今日も東京都心は、気温35度に迫る勢い晴れです。

少々早い挨拶ですが、毎日暑くて、暑中お見舞い申し上げます。

 

お参りの後は法話を聞きましょうニコニコ

 

 

今日の御講師は、昨日に引き続き、福岡県福岡市真正寺の宗秀金師です。

 

 

 

 

青字が宗師の言葉の要約です。

 

 

<仏さまのようなお母さん>

 

以前、ニホン猿の話題で、このような話がありました。

ニホン猿のお母さんが子猿を出産したのですが、

そのお母さん猿はお乳が出なかったので、

子猿を育てることが出来ずに、子猿は亡くなった。

そうしたら、お母さん猿は5日間、死んだ子猿を離さなかったと言うのです。

 

ちなみにニホン猿の生息地の北限は津軽半島です。

津軽地方と言えば、11月~4月は雪の降る季節ですが、

津軽の猿は4月以降は子どもを産まないそうです。

猿は身ごもって180日で子どもを産みますが、

4月以降に身ごもれば、冬場の寒い時期にお乳をあげないとなりません。

ですが、冬場の食べるものと言えば木の皮をかじるしかありません。

それでは、子猿に栄養の有るお乳など、あげられるはずもありません。

 

お母さん猿を想う、子どもへの想いは、

仏さまに通じるような気がしてなりません。

 

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私のお寺の周りには、同じ宗派のお寺が多くありますが、

近くにありますので、他のお寺のご門徒さんと話をすることも多くあります。

 

ある時のことです。

「うちの住職には言えないんじゃが・・・・」と前置きして、

ある男性が「私に相談がある」と言います。

 

話を聞くと、その男性の奥様が癌になったとのことです。

男性は言いました。

  「仏さまの話も30年聞きました。

   毎朝、お経のお勤めもしました。

   ですが、仏壇の阿弥陀様の前では、つい愚痴が出るんです。

   阿弥陀様は救ってくれると言いながら、

   家内の癌は救ってくれんのか・・・・、と」

 

私はこう言いました。

  「それでいいんです。

   そりゃ、つい、愚痴も出てきますよね。

   でも、阿弥陀様は私に”立派になってからお浄土に来い”、とはいいません。

   ”苦しみ、涙する、その姿のままで救うから”、と仰ったんです。

   阿弥陀様は私たちに、

   ”これが出来なければだめ”、”あれが出来なければだめ”と、

   一切の条件を付けたら、かならず漏れる者が出る。

   ”この者は救えない”、では仏ではない。

   だから、”私があなたに代わって修行をしたから、

   そのままでいいんだ”と仰せなんです」

 

しばらくして、その男性とまた会いましたが、

私の話しを聞いてから、

  愚痴は愚痴でいいんだと、

  そのまま生きていこうと、

前を向けるようになったと言う事でした。

 

仏さまのお気持ちが伝わってよかったと思います。

 

おじいちゃん  おじいちゃん  おじいちゃん  おじいちゃん  おじいちゃん  おじいちゃん  おじいちゃん   おじいちゃん  おじいちゃん  おじいちゃん  おじいちゃん  

 

以前、熊本地震がありましたが、

実は佐賀でも亡くなった方が居ます。

その方は佐賀のお寺の坊守さん(住職の奥様)で、46歳でした。

 

実は、佐賀にも本震の前の余震が来たんです。

  これは、また、いつ来るかわからない。

子供は中学生の娘さん二人と幼稚園の息子さんの3人です。

いつ地震が来ても、家族がバラバラにならないように、

親子は川の字になって、その日は休んでいました。

 

大きな地震が夜中に来ましたが、その時、箪笥が倒れたのです。

坊守さんはすぐに飛び起き、必死に箪笥を抑えたのですが、

眠っていて急に起きて、箪笥を抑えたので、心臓発作がおこり、

そのまま帰らぬ人になりました。

 

