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不思議な建物を見学してきた件(霊友会本部)
お疲れ様です。
今日も今日とて上天気に恵まれて有り難かったのです。
気温もぐんぐん上がってもう5月並みだったとか。
それでも桜の開花は少し遅れるようでありまして、平年並みになるとかです。
さて、昨日はキリン氏に誘われてちょいとランチ会をしてきたのです。
ランチは赤坂見附のちょっとした有名店らしい「タンタンメン」のお店でしてた。
「排骨担々麺」(1500円)なるお店の看板メニューのお品を注文したのです。
さすがに有名店だけあって、ちゃんと立派に美味しく、十分堪能してきたのです。
ネット上にあった写真をいくつか、
通りに面した外観です、
店内はこんな、
頼んだお品、
そして食事後、「麻布台ヒルズを見学しに行こうか」となりまして、腹ごなしの散歩がてら行ったのです。
で、そこで1階から4階までメインのビルの中を見学して帰途についたのですが、私の目にふと隣に建っている珍しい建造物に目が行きまして、「そうだ、気になっていたあのビル、霊友会の本部なんだけどさ、見学しに行ってみたいんだけどさ、付き合ってくれる?」となりまして。キリン氏、「いきなり行って入れるの?」と。私、「たぶん行けるはず」と。
これが国道一号線から見えていまして、昔から「なんだ?あのヘンチクリンな建物は・・・」と思っていたのです。
ある時それが宗教法人霊友会の礼拝殿(釈迦殿というらしい)だと分かりまして、「へ~!この東京の都心のど真ん中に・・・」と驚いて、強く興味が惹かれまして、いつか行って見てみたいと思っていたのです。
場所的にはここなんです、
これがヒルズ建築前の予定地です。
手前右に三角形の不思議な黒い屋根が見えているのがそれなのです。
で、これが完成後の付近図なのですが、近代的な酵素ビルの右側に不自然な三角形のその建物が相変わらず建っているのです。
いやいやいや、行ってみました。
そして玄関前には「見学自由」的な掲示板もあり、「じゃあ入ってみようか」と。
さて、階段を上がって玄関の黒い扉を開いてみれば、なんと、中には誰もいないのです。
まったく無人。
いやいや、いいのか、こんなんで・・・と。
で、大きな内部はどうなっていたかというと、こういう風に、
いやいやいや、壮麗というかなんというか・・・。
私たちと同じようなタイミングで外国人観光客らしき人が二人いましたので、私はちょいと尋ねてみたのです。
そしましたら、ニュージーランドから来ているとか。何でここに来たのか尋ねてみれば、何やら不思議な建造物に見えたので来たみてとか。
(フムフム、そうですよね・・・)
そういうことで、長年不思議に思っていたこの建造物が、どうなっていたのかよく分りまして、昨日のランチ会は大変有意義であったのです。
で、今しがた、ちょいと気になっていたことがありましたので、ググってみましたら、これもまた明らかになりました事実がありましたので、ご紹介したいと。
それは、どうも石原慎太郎氏が霊友会と何らかの繋がりがあったような話を風の噂に聞いていたのですが、それを今日は思い出しましてググってみたと。
そしましたら次のような記事がありまして・・・。
(古谷経衡、ZAITEN2022年04月号)
数々の問題発言・差別発言を遺した男の本質とは―
~亡国の政治家「石原慎太郎」の信心~
石原慎太郎が1968年7月に参議院選挙で初当選して国会議員になった時、「霊友会から20万票を融通してもらった」という実しやかな報道が流れ、それ以降「石原は霊友会の信者なのではないか」という説が定着した。 現在でも「石原は霊友会信者」という書き込みは彼の死後いたるところに散見される。石原は晩年に至るまで、霊友会の信者であると明言したことは無いが、霊友会と蜜月であったことは揺るぎようのない事実である。98年12月、幻冬舎から『法華経を生きる』が石原著として出版された。翌年4月に石原が初めて東京都知事選挙で鳩山邦夫、舛添要一らを制して圧勝した半年前である。この本の中に石原自らの手で回答が述べられている。
石原と霊友会の邂逅は、68年の参院選で政治家に転身する前、新聞社の依頼でベトナム戦争の取材に赴き、帰国後、急性肝炎に罹患して死線を彷徨った際、法華経を熱心に精読したことから始まる。とは言え、この段階において石原家は曹洞宗信徒であり、霊友会との繋がりはない。石原によると肝炎治癒の後、参院選出馬を迷っている際、産経新聞の社主であった水野成夫から「(選挙に出るなら)20万票作ってやる」と言われる。驚いた石原は「どこからですか」と尋ねる。水野は「霊友会だ。あそこの教祖と俺(水野)は義兄弟なんだ。彼女に頼んで票を分けてもらうから君も一緒にこい」と述べ、霊友会の創設者の一人・小谷喜美を紹介される(正確には再会)。そこで小谷から「(票を出す)代わり、あんた私の弟子になりなさい」と言われた石原は、霊友会の全面支援の下、当選する。石原の言を信じるなら、彼の法華経精読は霊友会との邂逅前に始まっている。石原と霊友会の関係はあくまで選挙協力で、石原が霊友会の信者になったとする記述はないが、両者の蜜月はこれを嚆矢に続いていく。
■石原の分裂した世界観
『法華経を生きる』は石原の人生観の披歴であり、死生観のそれでもある。贔屓目に見なくても面白く読める。筆致はウィットに富み、古今東西の哲学者や宗教家の解説と並列して法華経の素晴らしさが語られる。石原が自称するように、なかなかのインテリが書いたものとして間違いはあるまい。同書の中で石原は、釈迦の教えを引用し、「昔から男に比べてなおいっそう惨めな立場に置かれていた女たちを含めて(中略)釈迦は身分の格差を不条理なものとして捉え、それを踏まえて人間の存在の意味を考え、それを考え切ることで人間の救済の意味について考え出した」として、釈迦を全肯定する。
......続きはZAITEN2022年4月号で。
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なるほど~・・・、
そういうことだったのですねぇ・・・、
いや、「それがどうした?」という話なのですが・・・、
ま、色々あったんですねと。
もう過去形の話ですのでどうでもいいのですが・・・。
さて、そんなことで、昨日は久しぶりに新橋~虎の門~赤坂~麻布台と歩いてきたのです。
いや~、キリン氏には毎度あちこち社会見学に付き合ってもらいまして、有り難い話なのです。
自戒はまた4月に入ってからと。
ご紹介まで。
ではでは。