今朝、志村けんさんが新型コロナウイルスで亡くなられたという、衝撃のニュースが駆け巡りました。

ドリフのメンバーや関係者のみならず、朝の情報番組のコメンテーまでも一報が入って一様に絶句したと伝えられていますが、その中で、
「コロナが許せない」
「コロナが憎い」
と精一杯に絞り出すようなコメントが出されていたのが、印象的でした。


一方で、都会に住む地方出身者が、感染していながら公共交通機関を利用して帰省する事例が、問題になっています。
それどころか、島根や鳥取は未だ感染者が出ていないということで、都市部から観光目的の人的流入があると伝えられています。
実際に、1週間ほど前の出雲大社は、参拝客が多かったとも聞きます。

しかし、そのことを伝えた新聞記事が
「ウイルスの拡散を助長する」
との批判を受けて、記事を削除しました。




結果的に都市から地方へウイルスを「持ち込んだ」とされる人に対して、「無責任」と断じる、怨嗟や悲鳴にも近い声が、ネットで溢れかえっています。



ただし、現在では行政からの「外出自粛」に留まっているため、個別の行動を制限しきれないのも確かで、これに対して行政の責任を問う意見もあります。


オリンピックの延期が契機、というとうがった見方になるかもしれませんが、それまで比較的抑制的とも言えた「コロナ禍」が、一気にヒートアップし、志村さんがお亡くなりになられたことで、臨界点に近づきつつあるように感じます。



今回と似たような状況が、過去にもありました。
今からおよそ100年前に、世界で5億人が感染した「スペインかぜ」のパンデミックで、日本でも、島根県出身の劇作家の島村抱月が罹患、著名人では最初に亡くなり、世間に大きな衝撃を与えたと言います。

詩人の与謝野晶子はこのことに触れ、当初は情報が抑制的だったこと、行政が人の移動を制限せず、劇場や映画館を閉めなかったこと、そして売れっ子だった島村が不特定多数の劇場出入りしていたことを踏まえて、
「盗人を見て縄をなうというような、日本人の便宜主義がこういう場合にも目につきます」(『感冒の床から』)
と述懐したそうです。

あまりに、現在の状況と似ています。

与謝野晶子(左)、島村月(右)



すこし前まで、抗体やワクチンができるまでの辛抱で、それができたらウイルスに
「克服し打ち克つ」
「人間の勝利」
という威勢の良い言葉もメディアから聞こえてきましたが、それが今では、
「許せない」
「憎い」
と語調が変わりました。

私は、このいずれの言葉にも違和感があります。

確かに人間は有史以来、繰り返し疫病と「闘ってきた」歴史があります。

そもそもウイルスは単独では生きていけない寄生体で、宿主である生物の細胞に入ることで初めて増殖し、活動を活発化します。
特に人間が都市での生活をするようになってから、「感染爆発」(エピデミック、パンデミック)が発生するようになり、古代メソポタミアの『ギルガメッシュ叙事詩』でも疫病が四災厄の一つに挙げられています。
そして、民族や文化の交流をきっかけに、各地に拡がって行きました。

日本でも仏教の伝来と共に、大陸から天然痘がもたらされたと言われています。

ウイルスを克服すれば、新たな状況に適応した新種が生まれる。それと共に医学も発達する。この「闘い」の繰り返しが、文明を発展させてきたとも言えます。

誤解を恐れずに言えば、人間とウイルスは持ちつ持たれつの「共生関係」の一面があるのです。

安穏とした日常や愛する人を奪うウイルスに対して、感情をぶつけたくなる気持ちは理解できます。

しかしあまりの昂りから冷静さを失うあまり、ウイルスへぶつけるはずの感情が的を外れて(元々ウイルスに感情をぶつけるべき的はありません)人間社会に向き、行政への不信、罹患者への無理解、デマや差別、イデオロギー闘争が「爆発」してきたのも、また歴史が示すところです。

この疫禍の叡智として、よく「正しく怖がることが大事」と言われてきました。

しかし私は、この際の「正しい」の定義がよく分かりませんでした。
情報は錯綜していましたし、人は「正しい」と定義した瞬間から固執し、思考を停止します。

でも、「憎む」ことが正しいことではないことだけは、よく分かります。

東日本大震災の際、大自然に対峙する姿勢として取り上げれた「畏れる」(畏敬する)。
今こそ私たちは、ウイルスに対して「憎む」のではなく「正しく畏れる」ことをしなければいけないのではないでしょうか。(副住職 記)


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私は物心ついた時から、生粋のカープファンですが、ここでは他球団の選手のことを書きたいと思います。

27日、プロ野球の阪神タイガースは、所属する3選手がPCR検査の結果、新型コロナウイルスの陽性反応があったことを発表。球団社長がマスコミを前に会見と謝罪をしました。


それに先立って、マスコミでは藤浪晋太郎選手が新型コロナウイルスに感染した、との報道がありました。

「コーヒーもワインも味がしない」とチームドクターに相談。自らネットで調べて、海外で報告されている感染の初期段階に似ていたことから、複数の病院で検査。その結果、感染が判明したそうです。

いち早く実名が公表されたのは藤浪選手自身の希望だった、という報道もあります。





これに対して、ダルビッシュ有選手がツイッターで、
情報収集している証拠やし、自分の身体に敏感な証拠
と評価しています。




また、広島東洋カープの中心選手で、藤浪選手と同い年の鈴木誠也選手は、
「阪神の選手が練習できない中、僕たちが(シーズンに向けた調整を)やっていいのかという思いもあります」
と、藤浪選手や阪神球団を慮ってコメント。



