今日の東京は終日曇りくもりでしたが、

気温もちょうどよく、心地よく過ごせましたニコニコ

 

さて、今日は第三日曜日です。

東京都港区安楽寺の法話会に参加してきました。

 

 

参道です。

 

 

木造の本堂です。

 

 

お参り後は法話会です。

今日の御講師は、東京都港区安楽寺の藤澤克己師です。

 

 

青字は藤澤師の言葉の要約です。

 

 

<叱られて導かれ>

 

 

 

叱ってくれる

 人を

 持つことは

大きな

 幸福である

  (松下幸之助)

 

 

毎月、

お寺の掲示板の言葉を選んで、その言葉を元にお話をしています。

もともと、お寺の掲示板は、

毎月言葉を選んで、書いて貼りだして、

「道を行く人に少しでも興味を持っていただき、

少しでもお寺や仏教に興味を持ってほしい」という願いから始めています。

 

さて、

今月の言葉は、松下幸之助さんの言葉を選びました。

松下幸之助さんと言えば、松下電機産業(パナソニック)で有名で、

「経営の神様」と言われて、多くの方に影響を与えました。

 

この言葉が出てくると言う事は、

松下さん自身も、叱り、叱られて育ったと言う事だと思います。

これ程の方でも、やっぱり、成人しても叱られると言う事はあったでしょうね。

 

ところで、

私たちを振り返りましょう。

子供の頃を振り返れば、親や先生、

大人になっても、会社の先輩にたくさん叱られてきたのではないでしょうか。

ですが、

どうも最近は、というと、

叱られることが少なくなってきたように思われませんか。

 

叱られると、正直、嬉しくはないですよね。

叱られると、正直、逃げ出したくなりますよね。

 

よく、

「怒る」と「叱る」は違うと言います。

怒るは、感情のまま、相手にそのままをぶつけてしまうことで、

叱るは、相手の事を思って、意図を持って、伝えることでもあります。

 

ということは、

叱る人とは、

私が間違えている言動を、

私が正しい方向に進むように

私の事を思ってくれる人のことだと思います。

 

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お釈迦様は35歳の時に、お覚りを開かれました。

お覚りとは、「世の中の真実に気づいた」ということです。

それ以降、

45年間、様々な人に説法して仏教を教えていきました。

 

やがて、

お釈迦様も80歳となります。

これは、「涅槃経」というお経に書いてあることなのですが、

いよいよ亡くなるときが来ます。

お弟子さんたちが集まり、

「お釈迦様が亡くなった後、何を頼りにしていけばいいのですか」と尋ねます。

その時、お釈迦様はこう言うのです。

「自灯明(じとうみょう)」

「法灯明(ほうとうみょう)」

 

自灯明とは、

自は自分のことです。

灯明とは明かりのことです。

つまり、

「自分を拠り所(明かり)として、

自分を頼りに生きなさい」と言います。

ですが、

自分とは、足もとのおぼつかない、とても弱い存在です。

それでは、何の上に立って、生きていけばいいのでしょう。

 

つぎに、

法灯明とは、

法は真実、仏さまの教えのことです。

灯明とは明かりのことです。

つまり、

真実、仏さまの教えを拠り所(明かり)として、

揺るぎない仏さまの教えの上に立って、

自らを拠り所(明かり)として生きなさい」

と伝えたのでした。

 

さて、

そんなお釈迦さまですが、

小さい時は頭脳明晰な王子様でしたし、

修行も行い、35歳という若さでお覚りを開かれたのですから、

お釈迦様ほどの方であれば、叱られたことはなかったのでしょうか。

 

いえいえ、

お釈迦さまは「法」に叱られたのです。

そもそも、お覚りとはお釈迦様の「発明」ではありません。

古くからある「真実」や「法則」をお釈迦様が発見し、体系化したのです。

それが「お覚り」ですから、お釈迦さまは、

法に叱られ、

法に照らされていたのですね。

 

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諸行無常という、真実があります。

英語で言うと、

Everything is changing です。

すべてのものは変わりゆくのです。

ですが、

法(真実)だけは、変わらないのです。

 

お釈迦さまは、法に叱られて、

正しい道を歩みはじめられました。

私たちの日常も、

もし周りに叱ってくれる方が居れば、

煙たがることなく、

間違った自分を正しい方向に導く方として、

大事な方と思った方が

後々の幸せにつながるのかもしれません。

 

 

お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い

 

 

今日の参加は、私と女性2名の合計3名でした。

住職の法話後は、いつものように車座になって、

住職を含めた4人で、今日のテーマの振り返りをしていました。

 

「他人の言葉使いの間違いを叱りづらい」とか、

「職場のベテランで叱られない立場だったのに、

転職を機に新人となって叱られる立場になり、

今日の話しは自分を導く話と味わった」という話も出ていました。

阿弥陀様の前では、みんなが素直な自分が出せていいですね。

 

さて、

ここ数年の間に、「〇〇ハラスメント」と言う言葉が定着しました。

きちんと整備され、人権を守るためには大事なことなのですが、

叱ることも、一歩間違えれば、

パワハラ、心理的虐待、様々な批判を受けていきます。

なかなか、デリケートで難しいですね。

 

それでも、

叱られて、導かれる。

 

私たちは、

年齢と共に「叱られる」は少なくなっていきますが、

まったく「叱られない」わけでもなく、

また、

叱られないから「偉くなった」わけでも、

叱られないから「賢くなった」わけでもありませんよね爆  笑

 

それならば、

幾つになっても

叱られて、導かれて参りませんかニコニコ

 

 

今日もようこそのお参りでしたお願い