『時間降塵を辿って〔下〕』その1・2・3・4 | KAJIYANのオープンな密室。

KAJIYANのオープンな密室。

絵画と小説、映画なんかの諸々。割とディープな毎日です。

 

 

 

 

  さて、やっと続きを書き始めました。物語は上巻のラストから十年後の世界。舞台は南半球に。面白くなりますでしょうか? 

 乞うご期待! 

 

 

 

 

 

『時間降塵を辿って〔下〕』                   原案 Fu_A

                                 作  梶原祐二

 

 

 

 

 アラビア語の、とある女の名を紐解くと、あなたを好きかもしれない、という意になるらしい。なんともあやふやな恋の駆け引きのようだが、その語は同時に(星)を表している。女の名はナジマ。

 一方ルルは、快適を指しており、語としての意味は(真珠)。この二つの名前に心乱され、かれこれ二十年近くが経った。

 

 煌めく浜辺に人影が並び、波頭(はとう)に泡と砕けて散る。

 

 この数ヶ月、同じ夢ばかり見ていた。何年も前に死んだ母()が、夜ごと現れては男の傷心をなじるのだ。

 

(あなたには、わからないわ………)

 

 終わらない繰り言は妻ナジマの口癖である。傍らに立つ少女は娘のルルで、二人はかつて妻子として繋がったが、ペルシャ湾岸に蔓延した伝染性ウイルス疾患で亡くなった。

 悲運を嘆いたのは言うまでもない。だがいろんな意味で解放を感じたのも事実だ。連れ立つものの喪失を、奇妙な矛盾と感じてしまう。これは秘めたる男の心情である。

 ハミー・ヘムレン・ニジンスキー・ジュニアは、偽りなく家族を愛していた。複婚の制度を認める回教圏にあって、ハミーはこの関係で十分と考えたのだから。自分の思慮が、(まった)き真実であったと、そう信じたい。

 

 釣り船のトモに寄ったハミーは、投網(とあみ)を手繰りながらシンガポール海峡に臨むバタム島を眺めた。マレー半島の南端、シンガポール。暮れなずむ西日がサーモンピンクに染めている。島影から迫る雨雲の垂れ込みに、陽の名残りが照らす赤の時間降塵。幻の静寂(しじま)は一時揺らめくと、大気境界層と自由大気の隙間に消えていった。

 そろそろ、退け時か。

 ハミーが漁で沖まで漕ぎ出すことはなかった。素人に毛が生えたような操舵の技に、命を託す度胸はない。よってアタリはいつも少なかった。生簀(いけす)を見たところ、どうにか食えそうな小物が十匹ほど。ま、これで十分だろう。

 浅黒く陽に焼けた髭面は、アラブ系特有の風貌であった。ただ驚くべくはハミーの外見が、十年前より二十は若返っていることだろうか。下っ腹が引っ込み、痩せて、弟、あるいは甥っ子のように見える。

 数年前ハミーはクウェートを離れ、スリランカから海路マレーシアに渡った。その折、商業船がマラッカ海峡で遭難したのは、お察しの通り。嵐に会って数日間、白の時間降塵に晒された。結果、ハミーの身体年齢は三十後半にまで巻き戻された。持病の痛風がすっかり直ったのは儲けものだろう。

 舳先(へさき)をマリーナ・バラージに向けながら考えた。

 三十後半ならばナジマと出会った頃じゃないか。若返ったところで二人が帰って来るでなし。そんなことはわかっていた。良く、わかっているのだ。

 いい加減、忘れちまえ。

 時間降塵よ。地上の物理と人の心。これほど狂わすならケチケチせずに、丸ごと戻ってくれないか。

 タイムマシンみたいに。

 

 雨雲に稲光が閃く。

 

 

「よう、センセー」

 戸口を潜るなり声が掛かった。港のダイナー『アーネスト』は、巷の漁師がこぞって集う盛り場である。バーテンダーのイシバシが逞しい前腕でコースターを滑らせた。

「ども」と、ハミー。

 黒髪をピカピカに塗り固めたリーゼントヘアのイシバシは、注文も聞かずにビールを注ぎ始める。

「上がりはどうよ?」

 ハミーはカウンターに着くと、しわくちゃになった煙草のパッケージを広げた。

「いつも通りかな」

「じゃ、七千パスカ」と、イシバシが即答する。

 ハミーは怪訝な表情で聞き返した。

「何? 見ないのか?」

 イシバシは眉を持ち上げ、笑った。

「一応、食えそうなやつでしょ?」

「まあね………」

「センセーのは大体予想付くから」

 ハミーは口をへの字に曲げた。イシバシは大仰に両手を広げてみせて、

「ほら。センセーは他にやることあンだから。趣味の釣りは程ほどに」

 ハミーは黙ってグラスを受け取った。

 五十平米ほどの店内は、フィフティーズのアメリカン・スタイルに纏まっている。ヨットの舵輪。FRP製カジキマグロの飾り。バドワイザーのネオンサイン。5.0フィートのサーフボードには店のロゴがペイントされていた。丸っこい書体で(E.R.N.E.S.T)と読める。チープなアメリカ映画から抜け出してきたような、そんな見てくれの店構えだった。ジュークボックスから九〇年代初頭のスムース・ジャズが流れている。

 テーブル席から親し気な呼び声が。

「センセー、センセー」

 仲良し漁師の三人組。既に何杯か進んで、上機嫌になっていた。

 ほろ酔いの彼らは、フィッシュ&チップスをつまんでいる。魚フライが一体何ものであるか、その辺りはあまり詮索しない。

「怪我は? もう大丈夫かい?」とハミー。

 赤ら顔の大男が満面の笑みを浮かべた。

「おかげさんで。すげえ効いたぜ」

「腰は気を付けンとね。お大事に」

「あの薬、もうちょい分けてくんねえか? ダチにも回してやりてえんだ」

 ハミーは笑った。

「ま、風邪薬程度ではあるけれど、麻薬成分だからね。はいはい、そうですか、ってわけにはいかない。………立場上?」

そう言って、ハミーは小さくウインクした。

「そっか」

「また、痛くなったら、いらっしゃい」

 マリーナ・バラージは西にマリーナベイ・サンズ遺跡を臨む、中くらいの港町だ。

 住民の大半が漁師関係というこの土地で、ハミーは地域医療に従事していた。いわゆる町医者である。ハミーの魚釣りの腕前を鑑みれば、ヤブでもそちらの方が実入りがいい。幸い近くに自治体が経営するメデック・センターもあり、救命処置の講習だけのハミーでさえ、登録医として保険医薬・機器の供給を受けていた。

