好き嫌いを超えて行け! | KOBONBLOG

好き嫌いを超えて行け!

おはようございます。

今日も今日とて快晴の予報です。
気温も最高12℃まで上がるとか、さほど寒くもなく有り難しです。


さて、ちょいと気になっている件について書いておこうと思いまして。

それが、著名人同士の「好き嫌い、敵対関係」という話なのです。

政治家どうしでもあちこちで「あの二人は犬猿の仲」とか「昔から相性が悪い」とか、これまでも大物政治家たちでも色々とあったものなのです。

古くは「吉田茂vs河野一郎」とか、もうそんな話は山のようにたくさんあるのです。

 



政治家だけでなく、経済界でも文壇や論壇、学者間、芸能人、その他どんな世界でも著名人同士の「仲が悪い」系の話は枚挙にいとまがないのです。

古い話でなく、現在進行形の話では、私が以前から(これはマズイよな・・・)と思っている件があるのです。それが「橋下徹vs藤井聡」という有名知識人どうしの不仲です。

同様に、最近では「百田尚樹vs橋下徹」、「百田尚樹vs上念司」という。

いやいやいや、百田氏は、どうにも平気で敵を作るのですから困るのです。



さて、なんで人はこうも「犬猿の仲」になってしまうのでしょうか。

話は簡単でして、「好き、嫌い」なのです、実際は。

「嫌い!」なのです、ロジックより先に。

本当に「この世の半分は好き嫌いの感情でできている」のです。

人間関係においては、「ロジック(理性的判断)」より「好悪の感情」の方が圧倒的に強いのです、その支配力が。


しかし、人は「なぜその人を嫌うのか?」と問われる時には、「ロジックで答える」のです。つまりは、相手の人間の「ダメ点」「欠点」「短所」をあげつらって、「そういうダメ点が許せない」という風に。

人間にはどうしても欠点、短所、間違い、誤り、悪い癖、悪い性格、というものがあるのです。そしてそこを見るなら(そこだけを見るなら)、その人はみんなから嫌われることになるのです、それが普通にそうなるのです。

しかし人は「みんなから嫌われる人ばかり」ではないのです。

どれだけ短所、欠点ダメ点が多い人でも、そういう人が全員から嫌われるようなことはなく、周囲にはそういう人をも受け入れて友人関係をもったり味方になるグループができたりして、受け入れられて行くのです。

橋下氏と藤井聡氏がどれほど相手のことを「あんなヤツ」と思っていても、両者には同じように「その人を好きで受け入れて評価して仲間、味方として認識している人たち」も多いのです。

しかし当人同士はとてもじゃないが、「あんなヤツと組めるか!」となるのです。

いやいやいや、困ったことなのです・・・、まったく・・・。


本当に、この人類が生じた時から生じている「犬猿の仲の関係」というマイナス要因は、どれほど人類に大きなマイナスをもたらしていることでしょうか。

いやいやいや、ひょっとしたらこの先永遠に人は「好悪の感情」という呪縛から逃げられずに、この巨大なマイナス要因に絡めとられながら生きて行かなければならないのでしょうか。



何が悪いと言って、実はこの「感情」が「判断、認識」に甚大な影響をもつからなのです。

さらに言えば、「認識は感情に影響し、感情は認識に影響する」のです。

「好感情は良い認識を作る基になり」、「悪感情は悪い、間違った、誤認識を作る基になる」のです。

もちろん逆に、「良い正しい認識は好感情を作る基になり」、「誤認識、謬見は悪感情を作る基になる」のです。

そして大問題なのが、人が何かを「決断、決意、意思決定をする」際には、それが「オールロジック」の下に行われるのでなく、水面下では感情が大きくその意志決定を左右する重要な要因になっているということなのです。

それが「本音」と「建て前」の構図そのものなのです。

あ~、構造は簡単なのですが、それを実際に「我が身に置き換えて納得し、実践すること」は途方もなく難しいのです。つまり、「感情に引きずられずに合理的な意思決定をして行くこと」ということが。

そして最後に出てくる言葉が、「意地でも許さねぇ」というような。

 

