11月15日に、檀信徒の青年部「宗友会」のみなさんによる奉仕作業が行われ、鐘楼の袴に柿渋を塗る作業と、境内に植えられた蘇轍に防寒のための菰巻きをしていただきました。

 

その後、大晦日の除夜の鐘について話し合いを行い、参拝客を募らず飲食も提供しないで、鳴鐘をネットで配信する方法で実施することとしました。

 

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現在、願興寺境内で、観音講主催第66回出雲観音霊場巡拝寺院のお砂踏みを実施中です。
 
第一番 長谷寺
第二番 養命寺
第三番 鰐淵寺
第四番 観音寺
第五番 神門寺
第六番 蓮台寺
第三十三番 清巌寺(岩屋寺)
 
代参をお願いされた方、コロナ禍で遠出や人混みを避けられたい方など、この機会にぜひお砂踏みをなさって下さい。
 
11月末日までの
開催となっております。

 

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11月8日(日)に、願興寺観音講主催の第66回出雲観音霊場巡拝を実施しました。

春秋2回行われる願興寺の出雲札は、特別霊場を含む全34ヶ寺を2年半かけて満願する行程で、今回が第一巡目に当たります。

 

ただ、新型コロナウイルス感染症の世界的流行を受けて、今春の巡拝は中止となり、今回も毎回4〜50名の参加を得て実施している団体参拝は取りやめ、住職が代表して一人でお参りし、希望者の方のお札や納経帖の取りまとめをする「代参」方式で開催しました。

また、特にこの日の巡拝を希望された4名の方も同行されました。

 

【1ヶ寺目】第三十三番札所 清巌寺

最初に訪れたのは、出雲札「結願」のお寺である、玉湯町の清巌寺。

本来であれば一番最後にお参りする札所ですが、願興寺の巡拝では行程の都合で、34ヶ寺中で一番最初にお参りす流ことになります。

美肌の湯として名高い玉造温泉の街並みにあるだけあって、午前中の早い時間帯でしたが、境内には「おしろい地蔵さま」参拝の若い女性のグループが多くおられました。

観音堂(岩屋寺)は本堂左隣にあります。

 

【2ヶ寺目】第六番札所 蓮台寺

次に訪れたのは、斐川町三絡の蓮台寺。

団体参拝の際には、参道下の駐車場(写真右)にバスを駐車して歩いて上がりますが、この日は各々が乗用車で境内近くまで上がりました。

途中、枯れ木が堆積している場所があり、よく車輪がスリップします。車で上がられる際は十分にご注意ください。

駐車スペースから、さらに階段を上がってお参りします。

いつからか管理者の方もおられなくなって、軸朱印は他寺での代筆となります。

参道を降りると、途中で眼前に斐川平野を見渡す勝景が。「ようこそお参り」との、観音様からのギフトでしょうか。

 

【3ヶ寺目】第五番札所 神門寺

次に訪れたのは、出雲市塩冶町の神門寺。

弘法大師がこの寺で「いろは歌」を作られたと伝えられており、通称「いろは寺」として有名です。

出雲札でお参りする観音堂は、本堂の左側です。

 

【4ヶ寺目】第四番札所 観音寺

次に訪れたのは、出雲市渡橋町の観音寺。山号は「補陀山」。生粋の観音信仰の札所です。

 

写真はありませんが、この後に昼食。大社町の『そば縁』さんに立ち寄りました。

普段は旅行会社に手配していただいたお食事処で「上げ膳据え膳」ですが、神在月の休日で晴天にも恵まれたこの日、『そば縁』さんは大賑わいで、ここでおよそ30分の行列待ちしましたが、これが後の巡拝に影響することに。

 

【5ヶ寺目】第二番札所 養命寺

次に訪れたのは、出雲大社から稲佐の浜に向かう途中にある養命寺。

ここは直近に駐車場がないので、注意が必要です。

国道431号線からの進入路。大社の町からも入れますが、町内は車の行き違いも困難なほど道が狭く、車だとこちらからの進入のみ。

無住のお堂ですが、管理している方が境内近くにお住まいです。

 