 イシバシがナッツの小皿を差し出す。

 若いウェイトレスが通りすがりに近付いた。ハミーは気さくに声を掛ける。

「やあ、シンディ。元気だった?」

「あら、センセー」

「お子さん、熱は?」

 シンディはソバカスのある赤い巻き毛女で、年の頃は二十七、八。愛想のいい看板娘だ。

「下がったわよ。でも今度は下のがグズグスいい出して」

「やっぱり、流感かもな。あの処方で大丈夫かな? ………いいよ。明日にでも連れて来て」

「ありがと、センセー」

 町に流れ着いて二年が経つ。果たして自分は馴染んだだろうか? 町の人間は皆気さくで、他人の過去など詮索しない。ハミーは本名さえ伝えてないので、ここらの通り名はセンセーだ。

シンディが厨房から返って来ると、カウンターに青い深皿が置かれた。

「私からのサービス」

 案の定の魚フライだ。ハミーは思わず苦笑いを浮かべた。

「えっ? 嬉しいけど、シンディ………これって、マジ?」

 子持ちウェイトレスは悪びれもせず、快活に笑った。

「何言ってんの、センセー。ここは漁師町よ」

 

 

 ハミーの診療所は町はずれの廃アパートにある。錆の浮いたスレート屋根の軽鉄骨造。三十平米ほどのワンルームに水回りが一つ。看板も目印もないけれど、地域住人は理解している。

 殺風景な部屋には机と診療ベッド、各種医薬品の詰まったキャビネットが置かれていた。雨漏りが輪どって壁が沁みている。部屋の片隅に複数の酒瓶。前住人が残していった色抜けしたコタキナバル・シティ・モスクの観光ポスターが、千切れたままぶら下がっている。

 ハミーがシンガポールまでやって来たのは他でもない。この十年で北半球の時間降塵の影響は人が住めないレベルになっていた。多くの住民が赤道付近まで南下している。現在マレー半島を含むインドネシア、パプアニューギニア周辺が、人類の生存可能限界線であった。

 ハミーは(壁の門32)を仕切る賭場のギャング、チャン・ファミリーから逃れるため、ガウル居城襲撃の大規模作戦『アハサー砦の攻防』に乗じて逃亡した。全てを捨て、スヌードと二人、クウェートを脱したのである。

 

 ハミーは窓を開けると、潮風を入れた。

 岬の灯台とまばらな明かり。振り始めた霧雨が町の灯をぼんやり滲ませていた。灰皿に差し込んだ比較的ましな一本を抜き取ると、皺を伸ばして火を点ける。

 魚フライはあまり進まなかったので、少々腹が減ってる気もしたが、とりあえず薄いウイスキーの水割りを作った。呑み過ぎだろうか。ええい、知ったことか。

 水割りを啜りながら床に直置きされたマットレスを凝視した。靴跡で汚れ、縁がほつれている。このまま酔いが回り、そのまま倒れ込んだら、今夜もまた同じ夢を見るのだろうか。

 ナジマとルルの夢だ。

 

(あなたには、わからないわ………)

 

 二人を病いが犯さずとも、家族のカタチは早晩、散り散りになっただろう。問題の根っこは初めから目の前にあったのだ。

 ハミーはマットレスにしゃがみ、壁を背にしてグラスを煽った。視線を落とすと、空き瓶の口を這いまわる羽虫が見えた。足を滑らせ、モルトに落下する。しばらくの間もがいていたが、やがて動作が止まった。

 死んだのか? はたまた酔っ払っただけなのか? 

 ハミーは薄笑いを浮かべた。これはこれで。幸せな最期じゃないか。

 生あくびを噛み殺し、両目を擦る。潰れてしまう前にハミーは隠し持った小さな革袋をマットレスの間から取り出した。

 出てきたのは、水筒に似た小さな壺である。城塞の中立交易場で、なけなしの金をはたいて買った保存ケースだ。内側には時間降塵の赤と白がバランス良くコーティングされていて、ケース内において時間は一定で、概ねゼロから動かない。

「スヌード、悪いな」

 ハミーは愛おしそうにケースを掲げた。チャポンという液の音がする。

 このサンプル、お前にだけは渡さないぞ。

(女王の血統)は、な。

 

 

 

 

 翌朝、ハミーは早々に叩き起こされた。目をしょぼつかせ、ハミーは漁協の人間に案内された。どうやら浜に土左衛門が上がったらしい。

 港の北側、桟橋の対岸にちょっとした砂浜がある。さほど整備されておらず、流木やもつれた海藻が汚らしく溜まっている。石ころが点々と続いたその先に、既に人だかりが出来ていた。

「誰かコーヒー、コーヒーは? 持ってない?」

 ハミーは少々機嫌が悪かった。やぶ睨みに辺りを伺うと、不意にマグカップが現れた。

「はい、センセー」

 振り返ると『アーネスト』のウェイトレス、シンディがポット片手に立っている。

「おお? 君も? 呼ばれたのかい?」と、ハミー。

「下の子、連れてくって言ったでしょ、センセー?」

 彼女のほっそりした脚にまとわりつく、小さな男の子がこっちを見ている。ハミーは湯気の立つマグを受け取った。

「そうだった」

「でも、後は好奇心。それとも野次馬根性、かな?」

 シンディは、ぐるりと目玉を回して見せる。

「水死体なんだって?」と、ハミー。

「ウン。多分確認して欲しいんじゃない? 死因とか、さ?」

 ハミーは頭を掻いた。

「そういうの得意じゃないねえ………専門の人って誰かいないの?」

 シンディがポンとハミーの肩を叩いた。

「ここじゃ、センセー。あなたが専門でしょ?」

 ハミーは迷惑顔で肩をすくめた。

「はいはい、道開けて!」

 自警団の若者が現場を取り仕切っている。たちまちハミーの目の前に花道が開いた。若者はちらと目配せすると、訳知り顔で手招きした。

「それではセンセー、張り切ってどうぞー」と、高らかなお囃子。

 なんじゃ、そりゃ。

 検死の現場で、民間の医師が解き明かせることは、ほぼない。どちらかと言うと経験がものを言う世界である。まして似非医者の自分などに勤まろうはずがないではないか。心苦しいのは山々だが、信用にかかわる問題でもある。ここはとりあえず解ってる体で一芝居打つとしよう。

 ハミーは咳払いすると、持ってきた医療用のゴム手袋をはめた。

 潮騒のさざめく浜辺に、得体の知れない物体が打ち上げられている。近付くにつれ、磯の臭気が強まった。全長でおよそ二メートルほど。濁ったゼラチン質の(ひだ)の付いたずだ袋。するとそんな印象だった。エチゼンクラゲにも似ている。これの一体どこが水死体なんだ? ハミーは息を詰め、しゃがみ込んだ。手を突っ込んで大き目の(ひだ)を持ち上げた途端、ずるり。血色の悪い人間の前腕が飛び出してきた。

 おいおいおい。 

 嫌々ながらも、そこからは興味が先立った。慎重にベールを剥がしていくと、膝を抱えた裸体の女が現れた。顔を黒いほつれ髪が覆っている。海水に洗われ、びしょ濡れの姿は総じて蝋人形のようである。海に落ち、この怪しい生き物に食われたのか? 初見で息をしてないし、脈もない。生命の兆し、なし。詳しく調べるまでもなく、間違いなく死んでいる。とりあえず手の施しようがない、それで蹴りが付くはずだ。

 ハミーは女の手首を握ったまま、宣言した。

「残念だけど死んでるね。この辺りで、どこか埋葬できる場所は………」

 と、言い終わらぬうちに、握った手首がトクンと鳴った。

 えっ? 何、今の? 