ご葬儀の時、

幼稚園の坊やは 「おかあちゃんは寝とるんよ~」 といいながら、

お母さんの回りを回っていました。

そして、それを見た周囲の人の涙を誘いました。

 

やがて、三回忌です。

私の知り合いの僧侶がお参りに行くと、

ご本尊の隣の余間というスペースには、

お子さんたちの成績表や

賞状などが置かれていました。

今までなら、

成績表や賞状は頂くたびに、

お母さんに一番に報告をしていたのでしょう。

子供というのは、お母さんに褒められれば、とっても嬉しいものですよね。

 

きっと子供たちはお母さんに、

  「まんまんちゃん(仏さま)と言うんですよ。

   大事に大事にお参りするんですよ」

そんなことを言われながら育ってきたでしょう。

 

そうしたら、

どんなに立派な成績表や賞状より、

  仏さまとご一緒

  お母さんと一緒

そのことが子供たちにとっては、

何よりも嬉しい事なのではないでしょうか。

 

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100年位前のお話です。

時代は昭和初期のこと。

昭和初期に梅原真隆(しんりゅう)という学僧がいました。

この方は学校の先生を務め、国会議員にもなりました。

その梅原先生によるお話です。

 

神戸にあるご婦人が住んでいました。

未亡人で、娘が一人。

家は裕福で、将来は娘に家を継いでもらおうと考えていました。

 

さて、その娘さんですが、その当時では珍しく、

神戸から東京の大学に進学することになりました。

東京での生活は順調でしたが、ある時、ある男性と仲良くなります。

交際は順調でしたが、ある時神戸の実家に帰った時、

お母さんに思い切ってその男性の事を打ち明けました。

 

お母さんは最初は肯定的に受け止めましたが、

「その男性は長男?」と聞きました。

娘さんが「長男です」と答えると、お母さんはこう言いました。

  「では、ダメです。

   あなたにはこの家を継いでもらわないと困ります。

   今すぐ別れなさい」

 

別れなさいといって、素直に「はい」とはなりません。

娘さんはお母さんの通帳からお金を引き出し、

それを持って東京に戻りました。

その男性の家は裕福ではありません。

そのため、持ち出したお金を男性の学費にあてたかったのです。

 

それから卒業して6年が経つころ、

なんとその男性から娘さんは捨てられることになります。

  今までの私の思いは何だったのか。

  今更、お母さんのところには帰れない。

  死のう。

娘さんは決心をしました。

 

悲しい  悲しい  悲しい  悲しい  悲しい  悲しい  悲しい  悲しい  悲しい  悲しい  悲しい

 

  決心はできた。

  でも、最期に一目、お母さんを見てから死のう。

娘さんは心が傷ついたまま、神戸の実家に戻ります。

夕方、実家に着くと、家の周りを散策しました。

  あんなことがあったな。

  これは懐かしいな。

そんな想いを巡らせていると、裏門が少しだけ開いています。

  なんだ、不用心だな。

そう思いながらも、すっと引き込まれるように家の敷地に入りました。

 

敷地内を歩いていると、2階の自分の部屋の明かりがついています。

  あれ、お手伝いさんが部屋に入っているのかな。

そう思いながら進むと、今度は勝手口が少しだけ開いています。

  お手伝いさんがいるなら、ちゃんとしないと。

そう思いながらも、母への想いもあります。

再び引き込まれるように家に入りました。

そして2階の自分の部屋に行きます。

  ああ、全部、昔のままだ。

  そして、なんで七輪が付いているの?

 

その時、階段をトントンと上がってくる足音が聞こえました。

   「あんた!  あんた!

