主の他、扶宗会の実質的な幹事である在俗者の大内青巒、林謙吉などとともに、梁山師の名も見られます。

おそらく、調査票にあった「青松寺安居?」とあったのは、当時の両本山出張所(後の宗務局、現在の宗務庁)の機能が、発起主唱者の一人でもあった北野元峰の住職地・青松寺(東京都港区愛宕)に置かれており、扶宗会の集会も多くは青松寺で開催されていたこと。そして明治二十二年の改選で第三次末派総代議員(現在の宗議会議員)に選任されたこともあって、よく青松寺に留錫されていたために立った評判だと拝察されます。またその頃は、後に愛媛・瑞応寺住職も勤めた高田道見が安居し、「通仏教」を標榜して、僧俗を問わない「仏教青年会」を結成して活動していた時期とも重なります。中央集権性と開明的な空気が相俟って、情報と人流の拠点となっていた青松寺の山風に、梁山師も大いに触発されたのではないでしょうか。

 

明治二十一年には、扶宗会の精神を実践する「曹洞扶宗会扶宗講社」が全国の各寺院に設立され、わずか3年の間で1,110講社に達するなど、短期間で爆発的に伸張します。梁山師の住職地だった妙義寺も、もちろんその中に含まれます。

近年になって、宗報での「仏教の社会的役割を捉え直す」という連載(2019)の中で、島薗進氏が、瓜生岩とともに曹洞扶宗会を「貧民児童教育に着目して力を注いだ」と紹介、社会慈善の活動体として再評価されています。

先の『明教新誌』にあった梁山師の「施与」の記事も、この扶宗会と講社の活動に則ったものと捉えると、筋が通ります。

旧・益田幼稚園園舎(元の千体地蔵堂)

 

そして、梁山師が妙義寺に建立した「千体地蔵堂」。現在、仏像群は本堂の脇間に移されましたが、堂宇は昨年まで、境内に併設されている『益田幼稚園』の園舎に改装され使われていました。『益田幼稚園』は昭和5年に開設された常設託児所を起源とし、益田地区での幼児教育施設の嚆矢となりました。残念ながら旧園舎は昨年取り壊され、新園舎へと移行しましたが、梁山師や曹洞扶宗会の残した財産が、形を変えて今も地域に息づいている事跡と言えます。

 

最後に

最後に「犬養との禅談」について。

仏教教団の近代化においては、明治初期の教部省・大教院制の影響もあって、政教関係の調整が重要な課題でした。大内青巒も、「肉食妻帯」の太政官布告(明治五年)に尽力した鴻雪爪も、政府の要人や官僚との太いパイプがあったとされています。

梁山師が立志精進する過程で、当時の政党政治に尽力して市民社会の向上を志し、一方で儒仏にも明るい知識人で、しかも出生地が比較的近い犬養毅との知遇を得る機縁があったとしても不思議はない、と考えるのは飛躍が過ぎるでしょうか。

 

いずれにしても、この分野の研究の先駆を成した池田英俊氏が、

「(廃仏毀釈後の復興において)曹洞宗教団も真宗教団に劣らないほどの地方発展の勢力を有していた」(『明治仏教会・結社史の研究』)

と評したその一翼を担い、東京と地方拠点を往復をしながら、遊学の成果を当世風の宗意安心として地域に還元した「志僧」、それが明楽梁山師だった、そう言えそうです。

グローバルとローカルの狭間に生きる、現代の宗侶である私たちにとっても指針となる行跡ではなかったでしょうか。(文中、一部敬称略)

 

参考文献 『曹洞宗百年のあゆみ』 曹洞宗宗務庁 編 
『曹洞宗報』「仏教の社会的役割を捉え直す」連載掲載号 曹洞宗宗務庁 編
『明治仏教教会・結社史の研究』 池田英俊 著/刀水書房 刊
『萬歳山妙義寺史』 永見勝徳 編著
『明治期以降曹洞宗人物誌』(「愛知学院大学教養部紀要」所収) 川口高風 著
『「曹洞宗宗務局普達全書」の総目録』(「愛知学院大学禅研究所紀要」所収) 川口高風 著
『明教新誌』第一八九四号 明教社 刊
『中国地蔵尊巡拝』中国地蔵尊霊場会 編
『益田市史』 矢富熊一郎 著

