今日も東京都心は気温30度晴れを楽々超えましたが、

3時過ぎの豪雨雨雨雨で一時クールダウン。

外気と湿気、室内冷房の差も激しく、体調管理が難しいところです。

 

お参り後は法話を聞きましょう。

 

 

今日の御講師は昨日に引き続き、福岡県福岡市真正寺の宗秀融師です。

 

 

 

 

青字が宗師の言葉の要約です。

 

 

 

<孫の念珠>

 

皆さんの手に念珠が掛かったのは、いつだか覚えていますか。

また、どんなご縁だったのでしょうか。

 

ある時、私がお勤め(お経をあげて)をしていると、

おばあちゃんの小さなお孫さんが手に立派な念珠を掛けて、

ちょこんと座っているんです。

私はとても印象に残ったので、

おばあちゃんに「お孫さんのお念珠はどんなお念珠ですか」と聞いたんです。

 

おばあちゃんによると、

その念珠は、おばあちゃんが熊本旅行で熊本別院に行ったときに、

熊本地震で倒壊した多くのお寺の木材を使っている念珠があったそうです。

それは貴重なものだと、おばあちゃんはご家族の分を買ってきたのだそうです。

 

  熊本の想い

  おばあちゃんの想い

  たくさん詰まったお念珠を小さな手に掛けたお孫さん。

尊い事だと思いました。

 

 

<自分のご縁になる時>

 

ある時、北九州の先輩から連絡がありました。

実はその先輩のお寺のご門徒さんのご家族が亡くなったのですが、

家が福岡市なので、ご家族のことも考えて、福岡市の私にお勤めをしてほしい。

そのような依頼でした。

私はすぐに了解しました。

 

直ぐに葬儀社から「覚書」がファックスで来ました。

「覚書」というのは、

亡くなった方のお名前や年齢などの情報が書いてあるものです。

私はそれを見て、

「これはいつもより、気を付けないといけないな」と思いました。

亡くなった方が43歳とお若かったからです。

 

式場に着くと、喪主であるご主人が憔悴しきった顔でいました。

亡くなったのは奥様で乳がんだったそうです。

最初は「腰が痛い」とずっと言っていたそうですが、

本来我慢強いタイプの奥様で、その分治療も遅れたようでした。

そして、病名が明らかになって、わずか1週間で亡くなったとのことでした。

 

そのご夫婦には、二人のお子さんがいました。

長女は小学6年生、その年の春には中学生になるという年齢です。

長男は小学4年生、年齢で言えば9歳か10歳です。

二人とも、お母さんが亡くなって、ケロっとしているように見えたと言いますが、

逆に悲しみをそうとう我慢をしているようでした。

   「それが逆に苦しくて・・・・」

とご主人は言いました。

 

お通夜やご葬儀の時、私は後ろが少ししか見えませんが、

焼香台の床は濡れています。

いったい、何人の方の涙であったのでしょう。

そして、その後出棺となります。

出棺後に喪主であるご主人の挨拶がありました。

 

   「妻には娘の中学生の制服姿を見せたかったです。

   私は今まで、

   お葬式の時のお経は”早くおわらんかな”と思っていましたが、

   今日は”お経がすぐには終わるな”と思っていました。

   お経が終れば出棺だからです」

 

私は「死んで終わりの命」ではないこと。

「亡き人は仏となって私たちの傍に帰ってくること」を伝えました。

 

そして四十九日。

少しずつ落ち着きを取り戻してきたご主人がいいました。

   「住職さん、

   終わりではない、こんな世界があったんですね。

   今までは人ごとでしたが、今回初めて我が事となりました。

   そして、何より、他人事ではない、自分のご縁となりました」

 

 

<二人旅>

 

本願寺新報という、浄土真宗本願寺派の新聞がありますが、

その第一面を飾ったお話です。

私のお寺のご門徒に中村大五郎さんがいます。

大五郎さんという名前ですが、その当時の歳は42歳です。

中村さんには弟がいます。

名前を太助さんと言います。

太助さんという名前ですが、年は当然、大五郎さんより若いです。

 