カープOBで、ご自身も白血病で闘病生活中の北別府学氏も、自身のブログで
「運が悪いと思うなよ。申し訳ないと思うなよ」
と、エールを送りました。


北別府氏のブログは、この報道が出てすぐ更新されたもので、私が知る限りでは、球界関係者の中で最も早く、かつ最も真摯に感じるものでした。

にも関わらず、さっそく球団社長が「謝罪」していたのを見て、少し残念にも思いましたが、日本社会の処世としては致し方ないか、とも思いました。




さて。
藤浪選手は、阪神ファンにとっては「特別」な選手だと思います。

高卒入団で即二桁勝利。その後も数年間は素晴らしい成績を残しました。
ファンは、近い将来、藤浪選手が球界のエースになると信じて疑わなかったでしょう。

しかし近年は「イップス」も疑われるほどの制球難となり、死球を恐れて右バッターを打席に立たせないチームもあるほどでした。


カープの選手もずいぶん「被害」にあっていますが、2015年には黒田博樹選手に2球続けて頭部への暴投。ブチギレされたこともありました。


一説には、この一件でのトラウマがイップスの原因になった、とも囁かれています。

一方で、2017年には大瀬良選手に死球を与えるも、「ぐう聖」大瀬良選手が「大丈夫」と合図する「神対応」もありました。

正に、アメとムチ。


イップスの真相は分かりませんが、少なくともここ数年の藤浪選手は、大きな期待を受けながら、成績の上ではその期待を大きく裏切ってきた、と言わざるを得ません。球場でのファンからの野次も相当なものがあったと聞きます。

そのせいか、最近は、マウンドでもどこか所在なく不安げな表情のように見えました。





一時、カープからのFA加入が続いた時期に、阪神ファンが、
「カープは阪神の2軍」
と公言して憚らない時期があり、これに憤慨して阪神が嫌いになったカープファンが多かったのですが、私は藤浪選手だけは嫌いになれませんでした。
それは、藤浪選手が2年目のオフシーズン、前田健太選手の自主トレに、カープ以外の選手では唯一、志願して参加したことがあったからです。

当時の藤浪選手は正に跳ぶ鳥を落とす勢い。しかもこの年、カープ戦は6つも勝ち星を上げていました。
当時の前田選手は球界を代表する投手ではありましたが、更なる向上を目指すため、カープを選んで単身で出稽古に来たことに、私は意外に思いながらも、感心して拍手を送りたい気分でした。
明くるシーズンに、藤浪選手は自己最高の成績を残し、前田選手と沢村賞選考を競いました。

実は、この自主トレには大瀬良選手も参加しており、その縁もあって、先の「神対応」となったわけです。


「チーム前田」での自主トレをした2015年をピークに、藤浪選手の成績は下降していきます。
昨年は1軍登板はわずか1試合で、プロ入り初の未勝利。まさに「落ちるところまで落ちた」と言えます。

正直いうと、今回のニュースを見た第一印象は、
「正に、泣きっ面に蜂だな…」
でした。

しかし、今回藤浪選手が迅速に検査して罹患を公表したことが、高い評価を得ました。
実際に、それまであまり伝わってなかった「嗅覚障害」というワードを認知させたことは大きかったのではないでしょうか。



実際に、いつもは辛口でならす球界のご意見番も、喝!を出さずに
「明日は我が身、注意しないと」
とコメントしたそうです。


ここからは、私の少しうがった見方となりますが、藤浪選手は生来の気質だけでなく、近年の成績の低下で、「人間力」が鍛えられたのではないでしょうか。
もし成績が青天井だったら、藤浪選手は早くシーズンを迎えたかったでしょうし、高名や既得権に安住して、ここまでの対応ができていなかったように思うのです。

一応、外出自粛の必要性が叫ばれる中の会食が原因であり、ただでさえ開幕が延期になった上に、球界の活動全体の停滞につながりかねず、批判にさらされることも予想されたと思います。
しかし彼は冷静に情報を精査し、適切に行動して、大局を見た善後策を取った。なかなかできることではありません。
「失敗した者」の強さと謙虚さと感じるのです。

かつてない災厄には、それまでの常識や地位は通用しない。
強い自粛ムードの中、仮に社会活動によって罹患した者がいた場合、その者の批判や差別が起こりかねない状況で、藤浪選手は最善の前例を残したと言えます。

藤浪選手らのくれぐれも早いご回復を祈念し、ぜひカープの好敵手となって頂きたいと思います。
(副住職 記)

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今話題の「100日後に死ぬワニ」について。
正直に言うと、個人的にはそこまで熱中していないのですが、テーマもテーマなので、このホームページにもログを残しておきます。
作品は上のリンク、世間の反応については下のリンクをご参照下さい。
繰り返しになりますが、私はこの作品が世間から熱狂的な注目を集める現象には関心を持ちましたが、マンガとして特に「おもしろい」と熱中するには至りませんでした。
なぜなら、この作品で描かれているテーマや情景は、僧侶である私には日常のことで、殊更に目新しい内容ではなかったからです。

そうは言っても、ご友人を事故で亡くされたという、作者の方の経験に裏付けられた物語の筋立てには、深い真摯なメッセージを読み取れます。
でもそれは私にとっては、あくまでも日々のお勤め、檀信徒の方との交流で感じる日常の感興です。

敢えて言えば、手法・便法が時宜に適って巧みだったということでしょうか。
同じテーマを、私たち僧侶が凡百の言葉を積み上げても、この作品の圧倒的な訴求力の足元にも及ばない現実を、深く自戒するところがあります。

最終回の感想について、すでに各所で語り尽くされた感もありますから、ここでは最小限に留めて2点ほど指摘させて頂きます。

まず1つ目は、このワニの物語は、読者である私たちは、自分のこととして見ているのと同時に、「身近な縁者の生と死」としてワニを見ていたのではないでしょうか。
逆に言えば、それだけ現実の3次元世界で、「メメント・モリ」(死を忘れるな、という教訓)がないことの証明でもあります。

もう1つ重要なのは、最後の「100日目」だけ、物語の人称が変わっていること。
99話までは主人公のワニの一人称的なコマ割りだったので、もしかしたら最後も「ワニという自己の死」として描かれる可能性もありました。
でも最終話で描かれたワニの死は、それ自体をフォーカスせず、あくまで「第三者の死」として描かれていました。
縁者や知人が持つ、何かあったかもしれないという漠然とした胸騒ぎ、そしてそれでもこの世の日常は続いていく無常観の描写。
この人称と視点の転換こそ作者の卓見であり、死の本質に迫っていると感じました。

単行本になったら、法事でお参りの方に、待合室で読んで頂くために、控え室に置いておくと最良の一冊になるかもしれません。

ただし、この作品を「エサ」にした自己啓発系のセミナーもあるようなので、注意が必要です。
(副住職 記)





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麗かな春彼岸となりました。中日の今日、当寺も朝からお墓参りの方が多く訪れられました。



誠に唐突ではございますが、今から30年前に放送された東映特撮番組『美少女仮面ポワトリン』という番組がありました。
その第36話が「メイ作」として、特撮ファンの間では語り継がれる一編で、そのタイトルは「お彼岸ライダーの謎」。


