今日の東京は終日曇りくもりでした。

気温は20℃を少し超えたあたりで、暑くもなく、寒くもない気温ですニコニコ

 

お参りの後は法話を聞きましょう。

 

 

今日の御講師は、昨日に引き続き、兵庫県姫路市圓福寺の福岡智哉師です。

 

 

 

 

青字が福岡師の言葉の要約です。

 

 

<安心してジタバタする>

 

よく、「安心をする」といいますが、「安堵心」ともいいます。

心の落ち着く様子ではありますが、

意味としては

「不動心を作る」とか、

「お任せをする」という意味でもあります。

 

不動心とは「動かない心」ということですよね。

昔、禅宗に仙厓(せんがい)和尚と言う方がいました。

仙厓さんが死ぬ間際、弟子から「最後に何か一言」と言われて、

   「死にとうない」

  「ほんまに、ほんまに、死にとうない」

と言ったと言う有名な話がありますが、

どんなに修行を重ねた方であっても「まったく動かない心」を作っていくのは

やっぱり難しいのではないでしょうか。

 

おじいちゃん  おじいちゃん  おじいちゃん  おじいちゃん  おじいちゃん  おじいちゃん  おじいちゃん  おじいちゃん  おじいちゃん  おじいちゃん  おじいちゃん  

 

私の娘は2歳なのですが、2歳あたりと言えば、「いやいや期」でもあります。

何かしようとすると「いや~」

何でも「いや~」です。

 

まあ、成長過程では仕方ないことですが、

その娘が保育園に行くことになりました。

今度も行く前には、たくさん「いや~」と言うんだろうなと思っていましたが、

行く時も意外とスムーズにいくんです。

じゃあ、保育園に行った後は「いやいや」なのかなと思えば、

保育園に行っても「素直なよい子」なのだそうです。

でも、

保育園から帰ってくれば、家では「いやいや」ばかりです。

 

これは、親がいるから、

家では安心して我がままや「いやいや」が出来るんですよね。

安心して、ジタバタしているのです。

 

ニコニコ  ニコニコ  ニコニコ  ニコニコ  ニコニコ  ニコニコ   ニコニコ  ニコニコ  ニコニコ  ニコニコ  ニコニコ

 

テレビを見ていましたら、児童養護施設(孤児院)のシーンがありました。

画面からは、元気いっぱいに遊ぶ子供たちが映し出されています。

それを見ていたレポーターが園長先生にインタビューをしていました。

   「事情の有るお子さんということで、どうかなと思っていたら、

    みんな元気で見た目は他の子と変わりませんね」

    それに対して園長はこのように答えていました。

   「日中は他の子と同じです。

    でも、夜になると、この子らは泣きます。

    それも声を殺して泣くんです。

    大きな声を出しても親が来てはくれないことを知っているからです」

 

人が気が付かないところで、小さくもがいているのでした。

 

人知れずの「ジタバタ」って、

年齢や場面が違うだけで、

誰にでもあるのかもしれませんね。

 

 

悲しい  悲しい  悲しい  悲しい  悲しい  悲しい  悲しい  悲しい  悲しい  悲しい  悲しい  

 

愛情って、一方通行の方がいいですね。

親が子供に愛情を掛けて育てていくのはいいですが、

高校卒業の時に、「あんたにいくらお金をかけていると思ってんの?」

などと言って、「見返り」を求めてしまうと、これはもう二方通行です。

 

ある先輩僧侶のお話です。

先輩のご家族は、奥様とお子さんが3人。

お子さんは、手のかからない長男と、手のかかる次男、

そして、一番小さな子。

実は一番手が掛かるのが、やんちゃな次男でした。

 

さて、家族そろって、新幹線で帰省をすることになりました。

新幹線のホームに行くために、階段を登っていきます。

長男は、先輩僧侶の隣について登っていきます。

次男と下の子は、

奥様が右手に小さな子、左手に次男と手をつないで登ります。

 

さあ、ここで事件が起こります。

次男は自分が一番にホームに行きたいので、

お母さんの手を振り切って、さっと駆け出していきました。

そして、見事に階段で転びました。

大泣きの次男でしたが、顎が割れて血が出ています。

 

