自己中だと、平成令和の時代は、批判されることが多くある。

 

未来は、どうだろうか。

 

全てがAI化された未来に必要なのは、自分中心のエゴである。

自分自身の意思と、表現力なのだ。

 

「他人のための仕事」は、全部機械がやってくれる時代になってくる。

 

エゴで、自分を表現して何か作品を描きたくなったり、絵画を思い描いて

描きたくなったりする人は、令和の時代には、評価は低いかもしれない。

 

でも、20年後の未来、社会はほぼ全てAI化されているだろう。

 

AI化が難しいと今ではされている、医療・介護も、ほとんどみんな

AI化が済んでいるかもしれない。

 

そうすると、必要なのは、自分の個性から湧き上がるパッションと

表現力になってくるんじゃないかと思う。

 

アートとか、漫画とか、文学とか、そういう分野だけが生き残る気がする。

確かに、AIで小説は書くことは可能だけど、人の心に訴えることのできる

小説は、AIには書くことは難しいだろう。

アート、漫画も、どうしても人間が必要になってくる。

 

あとは、マシーンがマシーンを作ってくれる。

それがAI化なんだからしょうがない。

 

 

優れたテクノロジーは、目に見えない。

 

と言った偉人がいるらしい。

 

例えば、スマホ。繋がっているのに、目に見えない形で

繋がっている。

 

無線キーボード、無線マウスもそうだ。

 

テクノロジーが優れてくると、どんどん目に見えなくなってくる。

 

それが進み過ぎると、結局どうなるのか。

 

ーー

 

昔、オレが子供の頃には、駅には駅員さんがたくさんいて、切符を

切っていたのを覚えている。スイカどころか、自動改札なんてなかった。

 

今どき、自動改札は、当たり前である。窓口を通して改札を出る人は

ごく一部だ。

 

レストランにも同じことが言える。格安チェーンのレストランの会計は、

自動になった。

 

セルフレジも当たり前になって、店員さんは減った。

 

ーーー

 

AIが進めば進むほど、人はいらなくなる。

そして、技術は進めば進むほど、目に見えなくなる。

 

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詰まるところは、誰もいない、必要なもの以外何もない世界なんじゃないか。

そう思うと、怖くなる。

 

 

いわゆる、発達障害を持った人に欠けているのが、ここだと思う。

社会と自分の対等な調和だ。

 

当たり前のことだが、なぜそれがわからない人が多いのか。

 

原因は、教育である。

 

昔の大人は、「自分のために勉強しなさい。」といって、

子供に一生懸命勉強させた。

 

結果、その子供が大人になったら、自分だけのために

生きるようになる。

 

ところが、100%自分だけのために生きたら、自分の人生は

破滅するのだ。どこに行っても、人間関係が成り立たなくなるからだ。

 

社会と自分が対等に調和して、初めて社会人として成立する

のである。

 

 

 

本屋も、図書館も、扱うのは本である。

 

ただ、本屋は、金を払わないと本を売ってくれないが、

図書館はカードを掲示するだけで貸してくれる。

 

ここで注目したいのが、本を書く側と読む側の利害関係である。

 

書店では、売れれば作者に印税が入ってくる。

だから、本が売れれば売れるほど、書店も作者も儲かる。

出版社も同じだ。

 

そもそも出版社といっても、営利目的の株式会社がほとんどである。

だから、売れそうなものしか売りたくないのだ。

その「売れそうな」本が、経済的に価値がある本である。

 

じゃあ、その「経済的に価値がある本」に、「文学としての価値」は

同程度にあるのか。

 

ないことが多いのだ。

 

書店でバイトしたときに、1番多く扱ったのが、漫画だった。

1番売れなかったのは、実用書。地図などであった。

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プロダクトプレースメントにも、着目したい。

図書館のトップに置いてあるのは、新聞だ。

 

図書館を運営しているのは、行政である。

だから、行政にとって、1番広く読んでほしい順番に

書籍を並べたいのが図書館の職員である。

そうすると、トップに来るのは、当然新聞になる。

 

書店を運営しているのは、書店の経営者である。

だから、1番多く本が売れる順番に書籍を並べたいのが

書店の店員である。

だから、雑誌が1番プッシュされている。

 

書店では、よく売れるものは、またよく売れるから、

同じ文庫でも並べ方に工夫が施されている。

利益をあげるためだ。

 

図書館は、そもそも営利目的じゃないから、よく借りられる

本から順番に並べてあるわけではない。

ただ、利用者への配慮として、ジャンルだけきちんと分けてある。

出版日が古いか新しいかは、どうでもいいのだ。

 

書店で面白い本を見つけるのは、比較的容易い。

よく売れる本は、みんなが読んで面白かったから、

プッシュされている。それを買えばいいのだ。

 

図書館で面白い本を見つけるには、自分なりのセンスが

必要だ。全部平等に並んでいるから、面白いものを

見分ける必要があるのだ。

 

最近では、検索PCがあって、検索ワードで

書籍検索ができるように配慮がある図書館もある。

ただし、その検索ワードは、自発的に考えないといけない。

つまり、自分にとって何が面白いか、大体自分で考えておかないと、

検索PCも使えない。

 

