今年、10年ぶりに開催されたホーランエンヤ。檀信徒の大半が阿太加夜神社の氏子のため、この祭りのお話をお伺いする機会がこれまで多くありましたが、その中で印象的だったのが、その伝承手段についてのお話でした。

 氏子中は準備段階から撮影機材を利用し、アーカイブ化して、口承伝統である神事を安定的に継承できるように試みられたそうですが、神職さんのご指示もあって、特に神事の中枢に関する場面は、どうしても撮影できなかったそうです。

 ある氏子さんは「今後は、祭りの内容や手順を標準化して継承することが必要だ」と仰っておられました。

 その一方で、寺院でも秘仏があるように、宗教の核心を安易に一般化せず、直接的に触れる手順を難しくすればするほど、反比例して神秘性や聖性が増すのも確かです。特に永平寺の御真廟で奉職していた私には、神職さんが記録をしないよう指示したお気持ちも背景も、よく理解できます。

 さて、この聖と俗をどのように均衡させて継承に繋げるかという話、私は「曹洞宗がなぜ両本山制なのか」というテーマにも通じるな、と思って聞いていました。

 「世俗の紅塵 飛べども到らず」として、聖に重きを置いて徹底して守ろうとした永平寺。

  より教団運営の関与者を増やし、時宜を踏まえ、俗との接点を多くした開放的な家風が、教団の安定化につながった總持寺。

 対照的とも思える二つの手段を択一せず、その象徴としての両本山を共に奉戴して両輪としたのが、曹洞宗における組織運営と継承の「叡智」だった、という言い方もできると思います。

 

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 僧衣を着て車を運転していた僧侶が、福井県警の交通取り締まりを受けて反則切符を切られた、という件についてです。すでにご存知の方も多いのではないでしょうか。

 昨年の9月に発生した当該の案件が、この年末年始に大きな話題になったのは、この間に僧侶が所属する教団の要路で取り上げられ、福井県警と教団が公に見解を発表し、これをマスメディアが取り上げ、更に、それを見聞きした全国の僧侶が、僧衣を着て縄跳びやリフティングやジャグリングをする動画をネットに投稿して、福井県警の対応に疑義を呈する活動(「#僧衣でできるもん」)が大きな話題となって閲覧数も増加、たまたまそれが年末年始のタイミングだったことから、さながら「お坊さん、新春隠し芸大会」の様相となってバズり、果てはイギリスの国営放送BBCもこの経過を報道するなど、世の関心を集めるに至ったためです。

 

 

 かく言う私も、第一報に接した瞬間は「すわ、公権の暴走か!」と憤然となりかけましたが、不瞋恚戒を持つ僧侶として、ここは冷静に、ひとまず県内の取り締まりについて、島根県警のメールフォーム「みこぴーくんのメールぼっくす新」に質問メールを送りました。すると、県警の担当者の方から折り返しのお電話を頂き、以下の回答(要約)を頂きました。

・島根県警が交通取り締まりの基準としている「島根県道路交通法施行細則」には、服装に関する規定はない。

・履物に関しては、同細則の第15条「運転手の遵守事項」に、下駄やハイヒールを例示とした禁止事項がある。

・島根県内で、僧衣の運転が交通取り締まりの対象になることはない。但し、他県警管内では別に同細則を定めているので、他県で運転していたら取り締まり対象になる場合はある。

 ちなみに、同細目に服装に関する規定があるのは、15県。近県だと岡山県警管内がこれに該当します。

 

 

 さて、ここからはこの案件に対する私個人の意見になります。

 まず、今回取り締まりの対象となった僧衣・僧形は、曹洞宗で言うところの「改良衣」に当たります。そして、私自身もこの僧形で日常的に運転をしてます。

 ただしこれはあくまでも移動の際の略式の僧形で、お勤め先に行けばお袈裟を着けるなどして正式の僧形に着替えることになります。つまり、日常生活に差し支えないように改良されたから「改良衣」と称しているわけですし、これで実際に交通取り締まりにあったら、私もおそらく「理不尽」だと憤るでしょう。

 大前提として法令遵守はしなければならない。その上で、僧衣(着物)の運転については規定が全国的に統一されておらず不公平だ、という指摘はもっともです。そして、「#僧衣でできるもん」によって市井の僧侶が草の根運動で、かつウィットとユーモアを駆使してバズったことは、素晴らしい「倍返し」だったと、動画を投稿した僧侶の方々のバイタリティーに敬服するしかありません。

 

 ただ、時間をかけて沈思するうちに、別の思いが出てきました。本当に、車の運転を従来の僧衣・僧形でしなれば日々のお勤めができないのでしょうか。

 おそらくですが、福井県警は現場の警察官の「判断」で、僧衣での運転に「懸念」が生じ、これを予防すべく取り締まりを行ったのでしょう。未だに私は現場の警察官が「先走り」したのではないかと疑っています。

 それに対して、「#僧衣でできるもん」で実証が試みられたように、僧衣が運転に差し支えないのも「事実」でしょう。

 これに、いわゆる「コンプライアンス事案」として対処する方法は2通りあって、1つは、僧衣で運転が可能であるという「事実」を実証していく。今回の案件で見られた仏教界側の対応がそれです。

 もう1つの方法は、今回惹起されたことを受けて、今後は「懸念」が生じないよう、僧侶の側が未然に防止すること。つまり運転中の僧形をさらに「改良」することです。

 

 具体的には、今回の福井県警が「運転に支障がある恐れ」と見なした股下の可動性については、まず靴を履く。次に着物の上からもんぺを履く(実は昔の作務衣は着物の上から着れるようにもんぺ袴状だったと言います)。さらに上半身の袖丈をさらに短かくする、などが考えられます。