 

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5月8日は月遅れの花まつり。当山でも花御堂を飾らせていただきます。
 
合わせて、恒例となった「愛玩品供養」を午後3時から、境内の六地蔵前で行います。
長年にわたって愛用された品、文具や書具、日本人形やぬいぐるみ、メガネなどを、当山でお焚き上げ供養致します。
供養の品は、期日までにお持ち込みください。
基本的には可燃不可燃を問いませんが、物によっては受付できないものもございます。事前にお問い合わせください。

 

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4月17日(日)の午後2時より、恒例の春季大般若会が行われ、近隣寺院の僧侶の方々にご出仕を賜ったほか、梅花講を含めておよそ30名が参拝されました。
 

 

今年は、新型コロナウイルス感染症の早期終息のほか、世界平和を祈念して、「般若の風」を参列者に浴びていただきました。

 

法要後、総代世話人会を開催。決算の承認を得たほか、山門の再建やお布施の内容について、協議しました。

 


 

当寺では堂内に参拝者を入れて執り行いましたが、未だに檀信徒の参列をせずに恒規の法要をお勤めされるご寺院も多いようです。

行事をすることで感染リスクが上がらないか、懸念は尽きません。正直「ギャンブル」みたいなところがあり、このやり方が正解かどうか分からない、というのが正直なところです。

ただ一つの行事を終えた今言えることは、参拝の方々のお顔を直接見て、可能な範囲でお声かけしながら交流し、「いつも(のはずだった)の日常」を大過なくやり終えることが、こんなにも綱渡りで、でも清々しさが残るものなのだ、ということ。そしてこういった経験が、コロナ禍における一服の清涼剤になっています。おそらくお参りになった檀信徒の方も同じお心持ちなのではないでしょうか。

 

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恒規法要はいつもの差定での読経の後、方丈様のご説教がありました。

 

先日の出雲観音霊場巡拝の報告と参加の御礼ありました。

今回の巡拝は三十三札所の中でも最難所と云われる朝日寺がありました。天候の具合もあっての事でとても大変だったとの声が多かった様です。体力的にどうしても山に上がる事が出来ない場合には、遥拝という参拝のやり方もあるとの事でした。自分で行ける処まで行きその場所から拝むという事でお堂で拝む事となんら変わらないとの事でした。体力が落ちた方に良い方法だと思います。

 

後、行茶を戴きました。(観音講副会長 金本和夫 記)

 

 

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4月10日、願興寺観音講主催の第69回出雲観音霊場巡拝が開催され、22名の方が参加され、1名の方が代参を託されました。
巡拝の最初は、観音講の活動拠点である願興寺に集合して、道中祈願のお勤めをします。
その後、バスに乗り込んで移動。感染症対策を講じながら、バスの中も十分間隔を取りました。
 

【第三十一番 満願寺】

今回の1ヶ寺目は、松江市浜佐陀の満願寺。

観音堂にお参りに後、巡拝者は境内に設置された「四国札所」の巡拝石を歩いて、お遍路の追体験をされました。

 

接待していただいたご住職夫妻は「こんなに大勢の巡拝は久しぶり」と仰っておられましたが、この巡拝の参加数も、コロナ前から半減。結果的にフィジカルディスタンスに繋がっていることを、「せめてもの救い」と思うことにします。

 
「一度止めた恒例行事に、なかなか参加者が戻ってこない」。ご住職がこうも仰いました。
この巡拝も手探りながら、コロナ発生直後の1回の中止だけで、以降はなんとか実施を続けているので、この人数で踏み止まっているのかもしれません。
コロナ禍で減ってしまった人並みを取り戻せるのか。どこのお寺も心配がつきません。
 

【第二十八番 成相寺】

庫裡に大きなワンちゃんが係留されていました。落ち着いた佇まいだったので老犬かと思いましたが、ご住職によるとまだ4歳とのこと。

 

【第二十七番 千光寺】

無住だと思っていた千光寺の庫裡に人影が。

住職後継者の方が、近頃になって岐阜から親子3人で移住され、今はこちらにお住まいとのこと。

ようこそ島根へ!
 