【6ヶ寺目】第一番札所 長谷寺

次に訪れたのは、稲佐の浜近くの第一番札所、長谷寺。出雲札の「発願寺」でもあります。

余談ですが、全国に「長谷寺」と名の付くお寺は数多くありますが、そのほとんどが、御本尊は十一面観音です。そのルーツは、おそらく奈良の長谷寺(真言宗豊山派総本山)だと思われます。

いつもの団体参拝だと、この後大型バスで平田の街に入ってから鰐淵寺に向かうのですが、この日は乗用車だったので、鵜鷺から河下に抜ける沿岸路(県道23号線)を通りました。

 

 

【7ヶ寺目】第三番札所 鰐淵寺

この日最後のお参りは、平田の鰐淵寺でした。

 

現在は「紅葉まつり」が開催中のため、下の臨時駐車場から歩いて10分程度、山門に向かいます。

なお、鰐淵寺の参拝には入山料(大人一人500円)が必要です。

16時23分頃、受付の山門に到着して看板を見ると、参拝時間は17時までですが、入山の受付は16時15分までで、すでに受付を終了、この日は入山できませんでした。

残念でしたが、山門前で遥拝をして、御朱印は後日改めていただくことに。

ご注意いただきたいのは、この時期の「紅葉まつり」で下の臨時駐車場から歩いて上がると、本来の駐車場に設置してある案内看板を見過ごしがちなこと。

これを見過ごして、受付時間を過ぎて山門まで行くと、徒労に終わりますので、ご注意ください。

というわけで、次の日に改めて、受付時間内に鰐淵寺にお参りしました。

二日がかりになりましたが、お札を納めて、ようやく今回予定した全7ヶ寺の巡拝を終了。なんとか「代参」の務めを果たせました。

 


 

今回から、願興寺主催の札所巡拝は、代参の他、個人での巡拝も受け付けることとなりました。

台紙とシールをお渡しし、巡拝したお寺に貼っていっていただきます。

また、今月末まで、願興寺境内で上記寺院のお砂踏みをしていただけます。詳しくは「お知らせ」をご覧ください。

 

シールスタンプとお砂踏みは、団体参拝が困難な「ウイズコロナ」の特別企画です。

 

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当寺の境内、観音堂(願興寺)の向拝横に、「童仏」尊像が祀られています。

その由来について、以前にFacebookで触れさせていただきました。

当寺に将来し開眼してから8年が経過しましたが、当時の記事では触れなかった、この「童仏」にまつわるお話を、今になってしたためようと思ったのは、最近あった、ある出来事のためです。

 

それは、「勝友」の急逝です。

 


 

元々、東京・表参道の茶道具屋さんが所蔵しておられたこの像は、鑑定書を取っていないことと、防犯管理の上から名前は伏せますが、この茶道具屋さんに出入りしていた、ある有名な彫刻家の習作だと言われています。

 

この茶道具屋さんと私の間を取り持って、「童仏」尊像将来のきっかけを作ってくれたのが、かつて私が全国曹洞宗青年会に出向していた際に一緒に活動した、河村康仁さんでした。

 

その河村さんが、先月25日に急逝しました。

世寿45歳。私と同学年に当たります。

 


※以下、長文です。

 

彼とは、もう何年も会う機会がなく、年賀状を交わして互いの近況を確認し合う程度の付き合いでした。

訃報に接した瞬間は、ほの暗い記憶の中にいた旧友の不幸くらいに受け止めていたのですが、数日経っても彼のイメージが日常の雑事に紛れることがなく、逆に日を追うにつれて、まるで毛糸のセーターの穴がほつれて大きくなっていくように、決して小さくない喪失感になっていきました。

 


 

私が全曹青に初出向した第十六期(もう、何年前かも正確に覚えていません。15年くらいまでしょうか)で、広報委員会に配属になった時の、副委員長が康仁さんでした。彼はその一期前から広報委員会で活動し、当時の委員長だった久間泰弘さんを支えていました。今思うに、その後およそ8年間出向しましたが、この期の2年間が、出向期間中で一番「楽しかった」時期でした。

人見知りをこじらせ過ぎて暗黒だった学生時代に経験できなかった「団体活動萌え」を追体験させてもらいました。

 


 

その後、次期の委員長になった康仁さんから指名されて、私と青野貴芳さんが副委員長を務めました。

前委員長の久間さんは「リーダーシップ無双」のような方で、私たちは「この方の振る御旗の下に集う」といった感じでしたが、康仁さんは「他者を引きずってでも引っ張る」タイプではありませんでした。