 そもそも、僧衣や着物姿でも「運転に差し支えはない」が、「運転に最適である」かと言われると、そう言い切れません。

 この点は福井県警の見解とは逆で、着物の股下は締まっているのではなく、むしろ時間の経過とともに段々と緩んできて、身嗜みが悪くなるのです。ズボンの方が運転に向いているのは明らかです。

 私も、県外の会議出席などで長時間運転をする際には、スーツに絡子で移動します。曹洞宗の現行の服制規程では、正式な法要を伴わない集会に限り、洋行衣(スーツとネクタイ)に絡子の被着して出席することが認められています。この服装なら、目的に到着しても改良衣に着替える必要がなく、移動中の荷物も少なくて済みます。道中の服装は正儀とは異なるので、そこに「僧衣はこうでなくてはいけない」という「無謬性」を発揮する必要はないのではないでしょうか。

 

 例えばターミナルケアで病棟に入る、もしくは被災地や仮設住宅に入る、といったボランティア活動の先駆者である僧侶の方々は「僧衣を着て現場に行かない」という「配慮」を心がけておられました。仮に病棟や被災現場に僧衣で赴くと、対象者の中には「葬儀→不吉」といった連想や、弱り目に祟り目で宗教の勧誘をされるという「懸念」がある方がおられる可能性があり、実際には不吉ではないし勧誘もしないけれど、肝心なのはまずその中に入ることだから、僧形での活動にこだわらない姿勢を貫いておられるのです。もしかしたら、僧衣での運転に関しても、これと同じ対処が可能なのではないでしょうか。(副住職 記)

 

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先日、全日本仏教青年会主催の『現代の僧侶を考えるワークショップ』がで開催され、私も参加したディスカッションの中で、現代は少子高齢化や晩婚・非婚化も加速しており、葬送や死生観が多様化しているのだから、家墓を継承することだけが選択肢ではいけないのではないか、という話題になりました。子どものいない夫婦や独身者にとって、家墓を継承するのは将来的な不安が大きく、その意味では家墓そのものが、心理的ストレスのそのものであり旧態然の象徴、そんなところまで話が進みました。

 

「もしかして、それって〝お墓ハラスメント〟ってこと?」

 

 私は思わず声を上げました。

 我々僧侶が檀信徒に対して先祖供養の大切さを説く、それ自体は悪くないにしても、それを絶対無二の「根本法」のように扱うと、その話を聞いた檀信徒の中には、先祖の供養はしたいけれど、訳あって承継者がおらず無念だという「救われない」思いに駆られる人もいるのではないか。祭司者である僧侶が「権威」として機能する関係性ではなおさら、現代的にはもはや「お墓ハラスメント」とも言える構造になってしまう危険性があるかもしれません。

 

 数日後に、ある先輩僧侶の方に、「お墓ハラスメント」について、どう思うか伺いました。

 するとその方は「そういう視点はすごく大切」とした上で、ご自身の檀信徒の中に、家で納骨ができる仏壇を買い求めた人がおられ、これを許容して祭祀を認めた、と話をして下さいました。つまり、その僧侶は、相手によって柔軟に手段を駆使されているのです。いわゆる対機法です。

 お墓や供養の主体性は我々僧侶にあるのではなく、あくまでも施主や遺族にある。僧侶の「あるべき」や伝統のひな形を徒らに押し付けるのではなく、施主や遺族にとって何が一番の「安心(あんじん)」か。そのための最善の手段は何か。それを問い続け、対機に徹する姿勢こそが、現代の々僧侶には求められているように感じます。(副住職 記)

 

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ボランティアでの気づき

 この7月、中国地方を中心に西日本全体に甚大な被害をもたらした集中豪雨が発生しました。

 それだけではなく、平成二十三年に発生し「(まるで)第二の敗戦」とまで評された東日本大震災以降、平成二十六年には熊本地震と広島の豪雨土砂災害、平成二十七年には茨城県常総市を中心とした豪雨災害、平成二十八年には鳥取中部地震、平成二十九年には九州北部の豪雨災害と、列記してみても、毎年のように甚大な自然災害が発生していることが分かります。

 私は所属する「いずも曹洞宗青年会」の活動の一環でいくつかの被災地にボランティアに行かせて頂きました。掃除や泥かき、傾聴活動など、ボランティアセンターでマッチングされた内容を、ただただ無心で取り組んできました。

 あれは東日本大震災のボランティア活動で、岩手県釜石市のある集落に入った時のことです。住民の女性と話をしていると、地域に祀られている観音像について、話し出されました。聞くと、明治三陸地震の際に発生した津波で亡くなられた方の慰霊のために建てられたものだったそうです。

「毎年地域で慰霊祭を開催していたのですが、当事者が亡くなり、記憶の風化と共に、段々とお参りする人も少なくなって、いよいよ来年は慰霊祭を中止しようという話が出ていた矢先、あの津波に襲われました。自分たちが経験して、改めて、当時の人たちがあの観音様に込めた祈りの深さを、身を以て知りました。あの観音様のことを、私たちは忘れてはいけなかったんです。」

 この話を聞いて以来、私は無心で活動をしながらも、被災地と言われる地域にある「神仏の面影」を意識的に探すようになりました。

 その点で印象深いのが平成二十六年の広島豪雨土砂災害です。事前にあるテレビ番組で、被災地域である安佐南区八木という地域が、元々は「八木蛇落地悪谷」という名前で、水害が多い地域性であることを暗示し警鐘する地名だったのが、一般的に印象の悪い表現が改められ、「八木」という地名だけが残って住宅地として造成された結果、過去からの警鐘が失われた、というものでした。