 脈? まさか? 

今の今まで、死んでたはずだろう? 

 見る間に肌に赤味がさした。弱いが確実に心臓が動き出している。ハミーは慌てて女を仰臥(ぎょうが)()に寝かせると、馬乗りになって一次救命に取り掛かった。いわゆる心肺蘇生である。

「誰か、誰か手伝って。………まだ息がある」

 

 

 その後どうなったかというと、辺りは騒然となり、ハミーはあれよあれよと言う間に担ぎあげられた。瀕死の患者を救った神の手を持つ天才医師。まあ、そんな触れ込みだ。

一命をとりとめた女は、ゼラチン質の怪物ごとブルーシートで包まれ、慎重に診療所に運ばれた。

 シンディの息子の治療もあったが、子供があまりに怖がるので、のど飴を渡して機嫌をとった。母親の不安もご同様。ここは手っ取り早くアスピリンなど処方して、お引き取り願うのが妥当である。

 何が神の手だ。なんにもしてないぞ。

 手を握ったら、勝手に戻って来ただけだ。良きにつけ悪しきにつけ、自分の腕のせいじゃない。

 さすがに診療所のスペースでは足りないので、物体は隣の部屋に移された。2LDKの、タイルの剥がれたバスルームへ。湯船からはみ出した半透明の触手から、海水の雫がしたたる。ハミーは無表情に見降ろした。

 女の相はいつでも凶、だな。

 やっとの思いで整った、ここでの暮らしを、またしても女が脅かしている。ハミーは値踏みするよう眉根を寄せた。このまま治療せず、或いは首を絞めさえすれば。とどめを刺すのは簡単だ。言い訳なんぞ、どうとでもなる。

 そう考えた途端、脳裏に不快なスヌードの忍び笑いが蘇った。

 駄目だ、駄目。あいつと同じじゃ絶対駄目。冷血漢のソシオパス。そんなお前とは全く違う。悪魔に魂を売ったわけじゃなし、ハートだってここ(・・)にある。

 ハミーは無意識に自分の胸を撫で付けた。

 眠り続ける女は、浅い呼吸を繰り返している。血の気はすっかり戻って、バイタルも正常。ハミーは乳酸リンゲル液を準備した。

 女の身体に手を伸ばした。が、思いがけず躊躇する。裸の女が久しぶり? それとも亡き妻への罪悪感か? いやいやそういうことじゃないだろう。

 女の肢体には言い知れぬ官能が宿っていた。抜けるような肌、くびれた腰つき。長い手足が描く緩やかなカーブに、自ずと視線が吸い寄せられた。そそる肉体に一刻ごとに惹かれていく、そんな自分に気が付いた。

 ハミーは手をこまねいた挙句、覚悟を決めて触れた。前髪を払うと、もつれた黒髪の下から細面の小顔が現れた。これまで東洋の神秘を間近に見たことはない。聖母子像のマリアのようでもあり、直視するのが、どうにも落ち着かない。

 滑らかな顔立ち。凹凸が少なく、能楽面のようでもある。一般的な美醜の基準に照らせば、彼女は上々の美人と言えよう。薄っすら微笑んだ口元には、グスタフ・クリムトの『水蛇』を思わせる愁いもあった。

 腕を持ち上げ、もう一度脈をみる。ふと気付くと肩口、二の腕に向かって、クラゲ状の怪物から透明な管が繋がっていた。腰回り、大腿部、ふくらはぎに掛けても同様だ。管には金色の細い筋が走っており、一見して配電回路のように見えた。何かの輸液が循環しているらしく、その仕組みが彼女を生かし続けている。どうやらそういうことらしい。

 ハミーは用意した点滴を検め、作業を取りやめた。似非医者の処置より、ずっと適格な施術が行われているのだ。今すぐ女が死ぬことはなかろう。

 ハミーは女を包んでいる袋状の襞を、慎重に広げて観察した。膨らんだ重なりの部分に、 purge(パージ)と英文字が見て取れる。刺青のごとく沁み込んだ、ゴシック体ヘルベチカ・ボールド。つまりこの進んだ医療的仕組みは、異世界からのものではなく、地球上、それも英語圏のマニュファクチャから届いたもの。そう考えて間違いない。

 

 

 昼前になって、バーテンダーのイシバシが、差し入れを届けにやってきた。

「センセー、来たよ」

 イシバシの抱えたバスケットにはハンバーガーとポテト、コカ・コーラが収まっていた。揚げ立てのフライドポテトが、うっとおしいほど匂ってくる。

「おー、気が利くね」

 ハミーはカルテを書く手を止め、診療机から顔を上げた。

「礼ならシンディに」と、イシバシ。

イシバシはベッドを引き寄せバスケットを広げると、手近にあったダースケースに腰掛けた。コーラカップにストローを刺して手渡す。

「ビールの方が良かった?」

 ハミーは暗い顔で、ハンバーガーの包みを広げながら、

「いやー、まだ仕事中だから」

 イシバシはポテトをつまみ、たずねた。

「どうかした?」

 ハミーは溜息を吐き、肩をすくめた。

「………まるで無力でね」

「そうなの?」

「見てみる?」

 

 食べ終えて、ハミーはイシバシを隣の部屋に誘った。

「うへっ、………グロっ」

 イシバシは、思わずバスタブから目を逸らした。

「その、クラゲみたいなのは、一体何だい?」

「やっぱ、そう思うか?」と、ハミー。

「何が?」

「クラゲ」

「ああ。そう、そうね………それで?」

 イシバシに問われて、ハミーは腕組みした。

「良くわからんけど、何らかの医療装置らしい」

「装置?」

 ハミーはイシバシに英文字の入った箇所を広げて見せた。

「ほんとだあ」

「ウン。………このお陰で女は生かされてる。要するに、生命維持装置みたいな?」と、ハミー。

 イシバシはようやく目が慣れたのか、じっと観察して鼻先を掻いた。

「それで? 彼女、いつ目覚めるんだい?」

「どうかねえ?」

「結構、美人さんだよね?」

「そこは同感」

 ハミーは、はたと気が付いて、裸体にブランケットを被せた。

「あんまりジロジロ見ないでやって。女だし………裸だし」

「おっと。これは失敬」と、イシバシ。

 イシバシは声を潜めた。

「あんたしかいないから頼んじまったけど、面倒掛けちまったかな?」

「いや、それはいいんだ。だけど………この後、彼女の意識が戻って、あー………戻ったとして………いや、絶対戻るだろうなー………当面の面倒は? 一体、誰が見るんだい?」