お彼岸にお墓参りをしない子どもたちに「お彼岸にはお墓参りをしよう」と訴えながら制裁を加える仮装の自転車乗り、人呼んで「お彼岸ライダー」が出現。ポワトリンの妹分(というか実妹)、ポワトリンプティットが推理を開始しますが・・・


シュールで素っ頓狂なストーリーラインですが、なぜか最後は「小さな恋の終わり」に胸が切なくなるという、入口と出口が全然違う、正にメイ作中のメイ作。
またネタバレになります(30年前の作品にネタバレもなにもありません)が、「電波人間タックル」を覗くと、非公認ながら、この「お彼岸ライダー」が史上初の女性ライダー(!)でもあるのです。

メインライターの浦沢義雄さんは、2012年の公開で、ポワトリンがリバイバル出演(演じたのは、最近俳優の柄本時生さんと結婚した入来茉里さん)した映画『仮面ライダー×仮面ライダー ウィザード&フォーゼ MOVIE大戦アルティメイタム』でも脚本を担当し、ここでも最後の最後にとんでもない大ドンデン返しを仕掛けていますが、この映画は、私のフェイバリットムービーの一つでもあります。

サンタやナマハゲに対抗して、仏教界からはこの「お彼岸ライダー」をキャラクター化して売り出すべきだと本気で考える、お彼岸の中日の夜でした。(副住職 記)

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五十年に一度開帳される「秘仏 元隠岐国あごなし願王地蔵大菩薩三尊像」

過疎や少子高齢化、現代人の宗教観の変化などからもたらされる問題についてまとめた『寺院消滅〜失われる「地方」と「宗教」』を平成二十七年(二〇一五)年に上梓して話題となった、ジャーナリストで浄土宗僧侶の鵜飼秀徳氏は、近著『仏教抹殺〜なぜ明治維新は寺院を破壊したのか』の中で、

実は、「寺が消える」という点においては、かつての廃仏毀釈と、現在の寺院を取り巻く状況とはさほど変わらない。私はとくに都会人によく見られる〝僧侶に対する反発〟は、「第二の廃仏毀釈」の前兆とみている。

と、およそ一五〇年前の明治維新を契機にした廃仏毀釈を引き合いにして、現代の仏教界の置かれている危機について提起しておられます。

同じような指摘をされる宗門僧侶がおられます。曹洞宗審事院長として、日々宗門内における争議の調停に当たっておられる、大阪府豊中市・東光院住職の村山廣甫老師です。
東光院現住で曹洞宗審事院長の村山廣甫老師

村山老師は、「日本仏教には3回の法難がある。1回目が明治の廃仏毀釈、2回目が太平洋戦争終戦後の農地解放、そして3回目が現代です」と述べられました。その村山老師が「名僧中の名僧」と評されているのが、ご自坊である東光院の歴住八世として、幕末から明治にかけて活躍した大雄義寧大和尚(以下、義寧)です。




安政四(1857)年に東光院に晋住した義寧は、明治の廃仏毀釈の気運流々とした世情の中で、まず明治三(1870)年に「道了大権現堂」を落成。これは、豊臣秀吉が小田原征伐の陣中で夢告を受けたことをきっかけに大雄山最乗寺から勧請された道了尊を祀る堂宇で、実質的には七世•真際一如大和尚が発願して進めていた事業を引き継いだものです。ただ、その縁日である「道了祭り」(現在の「萩まつり道了祭」)が、後に重要な意味を持ってきます。

そして、「あごなし地蔵」(「腮無」「顎無し」の異表記あり)の遷座について。
歯痛に効験があるとして全国的に信仰されているあごなし地蔵は、元々は現在の島根県隠岐島町都万目で、仁明天皇の御代から千二百年もの間祀られている小野篁正作の腮無地蔵が本拠だと言われています。
小泉八雲は『(知られぬ)日本の面影』の隠岐紀行文の中で、
「顎無し地蔵」としてその習俗の様子を伝えていますが、「その像の安置してあった小寺は火事で焚けて、その像も一緒に焚けてしまった」
としています。実はその消息が、東光院の寺伝にあるのです。
廃仏毀釈の嵐が吹き荒れる明治2年、隠岐島の伴桂寺が廃仏に遭いました。

伴桂寺の最後の住職となった聯山祖芳(れんざんそほう)大和尚は、当時の当院住職大雄義寧禅師の弟子でした。伽藍、仏像、経巻、什宝を悉く焼却破棄する未曽有の暴挙に遭った祖芳和尚は、千年にわたって全国的に厚い信仰を集めていた小野篁(おののたかむら)卿正作のあごなし地蔵尊像を命を賭してお護りし、師寮寺である東光院へ逃げてきたのです。

この霊像の再興を図る祖芳和尚は、義寧禅師に当山での永世護持をこいねがい、尽には許されて我が国最古級のこの由緒探き地蔵尊像は、当山に連座されることとなりました。 (東光院HPより)

歴代天皇の流刑地で、元々神道に篤かった隠岐では尊王攘夷の気運が強く、慶応四(1868)年に島民が蜂起し、松江藩の郡代を追放して、およそ八十日間に渡って島民自治を実現しました。いわゆる「隠岐騒動」です。
その余波が、島内で熱狂を伴って行われた廃仏毀釈でした。およそ一〇〇あった諸島内の寺院は、これによりわずか2ヶ寺しか残らなかったと伝えられています。
あごなし地蔵を祀っていた伴桂寺(小泉八雲が記していた「小寺」)も破却され、住職だった祖芳和尚は難を逃れて、豪商・石崎喜兵衛(『沢の鶴』の醸造元)らの扶助を得ながら、あごなし地蔵を東光院に将来、義寧はこれを境内に安座しようと発願します。
明治四(1871)年に「あごなし地蔵」の遷座と新堂の建立を大阪府庁に申請しますが、従来の江戸幕府による宗教統制で新寺建立が制限されていたことに加え、明治維新の廃仏毀釈の風潮もあって、「地蔵尊を祀るのは勝手だが、その堂宇を新たに建てることは固く禁ずる」との行政処分が下ってしまいます。しかし義寧は諦めませんでした。それどころか、この時の義寧は、もう一つの護法運動に取り組んでいたのです。それが「川崎東照宮」の承継遷座でした。

