常に時は流れている。
「時の流れに身をまかせ」テレサ•テン
「時の流れを誰が知る」サンディ•デニー
時間とは、アインシュタインが言うように、その当事者がどこで何をしているかによって変化はするものの、人の誰もが素朴に感じているように、ただただ流れていくもの。
その流れが、どこまでも同じベクトルを保つのか、それとも、ぐるぐると経巡っているのかは、人それぞれの文化背景の違いなどでまちまちだけれども。
今日は、12月31日の大晦日。但し、現代日本においては、と ここに注釈が付く。
日本に暮らしているだけだと気付かないけれど、世界では、今日が決して一年の最後の日なんかではない暦のもとで暮らしている人が大勢いる。 それくらいの認識を頭の片隅に持っているのも、現代人のお作法の内だろうが、今日の投稿は、その「暦(こよみ)」について。
繰り返すが、時間は、宇宙物理学で示されるように、ある揺らぎを持つものの、常に流れているもので、どこでそれを区切るかは、それを認知し、自分達の生活の利便に役立てようとする人間の作為に過ぎない。
太古の昔から、人間は自然を観察し、その利便を形にして暦を作り、それを流布し、それを使い、又、暦を作り変え、又それを流布し、又それを使ってきた。 そこに、月や星の出没とその位置、潮汐の時刻、曜日、行事、吉凶などを記して。
暦とは、自然観察の新しい成果で、というばかりでなく、その利用目的の変更であったり、近隣諸国との間での文化変容の結果であったり、と、実に生々しくヒューマニックな動機の下で変遷するものだ。
今から150年前、1872年(明治5年)12月2日の次の日は、1873年(明治6年)1月1日となった。 すなわち、旧暦から新暦ヘのお引越し。
言わずと知れた明治の文明開化の一環で、これまでの太陰太陽暦(旧暦)から、太陽暦(グレゴリオ暦、新暦)ヘの切り替えである。
暦作りの基準を、月の満ち欠けから、太陽の動きへと大きく変更し、結果、一年が354日しかなくって、「閏月」での大調整が必要だった旧暦よりも扱い易くはなったものの、何百年もの取り扱いの中で、農耕民独特の季節感の諸々を加えて、大切にしてきた旧暦のリズム感を忘れられなくて、今でも、日本人は新暦に併記して、旧暦由来の二十四節気や七十二候を記して、それらを合わせての暦として暮らしている。
その間、なんともはや 150年!
西洋人の暦をまるごと持ってきただけでは、何か心の置きどころが足りなくて、ご先祖様が大切にしてきた暦も、そうっと傍らに置いて暮らしている、そんな日本人が、ボンディは好きだ。
どんなにクールに振る舞っていても、日本人の心の中には、農耕民族の血が流れているってことだよね♡
さて、ゆく年くる年。
流れているだけの時間を、手で掬ってみたり、流れを堰き止めてみたり、人は色んな試みを試そうとするけれど、それでもそれはやっぱり流れるばかり。
それよりも、流れることの潔さをもって良しとして、心の中で時を刻みながらも、流れに身を任せ切ることこそが、人間の本懐でありましょうぞ。
そんなわけで、では皆さま、来年もどうぞ良いお年を。
「時間とは何か」についてのセイコーミュージアムのコラムがいい感じ。 お暇ならどうぞ↓