今日の東京都心は、気温35℃を超えました。

あっちィ~びっくり

その一言です。

今年は、空(から)梅雨になりそうですね。

 

くもりも夏の雲に見えてきました。

 

 

お寺の掲示版です。

 

 

お参り後はお坊さんのお話を聞きますニコニコ

 

 

今日の御講師は、福岡県福岡市真正寺の宗秀融師です。

 

 

 

 

青字が宗師の言葉の要約です。

 

 

<凡夫のままで>

 

浄土真宗では、報恩講と言って、

親鸞聖人のお徳を称えた最大の行事がありますが、

その時は本堂の脇にある小さなお部屋(余間)に

「御絵伝」と呼ばれる掛け軸を掛けます。

そこには「親鸞聖人の生涯」が絵で描かれているのですが、

今日は「吉水入室」というお話です。

 

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親鸞聖人は9歳から29歳まで比叡山で修行をされますが、

どんなに修行をしても、煩悩が消えることはありません。

どんなに修行をしても、心は清らかになりません。

 

そこで親鸞聖人は比叡山を降りて、

京都の吉水の安養寺で法然上人と出会ったと言われています。

そこで、法然上人から「凡夫直入」の心を頂くのです。

凡夫がそのまま救われる。

それは、親鸞聖人にとっては衝撃でした。

比叡山で教わったこととは、真逆な教えだったからです。

 

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「凡夫」とよく言うのですが、

凡夫とは誰の事でしょう。

親鸞聖人はこのように言っています。

   凡夫というは、

 無明煩悩 

   我らが 身 に 満ち満ちて、

 欲も多く、

 怒り、

 腹立ち、

 そねみ、

 妬む心 多く、

 暇無くして

 臨終の一念に至るまで

 留まらず、

 消えず、

 絶えずと。

 

つまり、

亡くなる間際まで、煩悩だらけ。

凡夫とは、私のことです。

 

そして凡夫は  

「五畏恐心(ごいふしん)」があるとお経に書いてあります。

「畏怖」とは恐れる心、と言う事です。

 

一つ目は、活命畏です。

お経によっては、不活畏とも、出ています。

私たちは生きていくうえで、怖れがあると言うことです。

以前、熊本地震がありました。

福岡はそれほどでもなかったのですが、

私は地震の翌日に鹿児島で法話会がありました。

電話で確認をしたところ、鹿児島も「大きな被害にはなってない」とのことで、

法話会は予定通りに講師で行くことになりました。

ところが、九州最大の高速通路は寸断されていて使えませんので、

一般道で行ったところ、通常は4時間半のところ、8時間半かかりました。

途中、コンビニに寄ったんですが、食べ物が無くて驚きました。

後に、熊本の方に聞いたのですが、

本震があったあと、人々は24時間スーパーに殺到したそうです。

整理券を貰って、やっと入場できたと思たら、

お目当ての「食べ物」は残っていなかったそうです。

その時、その方はこう思ったそうです。

「モノがなければ、お金があっても買えない。

明日からどうしよう」

 

私たち、小さなことでも活命畏があります。

今、サンマの値が高騰しているそうです。

そのうち、

「一匹、2000円とか3000円になるかもしれない」との予想もあります。

もし、他の値も上がったら、モノはあっても買えない。

こういう不安、おそれを抱えています。

 

二つ目は、悪名畏です。

自分が悪口を言われているんじゃないかという怖れです。

私はお坊さんですが、お坊さんの悪口は昔からあります。

  坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い

  坊主丸儲け

浄土真宗では地域ごとにグループに分かれています。

グループの事を組(そ)というのですが、

私のお寺は福岡県の早良組(さわらそ)というグループにいます。

早良組の中でもグループに分かれていて、

更に私の街の中にも浄土真宗のお寺が3つあります。

どこのお寺とも仲良くやっていますが、

ある集まりの中で、あるお寺のご門徒がこんなことを言っていました。

  「〇〇寺の住職はお経が下手だね」

それを聞いて、私はぞーっとしました。

  「こりゃ、私もどこかで誰かに悪口を言われてるな」

いや、私だって、

  「よか、住職さんじゃね~」と言われたいですよ。

 

三つ目は、怯衆畏です。

人目を怖れながら生きていくということです。

私はコロナに罹ったことがあるのですが、

そのあと、後遺症で咳が出ることがありました。

そうなると、「治ってます」と言いたくたって、

言えずに人目が気になって仕方がありませんでした。

また、

ある時は、町のお店で夜遅くまでお酒を飲んでいて、

タクシーで帰ったことがあります。

  「運転手さん、中央公園までお願いします」

中央公園の隣が私のお寺ですが、さすがに自分のお寺の名前は出しません。

そうしたら、

  「あれ?真正寺さん。 お寺まで行かんと、よかね?」

あ~

すっかりバレていました。

お坊さんだってお酒を飲んでいいのですが、

これが「人の目を気にして生きる」ということです。

 

四つ目が、命終畏です。

いのちが終っていく怖れ、恐怖心です。

私の父は、私が13歳の時に亡くなりました。

胃がんでした。

それも進行性のスキルス性というがんで、

アナウンサーの逸見正孝さんもこの病気でした。

前年に大腸がんの手術をして、

無事にお寺の仕事に復帰をしていたのですが、胃に転移をしていました。

それも胃の真裏に出来てたので、発見が遅れたようでした。

余命3ヶ月と宣告されて、最後は治療もできずに、

お腹にたまる「腹水を抜く」ぐらいしか処置はありませんでした。

そんな状況で、私たち家族3人が父に呼ばれました。

最後に家族に言い残したいことがあると言う事です。

私は「お父さんはお坊さんだから、

きっと立派なことを言うのだろう」と思っていました。

父は娘に、「娘の花嫁姿が見たかった」と言いました。

父は中学生の私に、「成人になったら、一杯やりたかった」と言いました。

そして、こうも言ったのです。

    「わしは死にとうない」

確かに、若くして、小さな子を残していくのは気がかりだったでしょうが、

生きる事への「執着」や

死ぬ事への「怖れ」は

僧侶であっても変わらないのだと思いました。

 

