今日の東京は曇りくもりで、

ちょっと晴れ間晴れがあったかなと思っていたら、

突然の雨雨です。

 

さて、

今日は野球観戦野球の予定が延期になり、

一日の予定が空白になってしまいました。

それならば、お寺めぐりお願いをしようと、寺町をぶらぶらとしておりました。

 

すると、

13時半開催予定の聞法会の看板を見つけましたびっくり

腕時計は12時50分です。

どげんする?

というわけで、突撃訪問をしていきましたニコニコ

ここは初めて訪問したお寺でしたが、

突然行っても、ウエルカム。

さすが浄土真宗ですウインク

 

 

聞法会場です。

 

 

今日の御講師は、東京都世田谷区 真宗大谷派 西蓮寺の白山勝久師です。

 

 

青字が白山師の言葉の要約です。

 

<生きてないんじゃない?>

 

今日は初めてと言う事で、

本願寺派の〇〇さん(bonbu-kokiのことです)がお見えになっていますが、

ちょうどいいので、

浄土真宗のお西(本願寺派)とお東(大谷派)の法話の違いからお話します。

 

まず、お西は布教使と言って、自分のお寺以外で法話を人前でするには、

布教使の資格が必要です。

それに対して大谷派は資格は特に必要がなく、

自分のお寺でもよそのお寺でも法話ができます。

 

また、お西はちゃんとした法話をするために、この言葉を使いましょうとか、

ある程度は言葉や言い回しを統一して行うので、

ご讃題(テーマ)が出た時点で、「ああ、こんな内容のお話しだな」とわかります。

それに対して、お東は話す人にすべて内容が任されていますから、

自由と言えば自由ですが、

その分、縛りがない分、すべての言葉の責任を負っていきます。

 

先日、YouTubeを見ていたら、

「真宗大谷派の法話がヤバイ」というタイトルで法話の話題がありました。

やっぱり、先ほど言ったように何を話しても自由ですから、

個人の興味のある話が中心で、

肝心の親鸞聖人の言葉や、

仏教に関係がある話が出てこないことがあると言うのです。

ですから、このままでいいのか?と・・・・・。

 

これはひとえに、

話す人が「生きてないから」だと思うのです。

生きてないと言うのは、

  単に息を吸って、

  ご飯を食べて、

  仕事を淡々として、

  それでおしまい。

そういう生活を

繰り返すだけのありさまが

本当に「生きてない」ということなんです。

 

今日はその辺を中心にお話しをしていきましょう。

 

 

<生きるということは>

 

今月の寺報の言葉を一緒に味わっていきましょうか。

 

 

生きるということは、

自分の思い通りになることを

生きるというのではありません。

思い通りにならないということが

はっきりとわかることです。

 

         祖父江文宏

 

祖父江さんは真宗大谷派の僧侶であり、

児童養護施設暁学園の施設長を務められました。

子供たちのことをひとりの人間として尊重していたので、

「大人」とは違う存在という意味の「子供」ではなく、

「小さい人」と呼んでいました。

 

晩年は間質性肺炎を患いましたが、

酸素吸入器を付けながら子供たちを見守りました。

今月掲示した言葉は、亡くなる二カ月前、肺の85%が機能しないなか、

同朋大学の新入生研修会で語られたメッセージのなかの一節です。

祖父江さんは、自身の肺呼吸の終焉を感じる中、

ひとつの気づきがあったと語られています。

 

    自分の生きてきた証を考えたとき、

    初めは「私という人間はどう生きてきたんだろうか」

    「私というのは何だったんだろうか」と思った。

    しかし、それは違った。

    自己と他を切り離して考えていたけれど、それは間違いだった。

    他の人、飼っていた犬、感動を受けた花であったり、

    山であったり、風景であったり、そういう様々なもの、

    それらを大きくいのちと言うならば、

    私はそのいのちの関りの中の私でしかなかったことに気がつきました。

    私は私ひとりではなかった。

    病状が進み、まさに死んでいこうとしているいま、

    私は目の前にいるあなたひとりに出会うことができました。

    あなたと出会うことによって

    祖父江という人間がここにいきている証が得られました。

   

自分の生きてきた証を考える時、他と切り離した「私」を思う。

そのことは、誰もが考えるのではないでしょうか。

けれど、

人間であるということは、

他と切り離された「私」などいないということです。

 