 実際に当時の被災地に行ってみると、巨大な引っ掻き傷のような土石流による爪痕がある中、地滑りしていない一角がありました。地元の人によると、

「昔からある小祠などが建つ場所は地盤が固く、今回も地滑りしなかった。昔の人は、そういう場所を知っていたのではないか。」

と仰っていました。

 以来、地元に帰った時も、やたらと路傍の朽ちかけた小祠や石仏が気になるようになりました。そこにある「意味」は何か、過去の人たちのメッセージが宿る記憶装置に思われたのです。

 

天災と日本人と観音様

 そんな中、先日あるテレビ番組で、民俗学者の畑中章宏さんという方のお話を視聴する機会がありました。畑中さんは「災害民俗学」とでもいうべき領域を研究対象としていて、曰く、例えば『遠野物語』には、当時の災害や飢饉に苦しむ人たちの記憶が反映していて、個々が抱える悲しくて辛いけれども割り切れない、言語化できないモヤモヤとした思いや気持ちが、怪異伝承になることで形になり、初めて他者と共有できる。だから怪異伝承には、実際の災害の教訓に富んでいる、というのです。

 震災で家族を失った人は、自分が生き残ったことへの安堵と後ろめたさがある。それが「家族の幽霊を見た」という怪談話になって人に伝えることで、複雑な気持ちのありようが、ようやく他人にも理解できるようになる。

 畑中さんのお話に大変興味を持った私は、早速著書である『天災と日本人』(ちくま新書 2017)を購読したところ、大変興味深い事例を知ることとなったのです。それが、「十一面観音と水との関係」でした。

 氏によると、「日本古来の自然崇拝にもとづく水の神は、道教や仏教の竜神や竜王と習合し、さらには十一面観音にその役割が託されていった。古代や中世、各地に造立された十一面観音像は、治水や利水の象徴だったと考えられる」と言います。その代表例として真言宗豊山派総本山・長谷寺(奈良県桜井市初瀬)を挙げています。長谷寺の縁起によると、ご本尊の十一面観音は、その昔、諸国に大洪水があった時、近江国高島郡の岬に漂着した霊木を彫ったものとされています。脇侍に雨の神や竜神を従え、右手に錫杖と念珠、左手に水瓶を持ち、こうした事物の像は「長谷寺式十一面観音」と呼ばれ、日本各地の水辺に祀られていると言います。

 河川や湖沼の氾濫の象徴である龍や蛇といった水の神は、十一面観音に化身することで鎮められ、治水を果たし、そうして造立された観音像は日本全国に及び、中には海辺で津波を沈めるために十一面観音が祀られることもあったと言います。

 畑中氏は、安佐南区で調査を行なった際、八木地区に建つ「蛇落地観世音菩薩堂」に安置されていたのが十一面観音であったことを確認して、信仰史上の符合に驚いたとしています。

 ではなぜ聖観音や馬頭観音はなく、十一面観音と水だったのか。

 その原初的な発生について、畑中氏の本の中では、山岳修験の代表的な行場である白山(石川県)開創の由来について、行者・泰澄が山頂で瞑想をしていると、池の中から九頭龍大神が出現し、それがやがて本地仏の十一面観音となり、主神である白山妙理大権現として祀られたことに始まる、としています。

 また、山中の清泉に建立されたと言われる清水寺。同名の寺院は全国で40以上ありますが、その中でも格式が高い京都と安来の清水寺は、ともに本尊に十一面観音を祀っています。ここにも、十一面観音と水の強い結びつきが見て取れます。

 著述家の白洲正子氏は、著書『十一面観音巡礼』の中で、十一面観音の原型がバラモン教における山の荒神で、民衆の供養によって次第に悪神から善神に転じたものとし、その経緯が、日本人にとっては、古来の考え方でいうところの荒御魂が和御魂に変じるのと同じで、親しみやすかったのではないか、と指摘しています。そう言われてみれば、荒御魂から和御魂になる経緯は、竜神から十一面観音に変じる、即ち氾濫した河川が鎮まる経緯にも似ているように感じます。

 

願興寺と水との関係

 さて言わずもがな、願興寺の本尊も十一面観音であり、「子授け」のご利益は伝わっていますが、水との関係は今ひとつ見えにくいようにも感じます。江戸中期に周藤弥兵衛による切通開削があったように、当地で意宇川の氾濫の被害があったことは考えられますが、今の願興寺の立地が意宇川鎮静の場として最適かと問われると、確信を持って肯首しきれません。

 しかし、一つ思い当たるのが、願興寺の南隣に、屋号を「きそ」と称する旧家があります。私はずっと「木曽」と表記すると思っていましたが、最近になって、「岸尾(きしお)」が転訛して「きそ」になった、と教わりました。つまり願興寺の一帯は、その昔は水辺だったのです。その証拠に、現在駐車場の付近は、一段高い境内地と比べて水分が多く軟弱な地盤です。「十一面観音と水」という符合に適うようにも思えますが、果たして真相はどうでしょうか。

 今回、畑中氏の言説を学び「十一面観音と水との関係」について知ることができたことで、願興寺の信仰と地域の歴史に、未知の深まりがあるように感じられました。もしかしたら水害や治水についての地域の人々の思いと祈りの蓄積が、願興寺にはあるのかもしれません。ご本尊の十一面観音様には、改めて今回の水害による慰霊と復興を祈願したいと思います。(副住職 記)<願興寺観音講会報『どうぎょう』第47号所収>

 

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 今年の6月27日から来年の6月9日まで、松江市奥谷町の『小泉八雲記念館』で企画展「八雲が愛した日本の美〜彫刻家 荒川亀斎と小泉八雲」が開催されています。