東照大権現(徳川家康)を祀る川崎東照宮は、西成郡川崎村(現在の大阪市北区天満)にありましたが、神宮寺の建国寺は明治になってその機能を急速に失います。元来、親・豊臣、反・徳川の気風が強い土地柄だったこともあり、戊辰戦争による大阪城焼失という混乱の中で略奪狼藉に遭って破却、明治六(1873)年には廃社に追い込まれます。
そんな中で建国寺の名跡を継いだ義寧は、川崎東照宮を邸内に抱えていた譜代の忍藩(現在の埼玉県)、北、南、天満の三郷の庄屋らの協力を得て、明治五(1872)年に建国寺の本地堂と本地仏の移譲の許可を、大阪府庁から得ることに成功します。

東光院の東照閣仏舎利殿(あごなし地蔵堂)


そして義寧は、この本地堂をあごなし地蔵堂として上棟します。落慶法要には忍藩関係者や祖芳と石崎の他、鴻池善右衛門、殿村平右衛門、中原庄兵衛といった名だたる在阪豪商が参列したと伝えられています。元々、地蔵盆など地蔵菩薩信仰に篤く、地蔵講も盛んだった大阪で、遷座後のあごなし地蔵は確固たる信仰を集めて、現在に至っています。

あごなし地蔵はこの安座で、従来より本地堂に祀られていた「こより観音」と連座することになりました。これは家康の長女・亀姫が川崎東照宮の造営に際して寄進したものですが、元々は後醍醐天皇の菩提を弔う供養仏だと伝えられています。
後醍醐天皇と言えば、一時は隠岐へ流刑され、そこでの雌伏によって権勢を回復し、後の建武新政へ繋げていきます。隠岐に所縁にある二つの仏像が、遠い大阪の地で邂逅を果たす。義寧の浄行がもたらした思いがけない奇跡と言えます。

また義寧は、川崎東照宮の廃社後の祭事も合せて引き継いでいきます。かつて「浪花随一の紋日」と称されて大いに賑わい、約250年続いた「東照宮権現まつり」は、現在の造幣局が川崎東照宮の跡地にあることから「桜の通り抜け」の淵源とも言われていますが、東光院移転後は、道了尊と併祀した「権現まつり」へ発展し、現在の「萩祭り道了祭り」へと続いています。

義寧は、明治という新時代への熱狂で社会が分断される中、日本古来の「やおよろず」の信心と寛容さ、そして大阪の伝統文化を、時代の荒波から守ったのです。
大事を果たした一方で、その反動もあったようで、一連の護法活動の原資として借財を重ねたことから、東光院住職の座を退かざるを得ませんでした。しかしその功績は色褪せることなく、明治二十九(1896)年に亡くなると、宗旨を超えた多くの僧侶で営まれる「百僧供養」によって化を遷されたと言います。




それにしても、義寧はこれだけの浄行を果たすことができた原動力は何だったのしょうか。
村山老師はまず、「磁場」としての東光院の由緒を挙げられました。

東光院は大正元年に現在の地へ寺基を移しますが、元々は大坂豊崎の里(現在の北区中津)にあり、その開創は天平七(735)年まで遡ります。
ここは古くから死者が出ると淀川河畔に遺体を積み置く「風葬」が行われていて、通称「浜の墓」と呼ばれていた場所でした。これを見て傷ましく感じた行基菩薩が火葬の方法を伝授、これがで我が国で初めての民間火葬でした。そして行基菩薩自ら薬師如来を彫像し、これを安置した薬師堂が寺基の淵源だと伝えられています。
江戸幕府による寺院諸法度の公布をきっかけに、天和元(1681)年に曹洞宗寺院に属しましたが、行基菩薩の精神を受け継ぐ東光院は、宗旨宗派にとらわれず、様々な僧俗が結縁する和合の場、各宗兼修の道場としての歴史を歩んでいきます。
現在の東光院の山門

また義寧自身に惹かれる信望者も多かったのは、「真宗大国」と言われる大阪の地で、
「妻帯せず簡素な暮らしぶりの義寧が、聖道門として高く評価されていからではないか。知行合一を体現していた。」
と村山老師は思い量られていました。

筆者としては、現代ではティク・ナット・ハンの活動として知られるエンゲージド・ブッディズム(行動する仏教、社会を作る仏教)を明治の世に為していた先駆性。そして、改弊の具体的な方途として、世俗の体制に諮った結果が護法に繋がった点が、卍山師・梅峰師らが人法を回復させた宗統復古運動とも通底していることを指摘し、改めてその遺徳を讃えたいと思います。
廃仏毀釈からの仏教の復興に尽力した仏者の動きとして、一般的には島地黙雷ら浄土真宗のそれがよく知られていますが、それに勝るとも劣らない「洞門の禅者」であった大雄義寧大和尚の浄行は、第三の法難の世にある私たちに、志の高さと行動力の大切さ、高潔さを教えてくれます。

参考文献「行基菩薩ゆかりの精舎 萩の寺とみほとけたち」東光院萩の寺 村山廣甫
「一枚摺の世界―その小釈の試み(6)」(『学苑』第九〇五号 所収)関口靜雄・岡本夏奈・阿部美香
『仏教抹殺〜なぜ明治維新は寺院を破壊したのか』(文春新書) 鵜飼秀徳
『知られぬ日本の面影』(響林社文庫) 小泉八雲
『腮無地蔵略縁起』 腮無地蔵奉賛会
『隠岐の歴史から〜『隠岐騒動』を考える〜』(隠岐の島町教育長 村尾秀信氏提供資料)

(副住職 記)<曹洞宗参禅道場の会 会報『参禅の道』第72号 所収>


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未だ、新型コロナウィルスの災禍が止みません。

すでに曹洞宗も、開催予定だった行事や会議を中止。5月に開催予定だった梅花流全国奉詠大会も中止となりました。
そして、これからお彼岸の期間がくるのを踏まえて、次のような注意喚起を行なっています。
一方で、僧侶でジャーナリストの鵜飼秀徳氏は、「感染症との戦いは仏教の伝統」として、「やれる行事は実施していくべき」と、一連の自粛ムードへの私見を述べられています。
うちの教区でも、今月から各寺で大般若会が厳修されますが、住職と数人の総代さんで勤められるところもあれば、例年通りに開催するところもあり、対応はそれぞれです。
当寺の大般若会も来月の17日にあり、檀信徒に向けた案内文を送付しなければなりませんが、どのような形でお勤めするか、対応を決めかねています。

このような世情の中、曖昧な情報源が拡散され、一時はマスクやトイレットペーパーが、買い占めによって店頭から無くなるという「インフォデミック」が発生。
また、テレビの情報番組でも終日この話題を取り上げていますが、専門家もコメンテーターも議論百出で、何の見識を頼りにしていいのか、分からない状況。

これを受けて、今月の掲示板に次のようなものを掲げました。
「リテラシー」とは、元々は「読み書きする能力」という意味で、対象を適切に読み解き、活用すること。
予防衛生と共に、安易に情報を鵜呑みにせず、かと言って楽観もせずに、「冷静に、正しく」事態に備えて欲しい、という意味で、掲示しました。

が…。

かく言う私自身、情報リテラシーを発揮し、適切に活用しているかというと…?