 イシバシは薄ら笑いを浮かべると、擦り寄るように呟いた。

「漁協に相談はしたけど、さ………決まるまではセンセー、頼める?」

 ハミーはぎょっとなった。

「ええーっ?」

 

 

 翌日。

 女に変化はない。相変わらず、すやすや寝息を立てている。ハミーはビール片手に観察を続けた。空き時間には地域診療に奔走した。シンディの息子に抗生剤、仲良し漁師連盟には痛み止めを。野次馬根性の強い客が何人か現れたが、丁重に断りを入れた。

 

 三日目。

 明け方、大きな物音に叩き起こされる。慌てて部屋に飛び込むと、バスタブから女の足が突き出ていた。傍にあった点滴スタンドが蹴り飛ばされて、リビング・ダイニングまで吹っ飛んでいた。反射動作? ハミーは慎重に女のふくらはぎをマッサージした。第二の不意打ちに備えたが、結局それには至らず。

 

 四日目。

 急速眼球運動が見られる。いわゆるREM睡眠。

 

 五日目。

 午後になって、女は急に高いびきを掻き出した。脳梗塞を疑ったが、ハミーにはどうすることも出来ない。祈るような面持ちで傍に付き、二時間ばかり気を揉んだ。無意識に女の手を握っている自分に気が付く。夕方になってようやく容態が落ち着いた。

 

 自分は一体、どうしたい? 

 生きて欲しい? それとも死んで欲しい? 

 目下のところはただ、目を開けて欲しい。それだけかも? 

 彼女の瞳は、何色だろう? 

 

 六日目、ハミーは前日の深酒が祟り、昼過ぎまで起きれなかった。息衝く東洋の神秘に見とれたまま、持ち込んだ折り畳み椅子で眠りこけてしまった。

 

 額をなぞる、あたたかな何か。

 華奢な指先。柔らかい手のひら。

 それが遠のき、人影が見える。寝起きのせいか、なかなか焦点が定まらない。

「………誰?」

 呼吸を感じた。体温。そして甘い匂い。

 ふと気が付くと、目の前にブランケットにくるまった女がいた。黒髪、細面。この一週間見とれていたアルカイックスマイルが、今、生気を持って微笑んでいる。

 ハミーは、はっとした。

 瞳、瞳の色はどうだ? 

 淡い………スミレ色である。

 女はかすれた声で囁いた。

「ハーイ。私、クゥシン・リーよ」
 

 

 

 

 スマトラ島の北、ランサの南の山中。その漆黒の原生林は日中の光の、およそ四〇パーセントを吸収する。生い茂る木々を抜けて外光が差し込んだ。空気中の様々な浮遊物がチンダル現象を引き起こし、強烈な光芒となって注いでいる。

 ネルラは樹木の影に身を潜め、森の横穴を観察した。はぐれガウルの巣である。

「そろそろ、かな」

 単眼鏡を下ろし、ヘットセットに呟く。空電ノイズとともに男の声が飛び込んだ。

「準備オッケーですよ、ネルラ。犬たちは大丈夫?」

 快活な声を返したのはキム・ジ・ローファンである。無精髭を生やし、見掛け少々ワイルドになった元城塞警邏歩哨は、二キロ先の沢でアサルトライフルを構えている。

「犬の心配か? 少しはこっちも、ねぎらってくれよ」そう、ぼやくネルラ。

 視線を落とすと、防刃ベストにくるまったシェパード二頭が、出番を待って控えている。ゴッチとテーズ。猟犬にしては随分と腕っぷしの強そうな名前である。

警邏歩哨は大の犬好き。噂では聞いてはいたが、キムは正真正銘のドッグ・パーソンである。パウラからせしめた大金で二頭を購入した。合わせて二百五十万パスカ。なかなかの出費である。だがキムにとっては彼らは単なるペットではなく、詰まるところ相棒なのだろう。その信頼は、ぽっと出のネルラより、ずっと手堅い。

「大体、何で俺が追い出し係なわけ? 犬はお前の専門だろ?」不満そうなネルラにキムは半笑いで答えた。

「しょうがないでしょ、ジャンケンですから。それに狙撃の腕は僕の方が上ですし。そこは納得ですよね?」

 ネルラは苦々しく舌打ちした。

「………言うねえ、元お役人」

「はいはいはい。集中してください、先輩」

 くだらないやり取りの合間に、姿が現れた。身の丈およそ三メートル、赤黒い流線形の甲虫だ。飛び出した触覚、大きな顎、剛毛の生えた四足、蛇腹の胴体。翅はすっかり退化して肩口にくるくる縮こまっている。その分、森林に環境適応したのか、爪先がスパイク状になっていた。

この地域に女王のいるガウルの巣は見当たらない。かつて存在したであろう巨大コミュニティは引き払われ、残った雌の集団が野生化した。まれに集団から雄の個体が発生することもあるが、生殖に至るものは少ない。

 二個体が顔を出した。どちらも雌のようである。

「おいでなすった」

 ネルラは単眼鏡を仕舞うと、そろりとトレイル仕様のMTB(マウンテンバイク)を起こした。ダウンヒルに特化したフルカーボンフレーム、フルサスペンションのバイクである。闇に溶け込む艶消しブラックで塗装済み。これまた全身黒づくめのライダースーツで決めたネルラが、フルフェイスのヘルメットにゴーグルを下げた。

「行きますか」と、ネルラ。

「お願いします」と、キム。

 ネルラが短く二度舌を打ち鳴らすと、シェパードが音もなく立ち上がった。レッグポーチから投擲武具を取り出す。

 三本の紐の先には、各々八センチの鉄の玉がぶら下がっている。三つの玉には各々爆薬が仕込んであり、これは殺傷目的に改造されたボーラである。

 ネルラは徘徊する二匹のガウルを見下ろした。革紐を掴んで回転させると、バランス良く三又(みつまた)が広がった。いい塩梅の回転重力。ネルラは大きく振り被り、巣穴目掛けて投げ込んだ。

「そりゃ!」

 ボーラは見事展開して、爆薬と共に飛んで行った。紐が空を切る、低く不気味な回転音。一匹のガウルが振り返った途端、触覚に絡まった。たちまち巻き付き、鉄の玉同士がぶつかる。見事、轟音を上げ爆発した。