これでは実家に帰るどころではありません。

直ぐに駅近くの病院に直行です。

病院では、医師も看護師も優しく声を掛けてくれるのに、

消毒液を塗られただけで、

  「やめろ~!」

  「やぶ医者、やめろ~!」

と大声で抵抗します。

 

  「まったく、なんてことを言うんだ。この子は」

少しあきれ気味の先輩僧侶でしたが、

ふと、となりの妻を見ると、妻は怒るどころか泣いていました。

 

なんだかんだで、治療も終り、その日の帰省は中止し、家に帰ってきました。

  「今日は大変な一日だったな。

   それにしてもなんで、お前は泣いていたんだ」

先輩僧侶が奥様に聞きました。

  「今日の怪我は、あの子が悪いんじゃない。

   走り出すのはわかってたのに、

   私が手を離してしまったから。私が悪いのよ。

   それで大けがをしてしまって、本当に申し訳なくて・・・・」

 

これが、一方通行の愛情ですね。

言う事を聞かんこの子が、

心配で心配で仕方がなかったのです。

 

悲しい  悲しい  悲しい  悲しい  悲しい  悲しい  悲しい  悲しい  悲しい  悲しい  悲しい

 

私の祖母はもう亡くなったのですが、

腰の病気が見つかってから、四カ月でお浄土に往きました。

 

病院にお見舞いに行ったときのことです。

入院中は、なかなか食事を食べなかったそうです。

   「今日はご家族が来ていらっしゃいますから、

    お食事を見てあげて下さい」

看護師さんに言われて、食事に同席をしましたが、やっぱり食べられない。

結局、ほとんど食べないままに、食事時間は終わりました。

そのうち、看護師さんが食事量チェックの為に病室にやって来ます。

   「あら、また食べてないのね。じゃあ、一緒に食べましょうか」

 

看護師さんも「少しでも元気になってもらいたい」という親切心があります。

私は見守るしかなかったですが、

結局、看護師さんがスプーンで祖母の口に運ぶことで、

茶わん1杯分のおかゆを頂きました。

但し、頂いたと言っても、

半分は無理やりだったので、おばあちゃんは半泣きの状態です。

 

看護師さんが病室から出ていった後、

おばあちゃんはしみじみと私にいいました。

   「なあ・・・、身体はこんなになっていても、

   まだ生きていかんといかんのか。

   食べたくなくても食べないといかんのか・・・・」

 

おばあちゃんはお寺の坊守(僧侶の奥様)ですから、

食事が「いのちを頂く有り難い行為」と知っています。

それでも、辛いと言う。

 

仏さまは

  「しっかりせい」とは言わない。

  「だめじゃないか」とも叱らない。

  「こうしろ、ああしろ」とも指示をしない。

 

ただ、

  「悲しいね」

  「辛いね」

  「苦しいね」

そういって、そばに寄り添いながら、

ジタバタしながらじゃないと

生きていけない私たちを

見守ってくれています。

 

私たちは不動心は持てないけれど、

お任せの安心を仏さまから頂く。

 

そう、思って頂きたいですね。

 

 

<仏教って、

   役に立つんですか?>

 

私はお寺の実家はお寺なのですが、

兄弟は姉と私と妹がいます。

そして、私が学生の頃はその3人が揃って京都で過ごすことになりました。

 

しかも、

友人たちはマンションやアパートに住んでいるのに、

私たち兄弟は、親が一軒家を借りて、そこに3人が住むことになりました。

 

これが嫌で嫌で・・・。

何しろ、家はボロいし、おまけになぜか仏壇もある。

何だか、友人も気軽に呼べないような環境です。

    「何で仏壇があるん?」

当時の私からすれば「意味不明」です。

 

すると父親が言いました。

    「手を合わすためや」

私は、ますます意味不明です。

    「何でそんなことせなあかん」

すると、父はこう言いました。

    「ほなら、

    お前みたいなもんは、どこで手を合わすんや」

 

お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い

 

大阪に相愛大学という、浄土真宗の宗門校があります。

そこでは私の先輩が先生をしています。

その先輩から聞いたお話をご紹介しましょう。

 

相愛大学は浄土真宗と言う仏教の宗派が設立した学校ですから、

必修科目に「仏教」があります。

必修科目ですから、仏教に興味があるかどうかに関わらず、

これを勉強して単位を貰わないと大学自体が卒業できません。

そのため、

「仏教が勉強したい」という学生ではない学生も受講しなくてはなりません。

 

最初はみんなが仏教もわからずに授業を受けていますが、

1年間が終る頃には、

「習ってよかったです」という感想も聞かれることがあるそうです。

 

但し、毎年決まって必ずある質問があります。

   「何で、仏教の授業を受けな、あかんのですか?