先日、ある会議に出席した時です。
8畳ほどの会議室に10名ばかりの方が集まられました。
私は後からの参加となり、部屋に入ると、出席者は全員マスクをされていました。
それを見るなり、「少しお待ち下さい」と言って一旦退出。たまたま持参して、別室に置いていたマスクを取りに行き、それをつけてから会議に加わりました。

特にマスクの買い占めが起きて以降、メディアでは専門家を中心に、
「健常者がマスクをしてもあまり意味はない。感染者が着用することで、飛沫感染の予防に役立つ」
と言われていたのを、私も知っていました。
でも、全員がマスクをしている状況を見て、思わず「空気を読んで」しまったのです。
これって、私がリテラシーの実践をしていない、ということになるのかもしれません。

しかし、この打ち合わせ中に、
「例えマスクの医学的効果が情報の通りだったとしても、マスクをすることでみなさんの畏れが減って安心されるのであれば、その方が良い」。
と考えていました。「事実」より「手段」を選んだ、と言えるでしょうか。

特効薬もなく終息も見えない。だから何を頼っていいか分からない。
とにかく今のコロナ禍には、畏ればかり募って安心がありません。

だからマスクをすることが、当座の安心を与えられて、要らぬ不安を生まないようにするのであれば、それは決して「日和見」と批判できないのではないでしょうか。




新型コロナウィルスの情報に限らず、リテラシーにおいて、何をもって「正しさ」の線引きをするのは、相当難しい。
結局のところ、私たちは判断の基準を、自身の信念や快感原則、思想や信条、周りの空気感、影響のある第三者の言説に預けてしまいがちになります。
そして一度「正しい」と決めてしまうと、それに固執します。
固執は「偏り」を生み、異なる意見や立場との対立を生みます。

お釈迦様は、物事の真偽を判別するのに、
①風説  ②伝承  ③神話 ④聖典 ⑤推論 ⑥定理 ⑦常識 ⑧信念 ⑨権威 ⑩師匠 
これらを頼ってはいけない、と説かれています。

詳しくは、日本テーラワーダ仏教協会のアルボムッレ・スマナサーラ長老が「すべては自ら確かめよ!」と題したご法話で語られていますので、ご参照下さい。

これは、「何も頼ってはいけない」という虚無主義を説いているのではありません。

安易に、何か一つだけに依拠してしまうと、人は判断を誤る。
すべての情報の価値を俯瞰して評価し、最後は自分で判断する大切さを説いているのだと思います。

掲示板で私が「リテラシー」と示したかったのは、正にこういう態度や行いのことです。



寺院での行事に自粛が多いのは、今の時点では致し方ないと思います。まして、韓国大邱でのクラスターの一件があったら、尚更でしょう。
しかし、鵜飼氏も指摘している通り、単に自粛ムードに盲従してもいられません。

私たち宗教者が弁えるべきは、行事の自粛であっても敢行であっても、それが悲観でも楽観でもなく、自己満足でもない。
ただ、それが民心の畏れを減らし、安心を得られる「施無施」になっているかどうか、ではないでしょうか。

今、慎重に、舵を切るタイミングを見計らっています。(副住職 記)

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平成24年、東日本大震災の翌年に企画されたパネル展「巡る、悼み。〜大震災に縁(よ)り添う僧侶たち〜」。当時、全国曹洞宗青年会に出向していた副住職が企画に関わり、各所にて開催されたこの展示を、大震災から9年目のこの日、関係者のご厚意によって、ここに謹んで深い祈りと共に公開させて頂きます。

写真家・國森康弘氏による作品と、青年僧侶が被災地で活写した写真の数々などで構成されています。

あの日、東京で会議中だった私は、震度5強の揺れを体験しました。しばらくはその感覚を体が覚えていましたが、傷が癒えるかのように、段々と、その感覚が薄れていくの感じています。
今年は被災地の慰霊も行けませんでした。
未曾有の体験を思い出そうと、今朝は発災直後に全曹青内で取り交わしていたメールを読み直しました。
14時を過ぎて、敬虔な気持ちを高めようと思った矢先、観音霊場巡拝の団体がお参りになって、御朱印などの対応のためバタバタしましたが、これもありきたりな日常のひとコマ。何とか14時46分には準備が間に合い、鳴鐘と共に祈りを捧げることができました。あの日も、今日のように春を待つ麗かな日だったでしょうか。

自然災害が頻発し、現在はコロナ禍の最中にありますが、あの時の気持ちと志しを失わないために、このパネル展を再掲させて頂きます。(副住職 記)

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2月の高知出張。2日目には、県西南部「幡多地方」の中心都市、中村まで足を伸ばしました。

中村は義母の出身地なのですが、私は高知や中村に関して無知蒙昧で土地勘もなく、妻が幼少時に桂浜で波にさらわれそうになったという、今となっては記憶違いの話を聞いて、中村と桂浜は近隣地だと、勝手に思い込んでいました。(妻の記憶違いについては、下記のリンクを参照)
実際の中村(現・四万十市)は、県庁所在地の高知市から、車で西へ約2時間弱の場所にあります。
義母には申し訳ないが、自動車専用の横断道である高知道が未着工の区間もまだ多く、在来道を運転しながら「ずいぶん辺鄙なところにあるなぁ」と独言てました。義母には「島根県民には言われたくない!」と猛反論されそうですが。

