今日の東京は、終日晴れました晴れ

陽射しの場所は暑く感じ、

木陰の場所では涼しく感じましたが、

陽気的には「ちょうどいい」と言う感じですニコニコ

 

お参り後は法話を聞きましょう。

 

 

今日の御講師は、東京都台東区稱福寺の小野島良顕微師です。

 

 

 

 

青字が小野島師の言葉の要約です。

 

 

<仏事は誰のため?>

 

最近は仏事をあまりしなくなりましたね。

新型コロナ流行の時期がありましたが、

その時は「お通夜と葬儀と初七日を一緒にやってほしい」とか、

様々な要望もありました。

しかし、新型コロナが落ち着いてきてからも、

何か仏事を「省略する傾向」が続いているような気がします。

 

さて、

仏教では三時思想と言って、「正法」「像法」「末法」があります。

「正法(しょうぼう)」とは、お釈迦様がなくなって500年間のことで、

しばらくは「教え」も、「修行」も、「お覚りを開く人」もいる時代です。

 

ですが、しばらくすると「像法」と言って正法の後、1000年の間の事です。

「像法(ぞうぼう)」では、

「教え」もあり、「修行」もありますが、

「お覚りを開く人」はいなくなる時代です。

 

そして、しばらくすると、「末法」と言って像法の後、10000年の間の事です。

「末法(まっぽう)」では、

「教え」はあるが、「修行」も、「お覚りを開く人」もいない時代です。

親鸞聖人の時代は、すでに末法の時代と言われて、今に至ります。

 

さて、

「末法」もやがて衰退したらどうなるでしょう。

それが「法滅(ほうめつ)」です。

「教え」も、「修行」も、「お覚りを開く人」もいない時代です。

 

仏教の教えが、やがて無くなる時が来る。

それは仏教徒にとっては、深刻なことでもあります。

 

晴れ  晴れ  晴れ  晴れ  晴れ  晴れ  晴れ  晴れ  晴れ  晴れ  晴れ  晴れ  晴れ

 

私には3人の子供がいますが、

受験をするようになってくると、通っている塾では「模擬面接」、

つまり、「面接の練習」がありました。

 

早速、塾の先生が、受験校の教官役です。

   塾の先生   「お子さんが生まれて、何か変わったことはありますか」

   私      「法話で自分の子どもの話しが多くなりました」

   塾の先生   「そうですか」

   私      「やっぱり自分の子供が一番可愛いですよね。

           本当はそれが煩悩なんですが・・・」

   塾の先生   「自分の子供が一番可愛いのが煩悩?

             それの何が悪いんですか?」

 

その先生にとっては、「子供が可愛い」と思うのは「当たり前の事」なのです。

ところが仏教では「自他の区別はつけないこと」が正しい見方です。

 

よく、

「煩悩は悪いもの」という見方になりますが、

「煩悩が悪い」とは言わないですが、

仏教では

「煩悩は苦しみの元になります」と。

だから覚りを開きましょう。

そのように言っているのです。

 

では覚りを開くために、

私たちは何かをしているでしょうか。

 

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追善供養って、ありますよね。

あれは、仏事を行うことによって、

亡くなった人が、地獄とか餓鬼(がき)とかじゃなくて、

少しでもいいところに行ってほしい。

そのため、仏事や善行をすることによって、

私たち生きている者から、「功徳(くどく)」を故人に向かって送り込む。

そういう解釈のことですよね。

 

だから、

仏事は大事だと。

ですから、

一度に何でもまとめてやったりするのはどうかなと・・・。

逆に忙しさを言い訳に、やらずにスルーするのもどうなのかと・・・。

そう言われるのです。

 

さて、

多くの宗派では、「追善供養」の考え方を持っていますが、

浄土真宗ではそのようには考えていません。

この世の縁が尽きて、亡くなった方は、

  どこに行ったかな・・・。

  いいとこに行ったかな・・・。

  行けないと困るから、こっちからいい事していかないと・・・。

そのようなことは一切考えないのです。

 

何故ならば、

もう西方浄土の極楽浄土に往って、

仏に成られているからと解釈しているからです。

 

じゃあ、浄土真宗では仏事はしないのか。

いや、仏事は他宗と同じように行っています。

では、それは追善供養ではないのか。

では、それは、故人のためにやるのではないのです。

 

いや、実は、

なぜ、仏事をするのかと言えば、

それはこの娑婆に残った私が仏法に出会うためです。

 

「私のため」に行いますので、

例えば、お花の向きは仏さまに見えるようにではなく、

私に見えるように向いているんですね。

 

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「願行具足(がんぎょうぐそく)」といいますが、

覚りを開くには、

願いを起こして

行もきっちりとしなければなりません。

 

亡き人に「いいところ」に行ってもらいたい。

それは人情でもあります。

だから、仏事には生前好きだったものをお供えしてみたりします。

それでもそれが精一杯です。

 

仏さまが覚りを開くには、

「誰を救う」「どのように救う」と考え、

総願と言って、色々な仏さま共通の願いと、

別願と言って、それぞれの仏さまの個別の願いがありますが、

いずれにしろ、仏さまの願いや誓いはゆるぎない願いと誓いです。

 

そこにくと、

私たちの願いと誓いは

「コロコロ変わる」当てにならないものでもあります。

ということは、

私たちは、

なかなかきっちりとした「追善供養」は出来ないのではないでしょうか。

 

できないのに、

私たちの功徳で

「いいとこに行ってもらおう」

なかなか、難しい話ですよね。

 

 

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平成16年のことです。

私は大学を卒業したあとは、

京都の中央仏教学院に3年半仏教の勉強をしていましたが、

寮に入って、二人一人部屋で寮生活をしていました。

 

その時、私と同じ部屋になったのは、

平成元年度生まれという16歳の男の子でした。

16歳というと、まだまだあどけない様子が想像されますが、

当時の彼は柔道をしていたと言う事で体格はがっちりしていました。

また、紫という、ちょっとあまりない色のスーツを着用し、

髪はリーゼントです。

ちょっと、「お~」となりますよね。

 

その彼が私に言うんです。

    「お浄土に往くと、聞いていますが、

          僕は死ぬのが怖いんです。

      小野島さんはどう思いますか?」

 

私はルックスと発言のギャップに戸惑いながらもこう答えました。

    「今は仏法を聞いていくほうが、いいんじゃない?

    仏法をたくさん聞かせて頂いているうちに、

          そういうの、だんだん無くなるんじゃないの?」

 

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先ほど、

浄土真宗では追善供養をしない。

それは既に仏さまになっているからその必要がない。

と言いました。

 

そして、

仏事はこの娑婆に残った私が仏法に出会うため

と言いました。

 

これからも

仏事を避けたり、

省略することなく、

故人を偲びながらも、

仏法に出会う大切なご縁として頂きたいと思います。

 

そして、法滅ではなく、

いつまでも教えが伝わっていき、

仏教が続きますように・・・。

 

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宗派によって、

亡くなった方に向けた解釈は様々のようですが、

大事なことは

故人を偲び、敬い、感謝すること。

また、

仏事は自分も含めた、仏縁であること。

さらに言えば、

仏事を通じて、仏法に出会う。

それも重ねていくことが自分のため、故人のためであること。

 

そんなことを思いましたニコニコ

 

 

今日もようこそのお参りでしたお願い