一昨年の平成30年10月11日から12日にかけて、宗務所で隠岐の島町の現地視察研修を開催した時のことです。

 

隠岐の護持会のみなさんとの懇親会の席で、翌日に『久見竹島歴史館』に向かうことを伝えると、医光院の檀信徒で、西郷港の近くで『旅館松浜』を経営されている齋藤芳夫さんから、「久見には曹洞宗のお寺があります。久養寺と言います。住職はいませんが、建物が残っているはずです」と仰いました。

 

  齋藤さんは篤信者として島内の歴史や巡拝路にも詳しい方です。豊中の東光院で紹介した「あごなし地蔵」の、隠岐都万目にあるお堂を最初にご案内下さったのも齋藤さんでした。

また、その日の研修会で隠岐の島町教育長(当時)の村尾秀信さんから教示された資料にも、江戸後期には旧穏地郡(当時の久見地区を含む郡域)に曹洞宗寺院が2ヶ寺あったとの記載があったことから、そのうちの1ヶ寺が齋藤さんの仰る久養寺であろうと思い、折角久見に行くのだから、合せて視察することになりました。

 

   翌日に『久見竹島歴史館』で久養寺のことを訊ねたところ、受付の女性は地域外から嫁がれてきてご存知ないとのことでした。しかし夫君が区長で地元出身ということだったので、わざわざ呼び出して頂き、突然の来訪にも関わらず、区長さんに久養寺を案内して下さいました。

 

『歴史館』から歩いておよそ100mほどの場所に、雑草木に被われた石段がありましたが、鬱蒼と伸びる草木に視界を阻まれ、下からは堂宇を確認することはできませんでした。

草木をかき分けて石段を上った所に、確かに本堂がありました。

中に入ると、雨漏りした部分の下の座が腐って抜け、畳は白けて、長年人心から見放されたと感じさせる古色蒼然さを伺わせる一方で、磬子や木魚といった仏具はそのまま残り、須弥壇上の幕や奉納されたであろう折り鶴は、経年の色褪せを感じさせない鮮やさが目を引き、意外と廃墟感を感じない印象。高々と生い茂った草木が、逆に日光を遮ったからかと思われました。

 

 見ると折り鶴は昭和53年の奉納と書かれ、また須弥壇幕には昭和60年の奉納年と共に、施主名に「橋岡重忠」とありました。

堂内の形状をみた同行寺院の方からは、「元々は真言宗だったのではないか」と指摘がありました。

棟札や寄付単の記載から、本堂を昭和三十三年に「再建」したことが分かりました。

 おそらくですが、ここは住職が常住するお寺ではなく、いわゆる「兼務寺院」として登録されていたかどうかも分かりませんが、お寺で行持がある時は、完全寺さんが今津から出向かれてお勤めをされていたのではないでしょうか。

区長さんのお話だと、久養寺は廃仏毀釈で一旦廃寺になったが、その後に地区内で良くないことが続き、そのことを案じた人々によって再興されたとのこと。区長さん自身、子どもの頃はよく境内で遊んでいたが、ここ数十年は地域に住みながらも荒廃を看過していた、とのことでした。

その後に再び『歴史館』に戻り、絵本『メチのいた島』の作者・杉原由美子さんの読み聞かせを拝見しました。『メチのいた島』は、杉原さんが久見に帰郷後に、地区の伝統だった竹島での漁猟の実態を、後世に伝えるために私財を投じて作ったものです。

 

読み聞かせの後に、杉原さんにも久養寺のことを聞いてみました。すると、「久養寺は、橋岡家が私財を投じて建てたお寺で、住職はいないので、橋岡家が管理し、鐘も撞きに行っていた(定めた時を知らせる鳴鐘か?)」と教えてくれました。杉原さんは橋岡家のご親戚でした。

その時に私もハッとなって思い出しました。

須弥壇幕の施主である「橋岡忠重」とは、当時竹島での漁業権を持っていた『竹島漁猟合資会社』の経営者として、先ほど見学した『歴史館』の展示物でもその名前が紹介されていた、久見地区の有力者でした。

つまり今残る久養寺の堂宇は、橋岡家が竹島漁猟で成した財によって建てられた(再建された)ものだったのです。

 

橋岡家の嫡流は現在は久見にはお住まいでないようで、管理者がいなくなった久養寺は、そのまま山林の草木に埋もれ、人々の記憶からも失われつつありました。

 

