叔母は8年前に亡くなった叔父とは夫婦円満でしたが子供がおらず、甥である自分が5年前の母(叔母の姉)の認知症発症を機に久しぶりに電話で連絡を取り始めました。
そして3年ほど前から見舞いや病院付き添いや施設入所、面会などで愛知を往復するようになりました。
その叔母が先月初めに病院であっさりと亡くなりました。
診断書には認知症、誤嚥性肺炎と書かれていましたが、介護施設長の観察では非結核性抗酸菌症による症状で衰弱して行ったと思うということでした。私もそう思います。
88歳まであと1ヶ月ちょっとでした。
葬儀を終えてお骨を持って叔母のマンションに戻り、叔父の骨壺と並べました。
マンションでやっとふたりを一緒にしてあげられたと思いホッとしました。
ふたりは市内の同じ寺に永代供養を希望するメモを遺しているので、その通りにしてあげようと思います。
叔母が居なくなってしまったので、もうこのマンションも名残惜しいですが整理しなくてはなりません。
これまで叔母が決めた物の定位置を極力動かさないようにして来ましたが、ダンボール箱をいくつか用意して貴重品、不要品、古紙の山、あとで目を通す物と分けて整理してみました。
その作業中に叔父と叔母のこの十数年の様子や何を考えていたのか、悩んでいたのかが分かって来ました。
・2012年〜2017年にかけての叔父の5年間に渡るガンとの闘病日記
・叔母のアルバムにあった叔母の子供時代の写真と私の子供時分の写真
・叔父が亡くなったあとの叔母の日記とメモ書き
・部屋のあちこちにあるセミナーなどの資料『成年後見人』『家族信託』『相続』『遺言』『認知症』…。
・薬の数々
叔父は73歳頃から肺ガンだったようです。
当初からトイレを往復するだけで息切れがしたり、めまい、血痰、鼻血、身体のあちこちが痛み、耐えられなくなって救急車を呼んだりして9回入退院を繰り返し化学治療・放射線治療を受けていました。
叔母も足腰が痛んで通院を繰り返していました。
叔父はそんな最中に公証人役場に行って正式な遺言状を叔母宛に作ったり、墓じまいをしたり、生前戒名をもらったり、また免疫力を付けるためにデイサービスで筋トレをしたり、会社の仲間と集まってお茶会をしたりしていました。
同じ会社だった土方さんという人は叔母を入院先まで何度も車で連れて行ってくれたり保証人会社との契約内容を一緒に聞いてくださったり、黒岩さんという方はガン治療に良い情報を集めたDVDを何回も叔父に送ってくれたり、パソコンを直してくれたり、亡くなったあとの手続きについて叔母の相談に乗ってくださっていたようでした。
叔母も叔父が亡くなって1年後に腰部圧迫骨折で歩行困難になり入院。
入院するために保証人会社と契約して保証人になってもらい生活支援も受け始めました。
病院からひとりで帰宅できずに保証人会社に助けを求めたこともあったようです。
その病院は叔母のマンションまで歩いて10分もかからない距離ですが。
日記を見て胸が苦しくなり、なんで叔父が生きているうちから連絡を取り合わなかったのかと悔やみました。
が、おそらく生真面目な叔父は心配をかけないように詳細を連絡して来なかったに違いないと思います。
叔母の話だと、叔父は「自分の健康状態のことをもう誰にも言わないように」「香典はもらわないように」と言い、叔母がひとりでやって行けるか心配しながら亡くなったそうです。
その叔母も亡くなり、叔母の姉である母もここ60数年の記憶が飛んでしまって、もう聞きたくても聞けなくなってしまいました。
2022年老健にいた時の叔母
叔父の闘病中や亡くなってからの独り暮らしは大変だったと思いますがニコニコしていました。
叔父と叔母の新婚旅行
叔母と赤ん坊の時の自分
高校時代、野球部だった叔父
2歳で養子にもらわれて来た叔父と養祖母
叔父は実の両親には会えなかったようです。
叔母と母
伯父と叔母と母の三兄妹。叔母の後ろは祖父。1940年頃。
祖父は1945年に40歳で肺結核で亡くなりましたが、7歳くらいだった叔母は毎晩「お父さん、お父さん」と泣いていたそうです。
いろいろな記憶が蘇ってきました。
自分が小学生だった頃、正月に叔父と叔母が飼い犬ジョンを連れて東京まで泊まりで来たこと、ジョンが脱走して叔父が捕まえるのに苦労したこと、叔父たちが帰ってしまって残念に思ったこと。
叔父と叔母には子供の頃からいろいろとプレゼントをもらいました。
野球のグローブ、トランシーバー、腕時計、スーツ、就職時の保証人印、四国温泉旅行などなど。
それが、就職してからは仕事と日常生活にかまけて叔父や叔母への連絡が途絶えてしまいました。
叔父と叔母の子供時代の写真を見ていて奇妙な感覚に襲われました。
この子たちにまったく恩返しできずに終わってしまった、と。