でも、最初に本稿の結論だけ言っておきます。
「中村こそ、真の小京都だ‼️」


「中村初心者🔰」の私がまず最初に向かったのが、中村城跡(為松公園)に建てられた「四万十市郷土博物館」。
平成17年の市町村合併で「四万十市」となった旧中村市の歴史や風土を知ることができます。
城郭を模した建物の最上階から見た中村の街。
街景の後方に川が見えますが、新市名の由来となった「日本最後の清流」四万十川ではなく、支流の後川です。
詳しくは後述しますが、中村は「土佐の小京都」と称され、碁盤の目に整備された街並みが特徴。
中村城跡の敷地内に建てられた、幸徳秋水の顕彰碑。
中村出身の著名人として真っ先に上げられるのが、明治時代の社会活動家・幸徳秋水。彼が処刑された大逆事件では、曹洞宗からも内山愚童師が連座されました。

内山愚童師については、下記リンクを参照。


一般的に、お城はその街のランドマークになりますが、中村の場合、例え後代に復元された中村城(郷土博物館)が目についたとしても、精神的な拠り所にはなり得ないようです。

では、中村のランドマークが何かというと、それは「一條神社」、通称「いちじょこさん」になるのではないでしょうか。
一條神社は、「土佐一條家」の居館「中村御所」があった場所に建てられました。
元々、一條家は五摂家の一つであり、名家中の名家。

室町時代後期の公家で、知識人として知られた8代当主の一條兼良の子で、関白まで務めた9代当主の教房が、応仁の乱の戦火を避け、当時、所領のあった土佐幡多荘に下向。
土佐の国人らに歓迎され(この中には長宗我部氏もいた)、中村御所を構えて、京都の文化を伝え、京都に倣った街造りを行いました。
今でも中村には「鴨川」や「東山」といった地名が残り、8月の末には「大文字の送り火」が行われています。
また港湾を対明貿易の中継拠点とし整備し、経済的にも発展、中村繁栄の礎が築かれました。
教房の子・房家以降に中村に土着した一族を「土佐一條家」と言い、その後に戦国大名化していきますが、土佐一條家が他の大名と違うのは、中村に土着した後も公家としての格式を保ち続けていたことで、房家の子・一條房通は、帰洛して一条本家の11代目当主となっています。
これは言わば「貴種流離譚」の亜型とも言え、中村の人たちが領主を尊崇し、その土地柄を誇負する根拠になったはずです。

その一條家が家勢を失うのが、教房から数えて5代目の兼定の代。
この兼定は暗愚のとして名高く、戦国シミュレーションゲーム『信長の野望』では、パラメータが登場人物中、最弱クラス。そら、「鬼若子」長宗我部元親に敵うわけありません。
一時は土佐の宗主とも言える地位にあった土佐一條家ですが、長宗我部元親による下克上で、土佐を追われた上に家系も断絶します。
一方で、房通が家督を継いだ京都の一條本家はその後も存続し、明治天皇の正妻、昭憲皇太后も一條家のご出身でした。
そして中村御所跡は、土佐一條家の祀る廟所となり、やがて「一條神社」となって幡多郡の総鎮守となります。中村の人たちが、いかに一條の家徳を慕っていたかが分かります。

昭和60年になってから、全国の「小京都」と称される街と京都市が参加した「全国京都会議」が結成されます。その加盟条件は、
 ①京都に似た自然景観、町並み、たたずまいがある
 ②京都と歴史的なつながりがある
 ③伝統的な産業、芸能がある
このいずれかに当てはまるのが基準、とのこと。わりとオンボラしてますね…

令和元年6月の段階で43市町が加盟していて、実は前日訪れた安芸市も加盟自治体。知らない間に「小京都のはしご」をしていたわけですが、今回、その加盟43市町の概要をチラ見したところ、中村以上に条件を全て兼ね備え、「小京都」を名乗るに相応しい市町はありませんでした。

よって、甚だ勝手ではございますが、中村(現・四万十市)こそが、小京都ランキング第1位、正真正銘の小京都と認定します。


中村という土地柄が何となく分かったところで、その「中村こそ真の小京都」の根拠、中村のランドマークでありアイデンティティとも言える一條神社にお参りすると…

お!😍

はうっ💘

あ、あ、あ、💓💓

み”や“ぁぁぁぁっ❣️❣️❣️


やばいやばい、猫好きはキュン死必至。

かわいい看板猫の「チビちゃん」によるサプライズのお出迎えに、思わず舞い上がってカメラを連写。
もうこれだけで、一條神社、100点満点です💯

上が現在の社殿。下は、妻が幼少時に祖母と撮った写真です。この頃、浮津海水浴場(現・黒潮町)で波にさらわれかけたのでしょうか。

出雲地方の人間から見たら、社殿や境内の規模が特に大きいわけではなく、出雲大社や八重垣神社のように参詣の人波が途絶えないほどではありませんが、とにかく境内がよく整っていました。
抽象的に言うと「〝気〟が滞らず流れている」というか、人の目がよく行き届き、人の流れも一定あることが感じられます。さっきのチビちゃんの登場が、その証明。
これは結構寺社にとって重要で、普段、人的な活動がない社寺は「人の気配」を感じず、寂れた気配になってしまい、参拝時の「気分」にも影響します。
何故かは分かりませんが、最近流行のリラックマ絵馬。
人の納めた絵馬を世間に晒すのは、デリカシーに欠けるかなとも思いますが…これ見るの、嫌いじゃないんですよね😏
一條神社はジャニーズファンの祈願所でしょうか。
「たくさんのお仕事がJUMPにきますように」っていうのが、利他的で微笑ましい😊
御朱印所にはたくさんのお札やお守りがありましたが、私は「一条貫太」のCD販売が気になりました。買いませんでしたが。
千葉市出身。中村とのご縁は「一條(条)つながり」でしょうか。
Wikipediaによると「名古屋の大須商店街を好み、」とあります。

そんな一条貫太さんに是非オススメなのが…
天神橋商店街。立派なアーケード街です。
一條神社の鳥居の前にある、文字通りの門前町。松江天神町商店街みたいなものでしょうか。
義母の実家は、アーケードから少し外れた所で理髪店を経営していました。

商店街をふらついていたら…
改元のお祝いと並んで、昨年に電撃結婚した芸能人カップルのイラストが。
因果関係が分からず、下記のアドレスを参照にしました。
便乗のターゲットと仕方が、唐突というか独特。
商店街のみなさんのノリがいいんでしょうね。もし実現したら、一條教房公以来の貴種来駕でしょうか。
アーケードを少し外れたところにあった「きっさてん」という店名のお店。おそらく喫茶店です。
さらにその向かい側には、
土佐の小京都の「江戸っ子美容室」。
もはや今の自分がどこにいるのか、分からなくなります。

