母親が私を産んで3ヵ月で仕事復帰したため、子供のころはほとんど父方の祖父に預けられていた。
2才から保育園に入ったけれど、注射するために早く帰る日や、
熱をだした小学生の冬の日、迎えに来たのは祖父だった。
子供のころの記憶は、両親よりも祖父との思い出のほうが多い。
スーパーのフードコートで、チョコとイチゴとメロンの3色のソフトクリームを食べたこと。
近所の公園にパンの耳をもって出掛け、鳩にえさをやったこと。
そのよく行った公園の時計台が描かれた絵が、世界でいちばん好きな絵画だ。
祖父は絵を描くのが趣味だった。風景画や、私たち姉妹の七五三の着物姿もあった。
私が幼い頃から絵を描くのが好きで、デザイナーという職についたのも、祖父の血筋だろう。
祖父が亡くなったとき、私は仕事の岐路に立たされていた。
デザイナー職からライター職に変わるか、退職するかの選択に。
その会社が好きで、居たかったから、いったんはライターになると返事をした。
けれどその時、入院中だった祖父が亡くなり、お葬式に参列した。
棺には、絵の具や木のパレットもおさめられた。
おまえはそれでいいのか。絵を描く仕事がしたかったんじゃないのか。そう言われた気がした。
祖父は孫の面倒見はよかったけれど、とくべつやさしい人ではなかった、と母は言う。
たしかに保険のCMで見るような、ニコニコ柔和なおじいちゃん、という感じではないし、
ボケが始まってからは癇癪を起こすようになり、家族全員が疲弊した。
けれどわかる。祖父も、父も、父方の遺伝を濃く受け継ぐ私も、けっして人が嫌いではない、
好きなのだけど、不器用で、表現と距離のとり方がへたくそなのだ。
入院を繰り返すようになってから、寝てばかりになった祖父に、すこしでも外に出てほしいと、
散歩用の帽子をプレゼントしたことがあった(オシャレで、絶対よく似合うキャスケットだ)。
それでも散歩にすら行ってくれなかったけれど、ベッドに寝そべりながらかぶっていたことがあった。
「電気が眩しくてテレビがよく見えない」なんて言ってたけど。あれは私への気遣いだった。
祖父は『西の魔女』のように、いろいろなことを教えてくれたわけではない。
けれど私は、知らずたくさんのことを学んだような気がする。
今じゃ誰も再現できない、二度と食べられない祖父の安倍川餅の味を、懐かしく思うのです。