何かの導きがあったのか、たまたま今回、私たちは貴重な遺構と巡り合うことができました。この機縁が今後更に繋がって、もしこのお寺が復興できて、過去を学び戒慎する場になったなら。そんなことを希望せずにはおれませんでした。(副住職 記)

 

via 宗淵寺/願興寺
Your own website,
Ameba Ownd

 

先日、『騎士竜戦隊リュウソウジャー』に続く新しい戦隊が発表されました。その名も『魔進戦隊キラメイジャー』。

プロモーション動画を観て衝撃だったのが、変身後、戦う直前のいわゆる「名乗り」と言われる決めポーズ。

新体操っぽいというか、レッドに至っては「しな」を作っているようにも見えます。マチスモというより、むしろ中性的。

 

昨年に放送されていた『HUGっと!プリキュア』では、男の子がプリキュアに変身して話題になりましたが、次作の『スター☆トゥインクル プリキュア』では、さらなるボーダーを越えようという意図が伺えます。現在放映中の『仮面ライダーゼロワン』でも、史上初めて初期から女性ライダー(仮面ライダーバルキリー)が登場(電波人間タックルを除く)。女性ヒーローとして番組を彩っています(映画は特にカッコ良かった)。

ニチアサの東映作品、いわゆる「子ども番組」が、固定的なジェンダーロール(性的役割)から脱却しつつある中、おそらくは新戦隊の名乗りも、男の子だけではなく女の子が鑑賞するのを意識したとしても、もはや不思議ではありません。

 

東映特撮が優れているのは、個人的には「マーケティング力」だと思っています。ニーズを誘導するだけではなく、ちゃんとリサーチをしている。

昨年の紅白歌合戦で司会を務め土屋太鳳さんが『仮面ライダー龍騎』の大ファンで、当時ライダーを演じていた純烈のメンバーとの対面を喜んでいた、というニュースがありました。東映はそういうニーズがより見込めると踏めば、今後は女の子ためにライダーや戦隊を製作するでしょう。

Vシネではすでにありますが、やがて地上波でも、女性が主役ライダーになって男女双方が憧れる時が来るかもしれません。その時は土屋太鳳さんも候補に上げて欲しいですね。彼女、日体大出身で運動神経抜群ですから。

 

特撮を観て世情の一端を伺い知る、というお話でした。

 

 

追記

志歩美悦子以来の女性アクションスターの候補として、土屋太鳳さんも捨てがたいですが、個人的には清野菜名さんこそ相応しい、常々そう思っていました。特に映画での彼女のアクションは素晴らしい。演技力もあります。

 

その意味ではドラマ『シロでもクロでもない世界で、パンダは笑う』は、共演の横浜流星さんも極真空手の有段者ですし期待していましたが、演出がアクションの見せ方にこだわっていないように見えました。ドラマパートの延長で、ただ写してるだけ。

その点、カメラワークやカットで、熱量や痛さをも伝える東映特撮のアクションは、流石の成熟度だと、逆に思い知る結果に。餅は餅屋に限りますね。(副住職 記)

 

 

 

via 宗淵寺/願興寺
Your own website,
Ameba Ownd

 

毎月17日は新美山願興寺観音講の恒規法要が厳修されます。今日も大勢の参拝があり10時打出しでした。いつもの差定をお勤めした後、板倉副住職様よりご説教がありました。
 
 
 
今日のご説教は、阪神・淡路大震災から25年とのお話しで、参拝者は震災犠牲者に黙祷を捧げました。また、今年の10月11日には臥龍山宗淵寺にて板倉方丈様が退董され板倉副住職様が晋住されるとの事。また大阪府豊中市にある萩の寺・東光院拝登のお話しがあり、東光院の「あごなし地蔵」様は以前島根県隠岐島にあったものが廃仏毀釈の流れにより流失したとのお話しでした。合掌(観音講 金本和夫)

 

via 宗淵寺/願興寺
Your own website,
Ameba Ownd

 

萩の寺・東光院への訪問が午後1時からだったので、阪急電鉄宝塚線の曽根駅近くに駐車して、昼食場所をスマホで調べることに。
 
たまたまその時、車内でかかっていたのが『星雲仮面マシンマン』の主題歌。
数日前に特撮専門のラジオ番組で流れていたのを聴いて、懐かしさを感じる前に、「これ、ルパン(3世)じゃん」と思って調べたら、やはり作編曲が大野雄二でした。超名曲。即DLしました。
 