本人もそのことに自覚的だったのか、もとより康仁さんも青野さんも私も、個性も考え方もバラバラ。そこをお互いに干渉することなく、「三頭政治」のようにして、会務がうまく回っていました。

今思えば、そのように環境調整したのが、康仁さんの委員長としての才覚であり、持って生まれた「人の良さ」が求心力だったのでしょう。

 

たまに会議で、「板倉さん、これおもしろくないですか?」と持論に同意を求められたこともありましたが、私は意見が合わないと感じた時には、「うーん、ノーコメントで」と明言を避けていました。

 

決して強い反対意見をいったわけではないし、そもそも「三頭政治」なのだから、康仁さんは自分のやりたいことをやればいい。それが私のやりたいことと一致しなくても構わない。その代わり、私のやりたいことにも余計な口を挟まないで欲しい。

 

私はそう考えていたし、それはそれで居心地のいい状況でしたが、私のつれない回答を聞いた時、康仁さんが「そうですか・・・」とだけ言って寂しそうにしているのを見ると、悪いなと思いつつ「まるで契約結婚に同意しながら、それ以上のつながりを求めてるみたいだな」とも感じていました。

 


 

 

次期の副会長に転属となった康仁さんから委員長を引き継いだのが、私でした。

 

個性も考え方も違うと言いながら、当時彼とは、広報委員会のあり方について、同じビジョンで一致していました。それは、委員会で作成する全曹青会報の「オピニオン誌化」と「デザインオリエンテッド」でした。

 

「オピニオン誌化」というのは、第三郵便に適用されていた会報の内容として、会務の報告だけではダメで、如何にオピニオン性を発揮し、強いメッセージを発信するか。

「デザインオリエンテッド」とは、読者の目を引くためには、内容もさることながら、デザインも高いクオリティにしなければいけない。

これらが果たされることで、賛助会費が主な収入源である全曹青の活動に対して、委員会として寄与することができる。

 

この考え方においては、私も彼も寸分の違いもなかったと思います。だから一緒に仕事してこれたのでしょう。

 

康仁さんから会務を引き継ぐ際、「4大紙とも取引のある東京の制作プロダクションにアポが取れました、今後はここに発注しませんか?」と勧められました。

一介の青年僧侶にすぎない彼が、なぜそんなメジャーな会社に縁故があったかは分かりませんが、私も何となく、その時は「メジャー志向」に喜んで乗っかって、任期中、そのプロダクションを通してで会報を作りました。

確かにデザインは段違いに良かったし、記事にも「メジャー」な視点が加味されて、今考えてもクオリティの高い誌面が構成できたと思います。

 

でも、プロダクションがメジャーなら、経費もメジャー級。

賛助会費の増額どころか、会計全体に占める編集費の割合が前期を大幅に上回ったことが問題となり、そのプロダクションへの外注自体が摩擦や不信を生んで、結局は私が委員長をした一期だけで外注を取りやめることになりました。

 

そして、それまで同じ委員会ではビジョンを共有することで、不思議と噛み合っていた康仁さんと私の歯車が、副会長と委員長という、互いに別の立場を背負ったことで、もともと違っていた個性や考え方が、シンプルな齟齬となっていきました。

 


 

ある時、私がどうしても掲載したかった記事を、執行部の校正に上げたところ、そこで記事の内容が問題となって、結局記事差し替えの指示が下りました。

決定を伝えられて憤っていると、しかも差し替えを主張したのが、副会長の康仁さんだったと聞き、私の感情は沸点を超えてしまいました。

「ついに口を挟んで、邪魔してきやがった。オピニオン誌にするんじゃなかったのかよ。」

私は執行部に対して、「記事が通らないなら、委員長を辞める」と吐き捨てて、完全に不貞腐れてしまいました。

 

当時会長を務めておられた久間泰弘さんが、慰留するためにわざわざ島根まで来られた上に、地元の先輩僧侶にも諭されて、委員長を続けることにはしましたが、私の中でほとぼりは全然冷めていません。

