「バレる時代」という・・・
おはようございます。
今日も上天気に恵まれるようなのですが、何やら最高気温が16℃、3月中旬の陽気とか。
それはそれで結構なことなのですが、明日はうってかわって最高が7℃という真冬の寒さに戻るとか。
いやいやいや・・・。
さて、話は世の中の「ニュース(話題)」なのですが、今朝は朝刊を読んでいて少々驚いたのです。
といいますのは、週刊誌の宣伝欄に『週刊新潮』誌のそれがあったのです。
で、何気なく目をやれば、そこに2つの項目が。
1つは「サッカー日本代表の伊東純也選手が性加害で刑事告訴されている」と。
1つは「慶応大学特任准教授で若手コメンテーターとしても活躍している若新雄純氏が女性乱倫関係で辞職、テレビから消える」という。
(こちらにその中吊り用写真が)
いやいやいや、驚いたのです、少々。
(伊東選手、こりゃもうアカンやろなと・・・)
(そして若新氏、ダメだこりゃと・・・)
いやいやいや、(はぁ~?!何してんねん!!)と・・・。
私は特段伊東選手のファンでもないですし、また若新氏を推している訳でもないですので、この両人がこうしてスキャンダルになって「活躍の表舞台から消えて行く」ことに、強烈な残念感をもつ訳でもないのですが、それでも少なからずショックを受けるのです。
いやいやいや・・・、
時代はもうほんまに「全てがバレる」時代になっているのだと、痛感させられるのです。
思えば、この両人に先んずること1ヵ月ほど前、あのテレビ界の超大物、お笑い界の巨人、松本人志氏が撃たれたのです。
「撃たれた」、まさに文春砲に。
週刊文春や週刊新潮が、スキャンダルを暴いて世の大物を引きずり降ろすの図、なのです。
それがイイことなのかヨクナイことなのか、その最終判断は微妙に難しいのですが、しかし、言えることは、「全てはバレる時代」になって来ているということだと。
「悪事はバレる」、ということは、それはもう大昔からそうな訳でして、日本では「犯罪検挙率」はとても高いのです。
しかし、「男と女の色事関係」という微妙な、犯罪とも言えない「濃いグレー」的な問題については、昔から「大目に見られて来た」ということもあるのです。
なかんずく「政治家」については、「その下半身と政治とは違う」ということで、フランスなどでは「政治家のプライバシーについては全て不問に付す」という伝統まであったくらいなのです。なのでそもそも「それがスキャンダルになる」ということすらなかったのです。
日本でも明治頃までは、政治家が2号、3号さんを囲うということが公然の秘密のように行われていたのです。
それが昭和になり、平成になり、そして令和になり、どんどんそういう「色恋、不倫」関係が厳しく断罪されるようになってきて、ついにはこうしてスポーツ選手から学者、知識人層にまでその追及が行われるようになっているのです。
かつて石田純一氏が「不倫は文化」なる迷言で世を賑わしたこともあったのですが、もうそんな悠長なことを言ってられる時代ではないのです。
男たちはもう女性問題、性事情関係では「キッチリ清廉潔白であれ!」、「断固、一夫一婦関係を守れ!」、「女性をいいように扱うなどもっての他!」という大きな圧力を受けるようになって来たということなのです。
「それを守れない奴は社会的に抹殺される」時代になって来たということなのです。
(う~~む・・・、そういうことか・・・)、
(凄い時代になって来たものだ・・・)、
私は今朝はほんまに改めて、そういう時代の潮流の大きな変化を思い知られたのです。
思えば、振り返れば、ビートたけしなどはまだまだ「ユルイ時代」で良かったのです。
自分の「愛人を守る」とか言って、講談社だかどこかの出版社に軍団を率いて殴り込みに行くとか。
最後には奥さんと離婚してその愛人さんと新居を構えた訳ですが、当時の世相では「殴り込みはダメ」でも「奥さんをほっといて愛人と暮らす」という不義不貞については大目に見られていたのです。
思えば昭和の時代の大物芸能人などでは、けっこう皆さん「アブナイ女性関係」を平気で実践していたのです。
だからこそ石田純一氏が「不倫は文化」などと呑気にのたまうこともできたのでしょう。
