リインカーネーション③ | 路傍の如来   多々方聖道石     

路傍の如来   多々方聖道石     

♡こよなき幸せの仏教♡人々を堅固な安らぎ.喜び.満足.幸福へと導く至高の教え〈目覚め.乗り越え.解き放て〉[覚醒][超越][解放][鑑定][供養][祈祷]
JR山手線.上野駅不忍口前
辻立ち.托鉢.御相談 eメイルbongteng@live.com

お釈迦様のお言葉から…
輪廻転生について.吾(われ).はこの理法を.他のバラモンからの伝聞として語るのではなく.それは吾(われ)が.自ら知り.自ら目にし.自ら了解したことを語るのである…

※古代インドに於いてア-トマンとは「大いなる根源・本質」とされエジプト神話に於ける天地の創造神「アトゥム神」も同根だろうと考えられる。そのア-トマンが西洋に伝播して物質の根源・本質と考えられていた原子(アトム)として使用されたのではないかと思われる。
そして釈迦尊が在世の時代には思想や宗教において主流であったバラモン教によりア-トマンを「不滅な魂・霊魂・霊体」として誤認されてしまったのであり、釈迦尊は御自身の内観による観察・分析・発見から不滅な霊魂や霊体などというものは存在せず、存在するのは五集合要素(五蘊)でありその後ろに魂や霊魂といった主体的なものなど存在しないと発見され、相対的な関係性よる相互依存という条件性によって条件付けられ存在している事をアナ-トマン(無我・非我)であると表現されたのですが、ではアナ-トマンとは何であるのかの定義が今の多くの仏教と称する宗派では欠落して曖昧化されてしまっているのではないでしょうか。
この世界(現象世界)の物質も心的なものも様々なエネルギ-の集まり(結び目)に過ぎず、死とは肉体という身体(物質的の集まり)が機能を停止し再生産されない事であり分子・原子へと戻ってゆく事であり、心的には心を形成する生命エネルギ-(ア-トマ)は解き放たれるのであるが、物質を構成する物質エネルギ-も、生命を生じさせる生命エネルギ-も、脳内で思考や概念を生じさせる電気エネルギ-も根源的には同じエネルギ-であり、本質的な意志(不安定からの安定化・存在への渇き)により存在を継続し増大しようとする渇望が全ての命、全ての存在、全宇宙を形成し動かしている途方も無く大きなエネルギ-の膨脹と収縮を伴った離合集散の流れであり、全てのエネルギ-はその性質(周期)と条件により刹那ごとに生起と消滅を繰り返しているのであり、そこにあるのは継続性・連続性という連鎖の輪であり固定的・普遍的なものは存在出来ない世界なのであり、二つの連続する瞬間を通じて、同一の存在として在り続けるものは何ひとつとして無く、全ては一瞬ごとに生起し一瞬ごとに消滅し流転を続けているのであり、消滅における最終想念が帯びる負荷であるカルマ(業)とサンカ-ラ(記憶の残滓や汚穢)が次の生起を条件付けているのである。、これを全体性として捉えてしまってはならない。人間の体(物質を集まり)としての存在をはじめ全ての物事が全体として同時に生起し、全体として同時に生滅している訳ではなく、一瞬一瞬とはマクロ的に捉えているのであり全体として同時に生滅を繰り返すならばこの物質世界や身体がネオンサインの如き点滅的存在であると言っているに等しいが、そうではなく仏教では時間的尺度をプランク時間(時間というものの最小単位)を一刹那とミクロ的に捉えるのであり、全ての物質は其々の周期・条件に従った刹那時間で生起と消滅という継続的な連鎖の流れを繰り返しているのであり、その集まりである物質は一瞬というマクロな時間的尺度で捉えるならば、一瞬ごとに生起し一瞬ごとに生滅していると言えるのである。そして心的エネルギ-とも言われる生命エネルギ-は一刹那ごとに生滅を繰り返していて、一刹那ごとに一刹那として同一の状態は存在し得ないのである。例えるならば最小の原子である水素はフェルミ粒子といわれる陽子と中性子で構成される原子核の周りを電子が廻っていると言われるが素粒子である電子は数刹那(一瞬の何十億分の一)に生滅を繰り返しながら連鎖的な流れを作っている(これを周っていると表現している)、フェルミ粒子である中性子は約十分毎に崩壊を繰り返していて、陽子は約十年毎に崩壊を繰り返すといわれているが、それらを構成している素粒子(量子力学的粒子)は刹那における其々の周期・条件により、時間的尺度をマクロ的に捉えるならば一瞬(指をパチンと弾く間)ごとに生起と消滅を繰り返しながら流れ(連鎖の継続)を作っているのである。