 1890(明治23)年8月に松江に赴任した小泉八雲は、その約1ヶ月後、松江市寺町の龍昌寺にある石地蔵と出会い、魅了されます。八雲はすぐにその作者であった荒川亀斎の元を訪ね、その腕前と気質に惚れ込み、のちに松江を離れてからも、支援者として亀斎と交流を続けたと言います。同展では、小泉八雲が松江で見出だした日本の美と、八雲の審美眼を探りつつ、日本の文化を世界に発信する「プロデューサー」としての八雲の側面が紹介されています。

 その荒川亀斎ですが、宗淵寺にも縁(ゆかり)があることをご存知でしょうか?本堂の向拝柱の木鼻に彫刻された象鼻は、実は荒川亀斎の作、と伝えられています。

 荒川亀斎は1827(文政10)年4月25日、松江の雑賀横浜に大工の子として生まれました。名を重之助、通り名として明生、重之輔と称し、雅号として石濤(濤石)、太白館、亀齢斎、亀幽斎、酔石、東雲などと号しました。亀斎の雅号は66歳の時、後述するシカゴ万国博覧会での出品以降に使用しています。

 亀斎が生まれた当時の雑賀横浜は職人町で、近くには鍋・釜・包丁等の鉄製品を作って専売した松江藩の直営企業「釜甑方」もあったと言われ、そういった環境で育った亀斎は、幼少より父の作業場で鑿や金槌をおもちゃ代わりに遊んでいたと言われます。そして2歳にして蝉や蜻蛉を描いて才覚を表し、14歳で常教寺(松江市寺町)の鐘楼や売布神社拝殿に龍の彫刻を残したと言われます。その後も工芸や書画のみならず国学や俳句、骨董にも造詣を深め、更には明治維新以後、西洋文化の輸入に刺激を受けて物理学に没頭、やがて松江藩病院や島根県庁などの機械器具類の製作や管理、操作なども委嘱され、1876(明治9)年には、島根県庁からの依頼で螺線仕掛けの学校用大そろばんを発明し、数百個製造します。その多才ぶりから、現在では「島根のダ・ヴィンチ」や「松江の平賀源内」などとも称されています。

 そして1877(明治10)年、第一回内国勧業博覧会(初代内務卿・大久保利通が主導して、国産品の開発・奨励を目指した当時国内最大規模の展覧会)に「紫檀製書棚」を出品、見事に賞牌を受賞します。この時、亀斎50歳。その名声は出雲地方に止まらず、全国的に知られる存在となりました。

 そんな中、亀斎は松江に赴任した小泉八雲と出会います。当時の八雲は寺町を散策するのが好きで、特に龍昌寺に奉安されている十六羅漢像を見に来ることを楽しみにしていました。ある日八雲は境内にあるお地蔵様を見つけます。その慈愛に満ちた表情に見惚れた八雲は、すぐに寺男を呼び止め、作者が誰か尋ねると、その寺男が亀斎の名を明かしたと言います。

 実は、この石地蔵は別の石工が製作したもので、顔以外はすでに完成していたものを、たまたまそれを見た亀斎が「自分に顔を仕上げさせて欲しい」と名乗り出て、顔相だけを彫ったとのこと。当時この事実はあまり知られておらず、名工の隠れた仕事の一端を見抜いた八雲の慧眼に、人々は驚いたと言われます。

 八雲は、同僚であり親友だった西田千太郎の案内で亀斎の工房を訪ね、そこで美術論などを交わして両者は意気投合します。八雲は、龍昌寺にあるお地蔵様と同様の彫り物を所望し、亀斎もこれに快く応じ、桜の木を材質にして彫刻に取り掛りますが、製作途中で八雲が黒柿に変えて欲しいと言いだし、完成した黒柿の仏像を八雲に送りました。

 八雲は著書(「英語教師の日記から」)の中で、

「私はしかし、この松江にも、現に生きている老芸術家で、左甚五郎以上に不思議な猫を作る人があると、ひそかに信じている。その一人に荒川重之助という人がある。」と述べて、亀斎を激唱しています。

 八雲は亀斎を世に紹介しようと、西田千太郎と共に、1893年のシカゴ万博への出品を勧め、取次に尽力します。この万博で亀斎の「櫛稲田姫像」(出雲大社蔵)が優等賞を獲得し、国際的な栄誉に欲しました。

 1906(明治39)年、荒川亀斎は79歳で死去。亡骸は菩提寺である松江市新町の洞光寺に埋葬されました。

 その死後も評価は続き、人気のテレビ番組『開運!なんでも鑑定団』の2010年の放送で、前述の桜の木で彫刻した小泉八雲ゆかりの未完の仏像が鑑定品として登場。90万円ほどのプライスがつきました。

  亀斎は生涯で200を超える作品を残したと言われ、出雲地方のお寺には数多く作品があると言われています。

 実は、宗淵寺の象鼻の彫刻は、口伝としては荒川亀斎作と伝わってはいるものの、実際に鑑定書があるわけではなく、本当に亀斎が彫刻したものかどうかの証明ができません。なので、現時点では「伝・荒川亀斎作」と表現せざるを得ません。

 但し、宗淵寺が現在の地に1843年に移転したという、亀斎の活動年代との一致があること、また荒川家の菩提寺である洞光寺が宗淵寺の本寺(本家筋に当たる寺)という縁故がある、という周辺状況を踏まえると、亀斎作である可能性が高い、とは言えそうですが、果たして、鑑定は如何に?(副住職 記)<宗淵寺寺報『がたぴし』第23号所収>

 