私も過去には、(意地でもそれはやらない・・・)というような決意をしたこともあったのです。

合理的判断では「それをするのが良い」と結論されても、無理だと、(もう意地に殉じる・・・)というような。



「仲良きことは美しき哉」という言葉があったのです、昔、ウチに。

この言葉が陶器の皿に描かれていたのです、そういう陶器の皿が置物としてウチの玄関に飾ってあったのです(私が子供のころですが)。その陶器には「花」の絵が描かれていまして、その脇にその言葉が筆で描かれていたのです。

そしてその言葉の横に「武者小路実篤」の署名があったのです。きっとその花の絵も武者小路氏の自筆の絵だったのでしょう。(その陶器もいつの間にかどこかへ行ってしまって今はもう記憶の中にしかないのですが)

 

 

※)今ネットでググってみたら、意外にもこういう画像が出て来たのです。

  この画像では「花」ではないのですが、私の記憶が間違っていたかもしれないのです。

  そういえばこんな絵だったような、気もするのです。

 

※)そして武者小路だけでなく、志賀直哉もよくこの言葉を使っていたとか。

 

 

※)「仲良きことは美しきかな」

 

 



子ども心に私は(あ~、この言葉は武者小路実篤が言った言葉なんだろうな)と思っていたのです。

ですが、長じて振り返って考えるなら、別に武者小路実篤のオリジナルな言葉かどうかなど、別にどうでもいいことだと思えるようになっていたのです。というのも、考えれば誰でも思いつくようなシンプルな言葉だからなのです。

ただ、単純にその陶器のオリジナルな「画」としては、武者小路実篤の自筆の「絵」であって、筆で描かれたその言葉もまさに武者小路実篤の自筆の書体だったのです。なのでそこに署名があったのです。

「仲良きことは美しき哉」・・・、

イイ言葉だと思っていたのです、子ども心に。

しかし、現実社会では、私自身も含めて「仲いい関係だけ」では成り立っていないのです。

それは他人同士の関係どころか、親族肉親、はては家族内でもその「仲の良し悪し」が巨大に関係してくるのです。

親子や夫婦の関係ですら、「仲良きこと」どころか「仲悪し」の関係であることは山ほどたくさんあるのです。

美しくない関係が、そこらじゅうに、山ほど転がっているのです。それが現実社会であると。

そして要は、難しいのです、誰とでも仲良くし、仲の良い関係を築くことは。


認識が感情に影響し、感情が認識に影響するのです。

そしてこれが巨大なポイントなのですが、「ルッキズム」なのです、人間社会での巨大な難点が。

つまり、「見た目」、「第一印象」で「好き・嫌い」がインプットされるのです、人間に。

これが後々大きな大きな影響を与えるのです、その人の認識に。

見た目で、どうしても好きか嫌いかが別れてしまうのです。

なので、美人さんや男前は好かれ、不細工さんやブ男さんは嫌われやすいのです。仕方ないのです。


いやいや、人間というものは、ほんまに厄介なことに生まれ付いているのです。

理不尽なのです、そんなルッキズムが幅を利かせていることは。

しかしそれが人間の偽らざる本性であるとき、「そこから始めて行かねばならない」のです。



いや、話が長くなり過ぎました。

結論は、

「好き嫌いを超えて行け!」ということなのです。

好きだ嫌いだを超えたところに、本当の「美しさ」があるに違いないのです。

というより、「美しさ」を超えた何かを見つけ出すことが大事であると。

人間は、美しきモノは好きになり、醜いモノは嫌いになるように作られているのです。

なので人が美しいものをルッキズムからして好きになることは、それは自然なことではあるけれど、しかし、世の中の半分は醜いモノで溢れているのです。

現実社会はそうなっているのです。美しいモノが半分、醜いものが半分。

それはもう「表と裏」、「光と陰」があることと同義なのです。

上り坂だけあって下り坂のないところがないように、光だけあって陰がない世界などないように、美しいものだけあって醜いものがない世界などないのです。

人は毎日、美味しいキレイなモノを口から食べ、醜く汚く臭いものを尻から出して生きているのです。それが現実なのです。美しいモノを作るのも人間なら、醜い汚い臭いモノを作り出しているのも人間なのです。


なので、生きるということは、そんな「美・醜」や「良・悪」や「善・悪」を超えたところで生きて行かねばならないと思うのです。

その果てに、「仲良きことは美しき哉」の世界が構築されるのだろうと。


いやいや、よく分からない話になってしまったようです。

続きはまた継続審議で・・・。


ではでは。