其々の生滅の周期・条件を持つフェルミ粒子・素粒子による集まり(結び目)として水素原子が存在しているのであり、身体で例えるならば分子が集まり細胞を構成し、細胞が集まり身体を構成しているのであるが、細胞は常に何処かが入れ替わりながら、この身体を存続させている集まりであるが身体の細胞が一時に同時に入れ替わる事はありえず、それでは集まりである身体自体が現れたり消えたりしてしまう事になってしまう。そうではなく因果律(エネルギ-とは生じては変化して消えてゆく)に従った其々の性質や周期・条件付けにより、ひとつのものが消滅し、それが次の生起を条件付けながら継続の連鎖を繰り返している。それは電荷を失った電子が滅し、電荷を帯びた電子が生じる継続性・連続性の連鎖によりあらゆる物質が存在しているように、生命の輪廻(サンサ-ラ)とは生命エネルギ-の本質と共に帯びる負荷(カルマ(業)・サンカ-ラ(記憶の残滓)によりこの世に結び付けられ引き継がれた因縁(継続性・連続性)による連鎖により生滅を繰り返し続ける流転であり連鎖なのである。それは因果律(物理法則・天地自然の法則・摂理)に随って、一つのものが消滅し、それが次のものの生紀を条件付けているのであり、消滅の時カルマ(業)とサンカ-ラ(記憶の残滓)の最終精神を引き継ぎ、其々の生命(奈落な生命・餓鬼な生命・畜生の生命・阿修羅な生命・人・人天)から流転する連鎖の輪の中を生起と消滅を繰り返してゆくのである。では輪廻により流れて運んでゆく主体とは何なのかと言えば生命エネルギ-の本質と負荷として帯びるカルマ(業)とサンカ-ラ(記憶の残滓・汚穢)により条件付けられた連続性・継続性こそが自分という主体そのものであり、故に自分とは五集合要素(五蘊)こそが自分であり主体であると言えるのである。       そして誤解されているのが、成仏とか入滅とは涅槃(ニルバ-ナ)により身体の機能停止によりその軛から解き放たれた生命エネルギ-が消滅する時、次の生起を条件付けるカルマ(業)やサンカ-ラ(記憶の汚穢)に縛られることなく輪廻の連鎖という軛から外れ、消滅し無色界(仏界)に座して二度とこの世に生起すること(母体に入る事)がないのだが、パラノイアな新興宗教の教祖などが自分はブッダ(釈迦尊)の生まれ変わりであるなどと嘯き主張したりしているが、それが実は反仏教的な行為であり釈迦尊を誹謗する行為でもある事さえ理解できないカルマ(業)とサンカ-ラ(記憶の残滓・汚穢)の因縁深い盲目的な無知であり、それは輪廻の連鎖の流れを生命の根源である微生物(奈落)から捕食の関係性の上に流転してゆく事を条件付けている事に気付く事も覚る事も出来ない慚愧に堪えない憐れな愚か者だと言えるのです。
(たとえ絶対安定世界である涅槃界に成仏を果たせず仏界に座す事が叶わずとも、彼岸の淵で休息し、せめて善い処に人間として生まれ変わりたいものですね。しかし実際には人として死んで人へと再生成するのは精々5パ-セント以下であって約74億人分の人間としての座席を勝ち取るために千兆個の千兆倍(無尽蔵)とも言える生命が後に控えているのですから(まして地球だけではなく他の星系の生命体として再生成する縁もあるだろう)、それは人間の質(クオリティ)格(レベル)境地(ステ-ジ)を条件として再生成するのであって、存在の次元に生きる修行も深まった者や来世の幸福の四因を積んできた人とか高徳の人達位が良い処の人の身に再生成し、亡者は彼岸の淵を彷徨った後に、其々の質(クオリティ)・格(レベル)・境地(ステ-ジ)により縁ある処へと再生成し進化の過程(捕食の関係性)に流転の連鎖運動を繰り返しながら至高なる人の身へと向かい何百万回、何千万回の流転を繰り返すのです。<盲亀浮木>
★仏教は輪廻転生(りんねてんしょう)、業報思想(ごっぽうしそう)を説きます。輪廻転生とは生物が死んだ後、つまり肉体が滅んだ後においても、その生物は別の生命形態に生まれ変わり何度も何度も無限に近い時間、人間を含む生物達が何度も何度も生まれ替わり死に替わりを繰り返す事をいう。