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4月27日に行われた韓国と北朝鮮の南北首脳会談の話題が世界を駆け巡りました。隠岐の島町を所管する宗務所の一員としては、南北の融和ムードを歓迎する一方で、板門店で金正恩委員長が文在寅大統領の手を取り、易々と国境線を行き来した光景が、竹島(独島)でも実現したなら、と夢想せずにはおれませんでした。

 

一方、日本国内に目を向けると、話題はもっぱら「セクハラ」。

世界的な「♯metoo」運動の盛り上がり、前財務事務次官によるセクハラ問題。そして某アイドルの不祥事。特に、私の親戚がテレビ朝日に勤務していることもあって、会社としての一次対応の是非や様々なコメンテーターの解説を、強い関心を持って追っていました。

 

そしてだんだんと、この問題は私にとって「対岸の火事」ではない、と思うに至りました。

体制の安定のために、異論や少数派の意向を看過する。現代の日本ではそれが「男社会」において顕著のように感じます。そして少なくとも私にとってお寺は紛うことなき「男社会」であり、そうである限り、今日的なセクハラを助長する構造は、お寺にも当てはまるのではないか。

よく見聞きするのは、若い寺族に対して「後継者としての男児」の出産を期待する周囲の言動です。まだ子どもがいない寺族に対して「子どもができない体なのか」と耳を疑う言葉を投げかけられた、とも聞いたこともあります。

世襲に頼り、比丘尼を育成する方途も乏しい宗門は、結果として寺族が理不尽に晒されやすい構造なのでしょうか

 

以前、あるお寺で盛大な祝事があった時のこと。宴席では集まられたお寺さんも檀家さんも大いに盛り上がり、長い法要が終わった高揚感も手伝ってか、お酒も随分呑まれていました。

とても賑やかな雰囲気の中、あるお檀家さんが一足早くお帰りになるために玄関に向かわれました。すると見送りに出てこられた寺族さんに対し、ご機嫌な様子だったそのお檀家さんが、

「奥さん、今日は良かったね!」

と、寺族さんに握手を求められました。

でもその寺族さんは、表情に笑みは残してはいるものの、目で強い「意志」を示しながら、しかと後ろ手を組んで、断固として握手をすることを拒まれたのです。

握手するしないの押し問答が数回あった後、結局お檀家さんは握手することを諦めて「イヤー、まいったなー」と言いながら帰路につかれました。

何となくそのやり取りを見ていた私は、和やかだった雰囲気が一瞬白けたように感じ、篤信者でもあったそのお檀家さんが気分を害し、お寺との関係がこじれないか、むしろ心配になりました。

今になってよくよく省みると、素面の寺族さんが酒毒の害が及ぶのを警戒し予防するのは当然だし、そもそもまるで飲食サービス業のような接遇をする必要はないはずです。

でも当時の私は、

「握手ぐらいさせてあげてもいいのに」

と思いました。それこそが一連のセクハラ問題の温床と同根だと、今回改めて気づかされました。

 

よく「開かれたお寺」と言いますが、その一方で境内を禁煙にするお寺も増えてきました。

艶っぽいやり取りや猥談(以下、通称〝スケベ〟とします)は一種の嗜好であり、コミュニケーションツールだと見なす「男社会の住人」は多い(私も含めて)ですが、今後はスケベもタバコと同じように、TPOを問わず公共空間から追いやられるかもしれません。

お寺も「葷酒山門に入るを許さず」だけではなく、そのうち「スケベもまた入るを許さず」と標榜することになるのではないでしょうか。少なくとも女性に開かれたお寺にするならば、そうあるべきです。(副住職 記)

 

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 私のお寺は「除夜の鐘つき」に大勢の参拝があるため、大晦日に家族で年越のテレビ番組をゆっくり観る習慣がないのですが、それでも元旦の昼過ぎ頃から、大晦日の歌番組や格闘技、お笑い番組などの話題が耳に入ってきます。

年が明けて、私が思わず情報の後追いをしたのが、『紅白歌合戦』。それも、引退する安室奈美恵さんではなく、それまであまり興味のなかったアイドルグループ『欅坂46』の出演場面でした。

「ダンスを終えた後、メンバーの数名が過呼吸になって倒れた」

 

最初、情報サイトの文字情報として触れた時は「倒れたと言っても、その場にうずくまった程度だろう」とタカを括っていましたが、動画サイトでその場面を観て、あまりの光景に息を呑んでしまいました。

「スゴイものを見た」と思った瞬間、私の右手はすぐにリピートボタンを押していました。そして幾度となく動画を見た後、事もあろうにこれが『紅白歌合戦』という、一年で最も老若男女が安穏とし切った瞬間にマス伝達されたことに、戦慄しました。

 

その後にメンバーが無事回復したから言えますが、過呼吸で倒れたメンバーが、まるで一瞬にして全ての糸が切れたマリオネットのように、無意識の顔面を露わにしながら全身をくねらせて後方に倒れ込み、それをメンバーが必死に抱きとめる刹那、私にはそれがまるでピエタ(処刑されたキリストの亡骸を抱く聖母マリアを表現した宗教画や彫刻)や神降ろしに見えたのです。もしかしたら宗教の歴史における奇蹟の発生も斯くの如しか、と思われました。

「アイドル(idol)」とは、今となってはいわゆる和製英語として認知されていますが、元々は「偶像」の意味で、信仰の対象になり得るものです。そして信仰を伝える教えや媒体があり(音楽や踊り)、信仰・熱狂する人たちが共同体を形成する(ファンやオタク)。実は、アイドルはその周辺も含めて、構造が宗教と似ています。