その後の執行部理事会で上京した際、不貞腐れて会議室に入ると、康仁さんが私のところにやってきて、

「板倉さん、この前はすみませんでした」

と言葉をかけてくれました。これが彼生来の「人の良さ」です。

でも私は、黙って康仁さんを睨みつけました。

彼は「うわ、マジか」という表情をして、すぐにその場から立ち去っていきました。

 

すでにその時、お互いのポジションがあって、彼が彼なりに「〝オピニオン〟の名を借りた極端な意見標榜は、バランスを欠き誤解を生む」という組織会報としてのリテラシーやリスクマネジメントを働かせた上での言動で、しかも最終判断が執行部の総意だったことは分かっていたつもりでしたが、その時はどうしても彼を「許す」ことができませんでした。

若気の至りでは済まされない三十代半ばの、瞋毒に侵された私が、そこにいました。

 


 

その後、第一子が死産して、さすがに久間会長も不憫に思われたのか、「委員長を辞してもいい」との温情を示して下さいましたが、逆に「(康仁さんとのことで迷惑をかけたので)任期は全うします」とお答えしました。それでも結局、康仁さんとは任期中、ろくに言葉を交わさないままでした。

 

そしてその次の19期、私は副会長となって、当時発生した東日本大震災の復興支援活動で右往左往していた最中、すでに全曹青での活動を終えていた康仁さんが、Facebookで「知り合いの茶道具屋のご主人に頼まれた」として、以下の投稿をしているのを見ました。

 

死産した我が子の供養のために、何かをしたいと思っていた私は、これを見て天啓を覚え、すぐさま康仁さんに連絡を入れ、購入を申し入れました。

 

その時、どんな気持ちで彼に第一報を入れたか覚えていません。

 

でもその後、売主の方にご挨拶するため、活動中だった福島から表参道の茶器店に赴き、そこで康仁さんと、「不貞腐れ」以来初めて、昔のように親しく話ができて、

「亡くなった我が子が仲直りの機会を与えてくれたのかな。おかげで、不貞腐れ野郎のままで終わらずに済んだ」

と思ったことは、よく覚えています。

 


 

多分、康仁さんは「全然違いますよ!」って全力で否定するだろうけど、康仁さんと私は「似た者同士」だったように思います。

 

結局全曹青で私が担った役職は、すべて康仁さんの後をなぞったものでした。

組織の中でのポジショニングも一緒。何となく斜めから意見を言って、会議をなだらかに終わらせたがらなかったり。

派手で大胆な人心掌握も不得手で、うまく他の人に頼むことができずに、結局自分で仕事を抱え込んでしまう。

 

大きいビジョンを口にし、その志に偽りはないけれど、何となく空を見上げるだけで術を果たすことができず、星を掴み損ねる。

 

全曹青での任期を終えた時も、

「康仁さんを同じ経歴や成果で終わるなら、それは自分にとって分相応だった」

と、妙な安堵を覚えました。

私の全曹青の活動での指標は、紛れもなく康仁さんでした。

 

私は彼を鏡にして、自分の至らなさを見せつけられていたのでしょう。

その上、彼の「人の良さ」に甘えて切っていた。

そんな私に、彼は我が子を亡くした傷を癒すきっかけをも与えてくれた。

 

その感謝も恩返しもできずに、康仁さんは先に逝ってしまいました。

 


 

康仁さん、しばらく会っていなかったけど、でも寂しいし、悔しいよ。

「いつか会える」と「もう会えない」では大違いだ。

僕はあなたに吐き出した毒を、多分まだ抱えているし、相変わらず人と関わることが苦しい。

でもこれからも自分なりに生きていかなきゃいけない、その理由が増えてしまったようだ。

あなたは化を遷した先で、今生よりも安穏と過ごして欲しいよ。

 

康仁さん、心から品位の増崇を祈念します。合掌    (宗淵寺住職 板倉省吾)

 

 

 

 

 

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この度、玄関の東隣に軽応接用の土間が、新たに竣成しました。

ご寄付をいただいたお施主様の、亡くなられたご伴侶の戒名にあやかって「明窓坊(みょうそうぼう)」と名付けた一画。表札の記号は東堂です。

履き物を脱がずに軽応接させていただいたり、御朱印の記帳中の待合のために、腰掛けを設置しています。

また、宅法事で利用する法具の入った挟箱も、こちらから持ち運びしていただきます。

今後は、不在用の集荷ボックスなども設置できたらと思っております。

先日には、故人の百ヶ日法要で施主のご親族が来寺。竣成した「明窓坊」を披露させていただきました。

境内に故人の名を冠した一画ができたことに、みなさん喜ばれたご様子でした。

 

