毎月17日は、うちの寺の観音講の恒規法要があり、講員(信者)の方々がお集まりになられます。法要が終わった後、私は「法話」と称した駄話を、10年以上続けていますが、ある日の夜にネットを見ていたら、

 

『「心打たれる」1% 話術磨くより信心涵養を』

 

という記事を見つけ、ゾッとしました。浄土真宗本願寺派さんの調査によると、法話に心を打たれた人の割合は、聴衆のわずか1%、だというのです。

 

 調査の前提や条件に差異があるので、私の法話にそのまま当てはめることはできませんが、それにしても1%というのは・・・。

 テレビの視聴率なら、とっくに打ちきり。うちの観音講のお参りが、大体20名から30名として、1%だと、あの日あの場所にいた誰一人として感化できていないことになります。

わずか1%の実効性しかない法話は「オワコン」(終わったコンテンツ)と言われても仕方ありません。

 

「お坊さんが一番、仏教を信じていない」。

 昔、ある著名な文化人類学者が僧侶向けの勉強会でそう直言したのを聞いて、当時は反発心を覚えたものでしたが、今になって、ようやくその真意が分かってきた気がします。

 現代の聞法者は、知性も社会的地位も上がっている分リテラシーも高く、借り物の言葉や〝偽者〟はすぐばれる。そのことを言っていたのでしょう。僧侶が法話を発露するまでの、日常生活に裏付けがどれだけあるか。法話は身体言語であり、身心言語。

 

1%は、「少ない」ではなく「重い」数字と受け止めなければなりません(副住職 記)

 

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先日、僧侶向けの研修会で、「コミュニティからコミュニケーションへ」をテーマとした講義を受けました。

過疎・少子高齢化を背景として、檀家制度を下支えする地域社会(コミュニティ)が零細化する中、コミュニティ依存からコミュニケーション力を広げ深める寺院活動への転換を、という提言を頂きましたが、その際に避けて通れなかった話題が、『アマゾンお坊さん便』とお布施についてでした。

参加者同士のグループディスカッションでもお布施をテーマに取り上げましたが、同業ともいえる宗侶同士の気安さから忌憚なく交わされる意見の中では、お布施の内実(額)について、

「地域によって取り決められている」

「これまでのお寺でのお付き合い(の浅深)に依っている」

という声が聞こえました。

 

これに対して、講師の薄井氏からは『お葬式に関する全国調査』(平成25年株式会社 鎌倉新書調べ)での「実際に葬儀をしてみて困ったこと、または後悔したこと」という質問に対して、具体的回答で一番多かったのが「心付けやお布施の額」の23.8%であったと紹介し、「お布施に〝お気持ちで〟は通用しなくなっている」と指摘されました。

 

 

さて、そもそも、仏教で言う「布施」とは六波羅蜜の一つ、つまり「広く施す」という修行徳目であり、見返りを求めない善行です。そして、手段や目的によって「法施」(僧侶による法の施し)、「財施」(在家による財産の施し)、「無畏施」(人を災厄から救い、畏れを除くための施し、対処)の3つに分類されます。

 

今、私が強く思うのは「無畏施」についてです。

寺院に居住して「財施」に生活の基盤を依っている僧侶(とその家族)と、「法施」の内実に不案内である檀信徒の間で、互いに「畏れを無くす」配慮が抜け落ち、もはや布施的コミュニケーションが成立していないように思われるのです。

 

少なくとも先のアンケートから、一般在家にとって所謂「お布施」は「無畏施」になっていない、むしろ不安を喚起するものになっている現実を、僧侶としてよく銘記する必要はありそうです。「お気持ち」が一方通行になったら、それはただの片思いにしかなりません。

 

両思いになるために、その具体的な手段としてお布施額の明示や檀家制度の見直しなどもあるかもしれません。ただいずれにしても、どちらかが一方的に何事かを決めて為すのではなく、互いに興味を持ち合い、その存在を理解しようと努め、コミュニケーションした結果の手段を講じる必要があるではないでしょうか。

 

 

最後に、お布施についてお互いを知る為のデータを付記しておきます。あくまでも曹洞宗が調べたデータであることをご承知置き下さい。

まず、宗侶の側。平成17年発行の『総合宗勢調査』では、曹洞宗寺院約1万4千ヶ寺の平均年収は564万円。そのうち半数以上が年収300万円以下です。葬儀の平均布施額は21万6千円と算出されています。ちなみに日本人の平均年収が530万円ほどと言われています。