 
『マシンマン』をBGMに検索ヒットしたのが、こちらのお店。
 
一番人気はキーマカレーうどんらしい。カレー好きの食指が動かないわけがありません。
何よりも店名が『銭形』。ルパン→大野雄二→マシンマン。はい、マッチング。
 
駐車場からお店まで、腹ごなしに約10分歩いて向かうことにしました。
 

 
服部西町の商店街を、スマホナビ頼りに歩き抜けようとして、
ふとスマホから目を離すと、何故だか進行方向ではない左方に視線が誘引され、その先の路地裏に見えたのが、 
 

・・・うわっ、 何かヤバイもん見つけてしまった。

 
もう寄り道、せざるを得ません。
前まで行って見ても、結局何のためのサインオブジェなのか、よく分かりません。
英語教室の看板があるから、おそらくは生徒の子どもに向けた、過剰すぎるサービス精神の発露でしょうか。
でも何気にウルトラマンの「もっこり」を忠実に再現している当たり、おそらく作り手は過剰なほど生真面目でしょうが、真意を受け止めきれない受け手とのディスコミュが心配になります。
 
 
さらにその2軒先には、
たまに都会で見かける、建築としての仏教性を放棄したような風情の小院があったり(後で調べたら単立らしい)、ほどよい賑わいの商店街の路地裏にある、心ザワつかす一角でした。
 

 
で、お目あてのお店はそこから歩いて数分の場所にありました。
変わりうどんを出すような主張の強い店構えではなく、一見するとオーソドックスな街のうどん屋さんです。
 
早速店に入って、キーマカレーうどんを注文。
うどんを注文して銀スプーンが付いてきたのは初めて。
あっさりとした味付けですが、案外とスパイスのパンチが効いて辛いです。これを見た感じ70〜80代の店主ご夫婦が作っているところが、何とも心憎い。
舌は少し痺れていましたが、店内は出汁の良い香りで満ちており、どうしても出汁をすすりたくなってかけうどんを追加注文。
やっぱり、温うどんは関西風に限ります。美味しい。
学生時代、どうしても黒くて醤油臭い関東風のうどんが食べれず、わざわざ関西風のお店を探して行ったことを思いだしました。

 


 
さて、腹ごしらえも終わって駐車場へ再び歩みを進めていると、行きがけは気付きませんでしたが、駐車場の近くにお地蔵さんがありました。豊中文化芸術センターの隣接地です。
たしかに赤い前掛けはしていますが、よく見るとお地蔵さんではなく、すべて石塔でした。
隠れている文字を確かめると、
「戸田池水難者供養之碑」とありました。
 
関西での一般的な祀り方かどうか分かりませんが、人の姿形ではない無機物の石塔に赤い前掛けをする営為は、むしろ素朴で真摯な供養心を感じました。
 

 
さてさて、東光院での取材が終わって、「世界の会長」こと村山博雅師に、家族に買って帰るのに、何か気の利いたお土産はないか尋ねると、近所の『ヴァンブラン』というケーキ屋さんの「アーモンドフリアン」を勧めてもらいました。
もうちょっと面倒臭いので、敢えて熊的なものには触れないでおきますが、店内で「アーモンドフリアン」の詰め合わせを購入。
これ、見た目は食べたら口の中の水分持っていかれそうですが、そのまま食べても食べこぼしがほぼ出ないくらいしっとりしていて、とても美味しいケーキでした。さすが、ハイクラスな「世界の会長」は良いもの知ってますね❗️
(副住職 記)

 

via 宗淵寺/願興寺
Your own website,
Ameba Ownd

 

編集のお手伝いをしている曹洞宗参禅道場の会の機関紙『参禅の道』の取材で、大阪府豊中市にある東光院様に拝登させて頂きました。
このお寺の歴史は古く、開創は天平7(735)年に、行基菩薩が日本初の民間火葬を修した場所に建てられた薬師堂を淵源とし、大阪では「南の四天王寺、北の東光院」と称えられた格式のある古刹です。詳しくは同院のホームページをご参照下さい。
このお寺のご住職は、曹洞宗審事院長の村山廣甫老師。
審事院とは曹洞宗における言わば裁判所で、教団内での争議を審議して調停する機関。要は曹洞宗の三権の長のお一人です。

↑ お写真を撮り忘れたので、老子のFacebookページのトップページを拝借しました。

 

そして副住職の博雅師は、現在、世界仏教徒青年連盟(the World Fellowship of Buddhist Youth : WFBY)の会長という世界的な要職にあります。日本人がWFBYの会長に就くのは、博雅師が初めてなのだそうです。