そして偶像としての教祖やカリスマは、いつでも信者の関心や体験を凌駕し続けなければいけません。アイドルが「やりすぎ」と思われるほどの過剰なパフォーマンスを更新するのは、それがファンへの惜しみない「ギフト」(霊的贈与、キリスト教の愛、仏教の慈悲や法施)の賜物だからです。

 

そしてこの構造の中心にいる教祖やカリスマは、いつでも信者の関心や体験を凌駕し続けなければいけません。アイドルが「やりすぎ」と思われるほどの過剰なパフォーマンスを更新するのは、それがファンへの惜しみない「ギフト」(霊的贈与、キリスト教の愛、仏教の慈悲や法施)の賜物だからです。

実はこの「過呼吸」は、欅坂46をはじめとした『48グループ』の〝お家芸〟で、AKB48のドキュメンタリー映画を観ると、幕間でメンバーがバタバタと倒れる様子が描かれています。でも今回は倒れた状況と倒れ方がすごかった。

もちろん、メンバーはワザと演じて倒れたわけではありません。むしろ無作為だからこそ、今回起きた奇蹟の求心力がとてつもないのです。おそらく、従来のファン心理はより強固になり、そして新たに興味を持った人には崇高な原体験なったに違いありません。

世界的ブレイクを果たしたアイドル『BABYMETAL』の「狐憑き」というコンセプトも、古くは卑弥呼や出雲阿国、または近代における新宗教の教祖たちなど、大衆を魅惑する「日本のカリスマ的アイドル」の歴史をなぞるようでもあり、音楽がトランスを導くために、秀逸な仕掛けであると言えます。

 

改めて思うに、私も含めた市井の宗教者は、惜しみなくギフトできているか。もしかして、その点に関してはアイドルに敵わないのかもしれません。(副住職 記)

 

 

「この、ハゲーーーッ!!」

 

テレビやネットメディアから、このフレーズを耳にするたびに心胆を寒からしめる。おそらく私だけではないでしょう。AGA患者のみならず、全国の僧侶が戦慄した、今年上半期、屈指の流行語です。

 

確かに僧侶である私は、ハゲてます。

芸能人やスポーツ選手、一部の政治家が、自身の改悛を最大限に表す時、よく頭を丸めて人前に出ますが、これは古来からの因習、特に姦通罪などの罪人への科罰の名残でしょうし、件の流行語も、断罪の発露・言語化だったと伺えます。

 

それと、見るからに毛量優性である発言者にとって、ハゲは劣性であり、社会的な異形、マイノリティだった、という偏見も感じます。政治家に問われる資質に、罪悪やマイノリティへの対処の仕方があると思いますが、政治家である発言者を、その点でも全く評価できない、と言えます。

 

ちなみに、ハゲの語源は「剥げる」のようですが、正に化けの皮が剥げ(ハゲ)たのは、発言者である政治家でした。これぞ、巨大ブーメラン。

 

それに対して、我々僧侶のハゲは科罰ではないし、教団内では圧倒的なマジョリティです。

剃髪(浄髪)は宗教的な誓願の具現です。仏教では髪を煩悩の象徴と見做して、これを自発的に剃り落とすのですが、この髪という名の煩悩は、一度だけ剃ってもまた生え続けます。自覚無自覚に関わらず、小罪(煩悩)は無量です。だからこそ、その度に何度でも剃り、ハゲ続け、誓願し続けるのです。

ハゲについて個人的な述懐をすると、初めて頭を丸めたのは中学入学の時。当時、男児は全員丸坊主でした。今は人権問題と見なされているようですが、確かに当時は強制的に丸坊主にさせられるのが嫌でした。

その反動で高校に入ってからは、前髪を眉下まで伸ばし、毛質が柔らかったこともあって、当時活躍していた俳優の吉田栄作さんのようなヘアスタイルになりたくて、毎朝髪をブローしてスプレーで固めてから通学してました。しかし片道自転車で30分の道のり、学校に着くまでに風雨にさらされてスプレー効果は剥がれ、校門に至る頃には、ペッタリした柔毛は吉田栄作というより宅八郎。そんなことを3年間毎日続けていました。これぞ不毛の努力。

大学で仏教系の寮に入ったのをキッカケに頭を丸めて四半世紀、自発的にハゲを続けているのは、不毛な高校時代の疲弊を経て、ハゲてる気楽さを痛感しているからです。

 

拙文の最後に、件の発言者へ、鴨長明の珠玉の金言を送りたいと思います。

「剃りたきは心の中の乱れ髪 つむりの髪はとにもかくにも」

(副住職 記)

 

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はじめに

 かつてNHKスペシャルで「無縁社会」という言葉が紹介され、流行語にもなりました。昨年の同番組で、今度は「不寛容社会」なる言葉が紹介されました。

 番組のアンケートによると、対象の46%が、今の日本は「他人の過ちや欠点を許さない不寛容な社会だ」と答え、62%が「心にゆとりを持ちにくい」、66%が「イライラすることが多い」と答えています。そして、ネットでの炎上や不謹慎狩り、ヘイトスピーチなど、日本社会の不寛容な実態がレポートされました。

 最近の世界情勢を見ても、ISの勃興やアメリカのトランプ大統領の誕生、ブリグジットショックなど、それまでグローバル化に進展していたものが、逆にローカル化の波が寄せ返し、その余波として、共感できない他者への怒りと不寛容な空気が世に満ちている。おそらく番組の問題意識も、こういったところにあるのでしょう。

 

怒りには理由がある

 仏教が目指すことを究極的に言うならば「苦しみをなくし、安らぎを得る」と言うこと。逆の言い方をすると、「安らぎを得るためには、苦しみをなくさなければならない」ということです。

 仏教では四苦八苦、すなわち、①生きること②老い③病む④死ぬ⑤愛するものと別れる⑥恨み憎むものと出会う⑦求めるものが得られない⑧健康で精力的だからこそ、むしろ諦められずに尽きない、とこれらを苦の原因を規定しています。これはつまり、それぞれの原因が生じなければ、苦も生じない、ということになるのです。

 ただ、人間生活を送る上で、これらの苦を完全に避けることは絶対できません。苦の原因を生じさせないために人を愛さずに生きる。そんなことが可能でしょうか? 

