栃木の足利学校訪問 | Ameba 弁理士の日々

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gooから引っ越してきました。

足利学校の名前は、学生時代の歴史の教科書に出ていたことを覚えているくらいです。その足利学校が、足利市内にあり、現在でも遺構として健在であることは、今回足利を訪れるまで知りませんでした。
足利学校は、今回訪問した足利氏館(鑁阿寺)の南東に隣接して位置しています。足利氏館に引き続いて足利学校を訪問しました。

案内図

足利学校の南、①入徳門から敷地内に入ります。現在の①入徳門の建物は、裏門を移築したものといわれています。

①入徳門

①入徳門から③学校門へ向かう左に、②孔子像を見ることができます。

②孔子像

③学校門は1668年の創建であり、足利学校のシンボルとして現代へ継承されています。

③学校門

④杏壇門は1668年の創建で、1892年に火事の飛び火で屋根門扉が焼け、再建したものです。杏壇とは、孔子が弟子たちを教えたところに杏の機が植えられていたことに由来します。

④杏壇門(きょうだんもん)

読めない字や意味の分からない言葉などを、紙に書いて⑤字降松に結んでおくと、翌日にはふりがなや注釈がついていたことから「かなふり松」と呼ばれるようになったと伝えられています。

⑤字降松(かなふりまつ)

⑥孔子廟は1668年徳川幕府四代将軍家綱のときに造営されたもので中国明時代の聖廟を模したものと伝えられています。

⑥孔子廟
孔子廟の中央には木造 孔子座像、右には木造 小野篁(たかむら)像が安置されています。

木造 孔子座像


木造 小野篁(たかむら)像

⑦方丈は、学生の講義や学習、学校行事や接客ための座敷として使用されていました。

⑦方丈


⑦方丈の内部

⑧庫裏は学校の台所です。

⑧庫裏


有座之器

⑨衆寮は学生が勉強したり生活したりしたところです。

⑨衆寮


⑩木小屋

足利学校の内部の見学が終わり、③学校門を出て、足利学校の外側を反時計回りに巡りました。③学校門から⑪裏門前を経て、敷地の⑫南東の角、⑬北東の角をたどりました。足利学校の外周の水堀が健在であることがわかります。水堀といえば防御構造です。学校なのに、なぜ防御構造を設けたのか、その点は不明のままです。

左は⑪裏門、奥に⑦方丈の屋根


⑫南東の角


⑬北東の角

《足利学校の歴史》
足利学校の創建については、奈良時代、平安時代、鎌倉時代などの諸説があるようです。
1549年には、フランシスコ・ザビエルにより「日本国中最も大にして、最も有名な板東の大学」と世界に紹介され、「学徒三千」といわれるほどになりました。
明治維新後、足利学校は廃校となり、廃校後、方丈などがあった敷地の東半分は小学校に転用され、建物の多くは撤去されました。
1980年代になり、小学校の移転後に発掘調査が行われ、史跡の保存整備事業が始められました。そして1990年に建物と庭園の復元が完了し、江戸時代中期のもっとも栄えた時分の様子が再現されました。
以上のような経過をたどっているので、西半分に位置する③学校門、④杏壇門、⑥孔子廟などは江戸時代またはさらに古い時代の建設なのに対し、東半分に位置する⑦方丈、⑧庫裏などは現代に再建された建物になるのですね。

足利学校の⑬北東の角からさらに北進したところに、門前そば きくやがあります。昨日、唐沢山城を訪れたときのタクシーの運転手さんから、「鑁阿寺の前のおそばがおいしい」と聞いていました。多分この店でしょう。11時開店とのことで、11時直前に店に到着しました。われわれが最初の訪問客でした。
韃靼(だったん)そばが食べられるということで、二色そば(普通そばとだったんそばが半々)を頼みました。

門前そば きくや 二色(普通そばと韃靼(だったん)そば)そば とろろ付き

こうして、佐野市の唐沢山城、足利市の足利氏館、それに足利学校までも訪問する一泊二日の旅を終えました。

ところで、足利市の近くには、もうひとつのお城があります。群馬県太田市の金山城です。当初はこのお城も訪問する予定にしていたのですが、スタンプの設置場所がお城のすぐ近くのみであり、タクシーはスタンプ設置場所まで行けないことがわかりました。タクシーを降りて歩いてお城まで行かねばなりません。熊との遭遇を恐れるわれわれは、今回は金山城訪問をパスすることとしました。何年先か分かりませんが、熊騒動が収まったら、訪問することにしましょう。