その博雅師も、お写真を撮り忘れたのですが、よく見ると、先程の記事のトップで使用した山門写真の、

 

山門の中で無造作に映りこんでいた、

 

この方が、

 

博雅師。

実は私の修行時代の同参でした。「同期のサクラ」ってやつです。

師資ともにまあとんでもなくハイクラスな御仁で、本来であれば私なんぞ歯牙にもかけて頂けないのでしょうが、たまたま同参ということで拝謁の栄に浴すことができました。

 

でも今回の拝登の目的は、このハイクラスなお二方に取り入るため、ではなくて、山門に入ってすぐにある「東照閣仏舎利殿」と、それに関わる歴住さんについてお伺いするためでした。

 

 

東照閣仏舎利殿、通称「あごなし地蔵堂」。

境内にあるいくつかの堂宇の中でも、このお堂は特異な存在と言えます。元々は地蔵堂として、隠岐島で小野篁が彫像した日本最古級のお地蔵様「あごなし地蔵」を祀っていましたが、実はこのお堂が、江戸時代に天満川崎(現在の造幣局西側)にあった「川崎東照宮」(日光東照宮の分社)を、明治期の廃仏毀釈の際に廃社になった社殿を移転したもので、その本地仏の薬師如来像も合わせて祀られているというのです。

 

そして前述した、元々は隠岐島にあった「あごなし地蔵」が流出したもの明治時代初期、つまり当時隠岐島を席巻した「隠岐騒動」とそれにまつわる廃仏毀釈運動の難を逃れ、東光院さまに遷座されたものでした。つまりこのお堂は、明治期の廃仏毀釈運動を知る上では欠かせない象徴なのです。

そしてこの、あごなし地蔵と川崎東照宮のご遷座に大きく関わったのが、東光院の歴住だった大雄義寧大和尚。この方を『参禅の道』で取り上げようと思ったのです。

 

これは隠岐島町都万目にある「あごなし地蔵堂」。昨年に曹洞宗宗務所で視察に行った際の画像です。隠岐島では、現在でも篤い信仰を集めています。

同じ由縁のあごなし地蔵が大阪と隠岐の二つにある。一種の歴史ミステリーのようにも感じますが、これ実は、明治の廃仏毀釈が産み出した悲劇と、それを克服しようとした僧侶たちの奮闘が、物語の底流にあります。その中心人物が、大雄義寧大和尚でした。

 

廣甫老師も取材の時に「日本仏教には法難が3回ある。明治維新と戦後と、そして現在だ」と仰っておられましたが、私も全く同感。現代に生きる私たちにとっても、大雄義寧大和尚の足跡を辿ることがアクチュアルな意義があると思っています。

これから、大急ぎで『参禅の道』の記事をまとめたいと思いますが、それに留まらず、今後も個人的に、この時期の仏教界の動向について参学を深めたいと思っています。(副住職 記)

 

via 宗淵寺/願興寺
Your own website,
Ameba Ownd

 

1月11日(土)は、新年恒例の斎講(総代世話人らの新年賀会)でした。
本堂でお勤めの後に、今年は数件の議事が上程されました。
①現住職の退董式と副住職の晋山式(住職交代の式)を10月11日に実施する
②境内の焼却炉を撤去
③境内にある住職名義の私有地と寺有地の所有権を明確化、整理して移転する
 
その後、賀会を催し、秋の退董・晋山式に向けて意見交換や親睦を深めました。
副住職の息子もお酌デビュー🍻
出席者の方にお年玉も頂けて、呑みニケーションの成果があったね👍
(副住職 記)

 

via 宗淵寺/願興寺
Your own website,
Ameba Ownd

 

 昨日9日は当山八世中興未参碓禅大和尚、今日10日は十四世で私にとっては曽祖父に当たる碩庵碓豊大和尚、それぞれのご命日でした。特に八世碓禅大和尚の今年150回忌に当たり、後日、先住忌法要をお勤めする予定です。
 
 今年150回忌になるということは、没年は明治4(1871)年。日本国においても仏教界においても、大きな節目の時期でした。
 明治元年の大政奉還に合わせて発令された神仏分離令をきっかけに、全国で巻き起こった廃仏毀釈運動。当地ではそこまで大きな動きにはならなかったと伝えられています(山岳修験に限っては著しく衰退したようです)が、同じ圏域でも海を挟んだ対岸の隠岐では、「隠岐騒動」に端を発した廃仏毀釈は苛烈を極め、江戸時代に100ヶ寺ほどを数えた仏教寺院が、一時全滅したと伝えられています。
 