    仏教って、人生の何の役に立つんですか?」

 

これですね。

「役に立つから仏教を聞いて下さい」

なんて言ったら、

仏教じゃなくなるんですけどね・・・。

 

さて、

毎年必ずある質問ですから、

先輩はあらかじめ答えを準備しておいて、

それを答えるようにしていたそうです。

 

    「自分の持っている

    ”価値観のものさし”ってあるでしょう。 

    これはみんな、一人一人が必ず持っているんです。

    だけど、

    人間の数だけ”価値観のものさし”があるから、

    どれが本当に正しいのかわからなくなるんです。

    その時に、

    仏教と言う”仏さまのものさし”を確認して

    ”自分のものさし”が正しいかを

    比べてはかっていくんだよ。

    仏教を勉強するということは、

    その”仏さまのものさし”を

          学んでいくということだよ」

    

このように説明をすると、何となくでも、学生はわかってくれるそうです。

 

お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い

 

さて、ある年の事です

ふたりの女子学生が先輩のところにやってきました。

「質問があります」とのこと。

やっぱり、質問はいつもの質問です。

 

   「何で、仏教の授業を受けな、あかんのですか?

    仏教って、人生の何の役に立つんですか?」

 

先輩は、いつもの様に答えました。

すると、返ってきた答えは

    「は?」

ふたりとも、「この人、何を言ってんの」という顔です。

 

それではと、言い方を変えて言ってみても、返ってきた答えは

    「???」

 

そして、女子学生たちは、もう一度、同じように言いました。

   「だ、か、ら、

    何で、仏教の授業を受けな、あかんのですか?

    仏教って、人生の何の役に立つんですか?」

 

これには、流石に先輩にもスイッチが入りました。

先輩は静かに、冷静に話し始めます。

 

     「では、お聞きします。

     今、あなたの隣にいる友人は、

     あなたにとって役に立ちますか?」

 

女子学生は、何を聞くのかという顔をしながら、答えが出てきません。

「役に立ちます」では

「自分の役に立つために、友人として付き合っている」ことになります。

かといって、

友人を前に、「役に立ちません」などとは言えませんよね。

 

    「では、もう一つお聞きします。

     あなたのおとうさんやおかあさんは、

     あなたにとって役に立ちますか?」

 

さすがに女子学生も怒ってこう言いました。

     「さっきから、何ですか! 失礼ですよ!」

 

すると、先輩は冷静に言いました。

      「別にあなたたちを怒らせるためには

     聞いてはいません。

     だって、さっき、

     あなたたちは同じことを聞いていたよね。

     人がそれぞれに大切にしているものを

     役に立つか、

     役に立たないかで、

     推し量っていいんでしょうか。

     そして、

     それがいかに失礼な事かわかりますか」

      

それを聞いていた女子学生の中には、きっと響くものがあったでしょうね。

 

お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い

 

去年、

親鸞聖人の生誕850年、立教開宗800年の行事が京都でありましたが、

その時シンポジウムがありました。

パネリストは、

釈撤宗さん(相愛大学学長)、

島薗進さん(東大教授)、

池上彰さん(ジャーナリスト)が参加されました。

 

その中で、「現代における仏教はどのような機能があるか?」

そんなテーマでしたが、池上彰さんがこのようなことを言っています。

 

    「今は多様性の時代です。

    多様な分だけ、

            いろいろな考え方が出てきています。

    ですが、それが行き過ぎていくと、

    やがては戦争になっていきます。

    戦争は人の愚かさを示しています。

    もっと言えば、

    煩悩の垂れ流しのようなことが起こっています。

    人を傷つけ、自分をも貶めています。

    まさに価値観が暴走しているとも

    いえるのではないでしょうか。

    宗教を学ぶと、

    他が悪いんじゃない。

    自分が悪いんだと気が付いていきます。

    宗教には

    そういう、価値観の暴走の歯止め、

    修正の役割がありそうです」

 