    帰ってきたんか!」

そして、お母さんが部屋に入ってきました。

   「よう帰ってきたな。

    今日は帰るか、 今日は帰るかと

    ずっと待っとった。

    入りやすいように鍵を開けて、部屋の電気も七輪もつけて、

    毎日、毎日待っとった。

    今日は疲れたやろ。

    ゆっくり休んで、明日詳しく話を聞かせてな」

 

翌日、娘さんはこれまでのすべての想いを告げました。

ようやく、久しぶりに二人だけの生活が再スタートします。

しかし、その半年後、

お母さんが亡くなります。

  彼氏に捨てられ、

  母とも別れ、

娘さんはまた一人ぼっちになってしまったのです。

 

悲しい  悲しい  悲しい  悲しい  悲しい  悲しい  悲しい  悲しい  悲しい  悲しい  悲しい

 

悲しみの中、

娘さんは、お母さんが生前従事していた梅原真隆先生を思い出しました。

そして、梅原先生に手紙を書いたのです。

  「生前、母がお世話になりました。

   母は先生の教えを大変喜んでいました。

   毎晩のように有り難い、有り難いとお念仏していた母ですから、

   今頃はお浄土で心穏やかに過ごしていることでしょう。

   でも私は、家出をし、母を裏切り、様々な罪を犯しました。

   きっと行くところがないでしょう。

   そんな私にも先生の教えを頂ければと思います。

 

そして、

飛び出して背を向けた自分を

母が毎日鍵を開けて待っていてくれたことも報告をしました。

 

そうしたら、数日後、先生から返事が来たのです。

   「お浄土では鍵はかかっていません。

    どうか念仏を喜んで

    日暮らしを送ってください」

 

私たち、

日頃は仏教や仏さまやお寺に背を向けて生きていませんか。

でも、阿弥陀様は

お浄土の門を開けて

私たちをいつでも

待っていてくれるんですよ。

 

 

<雲わき 雲光る>

 

龍谷大学の先生をされていた土橋秀高(しゅうこう)先生のお話です。

その当時、大学の先生の定年と言えば65歳でしたが、

定年の前に土橋先生は大学を辞めます。

というのは、

息子さんが東海大学の助教授に就任することが決まったからです。

   家がお寺なのに「学者が二人」と言うのは如何なものか。

   ならば、私が先生を辞めて自坊(自分のお寺)に戻っていき、

   今まで不便をかけた自分のお寺のご門徒の方達に恩返しをしよう。

その想いの中で、65歳を前に退官します。

 

自分のお寺に戻ってからはご門徒さんとの付き合いも深まり、

さあこれから第二の人生・・・、と思いきや、奥さんが亡くなります。

お寺に戻って、1年半後のことでした。

 

一人暮らしを心配するご門徒さんも多かったのですが、

こればかりは仕方がありません。

生活を立て直しながら、お寺を守っていた時のことです。

今度は火事でお寺が全焼するという大事件が起きます。

それも、夕方のお勤めをしたあとの

ろうそくの火を消さなかったのが原因でした。

  全ては自分の責任・・・。

  もし、一人暮らしじゃなかったら・・・・。

いろいろな想いの中で、焼け跡に立ちながら先生は何かを探していました。

   「何を探しているのですか」

弟子の浅田恵真さんが尋ねると、

   「ご本尊のかけらが落ちていないかと・・・・」

 

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お寺はご門徒さんの強い支援もあって、2年で再建されました。

そして、嬉しい時は嬉しいことが重なります。

東京の大学で助教授をしている息子さんが

お嫁さんと子供たちを連れてお寺に帰ってくることになりました。

一気に”5人家族”の誕生です。

しかも、お孫さんとの共同生活は、さぞ嬉しかったことでしょう。

 

息子さんはというと、さすがに東京まで新幹線通勤とはいきません。

東京にアパートを借りて、息子さんが戻るのは3ヶ月に一回。

今と違って、LINEもメールもありませんから、

その他は毎週1回の電話でお互いの様子を知る生活でした。

 