【第二十五番 澄水寺】

枕木さんの裾野にある澄水寺でのお参りが終わって、午前中は終了。市街に移動して『松江地ビール館』で昼食を摂りました。
この度の巡拝は「再発見!あなたのしまねキャンペーン」の適用となり、参加者にはクーポンも配布され、みなさん地ビール館の売店で大量のお土産を購入。両手に袋を抱えてバスに戻ってこられました。

 

【第三十番 金剛寺】

午後は東長江町の金剛寺へ。「美人の泉」とされる阿伽井水が有名なお寺です。
昨年の豪雨の影響で、途中の道が通行止めとなり、朝日寺との分かれ道でバスを降りて、歩いてお寺に向かいました。
 
参道の桜が綺麗で、思わず被写体として撮られてしまいました。
 

【第二十九番 朝日寺】

出雲札最大の難所、朝日寺。

気温も上がって(最高気温23度)、みなさん青色吐息で、片道30分ほどの登山道を歩かれました。

山頂の休憩所ではカップラーメンやジュースが売られており、ご住職が「せっかく登ってこられるので、精一杯のご接待を」と仰っておられました。

日曜日の日中ということもあってか、この日は登山道をすれ違う参拝者も大変多かったです。
 

【特別札所 一畑寺】

この日の最後は、平田の一畑寺。
観音堂でお参りののち、本堂で副住職さんからお話を賜ることができました。
時節柄、花御堂もあって、参加者は甘茶に舌鼓を打ちました。

 

巡拝が終わって、ホッとされたある参加者の方が、こう言われました。

「コロナになって、外に出る機会も少なくなって、家の中ばかりいると、気も滅入ってしまう。札打ち(巡拝)はちょうど良い外出の口実にもなるし、歩きながら日の光を浴びて、観音様に手を合わせると、とても清々しくなる」。

 

本当はコロナ禍で開催するのも憚られる状況なのですが、巡拝が「心の健康」につながるのかもしれないと思い、主催者としてもとても嬉しいご感想でした。(住職 記)

 
 

 

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3月17日10:00打出しで、新美山願興寺観音講恒規法要が厳修されます。

今日のお参りは18名の講員さんでした。

 

法要はいつもの通り宗淵寺本堂にて、参拝者の皆さんの挙経は黙読、心読となります。般若心経、十句観音経、世尊偈に続き詠讃歌三題の奉詠です。

参拝者の進前焼香の後、住職様のご説教がありました。

 

今回のお話しは、昨夜の宮城県、福島県を中心とした大地震の件、ロシアによるウクライナ侵攻の件、私的な件で住居の棟上げが行われているとの事でした。ウクライナ侵攻に関しては非戦との言葉のお話しでした。(観音講副会長 金本和夫 記)

 

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にわかに「ととのう」ブームが到来したのでしょうか。

 

 

最近人気だったミステリードラマの主人公の名前、「整」と書いて「ととのう」と読みます。

自身でその物珍しい名付けについて説明する件(くだり)を枕に置くことで、登場人物の性格やドラマのテーマが暗に示されています。つまり主人公がストーリー全体、登場人物の事情や恣意を「整える」ドラマ(原作は連載中の漫画です)、ということになるでしょうか。

 

 

一方、最近はサウナブームとも言われています。

「サウナー」と称される愛好者がメディアでその魅力を大いに語る場面によく出くわしますが、その際のキーワードとなっているのが、「ととのう」。昨年の流行語大賞にもノミネートされました。

サウナ、水風呂、休憩をくり返すことで訪れる「さっぱり」「すっきり」といった快感状態を表す言葉、とのこと。筆者はサウナーではありませんが、そのネーミングの妙は何となく感じています。