あとで聞いたら、母の実家はこの先隣だったようです。すわっ、商売敵か?「江戸っ子美容室」!
さて、この日の昼食ですが、中村ではないのですが、事前に目星をつけていたうどん屋「いろりや」さんが隣の黒潮町にあったので、そちらへ。

番組の企画で四国中のうどんを食べた、北海道のカリスマ演劇ユニットの方に「一番うまいかもしれない」と言わしめたお店。
うなぎや青さといった、四万十川産の素材も楽しめますが、一番人気が「カレーうどん」ということで、相も変わらずカレーうどんを注文。
クリーミーですが、意外とスパイシーです。
豊中の「銭形」で頂いたキーマカレーうどんも、顔の毛穴から小汗がにじむくらいの辛さでした。
おいしいカレーうどんは、ちゃんとカレーを作り、スパイスにも気を配るから、相応に辛くなるに違いありません。

猫とカレー。好物のツープラトン攻撃にKO寸前の、義母の故郷巡りでした。(副住職 記)

via 宗淵寺/願興寺
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3月4日に、出雲観音霊場会による札所開きが行われました。
札所寺のご住職や先達は3班に分かれて、全33カ所の札所を1日で全て巡拝しました。
二十三番札所 願興寺(宗淵寺)
第二十番札所 長台寺
第十七番札所 星上寺
未だ残雪がありました。
第十六番札所 普済寺
札所開き巡拝後には、松江市内で年次総会を開催し、事業や会計について審議しました。(副住職 記)

via 宗淵寺/願興寺
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高知市内での所用を終えてから向かったのは、高知の代表的な景勝地、桂浜。
ベタな観光地巡りをしたかったわけではなく、
以前、妻から聞かされていた「九死に一生」の話を踏まえて、「桂浜の竜王さまにお礼参りでも」と思って行ったのです。

ところが、後日にこのSNSの投稿を見た義母から伝えられた、衝撃の事実…
えっ⁉️桂浜じゃないっ❓
中村は現在の四万十市。義母の故郷で、桂浜からは車で西へおよそ2時間の場所です。
ビックリして妻に訊ねてみると、
「あれー?そうだっけ。覚えてない。でも、中村も桂浜も同じ高知でしょ?高知の海で溺れたから、間違ってないでしょ。」
と、超テキトーな答え。
人の記憶は、都合よく書き換えられるものなのです。


勝手に良いことをした気になっていた桂浜から😞、続いてもう一つの目的地、安芸へ。



少し前に、ある先輩の僧侶の方に高知に行くことを話したら、
「安芸市に、閑慶院という三菱岩崎家の菩提寺があって、法類がそこに住職として入った」
と聞かせてくれました。

(三菱)岩崎家と言えば、永平寺の朝課でも開基の波多野家などと並んで先祖供養の読み込みがされており、また仏殿での年分行事でも「岩崎家檀越諷経」が厳修されていましたが、私自身がこれまで永平寺と岩崎家の関係について伝え聞いたり、興味を持って学びを深めることがありませんでした。
創業者の岩崎弥太郎についても、土佐藩士の出自くらいの知識しかなかったのですが、先輩のお話を聞いて少し調べてみたら、現在の閑慶院の本堂や山門といった主な伽藍(旧鐘楼も)は、岩崎家の寄進によるものとありました。またネットでは「現在の永平寺の仏殿は岩崎弥太郎の寄進で建てられ、仏殿には今でも岩崎弥太郎の位牌が祀られている」という情報もチラホラ。(これについては後述)

この時点では、永平寺で修行経験がありながら寡聞であったことを恥ずかしく思いながら、せっかくの機会なので岩崎弥太郎の出身地、安芸市の旧井ノ口村を見てみたいと思った次第です。

桂浜を経ったのが夕方の5時前。そこから安芸市の閑慶院までは、車でおよそ1時間。
日の入りにギリギリ間に合うか間に合わないかの時間でしたが、あわよくば昏鐘の音が聞けるかもしれないと、淡い期待をしつつ車を走らせました。

途中、阪神タイガース(2軍)が春季キャンプ中の安芸市営球場の前を通りましたが、生粋のカープファンの私は一顧だにせずとっとと素通り。

目的地の閑慶院さんに着いたのは5時45分ごろ。
進入路が狭かったので、少し離れた田んぼの脇に車を置いて、日没に間に合えばと、走ってお寺まで行きましたが、
…すでに閉門。すっかり夜の支度が済んだ後でした。
もう日の入り時間は過ぎて、辺りも薄暗くなっていましたが、画像だと明るく見えます。この辺はさすが、新しく買い替えたiPhone11。暗所撮影の性能が高いです。

境内には入れなかったので、薄暗い中でお寺の周辺を撮影しながらウロウロ。もはや不審者です。
閑慶院のシンボルツリー、樹齢600年の椋の木。幹の中には小祠がありました。椋の木自体が信仰の対象になってるようですね。
童謡『夕やけ小やけ』の歌碑。
元々は作詞の野口雨紅の実家である、東京都八王子市の宮尾神社にあったそうですが、閑慶院の総代さんがこの歌詞に感動し、許可を得て宮尾神社の歌碑の妹碑として建立されたそうです。これを見ながら昏鐘でも聴けたら最高だったんですが。
岩崎弥太郎と阪神タイガースで有名な安芸市ですが、どうやら街おこしの基幹は、童謡。
大正から昭和にかけて多くの楽曲を残した作曲家・弘田龍太郎が安芸市の出身だそうで、これにあやかってのことみたいですね。
閑慶院の「夕やけ小やけ」の歌碑建立も、その一環。弘田の作曲でも何でもないけど。


もう6時はとうに過ぎていましたが、さっきここに来るまでの道路案内にも出てきたワード、「野良時計」っていうのが何なのかも気になります。
でもその前に、岩崎弥太郎の生家にも行かなきゃ。
辺りはどんどん暗くなっていきます。
急げっ❗️