ちなみに「明窓坊」の中は禁煙です。🚭

喫煙は、以前より狭くなって恐縮ですが、その横の喫煙スペースでお願いします。

 

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新美山願興寺観音講恒規法要 過日17日には新美山願興寺観音講の恒規法要が厳修されました。

 

コロナ禍の対策として、観音堂では極密となりますので、宗淵寺本堂にて法要を取り行っております。ご参拝の方々には、マスクを着用いただき、椅子の間隔は社会的距離を明けて着座して戴きます。今回はだいぶ読経の声が聞こえてきましたが、黙読、心読をしていただくようお願いしております。 

 

差定をお勤めの後、晋住された、十七世碓山省吾和尚様よりご説教を頂きました。 今回のご説教は、十六世碓峰博道大和尚様の退董式、結縁式、住職辞令宣読式への喜捨、参加の御礼を申されました。 十六世碓峰博道大和尚様は今後、東堂と称される事などの説明も戴きました。 碓山省吾和尚様の晋山式については、コロナ禍等が落ち着いた時点で執り行いたい、とのお話しでした。 

 

新しい住職様となり、本堂の中はなんとなく晴れがましい雰囲気が漂っていたと感じたの私だけだったのでしょうか。合掌(願興寺観音講副会長 金本和夫)

 

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令和2年10月11日(日)、宗淵寺第十六世・碓峰博道大和尚(板倉博道)が住職を退任する「退董式(たいとうしき)」が厳修されました。

 

 

室中には先代、先々代(博道和尚の父と祖父)の頂象が掛けられ、住職から東堂となる博道大和尚の晴れ姿を見守りました。

 

 

法要には、本寺様や近隣寺院の御住職方が12名、檀信徒がおよそ80名参列。

 

 

法要後の記念式典の謝辞では、檀信徒を代表して、東堂と長らく寺院護持を共に当られた小松仁護持会長が、万感の思いと共に謝辞を述べられました。

 

 

花束の授与では、孫の天佑も登場。

久しぶりに法衣を纏って緊張気味だった東堂の顔にも、安堵の笑顔が見られました。

 

 

昭和50年の住職就任以来、加えて福祉施設に兼職するなど張り詰めて働きづめだった45年間も、この日で一区切りとなりました。

今後は、一昨年の罹病で、リハビリの一環として始めた書画の制作に勤しみ、ゆったりとした時間を過ごして欲しいと思います。

 

 

この日の行持に際しては、当初は新命住職の晋山式とともに、より盛大な内容を企画していましたが、新型コロナウイルスの世界的流行により、退董式のみに規模を縮小し、感染症対策に努めながら、思いつくかぎり、できるかぎりのことをさせていただきました。

 

改めて、ご法縁を結ばせていただいた僧侶のみなさま、事前準備からご尽力いただいた総代世話人のみなさま、梅花講、宗友会、願興寺観音講の他、住職在職中にお世話になった全てのみなさまに、心から感謝申し上げます。

 

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 この度、十月十一日の退董式をもちまして、師父である板倉博道、第十六世・碓峰博道大和尚は宗淵寺住職を退きました。

 昭和50年の就任以来45年間、ご芳情を賜ったみなさま方に、師父になり変わりまして、心より御礼申し上げます。

 先々代の急逝で直接の師伝が得られず、仏事の知識に乏しかった師父は、就任当時にかなり苦労したと聞きました。私を「お寺の息子」として早くから訓育したのは、生前に後住を譲ったのは、そういう自身の経験があったからかもしれません。

 

 その師父の後を継いで、この度宗淵寺の第十七世住職に就任しました。

 現在の世情を惟るに、新型コロナウィルスの世界的流行により、人心は未だ安まりません。また「新しい生活様式」に伴って、仏事への取り組み方も、大きく変容しつつあります。