 つまり仏教では、普通の人生で苦を避けることはできない、ということを逆説している、とも言えるのです。

 そして、苦を誘発する心の毒の一つが、怒りです。つまり怒りがなければ、苦の原因が減るということになりますが、それは果たして可能でしょうか?

 最近、「アドラー心理学」について書かれた『嫌われる勇気』という本がベストセラーになりドラマ化もされました。このアドラー心理学では、「怒りは出し入れができる」と説かれています。つまり本能とは別に、人は何かしらの目的を果たすために「怒りを作為する」と言うのです。 

 また最近では、特に対人関係を適切にするために怒りを制御する「アンガーマネジメント」という心理療法プログラムがあります。これによると、怒りはストレスと似ていて、感情的なピークは約6秒だと言います。ストレスは人間生活では可否できませんが、発散したり目をそらしたりして、うまく付き合うことはできそうです。

 

寛容だから他人に期待しない

 「このハゲーッ!!」

 僧侶である私の心胆を寒からしめる、耳を疑うような「暴言」が、約1ヶ月前にメディアから繰り返し流されました。確かに凄まじい怒気を孕んでいましたが、あの一件、私には、発言者が怒りに我を忘れたこともさることながら、元々極端に「不寛容な人」ではなかったか、と感じられました。告発者となった元秘書の男性の仕事上の「ミス」に対する叱責だったようですが、おそらく、超がつくほどのエリートだった某議員は、元秘書の不確実で「愚か」なミスが、自身の評価に繋がることが耐えられなかったのでしょう。

 寛容になるには、本質的に人間は誤り易く不確実である、という前提が必要です。逆に確実性を過度に期待すると、それが叶わなかったことで、怒りの導火線に火がつき、「このハゲーッ!!」となるのです。

 「他人に期待しない」と言うと、何か冷たいようにも感じます。しかし得てして、この「期待」は他人のためではなく自分の要望を叶えるための、自分本位な場合が大方です。やはり「他人に期待しない」方がより寛容的と言えます。

 

不寛容にも寛容に

 昔、秋になると近所の神社で相撲大会があり、小学5、6年の男児は全員参加が原則でした(今はもうそうではなくなりましたが)。私は寺の息子でしたが、神社にはよく詣っていましたし、何より学校の友達がみんな参加する行事だったので、地縁を重んじれば、参加しないという選択肢はありませんでした。

 しかし、ある一人の同級生だけが、信仰上の理由で参加しませんでした。その時私には、彼とその家族が地縁に背を向けたように感じ、突然宗教的な差異が先鋭的に露わになった気がして、それまで普通に互いの家を行き来して遊んでいたのに、その出来事をきっかけにあまり彼とは遊ばなくなりました。

 若い頃には誰にでもある、友達と没交渉になる話、と思われるかもしれません。しかしこの話には、寛容さを考える上での重大な命題が含まれています。

 よく、日本人は宗教的に(良い意味で)いい加減で寛容だと言います。その意味からすると、私は寛容で彼は不寛容、だったと言えるかもしれません。

 しかし今になって思うと、私は「寛容という多数派」が正しいことして無意識に選んだことで、信仰上の理由で「不寛容な少数派」になった彼は正しくない、と心のどこかで爪弾きにしたのかもしれません。だとしたらそれはもはや寛容とは言えません。

 実は、古今多くの宗教紛争は、この「不寛容に対する爪弾き」が原因となっている事実があるのです。共感できない相手であっても受け容れることができるどうか。不寛容に対する姿勢によって、寛容の真価が問われると言えます。

 

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宗務所の檀信徒本山研修会は、大本山總持寺で1泊した後、梅雨空の下、相模路を西へ。小田原、箱根、江ノ島、鎌倉の名所旧跡を巡りました。

 この旅程中、私は二人の僧侶に対する「擯斥(ひんせき)」について思っていました。「擯斥」とは排斥のことで、すなわち曹洞宗教団から破門、除名されることです。

 

 

 まずは、旅程にも組み込まれて参拝した箱根・林泉寺の元・住職、内山愚童師(1874−1911)。

、僧侶且つ社会主義者として活動し、明治42(1909)年に発覚した、いわゆる「幸徳事件」(大逆事件)に連座して処刑された12名のうちの一人です。これを受けて、当時の曹洞宗は愚童師を擯斥処分としました。

 しかしこの「幸徳事件」は、後年になって国策捜査とも言える冤罪事件との評価がほぼ定まっており、また作家の水上勉氏や瀬戸内寂聴師などは、愚童師を仏教者として高く評価しました。曹洞宗も平成5(1993)年、事件発生から約85年を経って擯斥処分を取り消し、名誉回復が果たされました。平成17(2005)年には宗務総長が出席の下、愚童師の追悼法要と顕彰碑の除幕が行われましたが、この時に、

「当時、世界の強国は軍事力をもって領土拡大に奔走していた時代であり、日本も例外ではありませんでした。国家は民衆の声や運動を封じ込めるために「大逆罪」を実体化し、(中略)軍国主義の破局へと突き進んでいきました。