 ガウルは奇声を上げ、一目散に逃げ出した。

「動いた。二匹だ。そっちに追い込む!」

 ネルラはヘッドセットにそう叫ぶと、MTBのペダルを踏み込んだ。犬が弾かれた様に走り出す。ボーラに仕込んだ僅かな爆薬では、ガウルの外殻には幾らの傷も付けられない。が、脅かし、追い立てるには十分である。

 坂になった山道を、立ち漕ぎで踏んで一気に加速した。のっけからキツいダウンヒルだ。そのままスラロームのカーブに飛び込んでいく。二頭のシェパード、ゴッチとテーズが飛び出した。食肉目特有の狩猟本能が覚醒している。

 突然、目の前で道が途切れ、ネルラのバイクがジャンプした。森全体が浮き上がり、そのまま急降下する。ネルラはハンドルを捻ると、オイルブレーキを掛けながら接地した。前輪のサスペンションが、ギャンと鳴く。

 ゴッチが猛然と先頭のガウルに食いついた。奇声を上げながら振り回すガウルに、テーズが追い打ちを掛ける。猛然と払われ、二頭が弾けた。惑うたガウルに、ネルラは即座にボーラを投げつける。地面で炸裂、土煙が上がった。猟犬は、ひるまず起き上がると追跡を続行した。

緩くえぐれたジェットコースターのような起伏を巧みに吸収しながら、山道を走り抜けるネルラ。(いし)(つぶて)が弾け、ヘルメットを掠める。荒れたトレイルに車体がきしむ。突如、二匹のガウルは立方方向に跳躍した。

「逃すか!」

 ネルラは手榴弾のファイアリングピンを歯で抜くと、投げた。空中で爆発、梢が吹っ飛ぶ。枯れ葉がバラバラと降り注ぐ中、はたき落とされた二匹のガウルが逃げ惑う。ゴッチとテーズは、別れてガウルを追い立てた。転げるように重なり、ガウルは沢に向かって迷走する。
 ネルラはキムに叫んだ。

「そっち行くぞ!」

 森の切れ間から沢が見える。正面の木陰の何処か。アサルトライフルで狙っているキムがいるはずだ。

「犬、頼みますよ」と、キム。

 ネルラは全体重を後方に傾けながらブレーキレバーを引いた。断崖すれすれで、ぴたりと止まる。停車と同時に口笛を吹いた。二頭は耳をそばだて、すぐさま追跡を止めた。

 

 沢に陣取ったキムは、飛び出して来るガウルを補足した。浅黒い顔のアフロアメリカンの若者が銃を構える。

7.62×51ミリのNATO仕様。赤の時間降塵濃縮塗装のエナメルヘッド弾が装填されている。我らが友人、リオン・ジャンティの発明品で、現在、世界最高の貫徹力を誇っている。ここのところ、あちらこちらの流通経路で普及した。リオン・ジャンティ、今頃何処かで大金持ちになっただろうか? 

 照準がガウルを捉えた。キムは落ち着いて引き金を絞る。音速で飛来し、硬い外骨格が摩擦抵抗ゼロの弾丸に撃ち抜かれる。

 初弾が肩口を貫通。そこはガウルの数少ない急所である。二弾が頭部を粉砕。続く二匹目が同じ道を辿ったのは0.5秒後のことだった。

 

 

「頑張りましたねー」

 キムは切り取ったガウルの肝をゴッチとテーズに与えた。滴るような新鮮な褒美。

 沢は血の海だった。沢なのに海? 何ともおかしな表現だが、ご覧の通り。ネルラはチェーンソーで二匹の関節をばらして、デッキに載せられるサイズまで刻んだ。

「こんなもんか?」

「ですね」

「車は?」

 ネルラは顔に掛かった返り血を拭った。キムはテーズの背を撫でながら言った。

「すぐそばですよ。そこの川沿い、降りたところに」

「じゃ、さっさと取って来て。そんで積むと」と、ネルラ。キムは思わず顔をしかめた。

「僕が、ですか?」

「そうだろ」

 

 

 キムとネルラは、迷彩塗装を施した4WDのデッキバンに二匹分のガウルを積み込んだ。ゴッチとテーズもケージの中で大人しくしている。

 この車はリオン・ジャンティから買い叩いたものだ。まあ、向こうも当面使い道がなかったのだろうが、専用の足が出来るのはありがたい。

 キムは服に沁み付いた生臭い血糊を気にしながらハンドルを取った。

「このまま解体所に直行します?」

「馬鹿言うな。アジトだよ」と、ネルラ。

 一呼吸置いて、不満げにキムが呟く。

「戻るんですか?」

 会いたくない男の顔がじんわり浮かび、キムの鼻の頭に皺が寄る。

「そのまま持ち込めば二束三文。だけど奴に頼めば………」

「市場レベル、ですよね? ハイハイ。わかりましたよ」

 

 ネルラとキム。十年前ガウルの居城が塵芥(ちりあくた)と成り果てた、あの場所で別れた。はずだったのだが、縁は異なものだ。僅か数か月の後、二人は再び行動を共にすることとなった。

 ネルラは(壁の門24)を目指していた。ヘンリー・チャンの隊商全滅の苦い記憶もあったが(24)は資材豊富な城塞なので、買い付けルートからは外せない。(32)に置きっぱなしの商売道具については、すっぱり諦め、パウラから頂いた駄賃で全て新調することにした。わざわざ道具のためにヘンリー・チャンの元に戻るのは、如何せん、あり得ない選択だった。

 ネルラは(24)を訪ねる前に(12)に立ち寄った。季節性砂嵐(ドラ・マール)の被災から復興中の(24)は概ね、修繕を終えていた。真新しいリノリウムのフロアに改装中の店舗の数々。天蓋には改めてジオデシック構造の明り取りが葺きなおされた。

 陽光にきらめく天蓋を眺め、ネルラはキム・ジ・ローファンを思った。

 あいつ、結局家族とは対面出来ただろうか? 覚悟がどうの、とか、眠たいこと言ってたっけ。

 ネルラは馴染みの棟梁に聞き、遺体の埋葬場所を訪れた。城塞の東、およそ五〇〇メートルの渓谷に集められていた。耕された砂地に無造作に並んだ遺体袋。表面には、まんべんなく濃縮された赤の時間降塵が振りかけてあった。行政は弔うのではなく、早々に無に帰す方を選んだらしい。