  奇しくも今年は、宗淵寺第八世中興・未参碓禅大和尚百五十回忌の年です。大和尚が遷化された明治4年は、国家体制が大きく変わり、その余波によって廃仏の機運が盛り上がるなど、正に動乱の世でした。その中で中興大和尚は、当時人手に渡っていた寺領地を買い戻し、それまで極めて不安定だった寺基を安定させ、現在まで続く宗淵寺の歴史と活動の礎となる大きな役割を果たされました。 その中興大和尚の百五十回忌の年に、住職を拝命する巡り合わせの縁に、改めて身が引き締まる思いです。

  師父からの恩訓と、中興大和尚の遺風を縁(よすが)とし、檀信徒に過去現在未来を照らす安心を示して、先行きが見通しづらい今の世の中で、百尺竿頭の精進に身を尽くす所存です。

 

 なお、今後は博道大和尚のことを、現住職を意味する「方丈」ではなく、前任者を意味する「東堂(とうどう)」もしくは「前住(前住)とお呼びかけください。 

 

臥龍山宗淵寺第十七世 板倉省吾 拝

 

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9月22日(火・秋分の日)の午後2時から、恒例の彼岸会法要がありました。

この度も感染症予防のため、一般檀信徒の参拝は差し止め、総代世話人と梅花講のみの参拝となりました。

午後2時からは、檀信徒全戸の塔婆供養を厳修し、その模様は『Facebook  LIVE』で配信。参列していただけなかった檀信徒にお届けしました。

 

前回配信したお盆の合同法要は『ZOOM』から『Facebook  LIVE』へ配信しましたが、『ZOOM』はおそらくデフォルトで、ホワイトノイズ対策で音声加工が施されており、例えば、全体的にこもり気味で、高音になると金属音のような音声になっています。

そこで今回は『ZOOM』を介さずに『manycam』というスイッチャーソフトを利用し、後方からはPCを外部カメラに接続して、前方はタブレットのカメラからWi-Fiを利用して撮影して2チャンネル化し、『Facebook LIVE』で配信しました。

 

これで音声自体は自然になりましたが、ホワイトノイズは強め。しかもPC接続が不安定で、後方のカメラがフリーズしていたようです。ビデオキャプチャーの不調でしょうか。

今後は、ビデオキャキャプチャーの動作を確認した上で、ホワイトノイズ対策を施したいと思います。

 

配信はここで終了し、休憩の後に、まず当山八世中興未参碓禅大和尚の百五十回忌を厳修。

本来は、10月11日の退董式に合わせて、近隣他山の方丈様方をお招きしてお勤めする予定でしたが、新型コロナウイルスの感染症予防で「三密」を避けて、かつ法要の所要時間を短縮するために、この日に前倒ししました。

しかし、当山中興の功績を踏まえると、やはり正当な法要でお勤めできなかったことは、残念でなりません。 

寺基はあれど、言わば底が抜けていた当山を、再び法の受け皿として修繕したのが中興大和尚。その年忌に住職の交代が行われることに奇縁を感じ、身が引き締まります。

 

最後に、開山歴住塔への詣塔諷経をお勤めして、この日の法要は終了。総代世話人のみなさんには、引き続き退董式の打ち合わせをしていただきました。

 

この日ご供養した彼岸塔婆は、位牌堂と本堂に並べてあります。まだ取りに来られていない方は、できれば今月中に取りに来ていただき、お墓にお供えください。(副住職 記)

 

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 毎月17日は新美山願興寺観音講の恒規法要が厳修されます。
ここ3か月は願興寺堂宇から宗淵寺本堂へ移り法要が開かれています。願興寺に比較すればかなり広い本堂ではありますが、好天にも恵まれたこの日は、キープディスタンスした上で満堂に近い参拝者数となりました。

 読経はいつもの通りに参拝者は黙読、心読として差定の通りに法要が厳修されて、板倉副住職様よりご説教があり、先日、第二宗務所が開かれている『遠隔坐禅会』の内容について、ローカルのニュースにて紹介したというお話しでした。

 出雲三十三ヶ所霊場巡拝について、今年の4月の66回巡拝はコロナ禍故中止順延しましたが、11月の巡拝は団体参拝でない形で行うとのことでした。詳細は別のご案内を参照のこと。

 

 また、ペット供養堂建立の寄付者へ、今回のために限定制作されたクリアファイルなどの返礼品が配布されました。(観音講副会長 金本和夫)

 

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