 宗門も時の国家体制に追随し、信仰の自由と平和を希求する良心をも放棄し、仏教者の誓願に背き、教学を歪曲してまで、積極的に戦時体制に協力しました」

と表明して、教団としての罪過を認め、これを懺謝し、再発の防止を誓願しています。

 

 私個人としては、愚童師個人の評価については是々非々があっても良いと考えていますが、少なくとも当時の教団が為したことは問題であり間違っていたと思います。折しもいわゆる「共謀罪」法案が成立した今、公権力が個人に対して、疑わしきを罰した愚童師の一件を、現代に生きる曹洞宗の僧侶として、改めてよく銘記しなければなりません。

 

 

 

 

実は、この玄明の一件は後年の創作(玄明という名の修行僧がいたのは確かのようです)と言われており、その原典となったのは、道元禅師が亡くなられてから約200年後に永平寺によって編纂された『建撕記』という禅師の伝記だと言われています。

 

ここからは私の個人的な所感、ただの三文推理でしかないのですが、当時總持寺教団は開明的な教化手法で門流を飛躍的に伸ばしていた時期であり、逆に自内証的で財施にも乏しい永平寺教団が、「總持寺的」な象徴を投影したのが、玄明という僧侶像だったとは言えないでしょうか。両者の差異を示すため、道元禅師は殊更に高潔に、反対に玄明は厳しく徹底的に処罰される必要があった。

 

明治35(1902)年の道元禅師650回忌の時に、僧侶十名が発願して、時の貫首・森田悟由禅師に玄明の恩赦を陳情します。悟由禅師は玄明に代わりに道元禅師に懺謝のお拝をされ、650年ぶりに恩赦されました。玄明の位牌は道元禅師の御真廟に今も祀られています。

 

ちなみに、歌舞伎『道元の月』で玄明を演じた中村勘太郎さんが、6年後には『映画 禅』で道元禅師を演じました。こんなところにも、時空を超えた師嗣の和解があったのでしょうか。

 

 奇しくも相模で交わった2人の擯斥僧。いずれも教団の方が当事者が亡くなった後に赦免した、というのが印象的です。でも「死人に口なし」。赦免された方の心中が如何許りか、今や知る由もありません。

もう一つの「擯斥」の舞台は鎌倉、時代は道元禅師在世時まで遡ります。

 当時、越前永平寺を拠点に修行生活を送っておられた道元禅師が、1247(宝治元)年に約半年間だけ鎌倉に滞在し、在俗の弟子に教えを説いたと伝えられています。

 この事跡を「鎌倉行化」と呼び、その顕彰碑が鶴岡八幡宮西横の一隅に建てられています。歌舞伎『道元の月』(2003)や映画『禅』(2009)では、道元禅師と時の執権・北条時頼の対峙と交感がクライマックスとして描かれていますが、これは正に鎌倉行化に」由来しています。

この時、永平寺から道元禅師にお供した修行僧がいました。玄明と言いますが、彼は後に道元禅師から擯斥処分されます。

時頼は、道元禅師に土地の寄進を申し出ますが、師である如淨禅師から「都市に住むな。国王大臣に近づくな」と教えられていたので、これを拒んで永平寺に帰山します。しかし玄明はこの寄進状を独断で受け取り、喜んで触れ回わりました。禅師はこれを見咎め、永平寺から追放しただけではなく、玄明が座っていた坐禅堂の床を切り取り、下の土まで掘って破棄します。その後玄明は約130年生き続け、後に箱根山で見つかった、とも言われています。

この擯斥については賛否があります。「権勢に近づかない」という高潔な道元禅師のお人柄を示す、という意見の一方で、温情がなく、いささか処罰が過剰ではないか、という意見もあるのです。

実は、この玄明の一件は後年の創作(玄明という名の修行僧がいたのは確かのようです)と言われており、その原典となったのは、道元禅師が亡くなられてから約200年後に永平寺によって編纂された『建撕記』という禅師の伝記だと言われています。

ここからは私の個人的な所感、ただの三文推理でしかないのですが、当時總持寺教団は開明的な教化手法で門流を飛躍的に伸ばしていた時期であり、逆に自内証的で財施にも乏しい永平寺教団が、「總持寺的」な象徴を投影したのが、玄明という僧侶像だったとは言えないでしょうか。両者の差異を示すため、道元禅師は殊更に高潔に、反対に玄明は厳しく徹底的に処罰される必要があった。

明治35(1902)年の道元禅師650回忌の時に、僧侶十名が発願して、時の貫首・森田悟由禅師に玄明の恩赦を陳情します。悟由禅師は玄明に代わりに道元禅師に懺謝のお拝をされ、650年ぶりに恩赦されました。玄明の位牌は道元禅師の御真廟に今も祀られています。

ちなみに、歌舞伎『道元の月』で玄明を演じた中村勘太郎さんが、6年後には『映画 禅』で道元禅師を演じました。こんなところにも、時空を超えた師嗣の和解があったのでしょうか。

 奇しくも相模で交わった2人の擯斥僧。いずれも教団の方が当事者が亡くなった後に赦免した、というのが印象的です。でも「死人に口なし」。赦免された方の心中が如何許りか、今や知る由もありません。

 

時に集団心理は個人の裁量を圧迫し、「乳水和合」や「大衆一如」という美名の下で、少数や異論を排し、忖度したり空気を読まないと世を渡っていけない状況を作りがちです。しかし本来の僧伽(サンガ 僧団)とは、志のある個が集うことであり、組織運営は方便法のはず。

 

・・・てなことを、人知れずマインドトークしていたら、バスの車窓から江ノ島が見え、突如サザンが大音量で脳内フェードインしてきた、紫陽花から水煙たなびく梅雨の相模路でした。(副住職 記)

 

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