それが・・・。
いやいやいや、ほんまに「性加害と不倫については絶対に許さない!厳罰に処す!」、「社会的に抹殺する」という時代に突入したと。
そういう時代を創りだしている急先鋒の週刊文春については、その動きを糾弾して「文春はあかんやろ!」という声をあげる著名人も多いのです。
そして確かに文春のやり口がダメなことも多いのです、批判されてしかるべきなこともあるのです。
箕輪厚介氏とホリエモン氏などは、そういう文春のダメやり口を大いに糾弾しているのです。
(10分17秒)
いやいや、思えば欧米ではこの流れは日本よりはるかに早くから強烈な動きだったのでしょう。
思えば「me too!(ミートゥー!)」事案がそれそのものだったのだろうと、今にして思えるのです。
かつてアメリカでハリウッドを牛耳っていた大物プロデューサーのワインスタインなる人物が、多くの女性をまさに「権力を振りかざしていいように扱った」(強烈なセクハラ事案)ということで、その地位を失ってまさに抹殺されたのです。
誰かある人が、今回の松本人志案件を「日本版ワインスタイン事件に近いものがある」と指摘されていたのですが、それを聞いて私も(なるほど・・・)と頷いたのです。
日本は欧米から遅れること何年かで、ようやくにして欧米並みの「強い社会的制裁圧力」がかかり出したということなのでしょうか。
日本でも確かに数年前から「セクハラはいかん!」、「セクハラ、アカハラ、モラハラ、パワハラ、全部ダメ!」という潮流にはなっているのですが、こうして松本人志氏などという超大物がその「象徴的事件」として生じたことで、その流れを「目に見える形で決定付けた」ということになるのでしょうか。つまりは世間に超ド級のショックを与えたという意味で。
かつて、ジャーナリストの山口敬之氏と伊藤詩織女史との間で「レイプ裁判」があり、同じような時期に俳優高畑裕太クンのホテル従業員さんへのレイプ事件があり、色々世の中を賑わしたことがあったのですが、それでも、私はまだそういう時期には「今日のような日」が来ることを実感されていなかったのです。
世の中的にもまだまだそこまでシビアに今日のような「大糾弾」が行われていなかったように感じられるのです。
今回、松本人志氏や伊藤純也選手という「超大物」が世の中を賑わしたことで、こういう問題がついに「日本の大潮流になったのだ」ということを、思い知らされたように思うのです。
(う~~む・・・、やはり日本は遅れていたのか・・・)
(それとも欧米があまりにも性急に「女性の人権擁護!」に舵を切り過ぎていたのか・・・)
・・・
私はこれまでは若干「後者でないのか・・・」と思えていたのですが、しかし、今日は改めて、(違ったのか・・・)と思ているのです。
日本の方が、やはり遅れていたのかもしれないな・・・と。
はてさて、世の中は動いているのです、
その歩みは決して止まらないのです、
イイ方向にでも悪い方向にでも、
そして時として、その動きは「行き過ぎる」こともあるのです。
というより往々にして「行き過ぎる」のです。
そして揺り戻しのようにバランスがとれて行くのです。
「セクハラ、モラハラ、パワハラはダメ、イジメなど絶対ダメ!」という潮流も、もしかすると「行き過ぎ」になっているかもしれないのです。
それならまたしばらくするなら、その行き過ぎが自ずと是正されて「丁度なところ」に収まって行くのでしょう。
しかし、やはり「当初はどうしても行き過ぎるほど行かざるを得ない」のが人間社会の性(さが)ということなのでしょう。
今、時代はほんまに「全てがバレる」時代になっているのです。
そしてそれが「良い」こともあるのですが、しかし、「行き過ぎ」もあるのでしょう。
その丁度良いところがどこら辺にあるのか、私にもまだ不明瞭なのですが、いずれにしても「時代自身が」、「社会自体が」、それを自覚して是正するようなことになって行くのでしょう。
それでイイと・・・。
・・・
何が言いたかったのか、何やらぼやけてしまいましたが、どうも色々考えているうちにこうなったと・・・。
いずれにしても、
「全てがバレる」時代になって来ているなと・・・。
ご紹介まで。
ではでは。