 視界の隅で、子犬二匹を連れた細っこい若造が跪いているのを見付けた。アフロアメリカンの風貌。見紛いようのない、あいつである。

「おーい、泣いてんのか?」

 からかい半分揶揄するネルラに、キムは、はっと顔を上げた。

「………ネルラさん」

 頬が濡れていた。ネルラの予想は当り。この時分のキムの年齢は十八歳。だが、縮こまった姿は一層幼く見えた。

「犬、買ったんだな。だと思ったぜ。それにしても二匹とは。大盤振る舞いしたもんだ」

 キムは肩を震わせ、しゃくりあげた。

「もう………寂しくて。………僕、これからどうしたら………」

 ネルラは黙ってキムの尻を蹴り上げた。

「痛てっ」

「おら、行くぞ」

 キムとは一緒に戦った仲だったし、行き倒れになった折、チョコと水を貰った恩もある。詰まるところ、旅は道連れ。その程度の事だったやもしれん。

 二人の旅は、それから十年に及んでいる。

 

「いやー、今日もバッチリでしたね」

 上機嫌な口振りの二十八歳になったキムは、軽口を叩いた。

 ネルラは不機嫌に、むすっと答えた。

「なーにが、バッチリだ。すっかり獲物が減ってんの、わかってんだろ?」

 原生林を切り開いたフリーウェイをデッキバンが疾走する。南国の強いコントラストが木々に(まだら)模様(もよう)を描いている。キムは首を捻った。

「いよいよ、この辺も、取り付くしちゃいましたかね?」

「今月に入ってから、めっきりだ」

 キムは静かにうなずき、顎を擦った。

「こっちのガウルって、クウェートに居た連中と、ちょっと違いますよね? 向こうのは確か翅付いてなかったスか?」

「後ろの奴な、あれ、肩のところに丸まってンぞ」

「なるほど」

「ありゃ退化だな。ここの森じゃ、必要ねんだろう」

 順調に歳を取ったネルラは目尻に皺を寄せた。四十半ば、額は幾分後退したが一層筋骨逞しくなった肉体には1グラムの贅肉さえ付いてない。時間降塵の影響で行ったり来たりの年恰好だが、ようやく五十の(よわい)が見えて来たのだ。糞みたいな人生に、いささかうんざりはしていたが、自ら終わらせる覚悟はない。静かな余生、なんてことにはならんだろう。だが、それでもそろそろ、ラストスパートに向かいたい。

「この辺にも大きな巣、居城はあったんですか? パウラさんみたいな?」

「七十三代新生ガウル女王パウラ、か?」と、ネルラ。

「良く覚えてますね」

「何となく、だよ」

「パウラさん、何処行っちゃたんスかねー?」

「さあな」

「何してンでしょう?」

「知るか」

 キムはちらりとネルラを睨むと、眉間に皺を寄せた。

「中々いい感じたと思ってたんですけど?」

 ネルラは渋い顔をした。

「何言ってんだ? それ、十年前の記憶だろ?」

「そうですよ」

「大体、あいつ、人間じゃねえし」

「ネルラさん、同類じゃないとダメっスか? だったら何で?」

「何で?」

「………何で、恋人みたいに?」

 ネルラは笑った。

「寝るのに、理由なんているか? 高値を積んだら、絶世の美女だって手に入るぜ」

「えーっ? そんなあ。………なんかがっかりですね」

 キムは口を尖らせ、反目した。

「先輩は、お金払って恋をお求めで?」

「悪いかよ? お前だってミサキ、買おうとしてたろ。変わんねえぞ」

 突っ込まれて、キムは一つ咳払いする。ネルラは意地悪く念押しした。

「大体、最初がミサキだなんてな。そこから躓いてじゃねえか?」

 キムの声が段々小さくなる。

「最初も何も。金取られただけで、最後まで行ってませんし」

「ご愁傷様」

 ネルラは静かに首を振った。

「あれから十年だ。お前も研鑽、積んだだろ?」

「何ですか?」

「オンナだよ」

「………ま、それは、ね」

 ネルラは厳しく切り返した。

「俺の知ってる限り、続いた試しはねえ。だよな?」

「………気付いてました?」

「傍にいりゃ、分かるさ」

 ネルラは鼻で笑った。

「ま、お前の人生だ。好きにしなよ」

 キムは溜息を吐き、無言で車を運転した。しばらくして、また話を蒸し返した。

「ミサキさん、どうしましたかね?」

 ネルラは声を荒げた。

「だ・か・ら、考えんなって。あいつはもう………寿命だろ」

 

 ネルラがパウラについて思うことはあまりない。七十三代新生ガウル女王パウラ。十年経って、彼女について思うところは、ネルラにとって初めての人外との性交渉という、稀有な経験に尽きる。獣姦? 意味としてはそうだ。だが見掛け十七、八の美しい娘の姿の異形の者に、心惹かれぬ者はいまい。互いが互いの肉体を求め、むさぼった。パウラには思惑があり、それを他者に委ねる資金もあった。そしてネルラには技が。言うなれば双方損得のない良いカモであったと。まあ、そういうことである。

(  かたき)を味わいたいイカレ女と、怪物と知った女を抱きたいイカレ男。この関係は若いキムの言う、いわゆる恋愛とは違う。肉体年齢と裏腹、生存期間として七十余年を過ぎたネルラにとって、感覚的に色恋がどうの、と問う向きもあるだろう。これは吸血鬼(ヴァンパイア)がいつまで人を魅了し続けられるかという、その命題にも等しい。人は外見に沿って判断を下す。ルッキズム。外見至上主義。情熱が枯渇した先にも、健全な肉体は生物学的欲求を後押しするのだ。純粋なる快楽の追求に、子孫繁栄という大義名分はない。

 お互いに、異形の怪物とのセックス、という冒険。

 これを恋というには、いささか言葉が過ぎる。ネルラはそう思った。

 

 フリーウェイを一〇キロほど飛ばした後、デッキバンはカラン・バルの西の外れで小道に入った。山村を示す有刺鉄線の囲い。敷地内は雑草が伸び放題で、明らかに廃村となっていた。開けた場所に移動式のコンテナハウスが十二基。数十年は経過している仮設住宅だ。そのうちの五割は既に半壊していた。逆に言えば現存しているのは、コンテナ全体に腐食、経年劣化を食い留めるよう施された、赤白時間降塵溶媒によるサイディング効果であろう。

 キムは並んだ列の後ろ側、ポトスの繁茂する黒壁の一基に車を停めた。

「行くぞ」

 ネルラがキムを促した。キムは気乗りしない表情でうなずく。

 二人はデッキバンを降りると、古びた戸口を叩いた。

「おーい、いるかー」と、ネルラ。

 物音がして、しばらくして扉が開く。戸口に大き目の白シャツを羽織っただけの男が現れた。すらりと背の高い三十代半ばの黒髪の男。フランス人風のハンサムな男だったが、右の眼窩に傷がある。

「あら、早かったのね」

 品を作った不快な物言いが鼻に付く。そのいけ好かない優男は、スヌードだった。

 