あくまでも全国平均ですので、寺院格差を踏まえると、筆者の感覚では、当地島根県では上記の7〜8割程度か、それ以下の算出額だと思われます。

次に檀信徒の側です。平成24年発行『曹洞宗檀信徒意識調査報告書』では、「『葬儀は要らない』への賛否」という調査では、反対が65.8%なのに対して賛成は5.6%。

「自分の葬儀への希望」の調査では「仏教式の葬儀をしてほしい」が71.2%。

そして「葬儀の布施額の決め方」に関する調査で「遺族と寺院で相談して」が最も多く33.1%、「遺族の気持ち」が26.6%、「世間の相場に即して」が24.2%、「寺院に決めてもらいたい」は13.1%です。

また、両報告書共通の調査で、「今後の寺檀関係について」の質問に対して、「檀家制度は存続する」と答えたのは、宗侶32.6%、檀信徒が43.1%。

「個人の信仰に基づいた関係になる」が、宗侶25.6%、檀信徒が15.3%となっています。

 

両者が望むのは、円満で限りなく永続的な供養。そして、そのためにどんな布施的コミュニケーションが必要か。みなさんはこのデータを見てどのように思われますか?(副住職 記)

 

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今年2月に、宗務所の檀信徒本山研修会の事前視察に、滋賀県高島市・朽木の興聖寺様に拝登して、ご住職から打ち合わせかたがた、色々なお話を伺うことが出来ました。

その中で私が驚いたのは、開山堂に祀られている孤雲懐奘禅師像(永平寺二祖、興聖寺開山)が、元は永平寺承陽殿の御上檀に祀られていたもの、というお話でした。

その昔、火災によって承陽殿の道元禅師像が焼失した際、代わりに興聖寺様に祀られていた道元禅師像を差し上げたのだそうです。その見返りに承陽殿に祀られていた懐奘禅師の御尊像を承ったというのです。

 

宗侶の方であれば、これがどれだけすごいことなのかは説明不要だと思います。一生に一度、永平寺で瑞世拝登(本山で一夜住職を勤めることで、住職になる資格を得るための通過儀礼)した時にだけ見えることのできる、絶対秘仏の五大尊(道元禅師以下、五代住職までの御真像)。元はその一つだった御尊像と、こうして間近に見えることのできる法悦は、今回のご縁がなければありませんでした。(副住職 記)

 

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 先日、妻が無事出産しました。

 この世に生れ出た我が子が、すぐにかすかな産声を上げたのを聴くと、立ち会っていた私の頬を、一筋の涙が伝いました。でもこの涙は、決して喜びだけで流れたものではなく、ある悲しい記憶が流させたものでもありました。

 先立つこと5年前、私たち夫婦は第一子を授かり、出産を心待ちにしていましたが、予定の1週間前、胎内で突如として心拍停止。病院で死亡診断を受けた日、まだ亡骸を胎内に宿す妻と一旦自宅に戻り、翌日の、産声のない出産に備えました。

 朝方、妻が寝床で突如として大きな悲鳴を上げました。

 「ダメーッ!」「連れて行かないでーっ!」。

  私は泣き叫ぶ妻を心配して声をかけましたが、妻は泣きじゃくったままでした。

 後から聞いた話ですが、あの時、妻は夢枕で、観音さまが我が子を連れて去って行く姿を見たのだそうです。

「お寺に嫁いだ身で悪いとは思うのだけれど、私は観音さまが許せない」。

妻がそう告白したのを聞いて、私は答えました。

「でもあの夜、もうすでにあの子は亡くなっていた。もしかしたら観音さまは、亡くなったあの子の魂が迷うことがないように、迎えに来てくれてたんじゃないかな」。

 それを聞いた妻はしばらく黙り込んでいましたが、やがて思い返したようにこう言いました。

「あの時、私は誰かを、何かを恨まずにはいられなかった。でも一番恨もうとしていたのは、あの子を生きて産んでやれなかった自分自身。もしかしたら、観音さまは私に〝恨まれる役〟を引き受けてくれたのかもしれない」。

 子どもは、「作る」のではなく「授かる」もの。

 あれから5年経って、奇しくも6月17日、観音講の恒規法要の日に、子どもは産まれて来てくれました。まるで私たち夫婦に、観音さまがもう一度親になる資格を与えたかのようでした。

