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笑いと感動は日々の生活の中に…

日々の生活の中でのさまざまな出来事を通して気づいたこと、面白い!と思ったことをなんとなくつづってみたいと思います。

3月になり、風も日差しも暖かくなってきました。

花々が色とりどりに咲き始めるこの季節は毎年すごく楽しみです^^

 

春はいのちが芽吹く季節、ということで、

久々に野菜の種を蒔こうと、『野口のタネ』で注文しました。

 

 

青じそ、ミニトマト、カブです。

地べたがないので、プランター栽培になります。

まあ、ジャガイモもプランター育ったので、カブも大丈夫かなと思って、今回思い切って購入しました。

直播は4月以降になりそうです。

一粒万倍日をチェックしておかなければ!

 

一粒の種から芽が出て、成長して花を咲かせ、実を結ぶ…

一つの命が無数の命へと増えていく…

そんな大自然の、命の奇跡のようなしくみを見るのは楽しいです。

私たち人間も、たった一つの細胞から始まって今の姿になって生きている。

子どもを授かり、出産、育児を経て、生命とは一つひとつが奇跡のようだと実感できるようになりました。

私が野菜を育てるのも、そんな命の在り方を何度も確かめたいからかもしれません。

いや、おいしい新鮮な野菜を収穫したいという野望はもちろんありますが…(そっちがメインかも)

 

東日本大震災からちょうど10年が経ちます。

地震、津波、そして福島第一原発の爆発…

一瞬にしてかけがえのないいのちがどれほど多く失われたか、

その重大さはとうてい数字などで表せるものではありません。

言葉にしつくすこともできません。

今、私たちに必要なのは、私たち人間を含めたいのちの成り立ちと、

生きていくために本当に大切なことは何かを再確認することではないかと思います。

 

先月、自然農法の提唱者である福岡正信さんの『自然農法 わら一本の革命』を読み終わりました。

 

福岡さんは米麦やミカンを自然農法で育て続けること数十年。

人間が「育てる」というより、無数の命の集合体である自然の力によって「自ら育つ」のを見守り、

自然の力が最大限に発揮できる環境を求めて、

最終的には人間の手がまったく必要のない環境を整えていったのです。

 

もっと多く、もっと効率的に、もっともっと…と人間の欲で手を加えれば加えるほど、

作物は病弱になります。

一時的にたくさん収穫できたとしても、土は疲弊し、収量が落ちるために更に肥料を投入する、

虫が大発生しやすい環境になり、更に農薬を必要とするという悪循環に陥るのです。

これは土と農作物だけの話ではなく、畜産や酪農もそうですし、

まさに私たち人間の体でも同じことなのです。

 

福岡さんの『わら一本の革命』の中の「農薬廃止の条件」の項にこう書かれています。

「たくさん出版されている試験場の報告書等を見ますと、薬剤散布の効果ということが、ほとんど全部に出ております。ところがこの成績というのは、半分のことは隠しているということをご存じでしょうか?

 隠すつもりは勿論ないのですが、発表された成績を農薬会社が利用する場合は、実は隠すような結果になっている。

 悪い成績は試験誤差としてチェックし、捨ててしまっている。実際には、病害虫の防除をして増収になることもありますが、かえって減収になることもあるのに、これはまず発表されることはないんです。」

 

同著書の「人間は自然を知っているのではない」の項には、こうあります。

「私は、近頃つくづく思うんですが、この場所に立って、この一枚の田圃をながめるのは分科した専門の科学者だけの頭ではだめだ。本当は、科学者と哲学者と宗教者の三者はもちろん、あらゆる畑の人、政治家も芸術家も含めて、ここに集まって、ここで評議して、果たしてこれでいいのか、という結論を出すところまでいかなきゃいけないと思います。

(中略)私は、そういう状態にならなきゃだめだと思うんです。なぜかというと、専門の農学者や科学者は、自然がわかると思っている。あるいはそういう立場に立っている。自然がわかると思っているから、自然を研究していくんだ、自然を利用できるんだ、と確信してしまっている。

 しかし、哲学的に、宗教的に見た場合には、人間は自然を知ることができない、というのが真実であろうと思うのです。…」

 

上記二つの引用の「薬剤散布」と「一枚の田圃」を、「ワクチン接種」と「一人の人間の体」に置き換えてみてください。

人体も土も、自然の一部であるならば、同じことが言えるのではないでしょうか?

東日本の震災も、地震や津波といった天災は避けられなかったにせよ、

原発の爆発という大惨事は、原子力という人間には制御不可能なものを利用しようとしていなければ起こらなかったことです。

言ってしまえば人災です。

放射能という目に見えない存在は、その危険性を過小評価あるいはほとんど無視され、

現在も収束どころか汚染は拡大する一方なのに、その被害をメディアは報じません。

逆にコロナウイルスという同じく見えない存在は、殆ど症状が出ないにもかかわらず大げさに騒ぎ立てられ、

開発から1年も経たない安全性がまるでわからないワクチンの接種へと向かわされています。

本当に危険なのは何でしょう?

私たちがいのちを大切にするためにしなければならないことは何でしょう?

 

「病気は、人間が自然から離れた時に始まり、その距離の程度に応じて重態になる。だから病人は自然に還れば、病気も治るのは当然である。自然離反が激しくなるに従って病人は激増し、自然復帰の願望も強くなる。だが自然復帰をしようにも、その自然が何か、自然体が何かわからないから困る」

 

私たちは自然を知ることができないのです。

専門家の先生たちが知っているわけでもないのです。

自分の体のことさえ自分でわかっているとは思えません。

自分自身の体や心と向き合うことを、私は殆ど意識することなく生きてきたように思います。

仕事、家族の世話、家事…日々の生活に追われてきました。

そんな中で、自分の体も心も置き去りにしていた時期が長くありました。

多くの人が同じ思いをしているのではないでしょうか?

時間的ゆとり、心のゆとり、体力…どれか一つが欠けても全部なくなってしまってしまいますよね。

そういう時期を経て、子どもたちも成人してようやく自分自身と向き合うことができるようになってきました。

一昨年からヨガを、昨年から漢方薬膳を習い始めて、さらに意識するようになりました。

旬の食材、季節や気候の変化に合わせた養生、そして呼吸の大切さ…

そういったものを生活に少しずつ取り入れることでより自然に、健康になるイメージです。

すぐに効果を期待するのではなく、イメージすることって大切ですよね!

実際に今、すごく心が安定して、体調もいい感じです。

人生にはいろんな時期がありますが、

全体的に現代人に欠けているものは「ゆとり」かなと思います。

「無為自然」という言葉とは反対の世の中。

昔よりはるかに便利になったはずの世の中で、心の余裕をなくして、

身近な人々や自然への感謝の気持ちをなくし…

そして病気へと向かってしまう…

 

科学技術は諸刃の剣です。

そして生命や自然への敬意を失ったとき、科学は破壊神となってしまいます。

それを10年前、私たちは思い知らされたはずです。

 

放射能もウイルスも、

それらが私たちの外敵であるという考え方は捨て、

現状は私たち自身が自然な在り方から離れてしまった結果なのだと認める必要があります。

今の状態は私たちが招いてしまったのです。

被害者意識のままでは救われません。

 

もはや何か大きなことをできなくてもいい、

私にできること、自然から許されることをしていきたい。

とりあえず暖かい春の日に一粒の種を蒔き、

その育つ姿からいのちのあり方を学ぼうと思います。