閑慶院から3km弱の場所にある、岩崎弥太郎の生家跡。当然見学は…
できるわけありません。営業時間は午後5時までです。
お世辞にも繁華とは言えない寒村、しかも岩崎家は生活のために郷士株を売った「地下浪人」という下位の身分だったと言います。
そこから日本有数の政商となった弥太郎の立志伝に、もう少し思いを馳せていたかったのですが、加速度的に日が落ちていきます。
どうせ生家の中も見れないので、周囲を5分程度散策した後に、そそくさと野良時計へ。
ナビで経路を検索したら、「チクタク通り」という、おそらく野良時計にあやかった洒落た名前の通りでしょうが、実際の「チクタク通り」は…
こんな感じ。チクタク感はあまりないですね。むしろ第一産業感。
これが野良時計。「松江シティホテル」みたいな感じでしょうか。
この地区の地主の家につけられたもので、時計がまだ普及していない明治時代、住民が農作業中に時間を確認していたそうです。それで「野良時計」なんですね。周囲の第一産業感も納得です。
近くの駐車場に、弘田龍太郎作曲の『鯉のぼり』の曲碑がありました。
でも歌詞を見ると、私のよく知る「屋根より高い〜♪」の歌い出しではありません。
「あれっ?これ、知らないかも」
と、とっさに音声案内のボタンをポチしてしまいました。

「い〜ら〜(か〜の)」と出だしの一小節を聴いて、「あー、やっぱ知ってるわ」となったので、途中で音声を中断して早くホテルに行きたかったのですが、どうも最後まで強制的に音声が流れるシステムのようで。
でも途中でいなくなったら、もしこの夕闇に紛れて誰かが見ていて、島根ナンバーの不義理者が、音声ボタン押し逃げした、という負の記憶を残すことになります。ちゃんと最後まで聞いた体にしなければ。

それから、およそ7分間、人っ子一人いない日没サスペンデットの駐車場で、一人で案内音声を聞く羽目に。

URL: youtu.be

暗いし、音でかいし。
放置されてるみたいでとっても恥い…。早く終わってごせ…。


さて、以下も桂浜の一件同様の後日談、人の思い込みについての教訓を得た話です。

「岩崎弥太郎が永平寺の仏殿を寄進した」「仏殿で弥太郎が祀られている」という話。これほどのパワーワードを、修行中に微塵も聞いたことがないので、改めて調べてみました。

まず、岩崎弥太郎の生家が閑慶院(曹洞宗)の檀信徒であったのことは間違いありませんが、岩崎家の寄進による伽藍の落慶は明治34年だそうです。
しかし弥太郎の没年は明治18年。つまり弥太郎自身ではなく、一族による寄進だということが分かります。

さらに、現存する永平寺の仏殿が建立されたのは、道元禅師650回大遠忌の際、つまり明治35年です。
これで、「岩崎弥太郎が永平寺の仏殿を寄進した」という命題が成立しないことになります。
次に「永平寺の仏殿で弥太郎が祀られている」件。
事前に確定している情報は、現在でも永平寺で岩崎家の先祖供養が行われていること、つまり弥太郎個人の供養とは限定していない事実です。

そこでネット検索しながら、あれこれ調べたところ、「シャディは一冊の百貨店♪」で有名なギフト販売会社『シャディ株式会社』が運営する「死の総合研究所」という死生学に関する研究や情報をまとめたサイトの「明治葬祭史」の中に、次のような記載がありました。
「弥太郎は神葬祭」というワードにまず軽く驚きました。
さらには、なんと5ちゃんねるに「岩崎家」というスレッドがあり、そこに次のような書き込みがあるのを発見。
「弥太郎系は真言宗」というワードは、上記の神葬祭とは矛盾しなくもないですが、それより大きな要素は、どうやら弥太郎自身は曹洞宗とはさほど有縁ではなさそうだ、ということです。

そこで改めて「弥之助系は曹洞宗」というワードに注目。
調べてみると、この「弥之助」とは岩崎弥太郎の実弟で、弥太郎の跡を継いで三菱財閥の2代目の総帥となった実業家ということが分かりました。
左が弥太郎、右が弥之助です。
いわゆる「三菱岩崎家」というのは、弥太郎の系統と弥之助の系統からなり、両家による双頭体制が敷かれていたようです。

この岩崎弥之助という人物について、私は全く知らないかったのですが、試しに評伝を読んでみたところ、弥太郎の影には隠れていますが、むしろこの優秀な2代目の功績によって、三菱財閥の基礎を築かれたことが分かりました。
また、豪放磊落だった兄の弥太郎と正反対で、弥之助は「紳士の標本」と評されるほど、温和で思慮深い性格だったそうです。
そして、信心深かった実母・美和の影響を強く受け、先祖供養に篤かったのは弥之助の方。
既に鬼籍にあった母兄の菩提を弔うために、当時の閑慶院や永平寺に多額の喜捨をしたのは、おそらくこの弥之助でしょう。

さらに興味深かったのは、これは別の資料にあった事績ですが、弥之助の孫に当たる岩崎八重子(旭硝子株式会社〈現在のAGC〉社長の創業者 岩崎俊弥の長女になる)という方がおられ、病弱で26歳の若さで亡くなりますが、生前には原田祖岳老師に師事して参禅精進され、やがて大悟したことを原田老師にも認可されました。しかし、その時すでに病床にあり、書簡でそのやりとりをしたと言います。
原田祖岳老師の肖像。Wikipediaより拝借。


まさか、永平寺の仏殿のことを調べていて、昭和の正信論争にまで話が及ぶとは思いませんでしたが、一族にこういう篤信者がいることからも、永平寺で供養されている岩崎家とは、弥之助系を中心とした親縁と見なして間違いないと思われます。

もっとも、もし閑慶院で直接お話が聞けたら、すぐに分かった話かもしれませんが。

私も閑慶院に行くまでは「三菱岩崎家と言えば弥太郎」と思い込んでおり、なんなら生家跡に建つ弥太郎の像を見て、修行時代の思い出に耽りそうになっていました。ネットに飛び交う誤情報も、そんな思い込みによるものでしょう。

「歌手の岩崎」と聞くとすぐに姉・宏美を思いつきますが、妹・良美の歌唱力も甲乙つけがたい上に、むしろ楽曲としては「タッチ」の方がポピュラー、みたいな話でしょうか?


人間は思い込み、記憶をもすり替える。そんな大仰な教訓を得た高知の拾い歩きは、さらに中村編へと続く…

via 宗淵寺/願興寺
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