 第一子の時の経験もあり、生と死、喜びと悲しみが表裏一体であることを体感している私には、これから我が子がどんな人生を送るのか、楽しみよりも不安の方が尽きませんが、ただただ、真心をもって子育てすることが天命だと感じます。

 子どもには、人智を超えた天の助けや恵みを意味する「天佑(てんゆう)」という名をつけさせて頂きました。(副住職 記)<宗淵寺寺報『がたぴし』第17号所収>

 

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大遠忌と法定聚会

 年忌法要には、それぞれ別名があります。例えば、四十九日は大練忌、 十三回忌は称名忌、三十三回忌は本然清浄忌と言います。

 そして、五十回忌を「遠忌」といい、以降の年忌法要は50年ごとに執り行います。

 「大遠忌」とは、仏教各宗においては、宗祖や中興の祖など、特に尊格の高いお祖師様の遠忌を勤める際に用いられる名称です。近年では、平成23年に浄土宗で法然上人の八百回忌大遠忌法要、平成24年には、浄土真宗で親鸞上人の七百五十回忌大遠忌法要に当たって、これに合わせて、宗派を挙げての大規模な記念事業が執り行われました。

 両本山制を敷く曹洞宗では、宗制(各宗で定められた諸制度、法規)に則って、大本山永平寺を開かれた道元禅師、二祖・懐奘(ルビ:えじょう)禅師、大本山總持寺を開かれた瑩山紹瑾(ルビ:けいざんじょうきん)禅師、二祖峨山韶碩禅師、以上の四師の年忌を大遠忌とし、正当(命日)法要は、両本山の貫首が揃って導師を勤め、宗務総長をはじめ、宗門の要職にある全ての僧侶が参集をして、文字通り宗門を挙げて奉修されます。これを「法定聚会」と言います。

 今年、峨山韶碩禅師の六百五十回大遠忌の正当を10月20日に迎えるに当たり、大本山總持寺では大遠忌局を設置、「相承〜大いなる足音が聞こえますか〜」というテーマを掲げ、啓発・広報活動や記念事業などが実施され、すでに全国各地で予修法要(予(ルビ:あらかじめ)め、繰り上げてお勤めするほうよう。取り越し法要とも言う)が行なわれています。

 また、大本山總持寺では平成36年には瑩山禅師の七百回忌大遠忌を控えており、同じ「相承」をテーマとして継続して、大遠忌事業を進められます。

 

峨山韶碩禅師のご生涯

 建治2(1276)年、能登国羽咋郡瓜生田(現在の石川県河北郡津幡町瓜生)でお生まれになりました。両親はとても信心深かったが、なかなか子宝に恵まれませんでした。母親はいつも「どうか賢い男の子が生まれますように」と、智慧の仏さまである文殊菩薩に、一心にお祈りをしていたと言います。

 文殊菩薩像は、右手に剣を持っているものが多く見られます。これは、智慧が鋭く研ぎすまされていくことを象徴したものと言われていますが、ある晩、母親がこの剣を呑み込む霊夢を見て、懐妊したと伝えられています。

 同様の話は、峨山禅師の師匠である瑩山禅師の伝記にも見られます。観音信仰に篤い母親が、高齢になって観音さまの霊夢によって懐妊した、というものですが、こういった師匠と弟子の感応道交を伺わせる説話は、今回の両祖の大遠忌のテーマ「相承」にも通じるのかもしれません。

 時は鎌倉時代末期、「文永の役」や「弘安の役」の蒙古襲来という国難の時代・世相であり、そのことが幼い峨山禅師の処世観にも影響を与えたのか、正応2(1291)年、16歳で出家し、比叡山に上がります。

 その後、永仁5(1297)年 、22歳の時に、京都で瑩山禅師と出会います。初めは法論を仕掛けるつもりだった峨山禅師でしたが、すっかり瑩山禅師に心酔し、正安元(1299)年、24歳の時に、当時加賀(今の石川県)の大乗寺の住職だった瑩山禅師の下に参じ、その門下となります。

 正中元(1324)年、瑩山禅師の跡を継いで總持寺(当時は横浜ではなく、今の石川県輪島市にありました)の住職となった峨山禅師は、暦応3(1340)年からは、同じく瑩山禅師による開創の永光寺(石川県羽咋市)の住職(四世)も兼ねるようになります。