また、輪廻転生をするその生物達(衆生)は天界・人間界・修羅界・畜生界・餓鬼界・地獄界の六つに区分された世界を何度も何度も生まれ替わり死に替わりを繰り返す。これを六道輪廻と呼びます。
天界とは快楽、喜びに満ちた境涯をいう、人間界とは人間の境涯、修羅界とは争いに明け暮れる境涯、畜生界とは家畜や動物の世界、餓鬼界とは常に餓えや乾きに苦しむ境涯、地獄界とは拷問の世界、大きな悩み苦しみ、激しい痛みに苦しむ境涯をいう。
仏教の経典、阿含経(あごんぎょう)パーリ仏典(増支部経典)において説かれるところによると生物は天界、人間界に生まれ変わることはごく稀であり、極めて少ないと説きます。地獄界、餓鬼界、畜生界に生まれ変わる回数の方が圧倒的に多いと説きます。

また人間界以外の仏道修行が出来ない境涯や、快楽、悦楽に酔いしれて真理の探究を省みない天界よりも人間界に生まれる事の方が特別に貴重な果報であると説きます。釈尊も最終的には人間界にお生まれになり人間界において修行を完成しブッダに成られました。
あらゆる生物のなかの最高の段階、世界を救済する仏陀としての段階に到達する可能性があるのは人間のみなのであるから、人間こそある意味ではあらゆる神々よりも尊いというのが仏教の思想のなかで重要なものである。仏陀に成るためには、神々でさえも天界から下って人間として生まれ変わらなければならず、人間の身でなければ最高の叡智を得て、最高の完成に至ることが出来ない。この意味において仏教では人間として生まれる事が何よりも尊く、貴重な財宝であるとされる。そして人間にとっては神々に生まれる事が良き道(善趣)と呼ばれるように神々にとっては人間に生まれるのが良い(道)と呼ばれるのは興味深いことであるが、これを読み解くには仏教とは妄想的な物事や観念を乗り越えた現実主義的な教えである事を忘れてはならず、仏教では神々の意味を読み解けば仏教に対し理解・支援・応援してくれる天界(豊かで恵まれた境遇)の人々を神々と呼ぶのであり、地獄とは妄想された世界ではなく地上や地底に現存しているのである。
また仏教では輪廻転生の本質は苦であると説きます。そして仏教の最終目標はその輪廻転生からの脱出、二度と輪廻転生しない事、その境地をニルヴァーナまたは涅槃(ねはん)に入るともいいます。阿含経に「梵行(ぼんぎょう)已(すで)に立ち、所作(しょさ)已(すで)に為し、自(みずか)ら後生(ごう)を受けざるを知る。」という経文がありますが輪廻転生を超越した境涯に至ったことを表す経文です。そのニルヴァーナの境地に至る為に仏教の修行があります。その修行を完成した存在を仏陀(ブッダ)とお呼び致します。

 修行を完成し仏陀に成られた釈尊は仏陀としての最高の悟りを開く直前における非常に深い瞑想中において無量無数の生き物達がそれぞれの業、それぞれのカルマに応じて無限に近い膨大な時間、無量無数とも例えられる程の回数、生き替わり死に替わりを繰り返している情景をその超人的透視力で実際に透視したという釈尊の体験が仏典(阿含経)に説かれている。以下は釈尊自身の瞑想の体験談である。     

「このように 私(釈尊)は四神足(仏教の修行法、瞑想法)が修練され豊かにされたときに、、種々なる過去の生涯を想い起こした。すなわち一つの生涯、二つの生涯、三つの生涯、四つの生涯、五つの生涯、十の生涯、二十の生涯、三十の生涯、四十の生涯、五十の生涯、百の生涯、千の生涯、百千の生涯を、また幾多の宇宙成立期、幾多の宇宙破壊期、幾多の宇宙成立破壊期を。「我はそこにおいて、これこれの名であり、これこれの姓であり、これこれのカースト(階級)であり、これこれの食を取り、これこれの苦楽を感受し、これこれの死にかたをした。そこで死んでから、かしこに生まれた。このように形や名称とともに種々なる過去の生涯を想い起こしたのである。」