ーーー

 

まあ、図書館に限ってできることだが、

くじ引き的な楽しみ方も楽しい。

 

オレは最近まで、このくじ引き派だった。

本を選ぶことをしなかった。

本に選んでもらってたのだ。

 

図書館だから、借りるのにお金はいらない。

かといって、誰かに勧められるものを読むわけでもない。

 

図書館を歩いて、偶然自分の目の前に現れた書籍を楽しむ

道楽。

 

これが、くじ引き派の遊び方だ。

 

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図書館には、毎日行くが、書店にはめっきり行かなくなった。

本にお金を払う気がなくなったのだ。

 

別に、「みんなが今読んでいる本」を自分が一緒になって

読む必要性を感じないのだ。そんなの新聞だけで十分だ。

 

本の心の旅は、一人がいい。

 

 

 

 

 

 

 

うちの両親は、虐待することはあった、

 

でも、家族の中で誰一人なにか愚痴を言う人は

いなかったのだ。

 

つまり、暴力を振るわれることはあっても、

精神的に追い詰められることは一歳ない環境

だったのである。

 

それは、現代のストレス社会と逆パターンだったのだ。

 

ガツンと言われることはあっても、ぐちぐち誰も言わなかった。

 

学生時代も、笑い話をする友達はいた。

なにかの話し合いをする仲間はいた。

 

でも、誰かの愚痴を聞く機会は、ほとんどなかったのだ。

 

一般的に、カフェとかでの会話って、愚痴の言い合いだったり

する。

 

男性女性関係なく、営業職の人なんかは、カフェでほとんど

1日上司のくだらない愚痴を聴いて過ごす人も多いと言うが、

オレはそんなの耐えられないと思う。マイナスな発言を聞くことに

慣れてないのだ。

 

じゃあ、母親はどうだったのか。

母親は、暴力を振るったり、ガミガミ言う人で、今でも嫌いである。

ただ、愚痴ることだけは、一歳なかったのである。

要するに、一時的に少しカッとなってガミガミ言うだけで、

静かーーな人だったのである。

 

男性脳の人は、人の話を聞かない。

人に説教するのが好きなタイプだ。相談に乗ってくれと言うと、

説教で終わる。他人のストレスを自分の心に受け入れる耐性が

一歳ないケースの人だ。全部論理的「解決」を試みて、失敗すれば

怒る。

 

「話を聞かない男、地図が読めない女」なんていう本もあった。

 

基本的に、オレの周囲の人は、男性脳の人が多くを占めている。

 

女性脳の人は、愚痴る。話を聴いて欲しいらしいのだ。

そういう人の話を、どうやってきいていいか、男性脳のオレは

よくわからない。「話」はするんだけど、「問題」を提起して

来るのに、「解決」を求めてこないのが、女性脳の人の「話」

らしいのだ。

 

問題は、男性脳の人と女性脳の人が仲良くなって会話が続くように

なったケースである。

 

男性脳の人は、「話」をするときに、問題を解決して話を切り上げたい。

女性脳の人は、「話」をするのが「話」の目的なので、「話」が

ずっと続けたがる。

 

ここで、非常にシンプルなクエッションがある。

 

結婚や男女交際は、誰と誰がするのか。

 

主に男性と女性ではないか。

 

つまり、結婚というのは、男性脳の人と女性脳の人が長時間会話する

時間なのである。

 

結論から言えば、どんなに魅力的に見える男女でも、男性と女性の

「話」は、お互いに快適な型で実現しないのである。

 

男性脳の人が嫌々女性脳の人の「話」を「問題」が解決できないまま

ずっと聴き続けるのは、苦痛でしかないし、女性脳の人が、「話」

を「問題」を男性脳の人と共有しようとして「話」を延々と続けたがると、

男性脳の人に嫌われて縁が切れることになりかねないのである。

 

男性脳と女性脳は、同じ人間なのに、構造が違うのである。

 

もっと言えば、男性脳の男性と女性脳の女性が結婚生活を

実現させるためには、男性が「話」を聞く能力を新しく

身につけるか、もしくは、女性が、「話」をすることを

やめることを覚えるか、どちらか一方が可能にならないと

いけないのである。

 

男性の「話」と女性の「話」は、異言語なのである。

通じないのだ。

 

 

治せない精神科医と、まずいラーメン屋の店主には、

共通点がある。

 

治せない精神科医は、悪いのは、自分の医者としての

腕が悪くて、患者の悪い病気が治らないんだと思ってない。

 

悪いのは、自分の思い通りに治らない患者だと思って

いるのだ。

 

だから、そういう精神科医は、診察代もらっといて、

無駄な説教をしたがる。

 

まずいラーメン屋の店主の頭の中にも似たようなことが

言える。

 

悪いのは、自分の調理の腕じゃなくて、客の舌だと

思っている。

 

だから、客が来ないことに怒っている。

 

両方どうしようもないのだ。

 

精神科医に説教されても、相手にしないことにしよう。

ストレスを減らすために。

精神病は、なぜ治らないのか。

 

