ブルートレインとして長く活躍した24系25形。編成端に組まれるB寝台の緩急車オハネフ25形は基本的に三つのタイプがありました。このうち200番台は国鉄時代の東京発着列車では実質的に中間車として使われましたが、JR移行時にグレードアップ化された「あさかぜ1・4号」(東京ー博多)では列車端の14号車に組まれることもありました。

 

 

オハネフ25 200番台は「博多あさかぜ」の24系25形化に伴い1977(昭和52)年に登場。品川客車区(南シナ)には201〜210の10両が配置されました。どちらの向きに連結しても使えるようにした設計で、編成の分割併合作業を考慮して後位側の妻面に100ミリの後退角が付きました。また下部のステンレスの飾り帯が短いのも特徴で、側面から300ミリのところで止められたため、一目で主力の切妻型100番台と区別できました。

 

 

あさかぜ1号の最後部14号車に組まれたオハネフ25 200番台。微妙に折れた妻面と下部の短い帯が特徴でした=1990年、博多駅

 

 

 

オハネフ25 200番台は「はやぶさ」「富士」「あさかぜ1・4号」「出雲1・4号」の各編成に使われました。この四つの列車はあさかぜを除いて途中駅で基本編成(1〜6号車)から付属編成(7号車〜)を切り離します。200番台はその特性から他の車両と逆向きに連結し、基本編成端のオハネフ25 100番台と向き合う付属編成側の7号車に組まれるのがお決まりでした。このためB寝台車では7号車だけ通路が山側になっていました。

 

 

昭和50年代、南シナの200番台は10両配置の8両使用だったため、7号車以外ではあまり使われなかったのではないかと思います。まれに方向転換して列車端に組まれたこともあったかもしれませんが、私が当時ブルトレを見たときの13号車はいつも100番台でした。

 

 

特徴的な短い帯は、沿線で見送ってもすぐに200番台と判別できました=1988年

 

 

 

南シナ所属の10両のオハネフ25 200番台は、国鉄分割民営化に備えてブルトレの担当区所と編成が変わった86年11月のダイヤ改正が転機となりました。品川に残った201〜205はグレードアップ改造を施工。金帯が3本入る姿に変わり、他区所の200番台同様に列車端でも見かけるようになりました。

 

 

品川運転所(東シナ)が受け持つあさかぜ1・4号は編成を分割せず電源車含む全15両が終点・博多まで行く運用で、2人用B寝台個室「デュエット」のスハネ25形などが入る独自の編成になったこともあり、200番台を比較的自由に組めるようになったと思われます。国鉄品川客車区時代の「中間車」としての印象が強かったため、最後部に組まれた200番台の姿は新鮮でした。

 

 

さらに番台を区別する必要性が薄らいだのか、あるいは外観上の統一のためか、特徴だった短い帯も90年代半ばまでには100番台と同じ長さに変わりました。

 

 

帯の長さが100番台と同じになったオハネフ25 200番台。列車端に組まれても違和感がなくなりました=1994年、東京駅

 

 

 

あさかぜ1・4号廃止のあと、東シナのオハネフ25 200番台は201、202、205が東北ブルトレ用として青森に転属。203と204は「出雲1・4号」用として引き続き品川を拠点に活躍を続けました。オハネフ25の「顔」は後年の改造によって少しずつ変わっていきましたが、個人的には東シナ末期頃の200番台が最も整っていたように思います。

 

 

 

※姉妹ブログでも、ブルートレインなど1980~90年代の鉄道について書いています