「このように 私(釈尊)は四神足(仏教の修行法、瞑想法)が修練され豊かにされたときに、清浄で超人的な天眼をもって、もろもろの生存者が死に、また生まれるのを見た。すなわち卑賤なるものと高貴なるもの、美しいものと醜いもの、幸福なものと不幸なもの、そしてもろもろの生存者がそれぞれの業に従っているのを明らかに知った。実にこれらの生存者は身に悪行を行い、言葉に悪行を行い、心に悪行を行い、もろもろの聖者をそしり、誤った見解を抱き、誤った見解にもとずく行為を行う。かれらは身体が破壊して死んだ後に悪しき所、堕ちた所、地獄に生まれた。また他のこれらの生存者は、身に善行を行い、言葉に善行を行い、心に善行を行い、諸々の聖者をそしらず、正しい見解にもとずく行為を行う。かれらは身体が破壊して死んだ後、善い所、天の世界に生まれた。このように清浄で超人的な天眼をもって、もろもろの生存者が死に、また生まれるのを見た。すなわち卑賤なるものと高貴なるもの、美しいものと醜いもの、幸福なものと不幸なもの、そしてもろもろの生存者がそれぞれの業に従っているのを明らかに知った。」(パーリ仏典、漢訳仏典参照)

また、インドの古代文献であるウパニシャッド(奥義書)には悟りを得たときには過去の生涯を明らかに思い起こすという思想がある。ジャイナ教においても修行者が悟りを開いたときには世界、神々、人間、悪魔のありさま、彼らがどこから出てきてどこへ行くか、という詳しい姿を見透したという。

しかし、このような超人的な瞑想体験が出来る人間はほとんど皆無といっていいほど稀であるとされるが、釈尊はこの瞑想法だけで仏陀に成られたのではなく釈尊自身の過去世からの無量無数ともいうべき積徳の行為、功徳を積んだ行為より生じた福徳の力、福力により仏陀に成る事が出来たとされる。仏教では福力成仏という言葉があり、また舎利禮門というお経にも万徳円満、釈迦如来という言葉がある、つまり万(よろず)の徳、全ての徳が完全に備わっている釈迦如来という意味であるがブッダに成るには大きな徳が必要とされる。ただ単なる瞑想法や仏教の教学理論の勉強だけではブッダになることが出来ないとされる。ある古代仏教の修行法の体系を仔細に検討してみると、悪行為を止め、善行為を行う、つまり倫理の実践、道徳の実践、徳を積む修行法の比重が非常に高い事に気づかされる。

さらにまた、ここで説かれている業報思想のことを表す。業報思想とは業(カルマ)という生命エネルギーの形成力.性質.運動性により身体、言葉、心において行った行為に応じて未来、または死後においてその行為に応じた報い(形成力.性質.運動性)に則した処へと転生してゆくという思想。

自業自得という言葉があるが、つまり良き行いをする者は未来、または現世でなければ死後においてその良き行為に応じた良き報い、幸せな報いを自分自身が受ける。また悪しき行いをした者はその悪しき行いに応じた悪しき報い、不幸な報いを未来、または現世でなければ死後において自分自身が受けるという思想の事をいう。つまり善因善果悪因悪果の法則、因果の法則ともいう。

良き行為とは、例えば、殺される運命にある生き物の命を助ける、困っている生き物を助ける、苦しんでいる生き物を助ける、病人の世話をする、老いた両親の世話をする、人々に殺生や盗みなどの悪いことをさせないように教える、道徳的に生きる、慈悲の心をもつこと、思いやりの心をもつこと、また他の人にそのように教え導く。正しい仏教を多くの人々に広めることなどをいう。

悪い行為とは生き物を殺す、人の物を盗む、生き物を苦しめる、人を苦しめる。人に迷惑をかける、うそをつき人をだます行為、また他にそのように仕向ける行為、邪淫、間違った思想、世の中にとって有害な考え方を世の中に広めること,怒り.恨み.憎しみの心を持つこと.自惚れ.慢心の心を持つことなどをいうのです…
具体的かつ詳細な善悪の基準.判断は仏典を参照しなければなりません…

仏典について言うとスッタニパータ(集経)はお釈迦様のお説きになられた言行録として最も古い経典のひとつであると学問的に認められており、また法句経(ダンマパダ)は世界的に有名な経説であり世界各国に翻訳されているのです…