 

 

 

 運び込まれた二体のガウルは、南半球生息種固有の特徴を示していた。退化した翅、スパイク状の四足。体長は同等だが北のに比べると、少しほっそりしている。

 遺骸は組み立て式の作業台にブルーシートを広げて乗せてあった。

 スヌードは裸エプロンで、得意の中華包丁を振るった。黒い胴巻きの下につるんとした丸い尻。おかしな恰好だが、これが洗濯の汚れ物を減らす一番のスタイルなのである。

キムが嫌っているのは重々承知だが、そこは敢えての意地悪ということで。スヌードはそういう男だった。

 硬い外殻を腹側から外していくと、赤紫色の筋組織が現れた。消化器系の臓物を脇にどかし横隔膜を確認する。部位を切除すると、スヌードは丁寧に包丁を入れた。花札のようにスライスする。トモバラに位置しており、カルビ、上カルビと同等の肉質だ。

 食料の枯渇から、以前はソーセージなどに加工しなければ出せなかったガウル正肉も、今では堂々、市場仲買で高値が付いた。カタ、リブロース、サーロイン等、どれもが贅沢品の扱いである。

 美しい切り口を眺めながら、スヌードは小さく舌打ちした。サシの入りがイマイチ。

「ちょっと霜が少ないわね」と、スヌード。

「何だって?」

 脇のソファでくつろぐネルラが聞き返した。

「ま、野生だからしょうがないか。これ、残念だけどB級品」

 ネルラは首を振った。

「仕方ねえな」

 スヌードは黙々と作業を続けながら、世迷い事を呟いた。

「ねえ、ガウルを家畜にしようとか、誰か考えないのかな? 放牧とか、さ?」

「そりゃありだろうけどね。結構な大規模事業だわな。おまけに仲買の値段も下がるときてる」

「そっちが問題?」

 ネルラは生あくびを漏らしながら伸びをした。

「そういうのはさ、暇な金持ちにでも、任せときゃいい」

「野心がないのね、ネルラ。あんたっていわゆる筋肉馬鹿の典型よ」

 ネルラはニヤリと笑った。

「悪い気はしねえ」

 嫌味も暖簾に腕押し、糠に釘だ。だからあんたは馬鹿なのよ。

 

 スヌードは指すような視線でネルラを睨んだ。クウェートで食らった顔の傷、忘れたわけじゃない。右の眼窩の突き刺さったピンセット痕は、未だ癒えてはいないのだから。

 結局のところ、女王の血統をもってしても石油発生には至らなかった。やっぱりオレオモナス・サガラ………なんちゃらが必要なのだろうか。しかし株サンプルが残ると言われている、中華人民共和国湖北省の武漢ウイルス学研究所は遥かに遠く。時間降塵が猛威を振るう北半球にあるのだ。もう人間の足で近付くことは出来ないだろう。

 人造石油生成の夢はハミーの夢だ。自分には関係ない。だが女王の血統は………あれを手に入れたのはスヌードなのだ。

 クウェートを脱して数年彷徨い、スリランカの港でハミーとはぐれた。直前までスヌードが持っていたのに、ダイナーでトイレに立った隙に盗まれたのだ。

 ハミーとの最後の数年間は、死んだも同然の日々だった。時間降塵の生存限界線に押されて南下しながら仕事を始めるでもなく、次の道を探しもしない。夢破れたか何だか知らないけど死んだ嫁と娘の話ばかりしやがって。自己憐憫? 終いの頃はお互い口も利かなかった。生活力もなく一緒にいるのも苦痛で。ハミーは詰まるところ、こっちから願い下げのロクデナシだった。

その挙句の持ち逃げである。

 あんたはそもそも信じてなかったじゃない。女王の血統。

 一体、何がしたかった? 

 許せない。必ず取り返してみせるから。たっぷり利子付けて倍返しにさせてやる。

 首洗って待ってろ、糞ハミー。

 

 スヌードは(さば)いた正肉を袋に分けながら、狩人二人を眺めた。汚らしく泥まみれの二人組。なんでこんな奴らと、つるむことになったのか。

 スリランカで立ち往生していたところに、この二人に出会った。ネルラとキム。おかしなデコボココンビである。

 その頃のスヌードと言えば、ついに食い詰めてヤクザとつるんで女衒(ぜげん)を始めた頃だった。売春労働斡旋の仲介業である。振るいつくような男ぶり。女を見る目は確実で、決して商売ものには手を出さない。そんなスヌードであったから、あっという間に胴元の信用を得、腕利き女衒で名を馳せた。

 スリランカにはヨーロッパ・インド圏から東南アジアに渡る最大の港アルガムベイがあり、南に生活を求める人間で溢れていた。女たちも大勢いた。渡しの旅客は結構な要り様で、どうしてもという者は自分の方から身売りした。商売は順調だったし、日銭も稼いだ。しかし、そのうちに競合他社の勢力争いが始まり、大手一括の商いが始まる。こうなると個人事業主は肩身が狭い。いくら腕があっても、魅力的でも、参入すら難しくなる。世間で耳にする巷の話だ。

 その日もバーで女を釣ろうと手練手管を費やしていたところ、御同業四人に囲まれた。男前のスヌードだが、喧嘩はからっきしの優男。凄まれ、なんとか女を逃がそうと躍起になっていたところ、隣にいたのがネルラだった。

 仕事明けにキムと飲みに寄ったらしく、用心棒料の駄賃の安さで揉めたらしい。つかみ合い、立ち上がったところでドスンとぶつかる。御同業は即座に因縁を吹っ掛けたが、あっという間に畳まれて、三十秒でネルラにボコボコにされた。身を挺して庇ったスヌードだけが難を逃れた。助けた女は足早に去って行った。

「兄ちゃん、悪かったな」

 砂色のトーブを被ったその男。スヌードは一目見た瞬間に思い出した。ハミー博士の研究所で命を救った男である。そして自分の顔の、傷の張本人でもあった。

「あんた………」

 スヌードは口ごもったが、麻酔から起き抜けだったネルラが、覚えていようはずもない。そうとは知らぬネルラは、ひっくり返ったキムを叩き起こし、三人で一杯やろうと言い出した。スヌードも少しばかり酒が入っていたせいか、うやむやのまま店を出た。

 三人は揃って二軒ばかり梯子した。話を聞くうちに、どうやらこの二人もクウェートで居場所を失い、南下の道を辿っているらしい。しかもあの『アハサー砦の攻防』に居合わせたという強者である。