 そのため峨山禅師は、毎日未明に永光寺の朝課が終わると、13里(約52km)の山道を駆けて總持寺に向かい、朝課を勤めたと言い伝えられています。この山道は「峨山道」と呼ばれ、現存しています。總持寺の朝課では、「大悲心陀羅尼」というお経を「ナァ~ ムゥ~ カァ~ ラァ~」と一音一音長く引いて読む「真読」という読経法でお勤めしますが、これは峨山禅師が永光寺からの到着を待つために始められたと言われています。

 峨山禅師は貞治5(1366)年に入寂されるまで、両寺を往来しながら、寺院の護持と宗門の発展に尽力されました。

 總持寺では、瑩山禅師を並んで「御両尊」と称され、今でも信仰を集めています。

 

輪住制度と弟子の育成

 峨山禅師のご遺徳として刮目すべきは、その卓抜した寺院経営能力にあるとも言われます。

 そのことを伺わせる話として、安来の雲樹寺を開創した孤峰覚明禅師(1271〜1361)とのやりとりがあります。臨済僧であった孤峰禅師でしたが、同時に瑩山禅師にも師事して、曹洞禅を学んでいました。当時は南北朝の時代であり、後醍醐天皇より尊崇を受けていた孤峰禅師は、同参でもある峨山禅師に、總持寺と南朝との取次を申し出ます。峨山禅師はこれを断りますが、後年南朝が衰退していったことを踏まえると、この時の峨山禅師の慧眼が伺えます。

 峨山禅師による寺院経営の大きな成果として、輪住制度の確立と、弟子の育成が挙げられます。

 康安2(1362)年、後継住職を弟子達で交替に勤めるよう定め、貞治3年(1364)にはこれを更に強めて、5年間ずつ住持になるように定めました。この輪住制はこの後、明治3(1870)年まで続きました。定期的な晋山式は地域ぐるみの盛事ともなって、門前町の振興にも一役買ったと言います。

 また、輪住制を支えるために弟子の育成にも注力され、その中から「二十五哲」と言われる優れた弟子を輩出しました。この弟子たちが全国に教線を伸ばし、後年にその門流がさらに拡大していくことで、結果として、全国に15,000ヶ寺あると言われる曹洞宗寺院の、実に9割が總持寺派となります。

 「二十五哲」の中でも特に優れた5人を「五哲」と称しますが、宗淵寺は、法系を辿るとこの「五哲」の一人である通幻寂霊(ルビ:つうげんじゃくれい)(1332〜1391)の一派となります。住職も副住職も永平寺で修業をしましたが、宗淵寺もれっきとした總持寺系のお寺なのです。

 このように、今の曹洞宗の宗勢を振り返る時、そのキーパーソンは峨山禅師である、と言っても言い過ぎではないのです。(副住職 記)<宗淵寺寺報『がたぴし』第16号所収>

 

参考文献

『峨山禅師物語』 佃和雄 著

『總持二祖 峨山禅師』 佐藤悦成 著

『總持寺史』『嶽山史論』 栗山泰音 著

以上、大本山總持寺 刊

 

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 私が所属して活動しているいずも曹洞宗青年会が主催した、本年度の中国曹洞宗青年会大会が、昨年の11月19日(火)、20日(水)に松江市で開催されました。

 中国地方各県の曹洞宗青年会が持ち回りで主催し、研鑽と懇親を深める年次大会ですが、今回は初日を一般公開とし、映画『遺体〜明日への十日間』の原作者である作家の石井光太氏、葬送ジャーナリストで雑誌『SOGI』主筆の碑文谷創氏のご両名による講演会が開催され、僧俗含めておよそ180名の聴衆が参集されました。大変貴重で有意義な講演内容でしたので、その抄録を、今号の6頁に掲載し、今後も数回の連載を予定しています。何分、聴講した私の聞き書きですので、文中、講演者の本意と合わない文脈が一部あるかもしれません。しかし、講演自体の基調は再現したつもりですので、そういった前提でご笑覧下さいますと幸甚です。

 さて、この大会のテーマは「弔縁」でした。

 血縁、地縁、機縁、奇縁…縁のつく言葉は数々ありますが、この弔縁という言葉をいくら調べても、辞書には載っていないでしょう。何故なら、この弔縁という言葉は、今回の大会のために作られた造語だからです。