 そんな法難の動乱期に晩年を過ごした碓禅大和尚は、当山中興が追贈されています。
 伝承によると、正史としての当山開創は寛永18(1641)年、松江洞光寺八世衮室勧補大和尚の勧請開山によります。
 しかしその後に寺基が安定せず、一時は建物が人手に渡っていたようです。それを買い戻したのが碓禅大和尚。以降は着実に代を重ねてきました。一般的には江戸時代が寺院の安定期と言われていますが、むしろ当山においては明治に入ってから安定したのです。
 
 実は近頃、廃仏毀釈に関する取材や研究が注目される兆しがあります。その先鞭となった鵜飼秀徳さんは著書『仏教抹殺』の中で、お寺を取り巻く状況が大きく変わる節目、「寺が消える」可能性という点において、当時と共通点がある現代は、「第二の廃仏毀釈」の兆しありと指摘されています。また昨年に、宗務所の現職研修会の講師を務めて頂いた民俗学者の畑中章宏氏も、講義の翌日には、廃仏毀釈に関する現地調査のため、隠岐に向かわれました。私自身もこの5年ほど、公務で隠岐を訪れる機会が多く、「隠岐騒動」に大きな関心を寄せていました。
 
 そんな中で、幕末明治に寺基を安定させるという特異な浄行を果たした、中興未参碓禅大和尚の先住忌を迎える僥倖を感じています。(副住職 記)

 

via 宗淵寺/願興寺
Your own website,
Ameba Ownd

 

「ペット供養堂」建立の発願

 本稿では、昨年から、観音講や宗淵寺の総代世話人会で、その建設の是非について話し合いを重ねてきた「ペット供養堂」についてお話をさせて頂きます。と言いますのも、今夏、その建立に向けての寄付をお願いする趣意書を配布させて頂いたためです。

 これまでの、宗淵寺のお檀家さんの幾人から、「ペットの犬を家墓に葬りたい」というご要望を受けたことがございます。その際にも住職や総代で相談をしましたが、結果として境内での墓葬はお断りして参りました。

理由は、境内墓地の利用に関する事前の約定にないことで、もし墓葬を認める場合は、利用者全員の確認が必要になること。それから「人間と動物は(扱いが)違う」という意見があったためでした。

 正直に言うと、私の親世代である住職と総代さんの答申したことと、当時の私の考えは少し違っていました。私は、条件付きですがペットとの墓葬は「可能」という立場でした。ただその条件とは、それが先祖代々のお墓の場合、ご先祖様の中には、「動物との同居」を認めない先祖がいる可能性があり、当代だけの一存で墓葬するのは難しいのではないか、というものでした。

 その後、棚経などでお檀家さんの家にお邪魔した時に、亡くなったペットの遺影や遺骨を祀られているのをよく見かけようになってきました。観音講の会報『どうぎょう』での講員さんのご寄稿にも、ペットと暮らし、互いに憐れみ合い、そして看取り供養し、飼い主が残される悲嘆が、よく伝わって参ります。

 今年の初め、我が家で飼っていた犬、コタツが亡くなりました。噛み癖があって手のかかる犬でしたが、第一子が亡くなって傷心だった私たち夫婦にとって、コタツの存在が幾ばくかの慰めになったことは間違いありません。

 今までの飼い犬は、境内地に埋めて供養してきました。一昔前はそういうお宅も多かったと思います。しかし今は家の庭先に埋葬ができる環境も少なくなってきました。

 私たちも今回はコタツを火葬にして、骨壷を家に安置しています。「ペット供養堂」の建設の建設が成った暁には、そこで供養してやろうと思っています。

 

ペット供養の歴史

 『寺院崩壊』などの著書で知られる作家で僧侶の鵜飼秀徳さんは、近著『ペットと葬式』(朝日新書)の中で、ペットの葬送の歴史は古く、4〜5世紀頃に、応神天皇が猟犬を埋葬した記録があり、また大坂の岸和田市にある義犬塚古墳があり、これは6世紀後半の物部守屋の変で戦死した捕鳥部萬(とりとりべのよろず)と言う人物が飼っていた猟犬が、主人の首を咥えて土に埋め、その場所を守ったまま、餌も一切食べずに餓死したのを、朝廷が「犬畜生ながらあっぱれ」と讃えて、主人の萬の横に墓を作って弔ったとのことで、1500年経った今でも、萬の末裔によって「偲ぶ集い」が開かれていると紹介されています。