 

 

時系列は異なりますが、落語やお笑いのなぞかけでネタを思いついた演者が「ととのいました」と発声する、っていうのもありました。

 

 

さて、私たち僧侶にとって「ととのう」と言えば坐禅、です。

 

私も坐禅指導でもよく「調身・調息・調心」を援用していますが、この「調」は「調(ととの)える」という意味です。

実はこの「調身・調息・調心」、禅学研究の基礎資料ともいうべき『禅学大辞典』にも、道元禅師や瑩山禅師が遺されたお言葉や著作にも、これらの言葉を見つけることはできません。

 

少し専門的な解釈になりますが、そもそも曹洞宗では只管打坐を説き、坐ること自体が「心が調う」ことなので、「姿勢を調え→呼吸を調え→心が調う」と段階を経て入定することは、原則的には宗意安心と異にする立場とも言えます。

 

 

ではこの「調身・調息・調心」を説く根拠はどこにあるのでしょうか。

 

おそらく最も有力なのは『天台小止観』という中国隋代に成立した坐禅の指南書にある「五事の調和」(調食・調眠・調身・調息・調心)だと思われます。

 

元々が天台宗で説かれていたものだから、曹洞宗の教えとは違う、と言いたいわけではありません。

 

新しい価値や方法を示す時に、馴染みのある従来の価値や方法を方便とすることはよくあることですし、少なからず、新しい価値や方法に、従来のそれが影響を与えていることはあり得ることです。

 

道元禅師は直接「調える」と直接説いておられませんが、『天台小止観』などの影響も受けて『普勧坐禅儀礼』を著され、坐相の調え方や呼吸法をまとめられたと思われます。その中で次の記述を遺されています。

「夫れ参禅は静室宜しく、飲食節あり、諸縁を放捨し、万事を休息して、善悪を思わず、是非を管すること莫れ」

 

 

それでは、昨今流行を兆している「ととのう」と「調う」に違いがあるのでしょうか。

 

 

まずミステリードラマについて。

主人公の名前は「整」。「調」ではありません。

両者に「合」という字を後付けすると、字義の違いが見えてきます。つまり「整合」と「調合」です。

「整合」は不揃いを一致させ矛盾を排すること。そもそも「整」は「束」と「正」で構成されています。束ね正そうとする。つまり行為者の主体性が強い「ととのう」です。

一方の「調合」は、直接的には薬剤などを混ぜ合わせることですが、要は全体を見て、2種以上のことやもののバランスをとり、調和させることです。「調」には「周」の字を含みます。つまり「周りを踏まえる」(「言」は?のツッコミはひとまず置く)。行為者にとっては受動性の強い「ととのう」になります。

ポイントは「善悪が介在しているか」でしょう。「整う」は行為者の価値や善悪が拠り所となりますが、「調う」は行為者が自身の価値や善悪をひとまず置くことから始まります。

これを踏まえると、件のミステリードラマでは制作者(または原作者)が発信したいメッセージがまずあり、それに沿った筋書きを「整える」ことで、メッセージ自体の伝播や実現をしようとしていることが分かります。

(ただし、フォローのために補足すると、「整くん」は天然パーマで整髪出来ず、それがコンプレックスになっています。他者のことは整えるけれど、彼自身が決して「ととのった」存在でないことを暗示しており、それが物語としての深みになっていると、筆者は見ています。)

 

 

次にサウナについて。

これはより違いが明確です。サウナーの「ととのう」は、一種のブレイクスルー体験であり、それを吹聴すること。例えるならば「悟った」と標榜するようなものです。

曹洞宗では「悟り」を最終到達点と見做しませんし、非日常体験も重視しません。明らかに「調う」と違うことが分かります。

 

 

「なぞかけ」については、演者の考えがまとまる、という意味では「整う」も「調う」もあり得ますが、「笑わせたい」という願望がある時点で「整う」に近い意味があります。

 

 