 元来、仏教の教えて説かれる縁とは、若い男女が求めるような「運命の赤い糸」や「出会いの偶然、奇跡」といった意味の、いわゆる「ご縁」とは異質なものです。

 行為としての原因があるから結果があり、行為としての原因がなければ結果もない、といった道理のことを、仏教では「縁起の法則」と言います。

 そして、私たち人間が他者との間に取り持つもの、私それぞれの行為がもたらす結果としての関係性を、仏教では「縁」というのです。

 亡くなられ、体を失い魂の存在としての仏となった故人の方々と、言葉を交わしたり直接触れあったりという物理的な交流は出来ません。だからといって無為に日々をやり過ごせば、故人は「無きまま」になってしまいます。弔いという具体的な行為によって、故人は仏としての「実体」を回復し、初めて生死を超えた縁が生まれ、関係を取り持ち続けることが出来るのです。弔いから生まれ、続いていく弔縁。仏事とは、その弔縁を具体的に裏付ける行為なのです。(副住職 記)<宗淵寺寺報『がたぴし』第14号所収>

 

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平成23年3月11日に発生した東日本大震災から丸2年が過ぎました。仏事でいう三回忌(丸2年)には、「服喪を明け、日常生活へほぼ復帰する」という意味があると言われていますが、それは被災地にとっては「震災の風化」に直面することも意味するでしょう。

 本稿では、東日本大震災のボランティア活動に従事してきた副住職が、風化できない被災地での教訓を紹介します。

 

大震災の、その日から

 発災の日、私は全国曹洞宗青年会(以下、全曹青)の会議のために、東京都港区芝の曹洞宗檀信徒会館にいました。

 東京は震度5強、私は反射的に会議室から建物の外に飛び出しました。しかし路上のアスファルトでさえ激しくうねっていることに戦慄し、あらゆる生存それ事態が所在を失うのではないか、という恐怖を覚えました。

 都内は帰宅困難者で溢れ帰り、騒然とした街中はまるで野戦病院のよう。会議には東北の方々も多く出席していましたが、地元の状況が分からず、不安に駆られる彼らを見ていると、私だけ、翌日には平穏な我が故郷・島根に帰るのが、何だか申し訳なく思えたのを覚えています。

 当時、全曹青の広報業務に携わっていた私は、帰郷すると即座に、全曹青の災害メーリングリストに寄せられる被災地内外からの情報を確認し、全曹青のホームページに転載し公開する作業に明け暮れました。分単位で情報が錯綜する大変な作業でしたが、「今の私のできるせめてものことをしよう」と、遮二無二作業しました。

 震災直後、情報は重要な財産だった一方で、デマも横行していました。全国的な節電を呼びかけるメールが一斉送信されたことがありましたが、直後の願興寺観音講の恒規法要で何気なくその話をすると、中国電力に勤務されていた信徒の方から、「西日本と東日本では周波数が違うので、西日本で節電しても東日本に送電はできない」と教えて頂き、いわゆる「チェーンメール」であったことが発覚して、即座に全曹青のメーリングリストに事実関係を反映させたこともありました。 

 ただ、原発事故直後に福島の僧侶から「地元に情報が伝わらない。全国ニュースではどう伝えていますか?」という質問のメールを受けた時は、どう言えば彼を安心させることが出来るのか分からず、ただただ言葉を失いました。

 

地域の拠り所を取り戻す

 その後、5月になってから被災地に入ってボランティアに従事しました。仮設住宅で避難生活をされる方々の傾聴や、被災箇所の復旧が主な活動でした。

 その際に、宮城県山元町の普門寺さまというお寺の復旧のお手伝いをしたことは、以前の『がたぴし』や観音講の機関誌『どうぎょう』でも少し紹介させて頂きましたが、灰燼に帰したかのような境内で、ただ黙々と、倒れたお墓を起そうと作業に没頭するご住職の姿が、未だに目蓋に焼きついています。

「震災直後はさすがに落ち込んだが、今はもう前を向く他ありません。お檀家さんたちにとってお墓とは、ご先祖のみならず、いずれは自分たちも行く場所。しかし現世で震災に遭い、来世の安住も失われた、と落ち込むお檀家さんの姿を見ていると、とにかくお盆までに墓地を復旧し、地域の〝心の拠り所〟としての寺院の姿を、一刻も早く取り戻したいのです」。

 ご住職のひた向きさは、地域や檀信徒に支えられた寺の「住職」(文字通り、住み守るのが仕事)としての矜持そのものでした。

 