 また昭和になって、有名な忠犬ハチ公の葬儀には、僧侶16人が読経した盛大なもので、青山霊園にあるハチ公の墓は、今でも参拝者が絶えないとも伝えます。

 一般社団法人ペットフード協会による「全国犬猫飼育実態調査」では、犬の場合、室内飼育が2004年では60.1%だったのが、17年調査では84.4%にまで猫では、04年の室内飼育の割合が72%、17年では86%まで、それぞれ増加しており、ペットが社会的に「家族に昇格」したのは1999年前後だと、鵜飼さんは指摘しています。

 

動物は供養して成仏するのか

 しかし仏教界でも、住職や総代さんと私の間で見解に相違があったように、ペットや動物の供養については、様々な立場があることも事実です。

 動物が人間と同じような供養の対象となり得て、成仏する存在なのかどうか。

 この命題について、2016年の浄土宗の総合学術大会で象徴的な論議がありました。その様子を伝える記事によると、学会の席上で、浄土宗学研究所の嘱託研究員を務められていたあるご住職が、

「動物の身のままでは念仏を唱えることができないから、そのままでは極楽往生できない。人間に転生して、念仏を唱えることで成仏できる」。

と発言されました。これに対して、会場にいたある大学教授の方が、

「追善供養(回向)によって、他者の読経や供養などで善業を振り向けて往生ができる。だから念仏が唱えられない幼霊や障がいのある方も往生ができるのであって、動物も同じではないか」。

と反論された、と言います。

 このことについて、『葬式は、いらない』などの著作で知られる宗教学者の島田裕巳さんは、

「キリスト教では人間と動物は完全に分かれており、そもそも埋葬の対象にならない。神道も同様で、境内に動物を入れないのはその区別を明確にするためです」。

とし、また同じく宗教学者で、死別の悲嘆を癒す支援をする「グリーフケア」という概念を日本に根付かせた島薗進さん(上智大学神学部特任教授グリーフケア研究所所長)は、

「そもそも仏教とは、本来人間がどう生きるかのためにあるもので、動物のためにあるものではありません。とはいえ、ペットの家族化が進む中、犬や猫の死による飼い主の悲嘆をどう癒すかも宗教的に今後は論じられていくはずです。それによりペットに対する供養のあり方、祈り方も変化していくでしょう」。

との解説を寄せています。

 さて、それでは宗淵寺や願興寺が属する曹洞宗では、ペットや動物の供養についてどのように捕らえられているのでしょうか。

 結論から言うと、公式見解も、公の場で意見が交わされたこともなく、寺院や僧侶各々の見識と判断に委ねられています。

 しかし、経典や教えを見る限り、動物のみならず、植物も含めて大自然の全ての生きとし生けるものを仏性の現れとして尊ぶよう説くのが、曹洞宗の教えの基本姿勢と思われます。

 両祖として道元禅師と並び称される瑩山禅師は、次のような趣旨ののことを述べられています。「すべてのものを平等にみる仏の大慈悲心は、平等にありとあらゆる生き物を涅槃に導き、広大無辺教えは、どのような生きものも等しくお救いされる。寺の田畑が耕作されたとき犠牲になった虫たち、檀信徒が飼育する家畜や、ありとあらゆる自然界でいのちを落とした生きものを供養しなさい。これらが成仏できるとしたら、それは僧侶による懇切な供養の力しかありません」。

 その上、仏教では苦しみの根源の一つに「愛別の苦しみ」を説きます。

 ペットは、日本語では愛玩動物、伴侶動物と訳されます。人間とペットは、従来の使役する関係から、愛憐や思慕を伴う「友達や家族」のような存在になったのです。私は、この愛別の苦しみを癒せるのは、供養の力に他ならないと考えています。(副住職 記)<願興寺観音講会報『どうぎょう』第49号所収>

 

via 宗淵寺/願興寺
Your own website,
Ameba Ownd

 



山陰東部の中核市・鳥取市から南へ約16キロ。JR因美線が乗り入れ、若桜鉄道若桜線の起点ともなっている郡家駅を中心とした旧郡家町(現在は八頭郡八頭町)の郊外、冬になると降雪が1メートルを超えるという閑静な山間に、その一画を占有するかのような堂々とした寺容を誇る、普門山大樹寺があります。