さて、中村家は3代に続き、造園業を営んでいて、

私のお寺との付き合いも3代分となります。

三代目が大五郎さんで、

弟の太助さんは兄と同居をしながら造園業を手伝っていました。

二人兄弟で、成人後も親の家に住んでいますから、住まいも一緒です。

 

ある日、太助さんが病気になりました。

言ってみれば、心の病です。

太助さんは兄に言いました。

  「今日は仕事に行けそうもない」

大五郎さんは弟に言いました。

  「何を言ってるんだ。”病は気から”というだろう。

   身体が元気なら頑張ってみろよ」

その日、太助さんは仕事に行きました。

 

そしてその翌日、太助さんは寝床から起き上がれません。

仕方なく、大五郎さんだけが仕事に行きました。

太助さんは

   「兄が帰ってきたら、何を言われるかわからない」

そんな思いもあったのでしょうか。

大五郎さんが帰ってくると、家にいなかったそうです。

 

それから1日、2日、3日と経ちます。

知り合いのところに連絡を入れますが、消息は掴めません。

ようやく入った連絡は、なんと警察でした。

死体が見つかった。

死因はこれから検証するが、自殺の可能性がある。

 

私のところに大五郎さんから連絡があったのは朝の6時です。

  「太助が死んだ」

 

お通夜、葬儀は私が勤めましたが、初七日の時です。

大五郎さんは自分を責めだしました。

  「あの時、仕事を休めと言えば・・・」

  「あの時、病院に行けと言えば・・・」

そして、こうも言いました。

  「住職さんの法話が頭に入ってこん。 太助はどこに行ったんじゃろう」

 

四十九日をしても、納骨はしませんでした。

お母様が太助さんの遺骨を手放さなかったからです。

 

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翌年のお正月です。

私はお寺の新年会で

「今年は本願寺派の御門主が交代する大きな法要があること」と、

「蝋燭講」の話をしました。

「蝋燭講」というのは、

明治時代に筑前名産の甘木蝋燭を

福岡から京都まで歩いて奉納したことに始まる集まりです。

 

それを聞いて、何かを感じたのが大五郎さんでした。

   「そうだ。

    歩くのはきついけれど、

    自転車で福岡から京都の本山にお参りに行こう」

 

福岡から京都までは、約700キロあります。

一日100キロ走れれば、7日で京都に着きます。

思い立った日から大五郎さんは自転車を買って、

まずは佐賀までのトレーニングです。

そして、行く日を決めました。

一週間前に出発し、5月2日に京都に到着する。

5月2日というのは、生きていれば太助さんの40歳の誕生日なのです。

 

私のところに相談に来ながら、こう言いました。

  「太助の骨を分骨したいので、器がほしい。

   太助の骨と一緒に二人旅をしたい」

それでも、大二郎さんは言います。

  「太助はどこに行ったんじゃろうか」

 

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さあ、出発です。

太助さんのお骨もご一緒です。

 

大五郎さんは、5人の子供のお父さんです。

まだまだ、学費などを心配しないといけません。

ですから、一日の使えるお金を1000円と決めて、

宿泊は公園にテントを張って野宿です。

 

関門海峡を過ぎ、広島を過ぎ、神戸も過ぎます。

私のところには、毎日写真付きメールが送られてきます。

いよいよ京都という時に、私は本願寺新報の知り合いの記者に

  「中村さんという方が自転車で本山に向かっています。

   着いたら記念写真を撮って、私に送って下さい」

そのように連絡を入れたんです。

まあ、そうしたら、写真だけでなく、本当に記事になったんですけれど・・・。

 

本山で無事にお参りをして、まずは目的を達成。

ご先祖が分骨されている大谷本廟にもお参りをし、

どうせならと、弟の来たかった琵琶湖に着きました。

太助さんは釣りが大好きでした。

「ブラックバスの聖地」の琵琶湖で、太助さんを想いました。

  「お前の来たかった、琵琶湖に来たぞ~」

 