最後に。

この原稿を、テレビを「ながら見」しながら書いています。しかしテレビの中では、決して看過することのできない、今正に始まった戦況が喧しく伝えられています。

「調停」による事態の収拾が早期に図られ、平和裡に調って欲しいと願って止みません。

 

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2月17日、新美山願興寺観音講の恒規法要が厳修されました。

先月正月は流行り病の為に参拝は中止となり今年初めての恒規法要参拝で初観音様でした。15名のお参りでした。積雪もありお出掛け難いという事もあったかもしれません。

 

いつもの差定にて法要の後はご住職のご説教でした。ご説教は4月予定の出雲観音霊場巡拝と観音講誌54号のお渡しの件。

先日、宗務所での僧侶方の研修内容についてお話しがあり、悪因悪果のお話しで、「ネットカルマ」についてだったとの事。

私達年配者に分かり易く云えば、悪い事はできないよ。お天道様が見ておいでだよ。という事です。ネットカルマのカルマとは行為の結果として蓄積される「宿命」と訳される「業(ごう)」の事です。仏教では悪い事はしないで良い事をしなさい。という事で最初の悪因悪果の如く良い事をすれば良い結果があり反対であれば悪い事が起きるとの教えです。ネットとの関係は、現在であれば人の行いはネットに数多く記録されているという現状です。オリンピックの音楽を担当していた人が昔いじめに加担した事がありその情報がネットにあったという事です。本番の直前にその情報が知れ渡りその方は音楽担当を外されたという事があったとの事です。その様なネット上のクラウドの情報がお天道様という訳ですね。仏教の教えとは云え、現実の事としてネットカルマの影響は大いにあるという事です。悪い事をすればクラウドが見てますよ、お天道様が見てますよというお話しでした。

 

 後、行茶を戴き茶話会を楽しみ下山しました。合掌(観音講副会長 金本和夫 記)

 

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謹んで初春のお慶びを申し上げます。
 
新年には賀詞を掲げるのが恒例で、この2年はコロナ禍からの回復を祈るために「一陽来復」とさせていただきましたが、今年は「禍福倚伏」とさせていただきました。
典拠は『老子』五八章の「禍(ルビ:わざわい)は福の倚(よ)る所、福は禍の伏す所なり」という言葉です。 
 
本来は賀詞として使われない言葉ですが、旧年中の山内に関わる弔事をお知らせするために、このように題名させていただきました。
 
昨年の11月、第十三世・碓琱大和尚のご息女だった高木文子さんが亡くなられました。

高木さんの旧姓は板倉、しかし私と血縁関係があるわけではありません。私の曽祖父に当たる碓豊大和尚は元々東岩坂の青木寺で住職をしていましたが、兄弟子だった碓琱大和尚が亡くなられたのをきっかけに宗淵寺に入りました。

碓琱・碓豊両大和尚の師匠であった当寺十二世大和尚の姓が板倉でした。両師ともにこれを継いだようです。(元々、碓豊大和尚の生家は前島姓)

 

碓豊大和尚の晋山と入れ替わりに、高木さんたちはお寺を出られましたが、その後も親しくお付き合いをさせていただきました。

 

高木さんの訃報からおよそ1週間後、今度は碓豊大和尚のご子息で、十五世・正敏大和尚の弟でもあり、高木さんと入れ替わりで宗淵寺に入ってこられた板倉英夫さんが亡くなられました。
57歳で急逝した正敏大和尚の生前の記憶がない私にとって、板倉さんは祖父代わりのような存在でした。明朗快活で、裏表なく色々な助言や激励を賜りました。また願興寺観音講の副会長としてもご活躍、機関紙「どうぎょう」の創刊より編集に携わっていただきました。
大恩ある大叔父との別れに、寂しさが募ります。

 

宗淵寺で仏飯を食み、やがて自立をされたお二方が相次いで旅立たれましたが、そのお二方にとって「故郷」でもある宗淵寺を守るお誓いを立て、一年の計といたします。合掌(住職 記)
 

 

via 宗淵寺/願興寺
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