絆という「陰」

 全曹青が現地本部を置いた福島県伊達市霊山町。その町内にある小国地区は、福島第一原発の事故を受けて、「特定避難勧奨地点」が設定されました。

 昨年の3月、現地本部でその小国地区の住民の方のお話をお伺いする機会がありました。しかし今度は、そのお話から被災地の「負の現実」を突きつけられました。

 「特定避難勧奨地点」とは、年間の積算放射線量が20ミリシーベルトを超えると推定される場所を世帯単位で指定し、避難を勧めるというものです。

 行政によって、世帯単位という「点」で補償対象を切り分けられた小国地区で何が起こったか。それは地区内の「断裂」でした。

 指定された世帯には、他の避難区域の住民と同じように、精神的な損害賠償として東電から1人当たり月10万円が支払われ、また税の減免もありました。

 一方、未指定の世帯は1人一括8万円(妊婦と18歳以下の子どもは40万円から60万円)の賠償金のみで、指定世帯が受けた減税措置もありません。このことで、例えば、指定された世帯の方が買い物をするだけで、「賠償金で贅沢な生活をしている」との噂が飛び交うなどして、地区内には住民同士の疑心暗鬼が渦巻いたというのです。

 また、実際に他県へ避難した方々が、福島に残る選択をした住人から「自分だけ逃げた」との誹りを受けているとも聞きます。

 地域の絆によって強い相互扶助が働く「地縁社会」では、その「横並び」のルールを乱そうとした時、反動もまた強いのです。

 ボランティア活動を通して知り合った福島市在住の女性がこのように言っておられました。

 「私には娘がいますが、年頃になると〝福島の人間とは結婚できない〟という、心ない差別に直面するのではないか、という不安が拭えません。福島の苦難は現在進行形なのです。でも今に至り、何ごともなかったかのように原発の再稼働が取りざたされ、時の流れとともに、〝福島の思い〟は取り残されていくように感じます。震災直後から、〝絆〟という言葉が声高に唱えられていましたが、福島の人たちは、「その〝絆〟の中に、自分たちは入っていない」と、白々しささえ感じていますよ」。

 〝絆〟という字を辞書で調べると、「犬や馬など動物をつなぎ留めておく綱」に由来し、転じて「しがらみ」という意味があることが分かります。

 平時においては、私たちにとっては〝絆〟の光の面しか作用しないし、見ようともしないのかもしれません。しかし状況が一転すると、同じ〝絆〟が、人々に互いの足を引っ張り、傷つけ合う原因となる。大自然の摂理によって露になった〝絆〟の持つ光と陰を、特に福島と同じ原発立地に暮らす私たちは、教訓としてよく銘記しなければならないのではでないでしょうか。<宗淵寺寺報『がたぴし』第13号所収>

 

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お義母さんが好きだったノウゼンンカズラが、今年はいつもよりたくさんの花をつけています。

 寒さの苦手なお義母さんは、七月の誕生日を待たず二月の末、静かに彼岸へと旅立たれましたね。一緒に暮らした三十八年。家庭の事も、世間の事も、勿論お寺の事も、何もわからない私を陰になり、陽になり支え、導いていただいた事、感謝の思いでいっぱいです。

 「仏にも まさる心と 知らずして オニババアとや 人の言うらん」

 嫁いで間にない私に、歌人・与謝野晶子が、姑さんから「オニババア…」と下の句を示され、「仏にも…」と返した、というお話をして下さいましたね。今、この歌の意味を深く噛みしめています。

 先代の住職であったお義父さんの亡き後、「二人三脚でなく、方丈さんと、あなたと、私と、三人三脚でお寺を守らんといけんけんね」と、一心不乱に守ってこられた宗淵寺。今は副住夫婦も一緒に、頑張っていますよ。

 長い間、本当にお疲れ様でした。この上はどうぞ、ゆっくりお休み下さい。

 お盆には〝おおごっつぉ〟して、お帰りをお待ちしていますよ。合掌(寺族・靖子 記)<宗淵寺寺報『がたぴし』第11号所収>

 

 

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 今年の2月に亡くなった寺族・コウ(私は愛情を込めて〝おばば〟と呼んでいましたので、以後は〝おばば〟と表記します)には、自身の境涯を言い尽くした、人生最期の言葉がありました。

 それは、「しゃーしゃー」です。

 10年以上前、まだお寺での接客などをこなしていた壮健な頃のおばばの口癖は、「感謝、感激、雨あられ」でした。贈り物を受け取った時や、食事の時に皿におかずを取り分けてもらうと、よくそう言って謝意を表現していました。