五つ目は、悪趣畏です。

死んだ後のことを怖れていく、と言う事です。

地獄に行くのか、どこに行くのか。

例えば、地獄の裁判官の前で、

自分の人生の記録本が提出されていて、

「お前はうそを4万回ついたな」などと裁かれたら、

これもまた、怖いですよね。

 

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このように、「凡夫」は五つの畏怖心を持ってるのです。

逆に言えば、持っているから「凡夫」なのです。

 

では、

こんな私が仏さまになど、なれるのだろうか・・・。

親鸞聖人は本当に悩んだのですが、

法然上人と出会って、比叡山の教えと違うことを知りました。

そもそも、私たちは仏に成れる器ではないのです。

これを「非器」と言います。

だからこそ、阿弥陀様が私たちの元に降りてきたのです。

今までの比叡山では、自分が修行して仏に成ろうと思っていた。

ですが、法然上人が言うには、仏さまの方から私に近づいてくれて来た。

つまり、

      ニコニコ  →  仏お願い

ではなく、

      お願い  →  私ニコニコ

なのです。

 

阿弥陀様はこんな私を救おうと立ち上がりました。

  私が仏法を理解したから

  私が仏法を納得したから

  私がお念仏をしたから

 

じゃ、救おうか・・・、

じゃ、仏になれるんだ・・・・、

ではないんです。

  阿弥陀様が、私に代わって修行を整えたから

私は仏に成れるんです。

 

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よく、浄土真宗は「そのままでいい」と言います。

こんなことがありました。

報恩講と言う行事では、お茶会があります。

そんな時は、普段とは違う格好でお出かけの方も多いものです。

あるご婦人が、綺麗なお着物に、

いつもより少し念入りに口紅を付けてお茶会に参加されました。

そうして、お茶を頂いたら、器に口紅が付いてしまった。

ちょっと、指でこすっても落ちないから、器を洗いに行こうとしたんです。

そうしたら、主催者が「そのままでどうぞ」と言ったと言うんです。

 

そのままでどうぞ。

 

これ、1年後に同じお茶会で、口紅のついた器が出てきたらどうですか。

本当に、そのままで手入れをしなかったと言う事ですね。

でも、1年後に同じお茶会で、綺麗な器が出てきたらどういうことですか。

誰かが、綺麗にしてくれたと言う事なんです。

あなたがしなければならなかったことを

代わりに私がやっておいたから。

そう言うことなんです。

 

私と言う存在は

本当は立派な修行をしなければ

仏に成れないのだけれど、

でも修行すらできない存在でした。

それを阿弥陀様がご覧になって、

阿弥陀様と言う仏さまは

私の代わりに全部修行なさって、

  「あなたという存在は”そのままでいい”から

  仏としてあなたをお浄土に連れていくよ」

そう誓ったのです。

 

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私は「浄土にいく」という感覚が

いまひとつピンとこなかったのですが、

小さな子に教えてももらったことがあります。

 

私のお寺は以前は高台にあったのですが、55年前に水害に遇い、

裏山が崩れて、お寺や住まいや墓地も流されてしまいました。

途方に暮れましたが、幸い田んぼの土地を持っていたので、

2年後にそこにお寺を再建しました。

周りは、まだ、のどかな田舎町でしたが、

そのうち住宅が建ち始め、新興住宅地となりました、

しかし、

地域住民も高齢化となり、もっと住みやすいところを求めて、

家を残して他に移り住んでいく事になります。

このまま過疎化が進むのかと思ったら、

その中古住宅を買ってリフォームし、そこに住む若い方が増えてきたのです。

若い方が住めば、子どもも多くなっています。

お寺にはよく子供が遊びに来るようになりました。

 

ある男の子二人のお話です。

   男の子 「おてらさん、おてらさん」

   私   「なにかな」

   男の子 「こんど、えんそくにいくの」

   私   「へえ~、いいね。どこにいくの」

   男の子 「しらん」

   私   「しらんじゃ、いかれせんじゃろ」

   男の子 「ぼくはしらんけど、おかあさんがしっとるけん、だいじょうぶ」

   

お母さんが行くところが

私の行くところ。

 

思い返せば、

私たち、

お母さんと行くときは、

その道中、

一度も不安だったことはなかったですよね。

 

仏さまも同じです。

「私と一緒にお浄土に参ろうね」

そう言ってくれたのです。

私には分からないけれど、

仏さまに任せておけば、

その道中、

一度の不安も、怖れもありません。

 

修行もままならない

この凡夫の私が

凡夫のまま

そのまままで

仏に成れる

お浄土に行ける

世界があった。

 

ここに「ありがとう」の感謝と共に

手を合わせていく世界がありました。

 

 

 

お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い

 

 

お浄土があるなら行きたいと思っても、

仏さまになろうとまでは思わない方は多いのではないでしょうか。

でも、お浄土は仏さまの世界ですから、

やっぱり、仏さまに成らないと行けませんよね爆  笑

 

凡夫のこの私を仏に成らせてくれる。

これが有難いなと思う次第です。

 

さて、今月の参拝カードです。

 

 

裏面の説明文です。

 

 

常照我

常にわが身を照らすなり

これが仏さまのお心です✨

 

 

今日もようこそのお参りでしたお願い