創建年代は不詳ですが、中世の戦火などで、度々焼失の憂き目にあったと言います。明暦年間(1655〜58)に現在の地に再興され、曹洞宗に改められて鹿野町の譲傳寺末となりました。
大樹寺のホームページによると、寺号の「大樹」とは、将軍や為政者の雅称で、後漢の将軍・馮異が諸将の論功の際に、席を退いて大樹の下に座ったという故事に因んだとされ、元々は安芸の国人・毛利豊元(元就の祖父)の家臣で、八頭郡津黒城城主だった安藤義光公の菩提所だったと伝えられています。
境内には、推定樹齢四〇〇年以上、樹高八.七メートル、幹回り一.八五メートル、枝張り十.五メートルにも及ぶ大きな椿の木があります。茶人大名として名高い織田有楽斎が愛好した銘木であることから「有楽椿」と呼ばれ、町指定の記念物となっています。正にこれこそが、寺名「大樹」の由来と言われても不思議ではありません。

この大樹寺には、かつて昭和三十年から五十二年まで、当時中国地方で唯一の専門僧堂が置かれ、祖道を慕う真実の学人を打出する道場でした。その住職・堂頭として仏道修行に励まれたのが、鎌谷仙龍老師(一九〇四〜一九八二)です。今回は、筆者が大樹寺様へ拝登して、仙龍老師の弟子である、大樹寺現住の鎌谷龍心老師(左)と、法清寺ご住職の吉田龍明老師(右)のお二人に、仙龍老師の人となりや家風についてお話を伺いました。




仙龍老師は明治三十七年、鳥取県八頭郡船岡村(当時)生まれ。幼い頃から大変勉強好きだった老師は、父の死後に「寺の小僧になると、上の学校へ行かせてもらえる」という言葉に釣られて大樹寺に入り、大正六年、十四才で山根仙翁師について出家得度します。
ところが、期待していた学校教育は受けさせてもらえなかったと言います。当時、広大な境内・寺領地には田畑があり、檀家も相当数あったことから、檀務や普請に忙殺される日々だったためで、「勉強がしたかったのに、勉強の勉の字もなかった」と、仙龍老師は当時のことをよく振り返っておられました。

しかし、いわゆる「勉強の虫が治る」ことはなかったようで、昭和三年、師匠に嘆願して、眼蔵会の聴講するために、25才で初めて永平寺に上山します。その時には岸沢惟安老師提唱の「有時」の巻を拝聴しました。
すると聴講者の中に、威儀がしっかりしている人を見つけ、「あなたの師匠はどなたですか?」と訪ねたところ、当時、名古屋市護国院僧堂の単頭だった橋本恵光老師に随身していた中村道融師という方で、この方から初めて橋本老師の人となりと家風を伺い、出家以来初めてとも言うべき法悦に心を踊らせます。
翌年に発足参学を許され、護国院僧堂で橋本恵光老師に初相見します。
橋本恵光老師(一八九〇―一九六五)については、ここで詳しくご紹介をするまでもなく、綿密な家風で知られた、近現代でも屈指の禅匠としてあまりにも有名ですが、仙龍老師は寺籍を大樹寺に置きながらも、以来三十六年間、橋本老師に随身されます。

龍心老師曰く「橋本恵光老師無くして、鎌谷仙龍は語れない」。

橋本老師は仙龍老師以上に、一生参学の大事を体現した方で、行事や威儀については高祖大師への原点回帰を旨とし、仏典や祖録の参究に当たっては、常に諸橋轍次編の『大漢和辞典』を傍らに置きながら、日々字義を商量されます。そのせいもあってか、実は橋本老師にはご自身の著作は少なかったと言われます。常に勉強し続けて、解釈にもこれで良しと脱稿することがなかったのです。完全に納得したら、その成果を出版したい、という思いはあったが、生涯で完全に納得することがなかったのではないか、と龍心老師は推察されます
そのため、自ずと口伝が主となる橋本老師の教えや提唱を、文字で残さなければ、教えが受け継がれ残っていかないと考えた仙龍老師は、独学で速記法を覚えて、橋本老師の提唱をひたすら筆録していきます。
仙龍の主著である『正法眼蔵弄精魂集』などの講述は、橋本老師の提唱をなぞってほぼ写したものと言ってもいい内容だと言います。

そして仙龍老師ご自身も、橋本老師の参学の態度をそのまま受け継がれます。提唱での漢文の読み方一つとっても、聞法者にとって分かりやすく、かつ祖師方の仰ることを曲解や加飾せず、真っ直ぐ間違いないものになるよう、商量されたと言います。