そして、琵琶湖の湖面を見ながら、涙がでました。

でも、そのとき、ふと思ったのです。

  「太助はどこに行ったんじゃろうか」

そう、ずっと思ってきたけれど、

住職の言うように

  「仏さまのお目当ては、今泣いているあなた、

   今泣いている、この私がお目当てだったんだ。

   太助はどっかに行ったんじゃない。

   今、仏に成って、お浄土に行ったのだった。

   そして、今、この世に戻り、

   自分と共に一緒に二人旅をしているんだ

ならば、

  「今日が太助の人間としての誕生日ならば、

   今日は太助の仏さまとしての誕生日だ」

   この人生、一人ぼっちなんかじゃない。

   仏さまと二人旅の人生だったんだ」

 

ちなみに、大五郎さん。

帰りも自転車で帰る体力は使い果たし、

帰りはフェリーで帰ってきたそうです。

 

 

<お寺参りは誰の仕事?>

 

私のお寺の近くには「私の師匠」と呼べる先輩僧侶がいます。

それは徳常寺の紫藤常昭先生ですが、

紫藤先生の師匠は山口の深川倫雄先生です。

どのお坊さんも先輩僧侶に学びながら研鑽を積んでいます。

 

さて、そうした先輩たちが言うのはこういうことなんです。

  私が何かをしたか・・・・・、が問題ではなく、

  阿弥陀様が何をしたか・・・・を聴聞で聞いていく。

私が何をしたらいいか・・・、なんていうのは関係ないんです。

 

よく、本屋さんに行くと、

  健康には、

  投資で儲けるには、

  運を呼ぶには、

  いい仕事をするには、

  いい結婚をするには、

私が何をするかが問われていきますが、

仏教を聞くと言う事は、

仏さまの事を、だただた聞いていく事なんです。

 

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どこのお寺でもそうですが、

”もっとお寺に参ってほしいな”、というご門徒さんが多くいらっしゃいます。

私のお寺でも「お参りに来て下さいね」というと、

  「お寺参りは妻の仕事」

これが決めゼリフの男性がいました。

確かに、奥様はお寺の婦人会の会長ですが、

その男性のセリフはいつも決まっていました。

 

その男性は大きな病院の事務長でしたが、

「土日はソフトボールの審判の仕事が忙しい」と、

「平日もとにかく忙しいんだ」と、

なかなかお寺には来ませんでした。

 

その中で、その男性の奥様がALSという、

筋肉が徐々に委縮していく難病であることがわかりました。

筋肉が拘縮し、次第に歩けなくなり、そのあとも手が動かなくなり、

最後は目の動きのみでコミニュケーションをとっていきます。

それでも、頭と心はそのままですから、

本人の「伝えたいのに伝えられない苦しみ」は、

そして、その先には「死ぬ事が待っている苦しみ」は本当に辛いものです。

 

先ほども言いましたが、

男性は病院の事務長ですから、ALSの深刻さをすぐに理解しました。

そして、動けるうちにたくさん旅行もして、思い出を作りました。

ある時は奥さんを車いすで連れて、お寺にお参りに来ました。

そして、病気がわかって1年後に奥様は亡くなりました。

 

それを境に、男性のお寺通いが始まります。

熱心に聴聞され、やがてお寺の門徒会長になりました。

 

ある時、男性はお経や教義が書いてある、

分厚い「聖典」をお寺に持ってきました。

私が「どうしたんですか」と聞くと、

待ってましたとばかりに、

男性は「ちょっと見てほしい」と言います。

見ると、聖典のページにはぎっしりメモが書いてあります。

それは奥様が書いたものでした。

 

私が最後のページをめくると、

名前を書くところにこんな走り書きがありました。

 

  助けて下さいと頼むのではなく、

  助けて下さる阿弥陀様

  遇えてよかった

 

いま、お浄土で奥様は、男性を優しく見守り、導いていることでしょう。

 

 

<尊き姿>

 

善導大師と言う方は、

「仏法を聞くには”餐受の心”が大事ですよ」と言っています。

”餐受の心”の餐は、晩餐会の餐ですから、

”餐受の心”とは”食事の心”ということです。

これには三つあります。

 