 おばばは、とにかく独特の言語感覚の持ち主で、片田舎の地方寺院の一寺族に過ぎないのに、何故か自分のことを「わらわ」と雅言葉で自称するなど、自己愛も人一倍でした。

 「感謝、感激、雨あられ」も、言葉としてはかなり大げさで芝居染みていますが、あまりにも事も無さげにサラッと言うので、本当に心底感激しているのか疑わしい。むしろ、厚意を受ける自分自身の徳を讃えているのではないか。私にはそう映ったものでした。

 父もその辺を揶揄してか、よく「〝雨あられ〟は余計だ」と、おばばに釘を刺していたものです。

 やがて寄る年波が、長い文脈でしゃべるのを億劫にさせたのでしょうか。代わりに短く謝意を伝える為に、おそらくは中国語の「謝謝(しぇいしぇい)」を、 何故か「しゃーしゃー」と日本語読みして、それが晩年の口癖となったのです。おばば独特の言語感覚の為せる業(わざ)だったのでしょう。

 晩年のおばばは介護が必要な状態でしたが、部屋から食堂へ車椅子を押す時、ベッドに寝かしつける時、いつもおばばは「しゃーしゃー」と言ってくれました。

 しかし、往時の自信に満ちた言い方ではなく、時には節々の痛みに堪えるように、時には老いて不具になった境遇を嘆くように、人生の苦渋をため息と共に弱々しく吐き出す、そんな言い方に変わりました。

 そして、亡くなる前日。おばばは目に見えて衰弱し、今生の別れを覚悟した家族親類が見守る中、それまでただ横たわり、虚空に目を泳がせて、細く不規則に呼吸するだけだったおばばの口から、

「…しゃーしゃー…」

という言葉が突然漏れたのです。

 私はその時改めて(もしかしたら初めて)、おばばの人生が、他者への感謝の念に貫かれたものだったと、深く深く気づかされたのです。おばばが最後に言った、嘘偽りのない全身全霊からの真実の言葉だったからこその気づきでした。

 私がおばばのように「感謝」に包まれて逝けるのか。自信はありませんが、せめてその遺徳にあやかるべく、静かに位牌に手を合わせて供養します。(副住職 記)<宗淵寺寺報『がたぴし』第11号所収>

 

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 曹洞宗は両本山制です。一方は高祖・道元禅師が開創された永平寺(福井県志比郡)。もう一方は太祖・瑩山禅師が開創された總持寺(神奈川県横浜市鶴見区)です。

 總持寺は、元々は能登半島の櫛比庄(現在の石川県輪島市門前町)にありました。明治四十四(1911)年に現在地への御移転を完了してから、今年はちょうど百年目に当たります。

 今号の特集では、大本山總持寺の沿革と小史を紹介します。

 

瑩山禅師と總持寺

 瑩山紹瑾禅師は、文永五(1268)年に越前国多禰村(現在の福井県武生市)でお生まれになられました。熱心な観音さまの信者であった母に育てられた禅師は、8歳の時に出家の志しを立てて永平寺に上がり、13歳になって、永平寺の二世(二代目住職)・孤雲懐奘禅師の下で得度しました。

 その後、永平寺の三世・徹通義介禅師の弟子として修行されますが、義介禅師が加賀・大乗寺(現在の石川県金沢市)に転住されたのに従って大乗寺に移られた後も、積極的な布教活動を展開され、多くの弟子や信者を獲得されます。

 そんなある日、瑩山禅師は霊夢を見られます。それは、観音さまが夢枕に立ち、「奥能登の櫛比庄に諸岳寺という寺がある。今は密教寺院だが、それを与えるから禅寺とするがよい」とお言付けになるものでした。

 不思議に思った瑩山禅師が、後日諸岳寺を訪れると、住職は喜んで禅師を迎え入れ、お寺とその寺領を禅師に譲られました。聞くと、住職も禅師と同じ霊夢を見たのだそうです。

 諸岳寺を譲り受けた瑩山禅師は「諸嶽山總持寺(ルビ:しょがくさんそうじじ)」と名を改められ、開山第一世となられました。元亨元(1321)年のことです。

 瑩山禅師の跡を次いだ總持寺第二世・峨山韶碩(ルビ:がざんじょうせき)禅師(1275〜1366)の門下には、五哲とも二十五哲とも言われる有能な弟子が多数集い、彼らが全国的な布教活動をすることで、更に門下が増えていきました。これら多種多彩な人材を生かすため、總持寺は輪住制(住職を輪番で担当すること)で経営されるようになり、1〜3年おきに住職を交代させました。短期に住職が変わることで、全国の輪住地から衆僧の往来が絶えず、總持寺と門前町は大変な活況を呈したと言われます。