橋本老師には多く直弟子がいたと言いますが、みんなそれぞれ寺を持ってしまうと随身されなくなり、やがては仙龍老師が随身の筆頭として位置付けられていきます。
そして仙龍老師の弟子である龍心・龍明両師も、本師を介して、橋本門下の家風を継承していると、強く意識しておられました。

昭和十八年、大樹寺の住職だった河田仙雄老師が亡くなられます。
仙龍老師には元々兄弟子が二人いて、後住についてもこの両名で、という思いがあったので、橋本老師への随身を全うされていましたが、その後住に関する問題が発生し、檀家総代による強い懇願もあって、仙龍老師が大樹寺を継ぐことになります。内心では橋本老師の元で参学を続けたかったようですが、大樹寺が荒廃させないための、苦渋の選択だったようです。昭和二十三年、仙龍老師は四十五才で大樹寺二十一世に就いて晋山されます。

そして昭和三十年に僧堂を建立、橋本老師を師家として拝請して大樹寺専門僧堂が開単します。
四・九日の放参もなく、東は豊岡市、西は出雲市の範囲で托鉢する峻厳な家風でありながら、多い時は二十人ほどの修行僧がいたそうです。そのほとんどが、本山安居を終えてなお、橋本老師の指導を求めて雲集したもので、その中には、後に本山後堂を務められた、若き日の本田祖芳老師もおられたと言います。仙龍老師は住職ではありましたが、自身はあまり出張ることなく、橋本老師の家風を前面に掲げた僧堂運営を心掛けられたそうです。



昭和三十四年、仙龍老師は橋本老師に「行ってこい」と背中を押されて大本山永平寺単頭に就任、三十八年まで務められます。橋本老師は三十九年に永平寺西堂に就任されますが、翌年に遷化されます。
すると仙龍老師は橋本老師が師家を務めていた新居浜・瑞応寺、名古屋・海善寺、大樹寺の師家となられます。そして、橋本老師の家風を守り尽くすことはあっても、破り離れることはなかったと言います。橋本老師の没後は「安心して話を聞ける人がいない」と嘆息されていたとも聞きます。

昭和四十三年には永平寺の後堂に就任。翌年から四十九年まで眼蔵会講師を務められます。

昭和四十五年、全日本仏教会の国際事業の一環で、韓国・忠清南道に「仏教伝来謝恩碑」の建立が発願されます。当時の全日仏の理事長は曹洞宗管長で永平寺七十四世 佐藤泰舜禅師でした。しかし佐藤禅師は盲目だったため、碑銘の揮毫を仙龍老師が代筆されます。実は、仙龍老師の初めて弟子であった中川龍定師が大東亜戦争で出征し、昭和二十年に朝鮮半島で戦病死、その荼毘式を橋本老師の導師で厳修したと言います。四半世紀後に訪れた因縁、あまりご自身のことを多く語られることのなかった仙龍老師ですが、その時の心情は如何許りだったか、拝察するに余りあります。

昭和四十八年、本山後堂を辞任して乞暇。五十年には大樹寺での年頭の摂心で『正法眼蔵』身心学道巻を提唱した後に罹病、身体に不自由をきたしたため、五十二年には大樹寺を龍心老師に譲り退董、専門僧堂も閉単します。
それでも昭和五十五年には、二祖国師七百回忌大遠忌事業で、本山版『正法眼蔵』を威儀如法で全巻口誦して録音するという浄行を円成されます。
昭和五十七年に遷化。世寿七十九才。正に懐奘禅師の行実そのままの「孝順」の大道を歩まれたご生涯だったと拝察します。

それには橋本恵光老師のみならず、「師匠がほとんど寺に居なかったから、自分が土台石になる」(龍心老師 談)覚悟で、本師仙龍老師の留守を守った、大樹寺現住の龍心老師の存在も欠かせなかったと、筆者には思われてなりません。鎌谷仙龍老師の師資関係、そして無私の孝順を尽くされた学道は、現代に生きる私たちにとっても大いに垂範となるものでした。

参考資料『雍容室語録』『正法眼蔵弄精魂集 鎌谷仙龍提唱』『鎌谷仙龍講述 正法眼蔵 身心学道』『鎌谷仙龍 正法眼蔵 菩提薩埵四攝法』

(副住職 記)<曹洞宗参禅道場の会 会報『参禅の道』第71号 所収>


via 宗淵寺/願興寺
Your own website,
Ameba Ownd