まずは、

食事はいつ、どこで、何を食べたか覚えていなくても、

ちゃんとその人の肉や血になって、

今の私を作ってくれるものですよ、というのですね。

確かに、仏法もいつ、どこで、何を聞いたか覚えていないけれど、

確実に仏法は自分を生かす素になっています。

 

二つ目は、

食事は、食べ溜め、食べ込みができません。

1回で3回分食べたら、その日は食事が1回でいい、とはなりません。

仏法も、一回聞いたから、もういいです。とはなりません。

節目、節目で聞かないと、その時に見合うものが得られません。

 

三つ目は、

食事は一人で食べたら淋しいですね。

仲間がいて、食べるから楽しさも味わいも違います。

仏法も、一人ではなく、同行と聞くから、

楽しさも味わいも違うのです。

 

 

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60年位前の話となります。

ある法話会に見慣れない男性の姿がありました。

  「私は初めて参加しました」

そして、ご自分のお話を始めました。

 

その男性は農業を営んでいました。

男性には子供が3人いて、男の子2人と女の子が1人いました。

いずれは、「男の子どちらかに後を継いでもらいたい」

そう思っていましたが、男の子二人は若くして亡くなっていきます。

  「いや、娘に継げとは言えないな」

でも、男性の心配を払拭するように、末っ子の女の子は

  「私が後を継ぐ」と言いました。

 

女の子は女学校に通っていましたが、

先生の中には僧侶の兼業で先生をされている方がいました。

その先生は、授業の合間を見てはよく仏教のお話をしてくれました。

そうした話が、よほど心に沁みたのでしょう。

学校から帰っては、よく仏壇に手を合わせる姿がありました。

 

男性としては、娘が継いでくれたのは嬉しいですが、

「孫の顔も見たいから」と、女の子は見合いをすることになりました。

そうして、1年後、男の子のお孫さんが生まれます。

 

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さて、しばらくして、娘さんがインフルエンザにかかってしまいました。

今と違って、タミフルも何もない時代です。

また、合併症や様々な病気も後から罹っていくこともあります。

命を落としても不思議ではない病でした。

その中でインフルエンザはやがて肺炎となり、

娘さんは重篤な状況が続きました。

 

そして、娘さんは深夜、

みんなが寝静まった時に、父親である男性を呼び起こします。

  「ここだけの話がしたい」

娘さんはこう言いました。

  「この病気は”いのちを持っていく”みたいです。

   私が亡くなったら、まだ若い主人の事が気がかりです。

   家に縛り付けておくのではなく、新しいお嫁さんを貰って下さい」

そして、死期を覚った娘さんはこう言いだしました。

  「坊やに会いたい」

 

男性はためらいましたが、坊やを抱いてきて、病床の娘に会わせました。

娘さんは、病気が移らないように、

自分の口を手で覆いながら、坊やを抱きました。

  「ごめんね。

   産んだから親じゃない。

   育てるから親なんだ。

   坊やも、まんまんちゃん(仏さまの事)に手を合わせて

   お念仏できる子になるんだよ」

 

それを聞いていた男性は、ただただ涙するしかありませんでした。

そして、娘さんは亡くなっていきます。

21歳でした。

 

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お孫さんは大きくなり、小学校へ行くようになりました。

学校から帰ると、お仏壇のところに行きます。

  「お念仏したら、仏さまが一緒だから。

   おかあちゃんとも一緒だから、淋しくはないよ」

小さな背中を丸めて、謙虚に合掌し、お念仏をしています。

その孫の後ろ姿を見たときに、

尊いものに気づかせてもらった。

男性はそう思いました。

この男性もまた、手を合わすご縁があったと言う事です。

 

 

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皆さんのお念珠を持つきっかけは、何だったでしょう

皆さんのお寺参りのきっかけは、何だったでしょう。

皆さんの聴聞するきっかけは、何だったでしょう。

 

実はこれが

仏さまにお育てを頂いてる。

そういう事なのだと思いますニコニコ

 

 

今日もようこそのお参りでしたお願い