ある日、土橋先生が電話をしても、息子さんは出ません。

どうしたのかな

そこで、大学に電話を入れますが、欠勤をしていることがわかりました。

嫌な予感がします。

土橋先生は新幹線で東京に向かい、

大家さんに事情を話して合い鍵を借りて、息子さんの部屋を開けてみました。

  息子さんは亡くなっていました。

  死後1週間。

  部屋には死臭が充満しています。

  自殺でした。

 

通常は自殺があれば、その部屋のものは全部処分をされるそうですが、

土橋先生は無理を言って、息子さんの腕時計を頂きました。

その時、土橋先生は思いました。

  主人は死しても、時計は動いているんだ。

  私たちは無量のいのちを頂いている。

  

ご葬儀があり、そして一周忌が終った頃、

今度はお嫁さんが子供を連れて実家に帰ってしまいます。

 

土橋先生は、

奥様が亡くなっても、

お寺が火事になっても、

息子さんが亡くなっても泣きませんでしたが、

この時、初めて涙が出たそうです。

 

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また、土橋先生は一人ぼっちになってしまいました。

最初にお寺に戻った65歳前の頃に比べて、年も重ねてきました。

ご門徒さんが心配し、後妻を貰うことになりました。

その後、養子を来ることになり、お寺の跡取りもできました。

さあ、今度こそ・・・、の時でしたが、

今度は後妻さんに悩まされます。

   「あんたが不幸なのは三代前のじいちゃんが取り付いている」

   「お祓いをしてやる」

   「祈祷をする」

 

浄土真宗の教えとは真逆のことをご門徒に吹き込みました。

先生が注意しても、一向に辞める気配はありません。

ついに、離婚訴訟となりました。

ちなみに後妻さんは身寄りのない人でしたが、

身寄りのある人、無い人の場合、ある人の方が家を出る法律になっていて、

身寄りのある土橋先生がなんと自坊(お寺)を出る事になります。

 

結局、離婚訴訟は土橋先生が勝ちました。

裁判が終わったのが8月30日。

先生は9月2日にお寺に戻ったのですが、

様々な心労もあったのでしょうか、

家に帰ってから寝込んでしまいます。

そして、9月10日に亡くなりました。

 

おじいちゃん  おじいちゃん  おじいちゃん  おじいちゃん  おじいちゃん  おじいちゃん  おじいちゃん  おじいちゃん  おじいちゃん  おじいちゃん  おじいちゃん 

 

土橋先生の詠んだ句です。

 

  両親(おや)おくり

  妻先に往き

  子の急ぐ

  茜の雲は美しきかな

 

上の句は先生の事実の事柄です。

  両親を見送り

  奥様に先立たれ

  息子さんは逆縁に会い

でも、茜の雲、これはお浄土でしょうか。

みんながいるお浄土は美しい

 

私は今までそのように解釈していました。

 

でも、土橋先生が別に詠んだ句にこんな言葉がありました。

 

    雲わき

  雲光る

 

雲と言うのは、私たちにとっては災いです。

私たちの人生とは、常に災いが付きまといます。

でも、

その雲(災い)に光が当たって光る。

光とは阿弥陀様の光です。

 

人生に障りがあっても

阿弥陀様の光が届かないところはないんです。

 

正信偈の一節にこのような節がありましたね。

 

   光雲無碍如虚空

 一切の有碍に さわりなし

 

雲(災い)があっても、

仏さまの光は問題なく降りそそいでいます。

 

妨げるものがあっても、問題はありません。

何があっても光を感じて、

何があっても光を信じて、

その日暮らしをしていきたいものです。 

 

                                                    

 

お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い

 

土橋秀高先生のような波乱万丈の人生ではないかもしれませんが、

私たちは大なり小なり、絶えず雲(災い)と共に生きていると言えるでしょう。

頭上に雲があるときは、

その上に光が当たっていることには、なかなか気が付かないものです。

よく、

「嵐の日も、その雲の上の空は晴れて、光に満ち溢れている」

と言いますが、

これからもそのことは忘れずに生きていきたいものです。

 

今日もようこそのお参りでしたお願い