お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い

 

2016年7月26日、神奈川県の障害者支援施設で、45人が死傷し、

そのうちの19人が殺害されると言う痛ましい事件がありました。

標的になったのは障害がある方で、

犯人は元職員の植松聖(うえまつさとし)という人物でした。

 

彼の価値観はこうです。

    「障害がありながら生きるのは可愛そう。

    だから、自分が殺した」

 

そして、意思表示ができるかをひとりひとりに聞いていき、

言葉がしゃべれない人から殺してしまいます。

それは

   「障害者は世の中の役に立たないから」という理由です。

 

   役に立てばいいが、

   役に立たなければいらない

 

さて、

この世で本当に正しい教えとは一体何なのでしょうか。

 

お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い

 

私の妻の話です。

妻がまだ家にいて、お父さんの一緒にいる場面でした。

 

妻が友人のことを愚痴り始めました。

   「あの子は本当にしょうーもない子。

   あの子がいなければ、

   もっとみんながうまくいくのに」

 

すると、お寺の住職であるお父さんがこう言ったそうです。

   「仏さまの目からみれば、

   あんたもその子も同じようなものだよ」

 

それを聞いて、最初は妻は腹が立ったそうですが、

振り返ると、ホントにそうだな~と思ったそうです。

 

私も振り返ると、

仏教なんてまったく興味なかった若い頃、

父親の

「どこで手を合わすんや」

と言った言葉の意味を今では述懐されます。

 

お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い 

 

龍谷大学の朝枝善照(あさえだぜんしょう)先生の話しです。

 

当時、

先生は60歳定年を機に、自分のお寺がある島根に帰ることにしました。

ところが、

61歳の時にすい臓がんが見つかり、

62歳でお浄土に往かれました。

 

先生の奥様は実は大阪の高槻市の医師をしていましたが、

ご葬儀の時、奥様はお母様や親せきの前で土下座をしたそうです。

「医師である私が付いていて、こんなことになり、申し訳ありませんでした」

 

それを見ていたお母様は土下座をする奥様を、

ご自分の膝を折りながらも、奥様の腕や身体を支え、

やさしく立ち上がらせました。

そしてこのように仰ったそうです。

   「そんなことを言うもんじゃないよ。

    でもね、あなたは仕事が忙しいからと、

    仏さまの教えを聞かずに、仏さまのことを知らんじゃろう。

    これは、善照がいのち落としてまで、

    仏さまの話を聞きなさいと教えている、ということなんですよ」

    

 

人生は何を求めて生きるのでしょう。

健康がいいですか?

賢い方がいいですか?

賢くても、医者がいいから人が死なないわけじゃないのです。

お釈迦様は「生まれたからには死ぬんだよ」と仰いました。

 

お母様は死んだことは責めていません。

  このご縁を仏縁として、

  仏さまと出会っていく、

  仏さまの話を聞いていくご縁と

  活かしてほしい。

そう願っていたのですね。

 

その後、

奥様は医師を辞めて、

得度(お坊さんになること)をして、

坊守(お寺の僧侶の奥様)としてその後過ごしたそうです。

 

お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  

 

最後に、

今日は祝日にも関わらず、

ご縁に恵まれて、仏法を聞いていらっしゃる皆さま。

これを聞くまで、どれほどの仏さまのお手回しがあったことでしょう。

 

振り返れば、

  辛いご縁

  悲しいご縁

  苦しいご縁

  様々なご縁を機に、

仏法を聞くようになった皆さまではないでしょうか。

 

あの時は大変だったけど、

今日も仏法に出会えて

喜びのご縁と転換されてきたのが今日ではなかったでしょうか。

 

今日も、仏さまの教えに、ようこそお参り頂きました。

 

 

お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い

 

 

振り返れば、私も学生時代に仏教に出会いながらのスルー人生でした。

それが、しんどいご縁の中での仏教との再会。

以後、ライフワークとなるまでのご縁を賜っていますニコニコ

 

役に立つか、立たないか。

頭で損得を考えると言うよりは、

仏教に包まれて生きる。

その安心感を大事にしながら、

これからも教えに出会っていきたいと思います。

 

合掌お願い