そもそも、精神病の精神状態は、精神が異常に「動いている」

状態である。

 

だったら、精神状態が止まっている状態。つまり、

精神が動かなくなった状態になれば、治っていることになる。

 

ところが、それは、死んでいる状態なのだ。

 

 

遊びたい。でも、金はないのだ。

 

遊びの花形は、旅行だ。

 

ここは、神奈川県川崎市。横浜にも東京にも、すぐ行ける

のである。

 

今日は、超時短で、朝の横浜を満喫してきた。

 

電車の中で、NPRラジオとBBCラジオをチェック。

語学アプリで、語学漬けになりながら、あっという間に

関内駅に到着。

 

紅葉の季節だ。

日本大通りへ向かうと、イチョウが美しい。

 

大桟橋に出ると、おおおおー!海だー!

遠くに、ベイブリッジが見える。

 

赤レンガ倉庫を通って、桜木町駅へ。

 

腹が減った。。

 

金ないしなあ。

 

そこで、毎回横浜観光恒例の、老舗川村屋の出番である。

 

かけうどん300円。インフレなんてお構いなしの川村屋である。

だしがうまい。

 

また語学アプリで語学漬けになりながら、帰って、

今度は読書。

 

ジャズの名作を聴きながら、じっくり好きな本を読む時間。

これ、金で買えないんだよね。

 

障害者バス券にお世話になって、川崎市内は、無料で移動した。

 

川崎関内間だから、往復500円くらい。川村屋の300円のかけそば

を足しても、1000円で200円お釣りがくる。

 

午後は、中原図書館へ。

ジャズのCDを借りたして、静かにジャズを聴いて自分の部屋で

読書。

 

パートナーと電話でおしゃべりしたら、タバコが吸いたくなった。

武蔵小杉の喫煙所で一服。

 

もう夕方5時である。

 

夕食を食べて、風呂に入って、オンラインチェスでもやって

早めに寝よう。

 

なぜ、年末が来るのに、いまだに1月号を読むのか。

 

ただ、読んでなかったけど、読みたかったからだ。

 

最初に目を通したのが、読み切り小説の「報道加害」

下村あつし著。

 

メディアの暴力について書かれた作品だった。

ドラマっぽい一冊だなあと感じた。

いかにも、幻冬らしい作品。

 

「血と反抗」石井光太著。

これも、幻冬らしさがある作品だった。

在留外国人やその家族の問題にリアルに触れることの

できる作品だ。

 

幻冬が追求するのは、リアリティーとドラマなんだろう。

 

 

 

AIバブルが弾けるっていう話をアメリカの国営放送NPRが

2日くらい前に報じてて、日本でも報じられていたらしい。

 

気になっているのが、最近コンビニに、昭和の時代以来

お目にかかっていなかった使い捨てカメラが置かれていた

こと。

 

それから、なぜか川崎駅アゼリアに、大昔のやり方

そのまんまの公衆電話が置かれていたことである。

 

ネットバブルは弾けても、ネットは型としては残るだろう。

 

今のテレビやラジオがいい例だ。

ネットが高齢者まで普及しても、テレビやラジオの業界は

型としては残っていて、視聴者は減っている。

ただ、一定の支持は残している。

 

歴史は繰り返す。

 

次に来るのは、アナログの時代だ。

AIバブルが弾けた後のアナログの時代って、何を中心に

動くんだろう。

 

介護職で働く人は、増えていく一方だろう。

介護は、今のところ、AIだけだとできない。

 

農業に従事する人も増えてくるのではないだろうか。

米の値上げが叫ばれる中、農家は理想的なライフスタイル

として、支持がある。

 

アートはどうだろうか。小説や音楽、芸術。

確かに、小説は、AIが書けるようになった。

音楽も、AIが作曲できるだろう。

絵だって、AIが写真を変換して、いいスケッチを

作ってくれる。

 

ただ、AIが作ったスケッチがいかにキレイでも、

そこに「絵心」はないだろう。

 

AIが書いた小説には、その作品が「小説」という形を

備えていても、そこに人間が書いた小説ほど感動は

あるだろうか。

 

アナログの時代が終わり、AIの時代が終わったら、

今度は「独創性を備えたアナログの時代」が来るような

気がするのだ。

 

全部機械になっちゃうと、自然なものに心惹かれるのが、

人間の心理なんだろう。

 

電子本がこれだけ出回っていても、紙の本を売る書店は

全国にある。

 

小学生がiPadで勉強している時代に、高校生が紙の参考書を

図書館に持ち歩いて勉強している。これは、紙に書くと覚える

というメリットが、AIでは再現できないからだろう。

 

今までの「優秀な人」というのは、考える力が大きい頭のいい人

だった。

 

これからのAIブームが終わった後の、新アナログ時代。

「優秀な人」の定義が、考える力が大きい人じゃなくなる。

論理的思考は、AIで済むからだ。

 

心の描写がうまい人とか、自分にしか表現できないものを表現できる人

とか、そういう人に有利な時代が来るんじゃないかな。