 空が白み始める頃になって、ようやくスヌードは昔話を始めた。

「あんた、十年くらい前、砂漠で死にかけたでしょ?」

 ネルラはグラスを掴んだまま呟いた。

「砂漠じゃ毎度、死にかけてる」

「ヘンリー・チャンの隊商全滅、って言ったら、どう?」

 ネルラはちょっとばかり気に留めた。

「ああ、それ。それなら覚えてるぜ。白の時間降塵で命拾いしたな」

「その後よ」と、スヌード。

 ネルラはこめかみを叩きながら記憶を辿った。

「何処かに運ばれた気がするな。なんか掘立小屋みたいなところで。そこで救命処置みたいな、そんな感じ?」

「それで?」

「それで………」

 ネルラはじっとスヌードを見詰め、しばらくしてぎょっとなった。

「お前………いたな。若けえ方か………」

 スヌードは右目を見開き、傷口をなぞってみせる。

「忘れたとは、言わせない」

 ネルラはしばし黙っていた。弁解の言葉でも探しているのか? と思いきや、いきなりのケタケタ笑い。

「そっか。………あン時はご免な」

「なっ………」

 ネルラはあっけらかんと頭を下げた。まるで待ち合わせに遅れてご免、くらいの、そんな手軽さで。スヌードは顔を真っ赤にした。

「それだけ? それで済むと思ってる?」

 ネルラは静かに人差し指を持ち上げた。

「ま、お前も、そう言えた義理じゃねえだろ。一人殺ってたよな? 二人目に手出す、ちょっと前」

 ズバリ言われて、言葉に詰まる。どうした、俺? 

 顔が熱くなった。逃げたしたくなるような恥ずかしさ、胸の痛み。思ってもみなかった弁解の言葉が知らずと頭を過る。あれは………あれは不可抗力。ことを急いだせいもある。あの時の自分は………

「………それはね。でも、あれは………あれは人間じゃなかったから」とスヌード。

 ネルラは酔った顔を近付け、嘘を嗅ぎ分けた。

「はっきりしてたわけじゃねえ。たまたま人型のガウルだった。そうだよな? ラッキーだったなあ。でもお前は、どっちでも構わなかったんだ。どっちでも。………お前は、そんな野郎さ」

 ネルラの蔑んだ眼差しが痛い。スヌードは、ごくりと生唾を飲み込んだ。

「だったら何?」

 震えた声で、いなおるスヌード。ネルラは含み笑いを漏らした。

「殺しの代償が顔の傷一つで済んだんだぜ。安いもんじゃねえか」

 ネルラは凄みのある口調で締め括る。脅したつもりが形勢逆転。何よ、俺が悪いってこと? 

 スヌードは聞いた。

「代価は、死んで払えって?」

 ネルラはにっこり微笑むと、大袈裟に顔の前で手を振った。

「馬鹿言うな。そんなんじゃ、命が幾つあっても足ンねえだろ。悪党ってのはな、そもそも、そういうもんさ」

 スヌードは囁く。

「あんたは悪党?」

「まあな。………大抵、みんな悪党」

「みんな?」

「どいつもこいつも、な。………程度の差かな?」

 ネルラは冷え冷えとした声音で続けた。

「人に言えないような、ひでえことをして、それでも命が繋がったら、お前にはまだやるべきことがあるってことだ。お天道様に感謝して、明日も堂々としてな」

 程度の差だと? 悪党に、とんだ説教もあったものだ。

 だがそれからの一時間、スヌードは自分の身の上話を洗いざらいネルラに語っていた。クウェートでの生活、人造石油生成の挑戦、チャン・ファミリーから命辛々逃げ出したこと。そしてハミーの裏切り。この男を信頼したわけではなかったが、同類先輩格への敬意? そんな感じかもしれない。

 ネルラはネルラで、スリランカでの用心棒稼業に限りを感じて、今後の方針に手をこまねいていた。生存限界線が下がり続ける限り、ここに留まることはできない。

 ネルラはスヌードの女衒の才より、ハミー直伝の家畜解体術を高く買った。いかなる時も、食に関する職業が、なくなることはありえない。

 スリランカからスマトラ島へ渡れば原生林があり、そこには野生化した、はぐれガウルの群れがいる。ネルラもキムも、狩場の腕には自信があった。解体所でガウル一頭買いの値段は五十万パスカ。加工して市場仲買に卸せば百万は下らない。多少の不便はあっても、生活に支障はきたさない。そこは重要である。

 スヌードは甘んじてこの提案を呑んだ。が、一つ条件を付けることにした。

 この辺をうろついている、ハミー・ヘムレン・ニジンスキー・ジュニアを捕まえること。

 スリランカの港、アルガムベイから渡るとして、人間が生存できる場所は東南アジアしか残っていない。ハミーが生きてるとすれば、ここにやってくるのは必然。

 

「さ、出来た。残りはソーセージにするわ」スヌードは大型の保冷バッグ六つを差し出した。「商売、商売。早く売りに行って」

 ぼんやり煙草を吹かしていたキムに、スヌードが指図した。

「何してんの? キム。あんたよ」

 キムはカッとなって煙草を投げた。

「僕に命令するな」

 スヌードは前掛けを伸ばし、中華包丁を拭きながら言った。

「さて、契約では我々三人は対等なはずだった。そうよね? ネルラはリーダー、俺は捌きと調理の担当。あんたは運転と、後は何だっけ? 荷下ろし?」

 キムは子供のように叫んだ。

「一番狙撃手だ!」

「ああ、そう。それ。ま、でも………稼ぎの中心は俺の解体術とソーセージで賄ってるわけで。これが無きゃ売値は半値以下。だから………随分苦しくなるわねえ」

 詰問されて、キムはネルラに助け舟を求めた。ネルラは面白そうに二人の様子を見ている。そして肩をすくめた。

「ここはスヌードに一票。お前は犬の餌代もあるしな。ま、頑張って頂戴」

 キムはどす黒い不満を飲み込むと、ブツブツ呟きながら保冷バッグを担いだ。ネルラは後ろ姿を見送り、スヌードにたずねた。

「ソーセージは何日掛かる?」

 スヌードは、調理バットを用意しながら答えた。

「そうね、塩漬けで二、三日。挽くでしょ。そんで腸詰め、燻製で………大体五日かな」

「それじゃ、(ばい)も入れて一週間?」

「フフン」

 ネルラはソファから立ち上がると、汚れた尻を叩いた。

「金が入り次第、移動するぜ。後片付けの方よろしく」

スヌードは眉を持ち上げた。

「不作だった? この辺り?」

「ま、そんな感じ」

 そう言ってネルラは眉根を顰めた。スヌードは中華包丁を弄びながら、聞いた。

「次は、どちらへ?」

 窓から南風が吹いていた。湿り気を帯びた、ぬるいうねり。ネルラは目を細め、そっと香りを嗅ぐ。

「メダンで船に乗る。マラッカ海峡を渡ったらマレーシアだ」

 

 

 

 

 

 

 

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