 

なぜ両本山制なのか

 開創の翌年である元亨二(1322)年に、總持寺は後醍醐天皇より「曹洞出世の道場に補任す」との綸旨を賜りました。勅許の出世道場として、京都・南禅寺と同格に処せられたことになります。またこの一文によって、「曹洞宗」という宗名が史上初めて定まったとも言われます。道元禅師は「曹洞宗」という呼称は用いられませんでしたし、勅許による寺院の格付けも永平寺に先行するものでした。

 特に室町期の両本山は、それぞれ別個に歴史的な展開をしました。その結果、總持寺が全国的に教線を拡張して、最盛期で約1万6000ヶ寺余りの末寺を有したのに対し、永平寺系の寺院は千数ヶ寺と、勢力的には全く奮いませんでした。(ちなみに、宗淵寺も總持寺系の寺院です)

 永平寺が歴史的にも古く、瑩山禅師が道元禅師の曾孫弟子に当たるにも関わらず、總持寺が寺院の格式で永平寺と並び称されるのは、これらの理由に依ります。

 各宗の本山制度が正式に確立したのは、江戸幕府による寺院諸法度の公布に依ってです。当初、幕府は仏教の各宗派をピラミッド構造で支配・管理しようとし、永平寺のみを曹洞宗の最上位に当てようとしていました。しかし、永平寺と總持寺の寺格が匹敵していた事実を鑑みて、最終的に曹洞宗を両本山制にしたのです。

 現在でも、曹洞宗の管長は永平寺と総持寺の両貫主猊下が、2年毎交代でお務めになられています。

 

鶴見への御移転

 明治維新を迎えると、總持寺を取り巻く環境が大きく変わります。

 京都から東京への遷都や、物流の主役が海運から陸・鉄路へ次第に移行していったことで、能登という地の利が低下していきます。それに伴って「都市開教」への取り組みが、曹洞宗のみならず全ての教団にとって避けては通れない命題となっていきました。

 また廃藩置県によって、それまで加賀百万石の威信をかけて外護してきた前田家の後ろ盾が得られなくなりました。加えて、明治新政府から「輪住制」を廃止する旨の通達がなされます。それまで總持寺の基盤を支えて来た諸条件が、大きな歴史の波にさらされ、転換を迫られることになったのです。

 立地条件での劣等が徐々に明らかとなっていく中、明治三十一(1898)年、突如発生した火災によって、總持寺の伽藍の大部分は灰燼に帰しました。その再建計画の最中に、「首都圏への御移転」が図られるようになったのです。

 これには門前町の住民が猛反対しましたが、總持寺側も「これは曹洞宗にとって100年間を見据えた大計」との信念がありました。両者の対立は、最終的に官裁によって決着し、總持寺の鶴見御移転が決定します。しかし、民意も尊重した上で、元地である門前町にも「總持寺祖院」として伽藍を残すことになりました。

 

開かれた禅苑

 總持寺が高い先見性に裏打ちされた「開拓精神」によって発展してきた御本山であることは、ここまでのご紹介でも分かって頂けたのではないでしょうか。

 現在でも總持寺は「開かれた禅苑」を謳い、鶴見の地に東京ドーム約7個分に当たる33万㎡もの広大な境内を持ち、JR鶴見駅が参道入り口に位置する利便性もあって、参拝や散策の人波が絶えません。また大学や保育園を境内に併設するほか、昭和の大スター・石原裕次郎の菩提寺としても名を馳せています。毎年7月の3日間にわたって盛大に開催される「み霊祭り・納涼盆踊り」は、雲水(お坊さん)と踊るユニークな盆踊りで、鶴見の夏の風物詩として知られるなど、開明的で都市型の御本山としての風光を放っています。

 

参考文献

「能登 総持寺」佃和雄 著 北国出版社

「總持寺史」「嶽山史論」栗山泰音 著

「總持寺誌」室峰梅逸 遍

 

via 宗淵寺/願興寺
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