他があるからこそ「私」があり、

私があるからこそ他がある。

他と共にある私でした。

 

「思い通りにならないということ」とは、

自分の意のままにならないということではありません。

私は様々ないのちの関わりの中での私であるのに、

いのちを自分の理知分別によって支配しようとしていました。

これでもそうではありませんでした。

 

人間の理知分別を超えた

大いなるいのちの中の私であることがはっきりわかること。

そのことが「思い通りにならないということ」が表している内容です。

祖父江さんは次のように語っています。

 

    小さい頃から皆さん、「人に迷惑をかけるな」といわれてきたでしょう。

    しかし、迷惑を掛けない生き方はできません。

    一番大切なことは、人に迷惑をかけている。

    その自覚です。

 

思い通りになるのであれば、迷惑を掛けない生き方もできるでしょう。

けれど、私たちは迷惑を掛け合いながら生きているのです。

「思い通りにならないということがはっきりとわかる」からこそ、

訴えられることだと思います。

 

「迷惑をかけたくない」という思いは、嘘偽りのない気持ちでしょう。

けれど、その言葉を口にするとき、「生きるということ」が見えているでしょうか。

感じているでしょうか。

迷惑をかけているということがはっきりとわかることが、

生きていると言う事ではないでしょうか。

肺の機能が失われ、いのちの終焉を感じながら、

祖父江さんは生きていかれました。

 

にっこり  にっこり  にっこり  にっこり  にっこり  にっこり  にっこり  にっこり  にっこり  にっこり  にっこり  

 

仏法と鉄砲と言うお話です。

「生きるということ」について考える時、

真宗大谷派の僧侶、大光大船さん(1879年~1951年)の

「仏法と鉄砲」の教えが思い出されます。

高光さんがご門徒の家で勤められる報恩講に出かけ、

その家のあんちゃんに声を掛けた時の話です。

 

     (高光)  あんちゃんも今日の報恩講に参ってくれるか。  

           ありがとう。

           滅多に会わんのやから、仏法について何か聞いてみんか。

     (あん)  仏法ってなんや。

           難しく言われてもわからんし、

           一口で仏法を教えて下さんせ。

     (高光)  仏法は鉄砲の反対じゃわいの。

           生きている者をズドーンと殺すのが鉄砲や。 

           仏法は「死んだ者」を生かすのが仏法や。

     (あん)  なんじゃ、あの棺桶に入っているのを生かすのが仏法か。

     (高光)  バカタレ。あれはなきがらや。

           あれは「死んだ者」じゃないわい。

     (あん)  そんなら、どんなのを「死んだ者」というのや。 

     (高光)  お前さんのようなものを「死んだ者」というのや。

     (あん)  バカにするな。おらは生きとるぞ。

     (高光)  それは動いとるだけじゃ。

           生きとるんじゃない。

           お前さんの商売(国鉄の機関車の運転手)で言えば、

           機関車に石炭をパクーパクーと放り込んでやると、

           定められたレールの上をカタコトカタコト走り出す。

           あれは動くのであって、生きとるのじゃないわいの。

           お前さんも三度三度のまんまを口の中へ

           パクーパクーと放り込んでやると、

           習慣という定められたレールの上を

           カタコトカタコトと走り出す。

           それは動いているのであって、

           生きとるんじゃないわいの。

 

この一言があんちゃんの目を覚ましました。

この呼びかけの言葉に出遇って自分の姿を知らせてもらい、

高光さんについて仏法聴聞の生活を送られました。

 

「仏法は死んだ者を生かす」

生きているつもりが動いているに過ぎなかった

あんちゃんに限った話ではありません。

果たして私は動いているだけなのか。

それとも生きていると言えるのか。

 

そこをもっともっと仏法に聞いてみたいと思うのです。

 

 

お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い

   

    

さて、今日は初めての聴聞でしたが、お茶はもちろんの事、

たくさんのものを頂きました。

 

 

御菓子もついて、恐縮です。

 

今日は何をしようかな~と漠然と起床しましたが、

予定もしていない仏法にも出会え、初めての訪問にも関わらず、

西蓮寺の御住職、副住職、ご門徒の皆様に良くして頂きました。

もちろん帰りは、幸せな気持ちで帰路につきましたニコニコ

 

皆さまも、ブラリとお寺にお参り下さい。

思いがけない出会いがきっと待っていますよウインク

 

 

今日もようこそのお参りでしたお願い